ぱんぽんCOMTRAC PH1

肌用軋
け刊60周年記念特別号
垂 磨 滅
転 義 ■
ぱん ぱ ん窟 肺
☆ 文 芸 誌
の ご案 帝
海 産 諦
瞥
「ぽ ん ぽ ん 」 を 年 間 購 読 し ま せ ん か ?
§2006年度 か ら 「ぼんぼん」 は年 4 回の発行 とな ります §
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511 福利グルー
ープ
宮崎
_士日掛長の州瀬島缶か19人の由子与え.た●鰭い7 ̄いナ・ナ貞義ヰ1ナ・−
新幹線連行魯虐システム
井原 廣一
南山対応コムトラック前編︶
はじめに
一九七一年十二月二十日︵お︶第一
会議室は、世界初の計算機による列
車運行システム︵コムトラック︶出荷
の可否に関する会議が開かれていた。
国鉄本社から電気局長の山口欽一常
務理事、宮川七男信号課長、松沼正平
補佐、近藤禎男東京第二工事局長、石
原寡夫次長、内野博課長、吉田和哉所
長、千年茂科長、新幹線総局田中繁調
査役、鉄道技術研究所からは川村忠
男主任研究員等、日立側から浅野弘
工場長、藤木勝美副工場長、小林森技
術部長、宅間豊ソフト第二設計部長、
井原康一主任技師、菱沼藤雄検査部
長、営業から国鉄部の篠崎敏部長、竹
鼻幸男部長代理、その他関係者を含
めて総勢三十名ほど出席していた。
国鉄・日立共同開発という体制で
あったが、日立側は日立製品であり、
出荷は日立の検査合格によると考え
ており、いまだ出荷レベルになって
いないとの判断であった。しかし会
議は、国鉄側の宮川主導で進められ、
第二工事局側から山口への報告とい
う流れであり、日立側は、オブザー
バーの取り扱いであった。
工程の状況、ソフトデバックの詳
細は、前日までに工事局側で調査し
ており、日立担当のハードウエアと
プログラムは、完成の域に達してい
るが、国鉄派遣職員担当プログラム
のうち列車運転の処理プログラム群
は未完成であるとの報告がなされた。
これにたいして、一カ月前の十一月
二十日に急きょ工場長に就任した浅
野は、完成していないことに謝罪と
遺憾の意を発言した。これを受けて
国鉄出席者間で質疑がなされた。日
立側はこの様子を注視するのみで
あった。浅野は︵日︶において直流・
交流電化事業に携わっており、国鉄
を熟知していたが、この事態にいら
いらした様子を見せ、何か発言せよ
有効性を確認するための列車運行シ
ミュレータの開発を米国製の計算機
︵DEC社︶ で行っていた。
時刻表に従って、東京新大阪間に
在線する三十本ほどのひかり号とこ
だま号列車の運行状態をソフトで模
擬し、追い越しや、車両故障、装置故
障で発生する列車ダイヤの修正とそ
れに伴う列車の進路制御を自動化す
るものである。新幹線給局側は計算
機制御化に懐疑的であり、無用とし
て、彼らの日常の列車連用ノウハウ
の開示を拒んだため、鉄研、電気局信
号課傘下の限られた知識で進められ
た。
一方、鉄鋼、電力、化学等基幹産業
の計算機制御の要望に対応して、一
九六五年十二月に︵日︶︵国〓中研︶
︵神︶によるプロジェクト︵CCPと
倫名︶が立ち上げられ、戸塚駅横の
︵神︶でICを使った制御用計算機の
開発が始まっていた。
国鉄から一九六九年新幹線への計
算機制御導入の見積り引き合いが
あった。電機三社のうち、三菱電は貨
車ヤード制御を、日立は座席予約シ
とのメモが、三人ほど末席の井原に
回ってきた。井原はプロジェクト経
過から、国鉄がどのような決定をす
るか見当もつかなかったが、内心や
れることはやってきた、何とでも判
断してくれとの心境であった。そこ
で、浅野の席に行き、﹁国鉄側からの
決定があると思います。少々待って
ください﹂と申し上げた。浅野は井原
の行動を通して浅野の心境を国鉄側
に印象つけることが目的のようで
あった。程なくして、宮川は国鉄だけ
で相談するとして休会を宣した。
会議室の隅で山口を囲んでいたが、
すぐに再開され、宮川から﹁出荷を認
めるので協力せよ﹂との発言があり、
日立としてなんら意思表示をするこ
となく、出荷が決まったのである。
本稿は、この英断に関する物語で
ある。
発端
コムトラックの開発は鉄道技術研
究所︵以下鉄研︶で川村主任研究員、
奥村幾正研究員等により一九六五年
ころより進められていた。鉄研から
ステム︵マルス︶をすでに担当してお
り、列車制御は東芝とみられていた。
計算機応甲ンステムの受注推進をし
ていた井原は井手寿之企画員と知恵
をしぼり、CCP開発中の計算機︵後
岩TACJNuOと命名︶を二台並列結合
して、同期二重系システムを案出し、
高信頼化の目玉として提案した︵後
に国際特許︶。計画見積書が他社より
厚かったからだとの話も後にあった
が、この技術提案が、受け入れられた
ものと思う。東芝−大同、三菱電−京
三、そして日立1日本信号と信号
メーカー三社の厳然とした棲み分け
もあり、コムトラックの前置システ
ムとしての新幹線列車集中制御装置
︵CTC︶が日本信号担当であったと
いうことも、大きな要素であったと
おもわれる。最初の適用対象は一九
六四年よ巧営業運転中の東京新大阪
間と一九七二年四月一日開業予定の
新大阪岡山間であった。
︵お︶ の体制
一九六九年八月、泉千吾郎を工場
長として︵お︶が創設され、︵日︶︵国︶
9
93
計算機による進路制御の引き合いが
あったのは、国鉄内で重要技術課題
となった一九六八年であった。機電
事業部で交通システムのとりまとめ
をしていた小渕要主任が︵旦交通担
当主任技師として一九六七年三月帰
任し、久保裕企画員が、ソフト会社吉
沢ビジネス︵YBM︶派遣の水島通
保、八木沢幸男、高坂正敏とともに、
鉄研に派遣され計算機制御の可能性、
鉄研における実験システム、シミュレーション結
果は、前方表示板と右の(神)梨グラフィックの
画面に表示される
の計算制御部門が再編された。藤木
がソフト部門を、三田勝茂がハード
部門の部長に就任した。十一月国鉄
内でコムトラック導入の審議が始ま
り翌一九七〇年三月H白uOが鉄研に
納入され、DEC計算機より移植さ
れたシミュレータのデモは国鉄幹部
の理解をたすけ、局長会議などを経
て九月国鉄常務会で採用がきまり、
十月に日立受注の正式決定となった。
岡山延線そして博多延線予定の新幹
線は列車本数の増加に加えて、停車
駅の異なったひかり列車種別の追加
と増発によるこだま追い越しが複雑
になり、安全面からCTCを介した
人手では運行管理が不可能であり、
その解決策は計算機制御であるとさ
れた。
それに先立つ二月、ソフト設計部
の分割があり、新部長に宅間が就任
した。再度本社技術の交通担当主任
技師として転勤した小渕の後を継い
だのは、主任技師に昇進した井原で
あった。全国総合開発計画の目玉の
新幹線網やマルスを担当していた営
業の竹鼻は、国鉄の内情をよく把握
帯者用社宅の借り上げが進められた。
二月になると、国労、鉄労、動労、
施設労他の労働組合から調査隊が連
日訪問してきて、それぞれの立場か
ら派遣者の要望を聞き、改善を要求
した。開発環境整備、寮の食事、朝風
呂の要求、家族受け入れなど細かく
要求された。製造から転じた技術課
の実直な須田長治主任は丁寧に対応
した。
プロジェクト内組織として、久保
まとめの︵お︶五名国鉄六名よりなる
システムグループ、川合まとめの
︵お︶二名国鉄八名よりなる進路制御
グループ、水島まとめの︵お︶二名国
鉄五名よりなるダイヤ管理グループ
を組織し、千年を国鉄派遣者の総ま
とめとした。
︵お︶からの要員は、久保、入社二
年の南出節男、辻川秋雄、竹内敏則、
庶務担当の斉藤昌江、そして︵水︶か
らの川合、根本、浅井、そしてYBM
よりHECに移籍した水島、八木沢、
高坂、藤吉俊太郎、HEC新入社員大
野秀行であった。四月には前年新設
されたシステム技術本部の新卒者、
しており、コムトラックの事業展開
の重要性を︵お︶幹部に納得させてい
たが、経営不振の国鉄は新規開発予
算をほとんど手当てできない状態で
あった。機種決定と同時に、十二月中
に国鉄よりプログラムフローチャー
ト︵GFC︶を示すとの条件で、竹鼻
は営業責任の見込み受注手配をした。
︵お︶としては、拡大する受注消化、
開発などに要するソフト要員の確保
ができず、︵水︶より研修名目で川合
義憲主任技師、根本文雄技師、浅井克
己を受け入れた。また、︵中研︶の三
森走遣使士、福岡和彦が、︵日研︶か
ら五島将研究貞等、︵お︶の他部門か
らも適宜参加するとして、頭数をそ
ろえた。また、ハードシステム取りま
とめと二重系制御ハード開発として、
井手、中西宏明が参加した。
十月二十日プロジェクトを組織し、
運転局の田中の運用部会、工事局の
石原の技術部会を設置して、正式契
約と発会式が行われた。この時から
本格的な仕様がために入ったが、新
幹線総局側からの際限のない機能拡
張で混乱し、十二月に一部の機能仕
服部暁彦、佐藤友良、後藤宗治が実習
名目で、︵お︶新入社員の田代勝男・
庶務担当高橋真理子、六月には、新卒
の解良和朗が配属された。
国鉄職員が井原の指揮下にあると
いっても、重要な顧客である。国鉄、
日立ともいろいろな部署か1らの参加
翌一九七一年一月、東京新幹線電
気工事所が設置され、吉田和哉が所
長に就任し、一月二十一日に設置し
た大みか監督官駐在所に、奥村シス
テム二科長を所長として助役七名、
職員八名、計十五名が赴任してきた。
派遣者のうち半数は、数年前の本社
採用職員、いわゆる信号課傘下の特
プロジェクト発足
様書︵GFCの前段階︶ができた程度
であった。
このころ、わが国では地下鉄建設
が各地方都市で始まり、一九七二年
一月の札幌市冬季オリンピックに向
けて、計算機による地下鉄運行管理
システム︵札幌南北線︶の引き合いが
あり、グループ維持のため、コムト
ラック正式受注前の一九七〇年四月
国鉄に秘して受注していた。これを
知った国鉄は、メンバーの専任と増
強を要求し、とりわけ井原の専任、他
作番兼務の禁止を求めてきた。以降、
札幌システムの担当は伏せ、オリン
ピック開催まで水島を中心にして休
日出勤や残業で開発したのであった。
急組であり、情報技術の経験はない
が士気の高い人材が抜擢されていた。
開発内容が膨らむにつれて、五月に
は、助役二名、職員五名の追加派遣が
あった。
国鉄からのメーカー派遣には、監
督官という制度があるが、赤字体質
改善窮余の一策として国鉄職員の民
間への移籍が伝えられていた。派遣
者は、いずれ日立所員となるからと
のことで、派遣者は、すべて井原の部
下として処遇するよう指示が出た。
そして職員の人件費は、受注予算の
中から、国鉄に支払われ、諸経費は
︵お︶持ちであった。この条件は、首
都圏から遠いこと、︵お︶独自のプロ
グラム言語が嫌われ、﹁都落ち﹂、﹁方
言﹂として、ソフト安貞確保に困難を
極めていた︵お︶にとっても好都合で
あった。この派遣は国鉄内で問題が
あり、七月には共同開発に切り替え
られた。
︵お︶はプロジェクト室として、三
十人規模、百五十平米ほどのプレハ
ブ設計室と会読室を増築した。同時
に、単身者のために工場寮の確保、妻
94
95
前列は山口常務と国鉄幹部、後部左4名は日立幹部
後列ジャンパー着用はプロジェクト員の一部
であり、心をひとつにする必要があ
る。きっそく健保バスを仕立てて、入
四間でスケートをし、袋田温泉長生
闇で、猪なべを囲んだのが、最初の共
同作業であった。工場行事への参加、
ボウリングコンペ、夏には、久慈浜で
の地引網、バーベキュー、山行など、
相互親睦の行事等も平行して進め、
時には久慈浜町金井戸に新築の井原
の自宅で慰労した。
国鉄では、本社電気局の信号課が
設備の計画発注元、建設は東京第二
工事局が推進する。そこに東京新幹
線電気工事所がコムトラックシステ
ムの建設のために新設されたのであ
る。運用は運転局の新幹線総局が行
うから、システム要求は、運転局が決
定する。
開発体制は整ったが、依然ソフト
仕様作成のため、派遣者は連日東京
に出張し、運転局との折衝や運用部
会、技術部会への資料準備と作成に
忙殺され、プログラミング作業に入
れなかった。井原も部会オブザー
バーとして週二回は出席し、また、国
鉄幹部の視察、激励の訪問も度重な
究開発の総帥、マルスシステムの推
進者であり、久保裕の父である。新幹
線総局側はこれを機に田中の説得で
積極的な協力態度に変わった。︵お︶
側も逃げ道を塞がれたことになる。
り、その応接にも時間が割かれた。プ
ロジェクト室では久保がシステム構
築と必要技術内容を掌握していた。
五月に入ったころ、奥村が、体調を崩
して鉄研に帰り、千年茂助役が後任
となり、鉄研から秋田雄二研究員が
派遣されてきた。
まず、取り組んだのは、体制作り、
技術教育であった。作業基準を作り、
全員が参加意識を持つように、先述
のグループを横断した五つの委員会
を設置七、全員を所属させるマト
リックス体制とした。そして、一層の
意思疎通と効率化のためタイガー
チーム︵特命︶を設置し、千年、久保、
水島、川合をメンバーとして、毎朝の
打ち合わせで問題点発掘と即時解決
を期した。建設責任者の吉田と本社
電気局の責任者松沼は毎週来訪し、
詳細に調査し問題点を発掘して、
伴った川村などに技術的問題を解決
させた。翌早朝に帰京することも
度々あった。国鉄経営陣の派遣者に
たいする配慮も厚く、激励のために
山口局長以下幹部の来訪もしばしば
であった。山口は古武士の風格で、厳
契約形態は共同開発となっていた
が、社内での特別な予算処置はなく、
受注金でまかなわねばならなかった。
日立としては、情報技術、開発ノウハ
ウを提供することが、共同開発の対
価と考えていたのであり、当時はそ
れが社内常識だったようにおもわれ
る。また、ソフトはハード原価に含ま
れているというのが産業界の常識で
はあったが、ソフト原価が大きな比
重を占め︷っになり、独立勘定とし
て計上され、原価実績は作番ごとに
毎月通達された。ちょうど八月にド
ルショックもあり、国鉄は共同開発
契約をたてにとって、大半の受注増
額要求に応じなかった。このため、部
会の度に追加されるプログラムにつ
いて、井原は見積もり金額と工程へ
の影響を提示し、営業の竹鼻に困ら
プロジェクトの運営
進められたが、エリート意識の強い
新幹線運転司令員の非協力雰囲気は
依然続いていて、次々と細かい機能
の追加を要求し、五月に入っても仕
様の確定はできなかった。井原は翌
年四月一日の岡山開業には間に合わ
ないとして、納期延期の申し出を模
索していた。ところが、六月、駒井健
一郎日立会長に対して磯崎叡国鉄総
裁から、他の施設建設が順調なので、
三月十五日に開業を前倒しにするか
ら協力せよとの申し入れがあり、駒
井は応諾した。
井原は吉田に、機能の限定とプロ
グラム作成の優先順位付けをして、
列車運転の基本は三月に完成し、他
の完成は六カ月遅れの工程とし、派
遣者の東京出張と機能仕様の制限を
申し入れた。システムの進行現状を
熟知していた吉田は提案を受け入れ、
工事局次長石原とともに国鉄上層部
の承認をとりつけ、石原は、新幹線総
局側に対して、機能の制限と凍結を
宣言した。このとき国鉄幹部の信頼
の厚かった副社長の久保俊彦の存在
も大きかった。久保は日立の全社研
せた。一方、予算、人員、暦時間不足
の解決策として、プログラムの共通
化、サブルーチン化し、その組み合わ
せでプログラムを組みバグの混入を
防ぎ、書式の標準化などでドキュメ
ントを統一し、相互理解を容易にし、
作業効率をあげることに知恵を絞っ
た。これら作業を、先に述べた委員会
中心で進め、千年の誠実な協力を得
てタイガーチームが統括した。
久保グループは、井手の協力を得
てシステム全体のソフト基本設計を
行うとともに、高信頼実現のため同
期二重系制御装置︵DSC︶を動かす
制御ソフトの開発を担当した。︵中
研︶の三森、福岡がソフト同期方式概
念を考え、六月に配属されたばかり
の解良がプログラムを担当した。国
鉄側は、新開発のDSCについて、不
安を覚えていたが、久保と井手の自
信に満ちた説明に、全幅の信頼をよ
せた。久保の指導で解良はシステム
の総合制御プログラムも担当した。
川合グループは、列車運行のアル
ゴリズムに詳しい国鉄派遣者で構成
し、総局との調整を円滑にし、千年と
仕様固めは、運用部会で勢力的に
開業の前倒し
格で酒豪として喧伝されていたが、
プロジェクト貝への思いやりは深
かった。
五月、石原は、旧海軍のZ旗を持参
し、これを井原の席の上に天井から
下げさせた。Z旗は、日本海海戦で旗
艦三笠のマストに掲げられた﹁皇国
ノ興廃コノ一戦二在り、各員一層奮
励努カセヨ﹂との信号旗の説明とと
もに、コムトラックの成否は国鉄の
将来を決めると訓示した。
完成記念として関係者に配った七宝
タイ・ピン。C(白)文字に囲まれた
Z旗(時計右廻り黄、青、赤、黒)
−96
川合の包容力ある人柄が活きた。
水島グループは五島の応援を得て
鉄研での経験を生かしてデバック用
の運行シミュレータの開発を先行し
ていた。このシミュレータは、運行制
御プログラムのデバック作業には不
可欠であり、しかもプログラムより
先行しなければならなかったが、水
島の技術力と指導で着実に進んでい
たので、密かに設計室にもどり、札幌
システムの開発も同時に行っていた。
二重系構成のためには、二台の計
算機が必要である。予算処置により
〓ロは新規受注したが、︵神︶からの
搬入は九月であった。もう一台は、前
年の鉄研納入システムを国鉄よりの
支給品として組み込むことになった。
標準ハードの開発の技術中心として
多忙を極めていた井手の指導でハー
ドシステムの開発も進められた。
ハードの新規開発品として、同期
二重系制御装置、およびシステムが
司令員に運転状況を表示し、司令員
の運転命令を受け入れるためのカ
ラーブラウン管文字表示装置がある。
前者は、全システムのうちで、ただ一
入院したり、東京の自宅に帰る途中、
勝田近辺で事故を起こし、腰椎圧迫
骨折をおこした。
このような予期しない事故で、出
荷までに、四名がプロジェクトから
離脱した。引継ぎ者は離脱本人しか
わからないプログラム開発状況の把
握に病院訪問など労力を割かれた。
日立側担当者にこのような事故がな
かったのは不思議であった。
箇所の一重系の部分であり、ここが
故障すれば、システムは誤制御する
か、停止する。この難問解決に井手の
下で中西が知恵を絞り、後者は、︵日
研︶とともに保田勲技師が担当した。
この表示装置は、市販のテレビを流
用したラスター走査方式で、井原が
︵日︶時代から研究依頼していたもの
である。
さらに、大きな問題は、プログラム
デバックのための設備能力であった。
当時、デパックセンターに設置され
ていた宇﹂N詮の森働時間は、各種の
言語、周辺制御などの基本プログラ
ムの開発や、他作番にほとんど割り
当てられていた。必要デバック時間
は、デパックセンターの能力を大き
く超えており、夜間に割り当てても
らうしかなかった。計算機によるデ
バック時間の節約のため、机上
チェックを徹底し、さらにプログラ
マー間での相互チェックもとりいれ
た。
実時間システムにおいては、入力
信号から制御信号出力までの時間
︵応答時間︶が制御許容時間内で、一
るが、根本的に異なるところは、登場
人物が、直近の人であり、存命中の人
が多いことである。
一方、本稿は筆者個人の経験、心象
記憶を著したもので、筆者が当事者
であるところが、前述の両氏と違っ
ていて基本的に異なる私小説の範噂
に入るかもしれない。小説は、著者の
創造活動の結果であるから、塩野が
言うように、著者の想像によって、膨
張させること、あるいは事実と反す
秒以下を必要とした。それは、新幹線
列車が山秒で約六十メートル走行す
るからである。しかも、同時在線列車
数は六十本以上もある。この応答時
間を達成するには、職人的能力を要
するアセンブル言語でプログラミン
グせざるを得ず、これに要するマン
パワーは数倍になる。一方、高級言語
の使用は、磁気ドラムメモリー容量
︵二五六キロ語︶を超えることも判明
した。久保は、プログラム構成基本設
計において、その処理時間見積りを、
︵中研︶の計算機シミュレーションで
評価し、常時動作するプログラムは、
アセンブラ言語、他は高級言語で記
述するとした。
種々な問題を季みながらも、八月
頃より、二シフト二十四時間体制で
動き始めた。毎朝、プログラム作成状
況を担当者申告の下に、タイガー
チームが検討し、問題点の解決を図
り、出張してきた吉田、松沼等に報告
した。吉田の粘り強い細かく厳しい
チェックは、疲労したメンバーには
負担であった。吉田は派遣者を工面
し最終的に人名の派遣者増を行った。
前編休題
これより開発の追い込みに入るの
だが、紙数のためここで一旦筆を休
める。この続きは後編とする。
文中、個人のお名前を記すことの
可否に悩んだ。また、個人の職位につ
いても同様である。さらに困ること
は、筆者の深い記憶の底に沈んでし
計った方については、記述できない。
しかし、記録小説は、長編﹁ローマ人
の歴史﹂の塩野七生、今年世を去った
吉村昭の数々の著作で感じることだ
が、時間、場所と実名が絶対必要であ
る。これらの名著と本編を比するこ
とは、このうえなく不遜なことであ
ることさえも許牒れる。
本稿を起こすについては、著者の
記憶を基に、客観的な事実として公
になっている工場史、工場新聞、研究
報告、技術報告、手持ちの写真で裏づ
けを取った。確認できないこと、事実
について往時に持った著者の心象の
表現からも、創作的要素は極力省い
た。しかしそれでも、当事者にとって
は不快なところ、筆者の誤った認識、
曲解もあると思う。そのような記述
はお許しを請うとともに、具体的な
ご指摘をいただければありがたい。
設立間もない︵お︶は、二工場の制
度の不整合や気質の差異の調整のほ
かに、HITACJN芸の受注消化と、
HIDICシリーズとなづけた小型コン
ピュータの新規開発と受注消化に多
忙であり、この線から外れた非標準
のハード開発への抵抗はかなりのも
のであった。技師の職位ではあった
が、ハード開発の要の地位にあった
井手の技術力と信頼忙頼っていたが、
会長からの納期厳守の命令で雰囲気
は変わったが、﹁そこ退けそこ退けコ
ム︵今︶トラ︵虎︶が通る﹂という陰
句ができていた。
井原は、これまでの経験にない重
圧と責任を感じ、顧客を預かってい
るとはいえ、王道を捨て覇道による
プロジェクト運営を決心した。国鉄
派遣者間では、﹁鬼の井原﹂と陰口を
し、替え歌まで作ったことを後に
知った。
国鉄派遣者の健康管理は労組の要
求もあり、定期健診などで注意して
いたが、八月、昼休みのキャッチボー
ル中に腕を骨折入院、十二月、持病の
胃潰瘍あるいは肝臓病のため都内に
5姻
99