たなか醫院診聞 169 号 わずか2枚ずつの対戦では、勝負は偶然でしか決しません」「マカオに立ち寄った2 2015.1.1 発行 書評;『波の音が消えるまで』 今月は、書けるかなと、29 日朝これを書き始めています。先週どっと患者さんが 押し寄せ、疲労困憊。かたまらずに来てくれればと内心ぼやきながら、一日 200 人を 超える患者さんを診てきました。 「どうしましたか」 「お大事に」という一分間診療も 失礼と思い、一人一人話題を変え、一日の終わり頃になると肉体の疲労とは無関係に、 口の良く動くこと。我ながら呆れています。12 月中旬の寒波が一息つき、路上に雪 もなく、所どころの畑に雪が残る師走です。あと 2 日頑張れば休みと、言い聞かせな がら朝が始まります。 今年一年は「医院の継承」で明け暮れました。1 月中旬に弘前の教授から電話。 「日 沢先生をそちらに」スタッフはじめ、他にはまだ公にできず、女房と欣喜雀躍。日沢 先生とこの間相談にのっていただていた恩師に電話。喜びを分かち合いました。医院 全員に公表したのが 5 月。そして 6 月継承処理に立花代理が着任。山とたまった書類 の整理、給与表、事務、外来、訪問の業務の見直し、何より「医院経営での田中のワ ンマン体制」から「合議制」への転換。毎朝の会議、月曜は夜 10 時近くまで議論の 日々が続きました。おかげで女房殿曰く「爆発しなくなった」。一方でこうした現実 的処理を行いながら、私の頭の中は「医院を継承した後自分がどうするか」が浮かん では消え、浮かんでは消えを繰り返しました。「集いの館」構想もその一つ。そもそ も医師を続けるか、続けるなら何処で、どんな形で、と。言葉を変えれば、自分がど う自分の外の世界と繋がりを作ってゆくか、何に自分の価値を認め、そこに確かなも のを作りだしてゆくかと、思案しています。後二年と少し、時間をかけて答えを出し てゆきたいと思っています。 12 月沢木耕太郎の本を 3 冊読みました。その一冊。『波の音が消えるまで』(新潮 社)。小説はバカラという、ギャンブルのお話。 「バカラ」という賭博ゲームは、日本 でいえば「オイチョカブみたいなもの。トランプのカードを2枚配って、その数の合 計の下一桁の大きさで勝ち負けを競い、「バンカー」と「プレイヤー」のどちらが勝 つかに賭けるものです。トランプを8セット混ぜて使うとのことですので、その中の 0代のカメラマンの航平が、その奥深さにひかれていく。劉という老人と出会い、そ れぞれの喪失感を埋めるかのように必勝法を追い求める。その奇妙な純粋さは、中国 返還前の90年代のマカオと、濃密な熱気をはらむ鉄火場の描写の中で清冽な印象を 残す。お金を得ることに究極の目的を置かなくなる。そこまで行ったときに、どんな 風景が見えるのか」(ここまで 12 月 30 日記す) (以下 1 月 4 日記す) あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。 さて、 『波の音が消えるまで』。私なりにこの 4 日間考えてみました。この小説は「生 きることの意味」その「問い方」を主題にしているのではないかと。彼航平は、マカ オに来る前、サーファーでもあった。ハワイのどこかで、10m も越そうかという波を 待ち、はじけ飛ばされる。以後恐怖に摂り憑かれ二度と乗れない。そんな伏線を作者 は用意し、バカラの数字を追いかけ始める。数字は一方に行ったり、片方に行ったり、 時には一方のみが連続してあらわれる。その数字の流れを見ながら次は、また片方へ 戻るのか、このまま一方が続くのか。バカラの「必勝法」を探し求めて、それ、数字 の出方を読み、次の賭けをして行く。時にそれが「絵模様な」表れ方でありことを見 つけ、賭けにはもっと強い意志が必要と心のあり方まで探りあててゆく。そして、そ の数字の出方が、「波」のように捉えられ、その波に乗り、波の音を聞きながら進ん でゆく。しかし、ふっとその音が消え、無一文となり彼は失墜する。翻って「生きる」 ことを考えてみる。長い時間にせよ、瞬時のことにせよ人は「生きる」選択を絶えず 求められ、生きている。その時々どの選択がよいか、それに迷うことなく選択できる 方法はないのか、その「生き方の法則」を求め続けている。作者は、バカラで勝ち負 けを繰り返す、そこで勝つための法則を求め、求め、最後にはバカラの勝負ではなく、 その法則それ自体を追い求め、極めた法則それ自体に同化し消えて行くことを描く。 生きることが、そのものが大事なことであるにも関わらず、「生きるための選択」そ の「方法」を追い求め、ついにはその中に同化し、生きることが忘れ去られる警告を、 沢木耕太郎は語っているのでないか。
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