法の理論と歴史

法の理論と歴史
概説
1.法の観念
2.法律の悪口
3.法律の否定
4.性善説と性悪説
5.自然と人為
6.法律は自由の証
概説
法の観念:人間にとって法とは何か?
自然法論と法実証主義
自然法論は、自然から何らかの規範を導き出そう
とした。=本質主義
法実証主義は、人間の意思によって定立された
約束事である。=約定主義
自然法論と法実証主義の基本的対立
ギリシャ悲劇ソフォクレス「アンティゴネー 」
「悪法も法か?」という問題
法律の悪口
「ローマ法大全は悪魔の聖書」詩人ハイネ
「良き法律家は悪しき隣人」イギリスの諺
概念法学批判の先駆キルヒマンの「法律学の学問として
の無価値性について」という講演で 「立法者が三たび改
正のことばを語れば万巻の法律書が反故と化する 」=
「実定法は健やかな木(自然法)を見捨てた虫けら(法律
家)が巣くってうどめく病める木(法体系)」というのも、法
律家の仕事の大部分は「実定法の欠映(けんけつ=不
存在)や曖昧さや矛盾、虚妄や古臭さや悪意にかかわ
り」、つまりは「立法者の無知や怠慢や興奮を対象として、
秀才までもが暗愚に仕えることをいとわず、その弁明に
智恵と学識を振りしぼっている始末」
法律の否定
最初の近代的アナキスト「ゴドゥィン」は、「純正な状態の
社会はいかなる法律や拘束とも両立し得ない」。そこでは、
法律や法律家の善し悪しはもはや問題ではない。アナキ
ズムの根底には人間の善性と自然の秩序とに対する期待
がある。
無政府共産主義の思想家クロボトキンは、個々人の反
社会的行為に対する反応の能力のうちに、人間社会にお
ける道徳的感情と社会性の習慣とを必然的に支える自然
的な力が根ざしているのであって、それは、ちょうど動物
の社会において、それらをいっさいの外からする介入なし
に支えているのと同じであり、しかも、この力は、いかなる
宗教、いかなる立法者の命令よりも無限に強力なもので
ある
性善説と性悪説
孟子=性善説
人間性のうちに道徳的
原理が本能として必然
的にひそむ
キリスト教
○
荀子=性悪説
人の性は悪にして…こ
れが為に礼儀を起こし
法度を制す
法律の存在理由
神の被造物たる人間を本来的に善なる存在とする
が、世俗の権力と法律を肯定するためには、人間を
善から悪へ転化させる原罪という契機を用意しなけ
ればならなかった
アナキズム
×
神より自然
アナキズム
自然と人為
自然
経験科学的認識
× 人為
対立
社会秩序維持の基盤
矯正
自然の必然的統制
各個体の自然性
悪弊
人間社会の秩序
ダーウインの進化論
自然淘汰・適者生存
蟻・ミツバチ等の自然的組
織原理
法律
人為の所産
抑止・強制
人為的社会
人為的な規制
規制社会=法的制裁・
人権擁護・性差別規制・
×格差是正・富の再分配・
個人の抑圧
人為に勝る自然の秩序が成立し得るか?
法律は自由の証
人間
人間社会の秩序維持
人為のシステム
=
相互補完
法律で保障
自由
進化の原理
法律
法律で規制
規制
×
自然の原理
個体存続の特性 個体固有の原理
自然界特有の自由
法の歴史
法系:国家や民族を超えた法の系統
ローマ法
シャリーア
(1,000年以上にわたって発展)
(イスラーム法 )
十二表法
宗教的規定にとどまらず
民法、刑法、訴訟法、行政
法、支配者論、国家論、国
際法、戦争法にまでおよ
ぶ幅広いもの
(紀元前449年)
市民法大全
(ユスティニアヌスの530年)
大陸法 (Civil law) ゲルマン法→フランス法・
ドイツ法=条文によって規定される
英米法(commom law)→判例の蓄積によって
も規定されるのが特徴
日本法制史
(中国法制の継受とそこからの離脱)
1.近代法前史
1)古代日本固有法
2)律令法制の継受
3)律令法の衰退と武家法の発展
4)江戸期の日本法制
①幕府法・各藩法
②慣習としての町人法
2.近代法制史
1)ヨーロッパ法制の継受
①フランス法継受の試み
②ドイツ法の継受
3.戦時下の日本法制
4.戦後の日本法制
1)民主憲法の影響
①家族法の改正
2)米国法の影響
①民主化政策に基づく影響
a.刑事訴訟法の改正
b.労働法の整備
②米国型経済体制への適合
a.経済法の整備
日本の法制史
古代法(7世紀末~ 8世紀初め)
1.固有法の時代 2.継受法の時代
北方、朝鮮、中国等からの移住と文化の流入のもとで、
固有法の中にも、その起源を朝鮮・中国から伝わったも
のもあり、聖徳太子による冠位十二階が百済の官位制を
中核としたものでは、また、高句麗の官位制も参照した
可能性なども指摘される。
大和政権が律令制を整備する段階では、中国の隋・唐
の律令を模範とする体系的な法典を手本に律令法典が
編纂され施行されたことは明白である。
1.古代法の構造
1)内部的基盤(→集団的規範)
血縁集団から地縁集団へ
共同内部に秩序(慣習と法が一体)が生成
2)外部的基盤(→社会的規範)
政治的社会の発達→権力支配者の出現
→共同体相互に発生する紛争の調停機能
日本の古典にみられる刑罰
1)内部的基盤=スサノオが高天原の秩序を乱した
→八十万神の合議→千座置戸(ちくらおきど)の科
→神逐(かんやらい)=追放刑
共同体秩序を侵害したものは、内部的刑罰としての財産没収刑
と追放刑とした神話的表現
2)外部的基盤の違反
①天津罪は農業慣行違反
畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・誇放(ひはなち)・頻蒔
(しきまき=他人の水田に播種して自分の耕作地と主張)・
串刺(くしざし=収穫期に他人の田にクシを刺し自分のもの
と主張)
②神事の神聖性を侵犯
生剥(いきはぎ) ・逆剥(さかはぎ)・糞戸(くそへ)
共同体秩序の侵犯には大祓(おおはらえ)を行う。
族長法「慣習または法」→族長が大祓(おおはらえ)
を行う。共同体に発生した犯罪に対する神判(盟神
探湯)や拷問、裁判権を族長に集中
3)族長法から国造法へ(5世紀ないし6世紀ころ)
ヤマト王権(畿内及び周辺の諸豪族の政治的結合
体)=族長の上位の政治権力拡大→王権の強化
による専制化→氏姓制、部民制、国造制等の政治
制度を創設=支配秩序の強化 =王権が族長を
「国造」に編成
国造法(石母田説)=ヤマト朝廷を構成する諸豪族
および服属した国造等のみでなく国造治下の百
姓、公民をも人格的臣従関係に基づいて王権の
もとに編成しようとした組織規範であった
4)律令法の導入(継受法の時代) 7世紀末~8世紀初め
律令法は、天皇を頂点に諸豪族を官僚として編成
し、人民を一元的に統治する国家の基本法として
制定されたもの。
7世紀後半、天智朝の近江令(異説あり)
681(天武10年)飛鳥浄御原令→689(持統3年)施行
701(大宝元年) 大宝律令
718(養老2年) 養老律令(大宝律令を修訂) →757(天平
宝字元年)施行
律令法典の編纂は養老律令で終わり、律・令の修
正に「格」、律・令の施行細則に「式」が律令法の
施行期間を通じて単行法令として随時発令・施行。
日本の法系
日本の伝統的法体系:慣習法を基調
としてきた。明治憲法は、慣習法を尊重する英
米法に基本をおいて制定された(英国憲法→ベ
ルギー憲法→プロイセン憲法)。しかし、近代化
の推進の為、運用においてはドイツ法に準拠す
ることとなり以後、法体系は大陸法を基調として
いる。
ウル・ナンム法典
現存する世界最古の法典
(1952年にシュメール語の粘土板が発見)
ウルの軍事司令官であったウル・ナンムが、前22世紀末にウル第
三王朝を建てた。神殿の建築や運河の建設などを行うとともに、ウ
ル・ナンム法典(BC2125年頃 )と称される法典を定めた。残されて
いる条文は35条で、殺人、盗み、傷害、離婚、農地の荒廃などに
ついての刑罰が規定されている。この法典は、のちのハンムラビ
法典に影響を与えたと考えられているが、 「同害復讐」の原則は
見られず、「賠償」に重きを置いている。第2代シュルギの時代まで
に行政機構が確立し、王権の神格化も進んでいった。彼の治世中
に王朝の基盤を整え、王位を継ぐ息子のシュルギらウル・ナンム
の後継者達によってウル第3王朝は繁栄を謳歌し、シュメール文化
の黄金時代を築くこととなる。
ハンムラビ法典(楔形文字法系)
ハンムラビ法典は、完全な形で残る世界で2番目に古い法典で、
バビロニア王ハンムラビ(BC1728-1686)が所信を表明したもので、
「前書き・本文・後書き」の3部構成となっている。本文は慣習法を
成文化した282条からなり、13条及び66~99条が失われている。
前書きにはハンムラビの業績が述べられており、後書きにはハン
ムラビの願いが記されている。有名な「目には目を、歯には歯を」
は、ハンムラビ法典196 に「もしある市民が、他の市民の目をつぶ
すならば、彼の目をつぶさなければならない」と、また、第200条に
は、「もしある市民が、彼に対等の市民の歯を打ち折るならば、彼
の歯を打ち折らなければならない」とあり、「同害復讐」の原則を、
初めて制定した法である。 195条に子がその父を打ったときは、そ
の手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り
取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくま
で対等な身分同士の者だけであった。
マヌー法典
インド、サンスクリット語の法典
BC200~200年頃
人間の始神マヌーが神の啓示で作ったと伝えられ、内
容は法律・宗教・道徳・儀式に関する規律を含み、古代の
カーストに関する規定もある。カーストとは、インド社会に
おいて信仰、職業等を共通にする特別の集団で、同じ
カーストに属する者は他のカーストに属する者が従事す
る職業に従事することができない。カースト制は現在でも
残存しており、料理人に靴を磨かせたり、掃除人に事務を
行わせたりすることはできず、家事使用人を雇う場合にも
数名ないし十数名雇わないと用が足りないといわれる。
古代におけるローマ法の発展
1.初期(紀元前754年 - 紀元前201年)
1)王政=BC753年(建国)~BC509年
ローマ市民法(ius civile Quiritium)
→ローマ市民にのみ適用
2)共和政期=BC509年~BC27年
イタリア半島の都市国家から地中海の全域に属州
を持つ帝国となった期間。
政治は元老院と政務官中心の民会で統治
一般ローマ市民の意思も反映された運営
万民法(ius gentium) →異民族を支配=異民
族間に適用される法(万民法)が生じた。
十二表法(最初の法的文書)
紀元前449年に十人委員会
(decemviri legibus scribundis) によって起草
十二表法は、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立の中でつくられ、
青銅の碑文として広場に掲げられていたが,BC4世紀中ごろガリア
人が侵入した際、焼失したといわれ、その断片が記録されいた。十
二表法は近代的な意味での法典といえるものではなく、体系的なも
のでもなく、既存の慣習法を個別的に規定し直し、新たな法律形態
にしたもので、既存の慣習を法の恣意的な適用を排除しようとした
ものであった。民事法と刑事法の不徹底、私的復讐論理の存続、
土地所有者(特にパトリキ)に有利な土地法制、法の前の平等を唱
いながら体系の複雑さなどから一般民に理解しにくく、時間的にも
経済的にも余裕のあるパトリキに有利に働いたと考えられる。
十二表法の理念は原則的にはローマ帝国期にまで引き継がれたと
いわれている
リキニウス・セクスティウス法
(ラテン語: leges Liciniae Sextiae)は、BC367年に護民官リ
キニウスとセクスティウスによって提案、制定された法。
名称は二人の提案者の名前から。
ローマの最高の政務官職は2名のコンスルで
あった。その就任は長くパトリキのみに限られプ
レブスは排除されていた。コンスル職のうち1人を
プレブス階級の者でも就任可能となったことは、
ローマの身分闘争の歴史において重要であった 。
万民法:ius gentium
全ての人に適用されるローマ法・法体系
市民法 (ius civile)に対する概念
BC242年 プラエトル=「外国人係法務官 (praetor
peregrinus)」が設置=万民法のルーツ
外国人が関わる法律問題を扱う専門の法務官
→ローマ市民・外国人の双方に共通に適用される法整
備が急速に進むようになった
=売買・契約等の債権法を中心。
万民法は「信義 (fides)」を基本理念として編纂され、諸民族間での
長年にわたる商取引を通じて形成された国際的に共通した商慣習
を重視して手続も簡略化された。特に当事者間の合意のみで契約
が成立する諾成契約が導入されたことや市民法の基本である十二
表法では法的根拠を見出せなかった賃貸借に法的裏づけを与えた
柔軟性は市民法などのローマ法一般に与えた影響は大きく、文明
の発展とに比してもより進歩的と言われてきたローマの法文化を更
に発展させる原動力となった。
BC212年ローマ皇帝カラカラ
→全自由民(ローマ帝国に住む)に市民権付与
=帝国内の全市民に市民法が適用
→ローマ帝国の多民族化が進行
市民法の規定=万民法に併用。
ギリシア哲学の影響
「ローマ法」→「人類共通の法」「実定法化された自
然法」と認識
「人類共通の普遍的な法」=「自然法」
ならば、「万民法=自然法」
「理性的で人為的な法」である「万民法」と「本能的
に形成された(自然に由来)自然法」が、時には対
立するものとなる場合がある。
ローマ法大全
この法典は古代ローマ時代からの自然法および人定法
(執政官法、法務官法、帝政になってからの勅令)を、ユス
ティニアヌス1世が法務長官トリボニアヌス(500年 - 547
年)をはじめとする10名に編纂させたものである。以後東
ローマ帝国の基本法典として用いられ、のちには西欧の
各国の法典(特に民法典)の規範となった。
『ローマ法大全』は、ウルピアヌスらの学説を引きながら、
「自然法は自然が全ての動物に授けた法」「万民法は諸
民族が(共通して)用いる法」と峻別している。特に奴隷に
関しては、自然法はこれを自然の摂理に反したものと解す
るのに対し、逆に万民法は捕虜や債務者の生命を敵から
保護するものであると解している。
ユスティニアヌス『ローマ法大全』の構成
=「学説彙纂」「法学提要」「新旧勅法彙纂」
533年施行
ガイウスに依拠
529年施行 534年施行
『ローマ法大全』 は「ハンムラビ法典」
「ナポレオン法典」と並ぶ世界三大法典
の一つとされる
BC2世紀から3世紀ごろまでの間、ローマには大法学者が多数現
れ、一定の学者は法律問題について裁判所を拘束する解答権を与
えられ、ローマ法は学説によって大発展を遂げた(法学隆盛時代)。
その後、法学は衰えたが、紀元6世紀になり、東口ーマの皇帝ユス
チニアヌスは法学隆盛時代の学説を集め、法学の初学者向きの教
科書および歴代の皇帝の勅法とともに、これを法律として公布した。
ユスチニアヌスの編集した法典全部をローマ法大全(ローマ法全
典) という。
東口ーマ帝国の滅亡後、ローマの法典も散逸したが、11
世紀の末、イタリアのボロニア大学でローマ法全典の研究
が行われた。ドイツからも多数の者がボロニア大学に留学
し、ドイツにローマ法の知識を広め、ローマ法全典は12,3
世紀から16世紀半ばにかけてドイツに輸入され、ドイツ法
として結実する。これをローマ法の継受という。ドイツに継
受されたローマ法は、それまでドイツで行われていたゲル
マン法と融合し、現在の民法典にはローマ法的要素とゲ
ルマン法的要素が残っている。ローマ法はスイス、フラン
ス、イタリア、イギリスその他、マホメット教国を除く世界の
国々の法にも影響を及ぼし、現代においても一つの法系
をなしている。