御霊信仰の歴史的考察 1、御霊信仰の定義と御霊信仰の背景 非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを慰和してその祟りを免れ安穏を確保しようと する信仰は古来のものである。原始的な信仰心意にあっては死霊はすべて畏怖の対象と なったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない 霊は、人々に祟りをなすと信ぜられ、疫病や飢饉そのたの天災があると、その原因は多く それら怨霊や祀られざる亡霊の祟りとされた。 「日本書紀」崇神天皇7年2月条に、「天皇が疫病流行の原因を卜(ぼく)して、神託に より大物主神の児大田田根子を探し求めてかれをして大物主神を祀らしめたところ、よく 天下太平を得た」・・・とあるのは、厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いと はいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古いことを思わし める。 しかし、一般に御霊信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体とし て特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊を盛んに祀られるようにな る。 以上は、「神道史大辞典」(薗田稔、橋本政宣編、2004年6月、吉川弘文社)による 説明であるが、御霊信仰について要領よくしかも判りやすく説明してある。しかし、その 定義については、国家(朝廷)の係わり合いの説明がないので、私は、御霊信仰を次のよ うに定義したいと考える。すなわち、 『 御霊信仰とは、非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを慰和してその祟りを免れ 安穏を確保しようとする信仰であり、かつ、その祭祀が天皇の権威に基づいて或いは背景 として執り行われて文化化したもの。』・・・と。 この定義に従うと、御霊信仰の三要素として次の三項目を考えねばならないということに なる。 1、非業の死を遂げた人の霊が存在すること。 2、天皇の権威に基づいて或いは背景として執り行われる呪力による祭祀が存在するこ と。 3、その祭祀が文化化され、国民の間に広く行われているお祭りが存在すること。 私は、これから御霊信仰の成熟した姿として京都の「御霊神社」を取り上げるつもりであ るが、その前に、それが創建されるに至るまでの背景、つまり御霊信仰の背景について説 明をしておきたい。 「神道史大辞典」(薗田稔、橋本政宣編、2004年6月、吉川弘文社)では、上述した ように御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめると述べているが、実は、 御霊信仰の背景として「殺牛祭祀」と「密教の呪力」が重要であるので、それらの説明を しておきたい。 (1)殺牛祭祀 「殺牛祭神」については、数多くの論文があるが、その概要を知るには「伊藤信博の論 文」が良いようだ。その要点は次の通りである。すなわち、 『 「殺牛祭神」は、「日本書紀」や「類聚三代格」などにも記述の見える牛を殺す儀礼 である。この祭祀は、「漢神祭」とも呼ばれ、日本の土着的風習であるのか渡来人に由来 する儀礼であるのかについて議論が分かれているが、多様な資料に基づいた先行研究か ら、この「殺牛祭神」は外来の要素が強いように思われる。』 『 しかし、「殺牛」儀礼は渡来人が持ち込んだものとしても、「殺牛」に何故豊穣との 結びつきがあるのであろうか。』 『 開拓が増えれば増えるほど、野生動物達との接触機会も増えていっただろうことは想 像に難くない。七世紀前半から八世紀末にかけて、動物に対する観念が大きく変化しつつ あることが想定できる。五月五日の「薬猟」などに垣間見る狩猟による邪気の排除と豊 穣、武力と権力、その共同体の領有の認知、そして権力者が行う狩猟は、その年の豊凶を 占う重要な儀式でもあった。そこには、鹿への神聖視、また鹿など獣害からの防御と豊穣 という二重の構造がある。そのような神話的構造から朝廷が水田耕作を勧める過程で、牛 馬への依存が実用の意味で高まり(軍事目的も含め)、また、仏教の影響からこれらの動 物の保護への姿勢も「殺生禁止」として表われ始める。従って、「殺牛祭神」へ信仰は、 渡来人の由来としても、日本に一般的に受容された習俗であったと考える。』 『 「陰」を殺すことによって、新しい生命「陽」が生まれるという思想が「殺牛儀礼」 の根底にあるのであろう。「殺牛儀礼」の祭祀によって、農耕にとって重要な牛(陰)を 殺すことつまり陰を祓うことで、生命を回復させ、正常な生活への再会の道を開く機能を この祭祀が持っていたと考えてよい。』 『 「殺牛祭神」はこのような生命の復活、豊穣儀礼の一環として、日本の習俗にも広範 囲に広がっていたのであろう。また、天とも結びつく豊穣神としての呪力を持つ共同体の 首長は、災禍などから共同体を通常の状態に戻すためにも強い呪術を発揮せねばならな かった。この災禍には、突然起こる疾病も当然含まれ、共同体の首長が医師的な能力をも 保持することも必要である。従って、牛を犠牲として、捧げることは、疫病や天災などの 罪(陰)をも祓う結果となるのである。』 『 牛を殺すことで、植物や人間の生命が復活し、豊穣となる。また牛を犠牲として、捧 げることは、疫病や天災をも祓うことにもなる。このような民衆儀礼、民衆祭祀を在地の 長が、執り行うことを禁止する。そして国の祭祀とすることで、在地の勢力増大を抑え、 朝廷の政権を安定させる。その結果が、律令政権の再生と全国支配および天皇の強力な呪 術性や神聖さの保持ともなる。桓武期にも、多くの天災や疫病が流行し、百姓の逃亡も増 えていた。そのような状況下で、呪力を持つ首長として、災禍や疾病などの罪から共同体 を通常の状態に戻すためにも強い呪術を発揮する必要があったことが、「郊天祭祀」を挙 行し、また、日本の聖域観を強調するため、異国の儀礼(漢神祭)として、民衆が行なう 「牛殺」を禁止したのであろう。このような思考が、京師、畿内および日本の聖域化をは かり、天皇がその頂点となる神格化を生む。そして、このような思考が、京師、畿内およ び日本の頂点となる天皇の神格化を誕生させる。その結果が、やがて個人の「怨霊」が天 皇を聖域の中心とする社会全体に疫病や災害などを祟りとして起こす「御霊神」信仰誕生 の基礎となったということができる。』・・・と。 私は、この「殺牛祭祀」をアイヌの「熊送り祭祀」と同じ信仰のものと考えている。アイ ヌの「熊送り祭祀」は、祈りを込めて神の国に熊の霊を送り返す。それによって、再び熊 はこの世で生き生きと繁殖する。人間は神とともにあるし、熊とともにある。熊は「カム イ」なのだ。 アイヌの世界では、古来、冬の終わりに、まだ穴で冬眠しているヒグマを狩る猟を行う。 冬ごもりの間に生まれた小熊がいた場合、母熊は殺すが、小熊は集落に連れ帰って育て る。最初は、人間の子供と同じように家の中で育て、赤ん坊と同様に母乳をやることも あったという。大きくなってくると屋外の丸太で組んだ檻に移すが、やはり上等の食事を 与える。1年か2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な送り儀礼を行い、丸太の間で 首を挟んでヒグマを屠殺し、解体してその肉を人々にふるまう。 ヒグマの姿を借りて人間の世界にやってきた「カムイ」を1、2年間大切にもてなした後、 見送りの宴を行って神々の世界にお帰り頂くものと解釈されている。ヒグマを屠殺して得 られた肉や毛皮は、もてなしの礼として「カムイ」が置いて行った置き土産であり、皆で ありがたく頂くというわけだ。地上で大切にされた「熊のカムイ」は、天界に帰った後も 再度肉と毛皮を土産に携え、人間界を訪れる。さらに人間界の素晴らしさを伝え聞いたほ かの神々も、肉や毛皮とともに人間界を訪れる。こうして村は豊猟に恵まれるのである。 熊の再訪を願うために、人間からの土産としてイナウやトノト(濁酒)、シト(団子)を 大量に捧げる。 人間にとってもっとも大事な動物は、縄文時代は熊、鹿であり、弥生時代以降は牛、馬で ある。「殺牛祭祀」は「神としての牛送り祭祀」であると思う。人々の意識としては 「牛」は聖なる神なのであろう。 (2)密教の呪力 古代の律令制での神 官は祭祀を司る官である。平安時代後期には国衙と同等まで低下し たが、当初は太政官よりも上位であり、諸官の最上位とされたと考えられていた。その神 官が執り行う祭祀はさまざまだが、その中の重要な祭祀の一つに道 祭(みちあえのま つり)があった。これは、陰暦6月と12月に、京都の四隅に八衢比売(やちまたひめ)・ 八衢比古(やちまたひこ)・久那斗(くなど)の三神をまつって、路上で怪物・妖物を 応し、都にはいるのを防ぐために行なった祭祀である。 その律令制が始まると同時に行われてき古代から呪術的祭祀としての「道 祭 (みちあえ のまつり)」は、疫病の大流行と共に、 陰陽寮を中心とした陰陽師が朝廷での権威を高 めることによって、「疫神祭」として、名称が変化して来る。「疫神祭」は、陰陽道系の 祭りとして「四角四界祭」とも呼ばれ、鬼神から御所の四隅を護る「四角祭」と都の四堺 を護る「四界祭」に分別される。祭りに際して、陰陽師による占卜(せんぼく)をおこな い、天皇個人や御所内に漂う邪気、悪気、穢れた気 が存在するか否かを調べる。存在を 感じた場合、「撫物(なでもの)」などの依代(よりしろ)を使用し、「撫物」に これ らの鬼気を依り付け、四界の境界の外に出てもらったのである。『延喜式』の「畿内堺十 処疫神祭」では、「撫物(なでもの)」に人形(ひとがた)として、陰陽を象徴する金銀人 像が使用されている。「撫物」とは身の穢(けがれ)を除くために用いる呪物のこと。一 般に陰陽師(おんみようじ)が祓(はらい)や祈禱を行う際に,人形や衣類等を用意し, これに依頼者の穢(けがれ)をなでて移し、川に流し去るものである。平安時代、摂津難 波津で行われた八十島祭(やそしままつり)では、天皇が下賜した御麻(おおぬさ)の撫 物を振って金人銀人の人形に穢を移し,海浜に棄却した。やがてこれが密教の「六字河臨 法(ろくじかりんほう)」と称する呪術にも影響し、河川に舟を浮かべ、僧侶の読経と陰 陽師の中臣祓(なかとみのはらい)読誦を伴いつつ、檀家がわら人形である撫物に穢を移 し散米をかけ茅の輪(ちのわ)をくぐらせる呪法を行ってこの人形を水中に投ずる、とい うようなことが行われる。 ところで、密教といえば、通常、真言宗の密教、天台宗の密教を思い浮かべるが、呪術的 要素の強い密教はそれ以前からも日本に入ってきていた。東密、台密を純密(じゅんみ つ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された飛鳥時代や奈良時代の密教 を雑密(ぞうみつ)、東大寺の大仏開眼と戒壇建立に前後して、鑑真和上から入唐八家に よる請来までを古密教(こみっきょう)という。そして、古密教(こみっきょう)は修験 道と結びつき、次第次第に力をつけていったのである。つまり、平安時代以前において も、古密教は次第次第に陰陽道を凌駕するようになっていったのである。 そして、遂に、空海によって、神泉苑で「御霊会」が行われる少し前には、「密教の強力 な呪力」というものが朝廷にも世間にも認識されるようになる。 嵯峨天皇の823年(弘仁14年)、東寺は空海に、西寺は守敏(しゅびん)に下賜され、ぞ れぞれ管主に就く。その以前から空海と守敏とは何事にも対立していたと言われる。824 年(天長元年)、即位して間もなくの淳和天皇は、喫緊(きっきん)の政治課題の解決に素 早く動いた。7年連続で長引く干ばつに対して、東寺の空海と西寺の守敏に対して祈雨の 修法を命じたのである。 守敏が1週間にわたって修法を行うも効果少なく、次に空海が当時大内裏に南接していた 神泉苑にて修法を行うが1滴の降雨もない。 調べると空海の名声を妬む守敏により国中の「龍神」が瓶に閉じ込められていた。しかし ただ1体、「善女龍王」だけは守敏の手から逃れていたので天竺の無熱池(むねつち)か ら呼び寄せて国中に大雨を降らせたという。 この「神泉苑での雨乞い伝説」については、次を参照されたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/amagoisin.pdf (3)御霊会 863年(貞観5年)、空海が神泉苑の「雨乞い神事」で「自然呪力」の凄さを見せつけ てから、ほぼ40年経ってからのことであるが、同じ場所で「御霊会」が行われる。 この年の初めからことのほか流感が激しく、百姓が多数病死した。このチャンスを捉えた 朝廷は、5月20日、自らが御霊会を主催する。神泉苑に崇道天皇以下6人の御霊の座を 設けて礼拝し、花果や薫香を供え、天台修験道の僧・彗達(えたつ)を導師として 金剛 明経(こんごうみょうきょう)と般若心経などを唱えさせ、さらに雅楽寮に楽を命じ、天 皇近侍の児童や良家の稚児などに唐・高麗の舞を舞わせ、雑伎(ざつぎ)や散楽(さんが く)などを存分に演じさせた。この朝廷主催の御霊会を監督したのは、良房の基経らであ る。天皇以外の王侯貴族が総出で参加しただけでなく、神泉苑の東西南北の門をこの日に 限って勅命で開き、都の人々が自由に出入りして観覧できるようにした。 この貞観5年朝廷主催の御霊会は、民間で形成されてきた御霊会をはるかに大規模な形に してそっくり取り込んだものであり、また、そこに誰でも自由に参加できるようにしたこ とは、民間の御霊会を吸収し尽くしてしまおうとする朝廷の野心のほどが伺える。また、 鎮護国家の経である金剛明経(こんごうみょうきょう)と密教の基本経典のひとつである 般若心経がともに唱えられたことは、民間の間に広がってきた密教に迎合するものでも あったのである。 2、御霊神社 御霊神社と称する神社あるいは御霊神社とは称しないけれど俗に御霊神社と考えられてい る神社は全国にいくつかあるようである。例えば、京都府相楽郡加茂町の御霊神社や奈良 県五條市の御霊神社である。前者は行基が開基したとも空海の弟子・真暁が開基したとも いわれる燈明寺の鎮守社であったものであり、後者は「井上(いかみ)の怨霊」に悩まさ れた桓武天皇がそれを鎮めるために五條市御山町(旧南宇智村御山)に造築した山陵を契機 として創建された御霊神社である。なお、鎌倉権五郎神社は俗に御霊神社と考えられてい るが、これは先に述べた私の定義からすれば、御霊神社ではない。 全国いくつかある御霊神社の中で、もっとも典型的な御霊神社は京都の「上御霊(かみご りょう)さん」と「下御霊(しもごりょう)さん」である。この二つの御霊神社は、御霊 信仰のさまざまな背景の下、神泉苑で行われた「御霊会」を契機として創建されたもの で、御霊神社の完成形と考えて良い。 上御霊神社も下御霊神社も創建の年代は明らかではないが、上御霊神社については、天徳 2年(958)の宣旨などの見える上出雲御霊堂が該当するらしいので、上御霊神社の方 が下御霊神社の創建より若干古いようだ。下御霊神社は、神泉苑での「御霊会」とタイミ ングを合わせて創建されたようだ。両神社とも、中世以来朝廷と貴族の崇敬が厚く、上御 霊神社に対しては、近世には毎年正月に御所から歯固めの初穂の寄進があり、天正、宝 永、享保、宝暦などの社殿修造に際しては内侍所仮殿を下賜された。また、下御霊神社に 対しても、霊元天皇はことに信仰厚く、享保8年と14年の二度にわたっての行幸祈願が あった。その後、上御霊神社は、光格、仁孝、光明天皇の代には皇子や皇女の降誕に際し 胞衣(えな)を神楽所前に奉納されるなど、御所の産土神としての特別の待遇を受けた。 武家もこれにならい朱印地19石を寄進した。 京都では、上御霊神社を「上御霊(かみごりょう)さん」、下御霊神社を「下御霊(しも ごりょう)さん」と呼ぶ。上御霊さんと下御霊さんとは、若干の違いはあるけれど、ほと んど同じであるので、ここでは、下御霊さんの公式ホームページと私のホームページを紹 介しておきたい。 http://shimogoryo.main.jp/ http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/simogoryou.pdf 3、御霊信仰の文化化 疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を 行った。その後も疫病の流行が続いたために、牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災 を祈念したと通常言われている。つまり、869年(貞観11年)に、全国の国の数を表 す66本の矛を「卜部日良麿」が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の 穢れを祓い、神輿(みこし)3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り 行ったのがその起源であるという。「卜部日良麿」は、幼い頃から亀卜(亀甲を焼くこと で現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を習得した。神 官の卜部となり、朝 廷として重大な事を決するにあたって疑義が生じた時は、亀卜(きぼく)の能力を発揮し たという。 しかし、「神道史大辞典」(薗田稔、橋本政宣編、2004年6月、吉川弘文社)によれ ば、祇園御霊会は「二十二社註式」に「天禄元年(970)6月14日始御霊会自今年行 之」とあるので、その記述に従って970年、つまり神泉苑の御霊会の101年後と考え るべきだという。 私は、この「神道史大辞典」を支持したい。すでに第1節の「2、密教の呪力」で述べた ように、平安時代以前にすでに、古密教は次第次第に陰陽道を凌駕するようになっていた のであり、空海の神泉苑での「雨乞い」によって朝廷の密教に対する信頼は揺るぎのない ものになっていたからこそ、神泉苑の御霊会は天台修験道の僧・彗達(えたつ)を導師と して行われたのであった。御霊においてもはや陰陽道のでる幕はなかったものと私は思 う。祇園御霊会において陰陽道が神事を取り仕切ったという上記の話は、後年、祇園社の 神官によって作られた話ではなかろうか。祇園御霊会は、当初、比叡山延暦寺によって執 り行われたのである。 祇園御霊会は、6月7日に神輿(みこし)を迎えていろいろな神事をやってのち、14日 にその神輿を送る儀式を行うという形で進められた。その神事には、馬長(うまおさ)、 これは神事として神社の馬場を練り歩く人のことをいうが、そういう人や田楽師あるいは 獅子舞師などが朝廷から差し向けられるなど、祇園御霊会は朝廷との繋がりの強い形で行 われた。神泉苑での御霊会の場合と同様に、朝廷主催であったようだが、実際に祇園御霊 会を取り仕切ったのはどうも天台密教の僧侶たちであったらしい。桓武天皇と最澄との関 係は深く、比叡山延暦寺は朝廷守護のために創建されたようなものだが、「北野御霊会」 と同様に、祇園御霊会も主催者である朝廷の要請により、実質的には、比叡山が取り仕 切ったようである。おそらく神輿(みこし)は比叡山の神輿であろう。祇園御霊会を比叡 山延暦寺が取り仕切った名残りは、今なお浄蔵の「山伏山」に残されている。 祇園御霊会は、970年のものを契機としてその後も毎年行われ、次第に民間色を強めて いく。 当初から、一般民間からも種々の芸能の奉納があったらしいが、神事も平安時代 末期からは洛中の富豪からの支援が中心となっていった。そうなれば、比叡山延暦寺とし ては祇園御霊会から次第に手を引くようになっていく。祇園社の独立性が次第に高まって いき、神祇官の支配が及ぶようになる。その結果、祇園社では、祇園御霊会がもともと神 祇官によって開催されたと語られるようになったのではないか。私としては、祇園御霊会 が当初の段階で比叡山延暦寺の力で行われていたということを主張したいのである。 10世紀の終わり頃、八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があっ た。この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇 園祭が中止になったり延期になる原因となったのである。 それでは、比叡山延暦寺と 園御霊会との繋がりに焦点を当てて、少し歴史的な話をして おきたい。 八坂神社は、当初、 園社と呼ばれていた。八坂神社と呼ばれるようになったのは明治に 入ってからのことである。 園社の創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王 (およびそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実である。古くからある神社である が、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受 けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後(のち)の二 十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。 平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を 受けた。 園祭は、貞観11年(869)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた 御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから るようになった。 園御霊会として毎年行われ 園社は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の縄張り争いによ り比叡山延暦寺が勝利して 園社を比叡山延暦寺の末寺とした。1070年には 園社は 鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力および比叡山延暦寺から完 全に独立した。さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者 (町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させ るようになった。 ここで比叡山延暦寺のことについて少し述べておきたい。比叡山延暦寺には、その権威に 伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っていて、時の権力者を無 視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。 延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ「南都北嶺」と恐れられた。比叡山 延暦寺は、配下に置いていた 園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていた ので、これを守る必要があった。一方、興福寺は、大和国一国の荘園のほとんどを領して おり、その経済力で京に大きな支配力を及ぼしていたが、 園社の領地にもいろいろと ちょっかいをかけてきたようだ。強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都 北嶺」(なんとほくれい)と称されたが、この両勢力はいきおい衝突せざるを得なかった のである。「南都北嶺」(なんとほくれい)という言葉の中の「南都」とは奈良を指す が、とくに興福寺を中心とする南都仏教教団をいい、北嶺は比叡山延暦寺をいう。藤原氏 の氏寺である興福寺は、摂関政治以降寺勢が拡大し、東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧 によって占められ、公 の子弟で入寺するものも漸次増加した。一方9世紀の初頭、最澄 が比叡山に天台教団を開創し、大乗戒壇を創設して以後、南都と叡山の確執が繰り返さ れ、10世紀後半より出現した僧兵の武力を背景に,興福寺は春日社の神木、延暦寺は日吉 社の神輿を奉じて朝廷に強訴(ごうそ)し、あるいは両者が互いに闘争を繰り返すことも しばしばあったのである。そういった闘争を繰り返した結果、京では比叡山延暦寺が勝利 を収めていくのである。かくして、 園御霊会は、興福寺ではなく、比叡山延暦寺が取り 仕切ることになるのである。 そして、遂には、上述したように、民間色が強くなり、文化として定着していく。当初か ら、一般民間からも種々の芸能の奉納があったようだが、神事は比叡山延暦寺が取り仕 切った。しかし、その神事も平安時代末期からは洛中の富豪からの支援が中心となってい き、 比叡山延暦寺としては祇園御霊会から次第に手を引くようになっていった。それが そのまま今日に及んでいる。祇園御霊会が今日の祇園祭に成長していくこのような過程 を、私は、「御霊信仰の文化化」と呼んでいるのである。 4、御霊信仰の本質 御霊信仰の歴史的考察については、義江彰夫の著書「神仏習合」(1996年7月、岩波 書店)が基本的な教科書としてもっとも良い。その他にも参考にすべき著作もいろいろあ るが、私は、まず義江彰夫の言っていることを紹介し、私なりの考察をしてみたい。義江 彰夫は、その著「神仏習合」の中で次のような趣旨のことを言っている。すなわち、 『 奈良末・平安初頭以降になると、これら王権反逆者の怨霊が、社会底辺を含む広範な 人々によって祀られるようになった。怨みの心を慰め鎮めながら、同時にそれをかき立 て、盛り上げるかのような法会が盛んに行われるようになったのである。この際この法会 を営んだ人々は、怨霊を敬意の念を込めて怨霊と呼んだ。これが御霊会と呼ばれるもの で、ここから怨霊信仰は政治的社会運動の様相を帯びるようになってくる。』 『 神泉苑で行われた御霊会は、朝廷主催の大規模かつ典型的な御霊会であるが、規模は 小さいながらも類似の御霊会は、京・畿内から始まって全国各地に広がってゆく中で、次 第に整えられ、定型的な民間行事というべきものにまで成長していった。』 『 京・畿内から始まって全国各地に広がっていった御霊会は、王権膝元で政争敗死者の 遺族や、王権路線から排除・抑圧された貴族たちが、王権を相対化する密教僧たちと連携 して、その怨念を社会に潜在する王権支配への不満と結びつけ、反王権社会運動を画策し ていたことを予想させる。その際、疫病死などの蔓延を御霊を祀らないことからくる災い と喧伝したのは、そうすることで、御霊の悲劇に直接共鳴する王権の被害者はもちろん、 疫病や死を怖れる人々一般を広範に組織できたからであり、また彼らに御霊の悲劇と王権 の残虐さを知らせることができたからと考えられる。また、そうすることで王権の直接的 弾圧をかわすという狙いもあっただろう。』 『 では、このように京・畿内から全国に広がっていった御霊会では、祭りはどのように 行われていたのだろうか。「日本三代実録」の語るところは、極めて具体的である。ま ず、御霊たちを仏と見立てて、その前で経を説くと記している。之は、仏教の経典を聞か せることで、無実の罪で敗死した者たちを鎮魂して、仏の世界、とりわけ成仏しきれない 密教の神々となったことを確認し、彼らを死に追いやった王権の罪を示唆する法会として 御霊会が催されたことを端的に示している。次いで、歌舞・馳射・相撲以下の多様な行事 がある。御霊の苦しみを慰めるとともに、そこに結集した多様な身分の人々の日頃の憂さ を晴らし、御霊の怨念を盛り上げ、参会者一同がそれに共鳴してゆく効果をもっただろ う。このように見れば、御霊会の震源は敗死者遺族や共鳴する没落貴族にあったとして も、これを社会内の王権への不満と結びつけ、そのような独特な法会に仕立てる役割を 担ったのは、崇道天皇信仰以来の敗死者遺族らの心情に呼応してきた密教僧であったとい えよう。』 『 御霊信仰は、外在的すなわち王権のもたらす圧迫に、在来の神 を超える次元、すな わち密教の世界から掣肘(せいちゅう)を加えるという次元、つまり密教が朝廷に干渉し て朝廷や神 官の自由な行動を妨げるという・・・宇宙的な次元での手立てであったこと が見えてこよう。御霊会とは、神身離脱・神宮寺と裏表の関係でこの時代に生まれてきた 神仏習合の一形態に他ならないのである。』・・・と。 これからまだ義江彰夫の説明は続くのだが、ちょっと一服して、かって私が書いた「神宮 寺のはじまり」という文書があるので、それをご覧戴きたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/whatsnew/jinguuji.html 「多度仁宮司資財帳」によれば、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するた めに、神の身を離れ、仏教に帰依することを求めるようになった・・・そのいきさつがよ く判る。これを「神身離脱」というのだが、義江彰夫は、御霊会とは「神身離脱」現象の 一形態だといっている。誠に的確な認識であると思う。したがって、前に戻るようなこと で申し訳ないが、 園御霊会が神 官によって催されたなどという一般に流布されている 神社側の説明は間違いであることをここでも再度強調しておきたい。 さて、義江彰夫の説明を続けよう! 『 さて、民間主催の御霊会がこのように発展してくると、王権は対応に苦慮した。神身 離脱・神宮寺化問題は、王権の神 官制度から離れようとするものであっても、王権の支 えを必要としていたのに対し、御霊会は、まかり間違えば、反王権的存在になり得たから である。したがって、王権は、最初の御霊、崇道天皇が跳梁し始めた時から、ひたすら陳 謝を尽くして、その鎮静を図ろうとしたのである。しかし、それが天災などを御霊の怨み の結果と見て御霊を祀るという形の御霊会として発展し始めると、容易に介入・鎮圧し得 ないものとなった。如何に裏に反王権のエネルギーを蓄えようと、たてまえは天災回避の 論理で貫かれていたためである。こうして、9世紀冒頭から9世紀半ばにかけて、御霊会 は諸国のいたるところに出現するのである。』 『 ここにいたり、863年(貞観5年)、王権は御霊問題に正面から取り組まざるを得 なくなり、神泉苑の御霊会が催されたのである。』 『 しかし、このような手立てを講ずることで、民間の反逆心に満ちた御霊会を根絶する ことはできなかった。神泉苑の御霊会が催された年からしばらくの間、朝廷は毎年御霊会 を主催したようであるが、翌々年の6月14日京畿七道諸国を対象に民間での御霊会を禁 じていることは、朝廷主催型御霊会による統制の限界をよく示している。こののち、民間 での御霊会は多様な形で展開してゆくが、朝廷主催の御霊会は次第に行われなくなって いった。民間で発展した御霊会としては八坂神社の御霊会( 園祭)と今宮神社の御霊会 が有名である。』 『 奈良末・平安初期の御霊信仰・御霊会は、神身離脱・神宮寺建立の動きと社会的背景 を共有しており、私的領有の生成と王権のそれへの対応が前者だったということができよ う。とすれば、密教が御霊信仰・御霊会を論理化し正当化する役割を担ったのは、必然の 帰結であった。』 『 菅原道真の怨霊が暴れまくった頃、理不尽な処置で人を死に追いやれば、その霊魂は その罪を犯した人すべてに報復を加え、遂には、最高責任者たる帝王をも殺しても致し方 ないという認識が、当時の日本社会を覆っていたことは確実である。(中略)時平の死や 清涼殿落雷やそれに発する醍醐の死という災いの重なりを、すべて、道真怨霊の仕業と理 解する意識がこの時代の共通の心のあり方になっていたことは動かし難い事実である。』 『 浄蔵の弟・日蔵は、道真怨霊の跳梁が頂点に達したところで、冥界への旅を試み、 道真霊の怒りと自己の罪を率直に認める醍醐帝の訴え、そしてそれらを背後で支える宇田 法皇の言葉を聞くことに成功した。とすれば、日蔵のこの修験行為は、道真怨霊の跳梁 を、理のあること、防ぎ得ないことに根拠づけ、道真の怨霊をかついで、反王権的行動に 出るものを正当化するという意味を帯びることとなった。日蔵の冥界への旅の話は将門の 乱が鎮定された、わずか一年後のことである。鎮定直後でさえこうであるとすれば道真の 怨霊が将門の乱を正当化するものとして登場するのは不思議ではなかった。』 『 八幡の背後には王権に反逆するエネルギーが伏在していた。最近の研究によれば、奈 良時代いらい宇佐八幡の神官とされた者は、記紀の中で王権に反逆する神として名高い大 和三輪神社の神主大神(おおみわ)氏の一族と考えられる。律令国家の王権はこの反逆す る神に仕える者を、外敵から国家を守る神を祀るものにすることで、そのエネルギーを外 に向かわせようとした。しかし、対外的緊張が緩む9世紀末以降の時代に入ると、八幡神 の裏側では、反王権勢力との暗々裡の連携が息を吹き返すことになる。しかも、この八幡 は天神同様、神仏習合の神である。八幡神が応神などの皇祖神であり、同神が大菩 と呼 ばれていることは、何よりも有力な証拠である。天神が反王権の神仏習合神であるとすれ ば、それを上から支える八幡が神仏習合神として現れるのは当然であろう。密教の論理が 王権を相対化できる正当化の思想であったことを想起すれば、天神・八幡ともに、王権に 反逆する神として動く時、密教の衣を纏った神仏習合の神とならざるを得なかったのは必 然であった。』 義江彰夫の説明はまだまだ続くのだが、再度ここらで中断して、「将門の乱」に際して 「天神」と「八幡」がどのように絡むのか、そのことを詳しく書いた私のホームページが あるので、是非、それを読んでいただきたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/masakado.pdf 日本の国家というものが誕生して以来、天皇を中心とした統治形態が危機に直面した時、 それは天皇そのものが危機に直面したということだが、そういう時というのは、菅原道真 の怨霊が猛威を振るった時しかない。というのは、平将門が菅原道真の威を借りて、本気 で天皇にとって変わろうとしたからだ。 おそらく、平将門が蜂起した時、全国の豪族に動揺が走ったと思う。豪族たちの精神状態 としては、菅原道真の怨霊が平将門に味方しているとすれば、この際平将門の陣営に入っ た方が良いのではないか。いやいや、やはり朝廷に刃向かうわけにはいかないのではない か。そういう動揺である。この動揺を鎮めたのが浄蔵である。 如何でしたでしょうか? 浄蔵は天台密教の僧である。上に出てきた日蔵の兄である。浄 蔵と言い、日蔵と言い、 城の山に籠って修験道の修行を積み、強力な呪力を身につける のであり、修験者でもあるのだが、彼らはれっきとした天台密教の僧である。比叡山延暦 寺はその密教の力によって天皇を頂点とする朝廷をお守りしてきたのである。 さあそれでは再び元に戻って、義江彰夫の説明を続けよう! 彼は、引き続き御霊信仰の 本質について次のように説明していく。すなわち、 『 将門の乱の鎮定を境にして、天神の行動は、王権に接近し、その中に入り込もうとさ えするが、王権を破壊し、否定する行為はとらなくなっている。この結果、王権も、朱雀 のあとを踏んで946年(天慶9年)に即位した村上天皇の時代に入ると、天神への積極 的接近と抱き込みを図るようになる。959年(天徳3年)、娘安子(あんし)を村上の 妃として、右大臣にありながら、事実上村上帝を輔弼(ほひつ)する地位を得ていた藤原 師輔(もろすけ)は、それまで民間の手で五度にわたって増改築されていた北野社に、新 築の自邸を社殿として奉納し、摂関家一族男女の摂関・皇妃としての繁栄を守護してほし いとの祭文を献納する(「北野天神縁起」「菅家御伝記」)。師輔(もろすけ)は、道真 が生前良好な関係を保っていた忠平(時平の弟)の子であり、天皇家と摂関家の中でもっ とも道真に接近しやすい位置にいた。村上と師輔(もろすけ)は合議の上で、和解と怨霊 鎮静化の公的な第一歩を踏み出したのである。(中略)王権は30数年の歳月を費やし て、辛抱強く、柔軟に、かげり始めた天神を取り込もうと腐心し、遂には、社殿や官位ね だりにまでそのめざすところを堕落させ、反王権のシンボルにまで高まった天神を王権守 護神に変節させることに成功したのである。』 『 頼義・義家は、1060年代頃八幡と容易に結合する歴史を持っている天神信仰を、 相模守菅原氏の安楽寺建立を通して実現したのである。この時代清和源氏が前九年の役を 通して、東国武士を主従制的に大がかりに編成することに腐心していたことを想起すれ ば、東国の要(かなめ)相模国における八幡神と道真霊の導入と結合は、将門の乱の時と 同様に、反逆心を宿す武士の感情を結集しながら、その力を国家的反逆を追討する戦いに 収斂させ、またそれを通して「兵馬の権」樹立を目指す国家的反逆に従わせようとしての 行為であったことが見えてくる。』 『 道真怨霊は都で如何に王権守護神になろうとも、将門の乱を支えたという歴史の記憶 は容易に忘れられず、武士が表では朝廷に従いながら、地方から着々と実力を延ばしなが ら成長するという道を選んだ時、道真怨霊の記憶は再び息を吹き返して、以後長く、八幡 とセットで自らの感情を支えるものとなってゆくのである。』 『 道真怨霊を乗り切った王権は、すでに974年(天延2年) 園御霊会を主催し、以 後も、それをこえようとして今宮御霊会、船岡山御霊会などが誕生するたびに、これらを 抱き込み統合することに成功した。のちに朝廷は、御霊会のたびに御霊神の行列が内裏に 乱入するのを許し、その間天皇は方違(ほうたがえ)をするという約束事まで作り出し、 御霊会は王権の枠内であがくカーニバルに転化した。』 『 御霊会に始まり、道真怨霊=天神で跳梁を極め、 園御霊会でふたたび祭りの枠内に 終息してゆく怨霊信仰は、密教で統合された神仏習合の宗教運動であったゆえに、以上二 見たような幅広い振幅と柔軟性を備えた社会・政治運動でもあったのである。』 『 密教で武装された怨霊信仰が、醍醐を死に追いやり、将門の乱を正当化しても、王朝 国家を打倒できないことを知るに及んで、世俗レベルでは本来兼備していた王権擁護の面 を全面に出し、王権の精神的支柱であることを強く掲げるようになった。この結果、護国 の思想としての法華経と天台宗の勢いは真言宗を上回るほどに回復し、比叡山は顕教と密 教をともに具備した王権守護の霊山となっていった。』 『 武士と寺社が、王権に接近し、それを支える動きを積極的にとるようになれば、王朝 国家のもくろみはほぼ充全な形で実現されたことになる。』 『 こうして、怨霊信仰に触発されながら台頭してきた王朝国家は、そのエネルギーを全 面に放出させ、存分に跳梁させた上で、その成果をすべて吸収して換骨奪胎し、それを通 して自らの統治体制を完成の域にもっていったのである。』・・・と。 以上です。以上、御霊信仰の本質についての義江彰夫の考えを述べてきたが、このように 長々と述べてきたのは、御霊信仰の本質というものを理解することが、天皇の権威という ものを認識する上で極めて重要だと考えるからである。 1で述べたように、 御霊信仰とは、非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを慰和し てその祟りを免れ安穏を確保しようとする信仰であり、かつ、その祭祀が天皇の権威に基 づいて或いは背景として執り行われて文化化したものであり、私は、御霊信仰の三要素と して次の三項目を考えている。 1、非業の死を遂げた人の霊が存在すること。 2、天皇の権威に基づいて或いは背景として執り行われる呪力による祭祀が存在するこ と。 3、その祭祀が文化化され、国民の間に広く行われているお祭りが存在すること。 この御霊信仰の三要素の中でもっとも難しいが大事なのは3の文化化の問題である。天皇 の権威は、不比等によってその基礎が固められたが、その後、どのようにして確立して いったか? あらゆる知恵が動員され文化となっていったのである。もちろん、動員した のは朝廷である。私の考えでは、「天皇の権威の文化化」、それが御霊信仰である。この ような私の考えからすれば、御霊信仰の問題は「天皇の権威」に関わる問題であり、「天 皇の権威」というものを認識する上で、御霊信仰の本質を理解することは極めて重要であ る。そのような考えから、少々長くなったが、義江彰夫の考えを紹介した次第である。 ではこれから、御霊信仰の本質に関して、義江彰夫の考えを下敷きにして、私の考えを申 し述べることとしたい。 義江彰夫の御霊信仰の本質に関する歴史的考察は、以上長々と紹介してきた最後のフレー ズにその結論的なものがある。つまり、『 こうして、怨霊信仰に触発されながら台頭し てきた王朝国家は、そのエネルギーを全面に放出させ、存分に跳梁させた上で、その成果 をすべて吸収して換骨奪胎し、それを通して自らの統治体制を完成の域にもっていったの である。』・・・というのが、彼の認識の骨子である。 彼が言うように、王朝国家は怨霊信仰に触発されながら台頭してきたのである。そういう ことがなければ天皇の権威というものも完成しなかったと思う。 だとすれば、御霊信仰と天皇の権威というものは密接不可分に繋がっている。私は今まで 佐伯啓思の著書「正義の偽装」に基づいてわが国における民主主義のあり方や政治のあり 方を論じてきたが、天皇の権威に裏打ちされた日本の政治こそ世界に誇るべき統治形態で ある。そのような日本のあるべき統治形態の大前提である天皇の権威というものが、御霊 信仰と深く結びついて成長してきたとすれば、これからの日本のあるべき姿を考える上で 御霊信仰に対する深い認識がなければならないことは当然であろう。 また彼は、換骨奪胎という言葉を使っているが、要するに、天皇を中心とする朝廷は、 園御霊会などの民間のエネルギーをすべて吸収し、御霊会というものを文化としてのカー ニバル的祭りが行われるように仕向けてきたのである。 靖国問題は御霊信仰にもとづいて建立されたものであるが、これからの靖国神社のあり方 を考えた時、御霊信仰に関して歴史的に培われてきた日本国家としての知恵が生かされな ければならない。「天皇の権威の文化化」を図らなければならない。それが怨霊信仰の歴 史が教えるもっとも重要な点である。
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