第5章 秩父神社の大市について

第5章 秩父神社の大市について
第1節 市の始まり
園田稔さんの「マチ――日本的集落の構成原理に関するエッセイ」(季刊悠久第83号、
鶴岡八番宮悠久 事務局、平成12年10月)という論文をもとに、第3章「日本的集落
の構成原理」を書いた。今私がいちばん言いたいことは、「大市(大きな市)が成立する
ための基本的条件として地域の総鎮守としての立派な神社がある」ということだが、秩父
神社の大市について、これから順を追って説明していきたい。まずは「市の始まり」につ
いて、その論点をここに述べておきたい。それは次のとおりである。
『 21世紀に入り近代科学文明の世界化が問題になってきている今日、日本古来の精神
文化にふさわしいコミュニティづくりが重要だとする園田稔の研究 は実に貴重である。
そもそもの発想は柳田国男まで
るらしいのだが、私は、この園田稔の研究を十分取り入
れてこれからの町づくりの原則を固めなければなら ないと考えている。』
『 大畑原則というものも誕生しており、世界におけるサステイナブル・コミュニティの
動きも視野に入れながら、今こそ、私は、わが国らしい 町づくりを推進しなければなら
ないと考えている。』
『 かつて農村工学の神代雄一郎は、日本の風土や文化にふさわしい農村のコミュニティ
原理を発見するための実態調査を積み重ねるなかで、神社の祭礼において出現する氏神往
復の「神の道」こそが非日常的な〈宗教軸〉であって、この際にこれが 〈社会経済軸〉たる
「往還」と交錯する地点がいわゆる「ちまた(
=道股)」ともなって、そこに聖なる
「市」が立つコミュニティの中心が出現するという結論に達した。』
第2節 大市の条件
大市(大きな市)が成立するための基本的条件として地域の総鎮守としての立派な神社が
ある 。しかし、それだけでは市が賑やかになる訳ではない。商人の商いの目玉となるブ
ランド商品がなければならない。そのブランド商品が立派なものであればあるほど広域的
に商人を集めることができる。秩父神社の市の場合は、そのブランド商品が「秩父銘仙」
であったため、広域的に商人を集めることができ、大市となったのである。秩父神社の市
では、秦氏が神社の支援を得て大活躍をしたものと思われる。
なお念のため言っておくと、当時は養蚕、製糸、織りを秦氏が独占していたと思われるの
で、秦氏は巨万の富をえたものと思われる。それが秩父神社の発展に結びついたはずであ
る。先に述べたように、秦氏は、妙見信仰の元祖みたいなものであるから、秩父神社の妙
見信仰は、秩父平氏が妙見菩
を秩父神社に祀る 以前から始まっていたというのが私の
考えである。秦氏の妙見信仰は北辰信仰であったので、秩父神社の妙見信仰は、北辰信仰
から始まったのだと思われる。秦氏の妙見信仰は、元は、狼信仰と一体のものであった
が、妙見信仰の方は秩父神社に、狼信仰の方は三峰神社に、それぞれ受け継がれていっ
た。
第3節 秩父銘仙
「秩父銘仙(めいせん)」は、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術
を伝えたことが 起源と言われている。 その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも
高品質なものへと改良を重ね、 明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎える。
絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、表が色あせても裏を使って
仕立て直しができる利点がある。 女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和
初期にかけて全国的な人気を誇るようになったが、 特に独特のほぐし模様が人気を博し
たといわれている。 当時は養蚕業などを含めると市民の約七割が織物関係の仕事にかか
わっていたと言われており、まさに秩父地域の基幹産業であったわけである。
今でも、昔ながらの技は受け継がれており、 和服・ざぶとん・小物などが、秩父のお土産
品としてたいへん好評だが、和服の売れ行きがいまいちなので、私としては、秩父銘仙の
和服を着る人がもっともっと増えて欲しいと思っている。その芸術的なすばらしさについ
ては、次をご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/meisenno.pdf
秩父銘仙の歴史的価値と技術のすばらしさについては、かってNHKの特集番組で放送され
たことがあって、現在NHKオンデマンドで見ることができる。関心のある方は、是非、
NHKオンデマンドでそれをご覧いただきたい。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2013048517SA000/
第4節 秩父銘仙に関わる歴史的認識の要点
第3節では、「秩父銘仙(めいせん)は、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機
織の技術を伝えたことが 起源と言われている」と一般的な認識を紹介したのだが、実
は、第2節の「秩父神社の大市」のところで述べたように、正(ただ)しくは、崇神天皇
の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが 起源ではなくて、秦氏が
始めて、秦氏が普及さしたのである。もちろん、品質や柄などは現在のものよりずっと落
ちると思うけれど・・・。では、このあたりで、秩父銘仙に関わる歴史認識の要点を述べ
ておきたい。秩父銘仙については、私の論文「三峰神社の歴史的考察」の中で、次のよう
に述べた。すなわち、
『 秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維の内 で、
いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一族は無限を
富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫 (よろずはたひめ)を
勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社である。』
『 元慶2年(878年)に秩父神社が創建された。知々父へ赴任を命ぜられた 知々父
彦命が、当時の主要道である東山道を経て、毛の国から秩父盆地へ入国したのは、6世紀
以降。秦氏が秩父にやって来て、秩父銘仙が始まった頃には、すでに秩父神社はあった
し、国造(大和朝廷の権力者)はいた。秦氏は、大和朝廷に遠慮し、養蚕や秩父銘仙は知
知父彦命がもたらしたものと宣伝するとともに、秩父神社の神として祀ったのではない
か。あくまで秦一族は、歴史の陰に徹したようである。
秩父神社の公式ホームページには、「秩父銘仙(めいせん)は、崇神天皇の御代に知々夫
彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが 起源と言われています。」と書いてある
が、秩父銘仙は、9世紀∼10世紀頃、秦氏が秩父神社の力を借りて、秩父で始め、秩父
神社の市(いち)における目玉商品に仕立て上げたのである。以降、秩父銘仙は秩父の特
産品として有名になっていった。』・・・と。
第5節 蚕の社
私は、「三峰神社の歴史的考察」の第6章「三峰神社と修験道」第2節(2)「三峰山と
秦氏」の中で、『秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維
の内 で、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一
族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫 (よろずはた
ひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社であ
る。「蚕の社」については、私のかってのホームページ「桃源雲情」の「私の旅」の中に
「私と京都」というのがある。そこでは、『蚕の社も、秦氏ゆかりの神社で、松尾神社と
同様その歴史は誠に古い。蚕の社で遊び、大堰川で泳いで育った私である。』と書き、
「蚕の社」の説明をしているので、是非、クリックを続けてじっくりご覧いただきた
い。』と述べた。しかし、それ以上の詳しい説明はしなかったので、ここでは、秦氏と養
蚕ならびに秦氏と妙見信仰との関係について、詳しい説明をしておきたい。
まず、私のホームページ「秦(はた)と太秦(うずまさ)」をご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hatauzu1.pdf
そしてそのページの最後のところをクリックして欲しい。広隆寺の牛祭のページが出てく
るので、クリックを続けていると、摩多羅神(まだらしん)のことが出てくる。摩多羅神
は、慈覚大師の作り上げた神であり、天台宗の後戸(うしろど)の神であるが、この不思
議な神をひもといていくと、妙見信仰の「古層の神」であることが判る。そのことはすで
に、この章の第2節で詳しく説明した。したがって、読者の皆さんには、秦氏と養蚕との
関係、秦氏と慈覚大師の関係、秦氏と妙見信仰との関係を何となく直感していただけるの
ではないかと思う。
第6節 妙見信仰と狼信仰
私には「妙見信仰と狼信仰」という論考があるので、ここでこの際、その要点を紹介して
おきたい。その論考では次のように述べた。すなわち、
『 大昔の痕跡は、現在、昔話の中にその痕跡が残っているが、その過在をよくよく調べ
ながら妙見信仰につながる「古層の神」のことを考えた最初の人は柳田国男 であるらし
い。柳田国男によれば、山の人の妙見信仰が里に下りてきて狼を神のご眷属とする狼信仰
に変じたらしい。秩父地方では、今なお、狼を神のご眷属と して祀る信仰が息づいてい
る。』
『 千疋の狼の首領については、この種の説話ではほとんどの場合姥(うば)に化けて里
の人間社会に住んでいるのだが、狼が化けている場合と古猫が 化けている場合がある。
「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考で柳田国男の言いたいところは、そのような狼や
古猫は、化け物になったりする怖い動物ではあ るが人間社会に欠くことのできない益獣
でもあるが農業または養蚕などの被害をなくすためにそれらを祀るために狼の宮や猫の宮
を創るという事例も少なくない ということだ。そして、柳田国男のすごいところは、その
狼の宮や猫の宮と妙見山との位置関係を調べ、狼の宮や猫の宮における信仰が妙見信仰に
繋がっていることを見抜いたところだ。』
第7節 三峰神社の狼信仰の必然性
「山の民」が砂鉄を求めて何日も何日もかけて山を歩き回る場合に、欠かすことができな
いのは、方向の見定め方と食糧である。方向を見定めるいちばん確かなのは北極星を見る
ことであり、そのことから産鉄民の間には妙見信仰が広がる。また、山で食糧を得るため
の狩猟を行うには、「お犬さま」を連れて行かなければならない。三つ子の魂百までとい
うが、「お犬さま」を狩猟用に躾けるためには、子イヌの頃から大事に育てなければなら
ない。私は、「山の民」は、実際に「お犬さま」を子イヌの頃から大事に育てて、山に連
れて行ったと思う。
このようにして、奥秩父においては、妙見信仰と「お犬さま」信仰が広まったのではない
かと思われる。もちろん、「山の民」とは産鉄民だけでなく、樵(きこり)など山で働く
すべての人のことであるので、山また山の奥秩父において、妙見信仰と「お犬さま」信仰
がごく一般的な信仰となったのであって、その歴史は、縄文時代から連綿と続いてきたの
である。
その長い歴史の中で、三峰神社の公式ホームページにあるような、三峰神社が「観音院高
雲寺」と呼ばれる時代となり、天台修験の修験者・日光法印が御眷属信仰を広めていくの
である。「山の民」だけでなく、「里の民」も三峰神社のお札をいただいて「お犬さま」
の霊力によって、山畑を荒らす害獣熊・猪・
等を追い払い、火災や盗難その他の災難か
ら家々を守護してもらうことになる。この時点で、妙見信仰と「お犬さま」信仰とは切り
離されてしまうが、それは、天台修験の修験者・日光法印が御眷属信仰に絞って三峰神社
の信仰の基としたためである。
秩父神社の信仰の対象となっている武甲山はいわゆる霊山であり、秩父神社は里宮であ
る。だから大市も成り立つ訳であるが、三峰神社の方は、その境内に磐座(いわくら)を
有して修験の場ともなったし、「山の民」の生活の場でもあった。したがって、三峰神社
の方は、狼信仰に特化する必然性があったのである。秩父神社の妙見信仰と三峰神社の狼
信仰、現在、それぞれ落ち着くべきところに落ち着いているように思われる。
第8節 秩父における現在の妙見信仰について
現在の秩父神社における妙見信仰は、秩父夜祭の際に行われる一連の行事の中にその本質
を示していると思われる。
(1)妙見さんのお姿は、秩父神社の公式ホームページに掲載されている画像と同じよう
な霊符が今なお存在しており、それには北斗七星が描かれている。
(2)天王柱立て神事、石棒を思い出させ、私には縄文時代の祭祀に繋がっていると思わ
れる。柱立ての神事は、伊勢神宮、諏訪大社などに今なお見られるが、仏教寺院ではこの
ような神事は行われていない。マダラ神には北斗七星との密接な繋がりがあるが、天台宗
でも柱立て神事のような祭祀はない。
(3)秩父夜祭では、御旅所の玄武が大きな役割を果たしているが、玄武が大きな役割を
果たす祭祀は仏教寺院では見られない。京都の玄武神社は、正に玄武を祀る神社であり、
このことは、玄武というものが神社と馴染みがいいことを示している。
(4)秩父夜祭では、あらかじめ諏訪社の了解の下で始まる。そして、山車や屋台が諏訪
社の前を通る時は、諏訪社に敬意を払い、静々と通過する。これは、一般に語られている
神話の奥底に、諏訪大社の古層の神に対する敬意が秘められているのではないかと思われ
る。諏訪大社の古層の神とは、オソソ神である。このことからも、秩父夜祭はその奥底に
縄文時代の祭祀を引きずっており、秩父神社の祭祀が今なお神道の本流を歩いていると言
えるのである。
日本は神々の国である。仏はもちろん、他国の神も含めて、多くの神を祀っている。天皇
は祈る人である。私たちも、天皇に倣って日々祈らなければならない。秩父神社には、他
の神々と一緒に秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)が祭神として祀られて
いる。有難いことだ。私は、この神々の国、日本において、秩父神社は、古来、わが国の
信仰の本流を歩いてきたと思う。したがって、秩父神社は、これからも、全国の模範的な
神社として発展するであろう。そこで私は思うのだが、地域における神社の役割の内現在
はほとんど忘れ去られている市、その復活ができれば、それが大市でなくても、秩父神社
は全国の模範的な神社としてより光り輝くのではないか。秩父神社の発展と市の復活を心
からお祈りする次第である。
第9節 自問自答「秩父神社が行なう市について」
私は、第8節「秩父神社大市」で次のように述べた。すなわち、
『 日本は神々の国である。仏はもちろん、他国の神も含めて、多くの神を祀っている。
天皇は祈る人である。私たちも、天皇に倣って日々祈らなければならない。秩父神社に
は、他の神々と一緒に秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)が祭神として
祀られている。有難いことだ。私は、この神々の国、日本において、秩父神社は、古来、
わが国の信仰の本流を歩いてきたと思う。したがって、秩父神社は、これからも、全国の
模範的な神社として発展するであろう。そこで私は思うのだが、地域における神社の役割
の内現在はほとんど忘れ去られている市、その復活ができれば、それが大市でなくても、
秩父神社は全国の模範的な神社としてより光り輝くのではないか。秩父神社の発展と市の
復活を心からお祈りする次第である。 』・・・と述べたのである。
これは、今後とも秩父神社が祈る国日本の模範的な神社として今後とも発展することに大
いなる期待を示し、大市でなくて小さな市でも良いから、秩父地域の元気再生のため、何
らかの形の「市」が秩父神社の力によって開かれることに大きな期待を寄せたものであ
る。そこで、私は、ここで自問自答をしながら、これからの時代を先取りする、まったく
新しいタイプの「市」が開催できないかどうか、考えてみた。これは私のまったくユニー
クな提案である。如何にそれを進めるか、第6章でその説明をしていきたい。
現在は東京に行けば何でも手に入る。また、通販によって、自宅に居りながら大概のもの
が手に入る。市の存在価値はあるのか? これが私の抱くまず最初の疑問であるが、その
点をいろいろ考えてみた。その結果、「地域通貨による市」なら、現在の市場とはまった
く違うものであるし、そんなものは全国どこにもない。しかし、私は、地域通貨による市
は、これからの新しい日本を作り出す大変意義のある市であると考える。それは何故か?
そして地域通貨による市なんてものはいったいどんなものなのか? 誰もがそう思うだろ
う。それをこれから説明するが、はたしてみなさんにご理解いただけるかどうか、 はなは
だあやしいが、背一杯説明したい。
まず地域通貨であるが、この説明が難問であって、この地域通貨というもののご理解がい
ただければ、すべてご理解いただけると思う。では、次の第6章で地域通貨の説明をした
いと思う。