孔明と周瑜ー二人の王佐の 才ー 王佐の才の条件とは? 王に信用される 王に重用される 王を王たらしめること 孔明と周瑜はこの条件を満たしているのかを 検証する。 第一章 王佐の才・孔明 孔明とはどのような人物だったのか? 181年に生まれた孔明は、207年に主君・ 劉備に出会うまで、晴耕雨読の生活を送る。 友人と連れ立って遊学の旅に出かけたり、 気ままに学問に励んでいたようだ。 207年、劉備は曹操と敵対する。先が見えなく なった劉備に孔明は「天下三分の計」を説く。 天下三分の計 天下三分の計とは、曹操は強いから今は誰 も勝つことができない。そこで、呉の孫権と 同盟を組み、曹操を迎え討って、戦の乱に 乗じて劉備は肥沃な荊、益州を取り、時を 見計らって曹操を討つという巨大な計画 このとき孔明27歳 赤壁の戦い~益州攻略 赤壁の戦いでの孔明の活躍 呉の孫権を説得し、開戦を決意させた 呉蜀の同盟を成功させた 益州攻略での孔明の活躍 軍師厖統と共に、益州侵攻を渋る劉備を 説得した 劉備を蜀漢皇帝に推戴した 五丈原の戦い 劉備の死後の孔明の活躍 孔明は計9回、魏へ北伐を行っている。そし てそれは1度も成功することはなかった。 元々貧乏な蜀ではまともな遠征もできず、 孔明は涙を飲んで陣を後にする。自給自 足を行ってみても、持久戦に持ち込まれ、 結局魏の仲達は挑発に乗らず、孔明は病 でこの世を去る。(234年) 第二章 王佐の才・周瑜 周瑜は天才だった? 「美周郎(びしゅうろう)」とあだ名されるほど の美丈夫だった周瑜は字を公瑾といい、幼 いころから後の主君である孫策と交わりが あった。容姿もさることながら、舞曲や学問 にも秀でた、まさに天才で完璧な人物で あった。 性格も「からりとしていて度量が広く、大抵 の人に愛された」という記述もある。 人気者のアイドルのような人物がこの周瑜 だった 孫家に仕える 前述の通り、周瑜は孫家とは古くから付き合いが あった。同じ年齢の孫策とは「断金の交わり」と 呼ばれるほど固い友情で結ばれていたという。 活躍するのは主に孫権の代になってからが中心 となる。 孫権が19歳のとき、兄孫策はたった26歳という 若さでこの世を去る。まだ幼い孫権を懸命に盛り 立て、いち早く臣下の礼をとったのが周瑜だった。 周瑜の活躍ー赤壁の戦ー 三国志で最も有名な戦は赤壁の戦いではな いだろうか。その赤壁の戦いの一番の功 労者が周瑜である。曹操と開戦するか否 かの話し合いでは、劣勢な開戦派の筆頭 になり、孫権を見事に説得した そして呉の水軍大都督として、大船団を率 いて曹操を迎え討った。 第三章 二人の王佐の才の比 較 二人がどのように主君を補佐したか 孔明 流浪の劉備に天下三分の計を提示した 劉備を蜀漢皇帝に即位させた 劉備の死後も臣下として礼を尽くし、劉禅を助ける 劉備の意思を継いで北伐を続ける 周瑜 孫策と共に江東の地を平定する 孫策の死後、孫権を盛り立てる 多くの人材の発掘に貢献した 赤壁の戦いにて緒戦で大勝利を収める 結論 「王佐の才」としての条件は 主君に重用 主君に信用され 主君を覇者たらしめるとこ ということにしておいた。 これに当てはめると、孔明も周瑜も十分に王佐の才有りといえるという結果にな る。
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