扇は女性のシンボルである! 盛大な祭りをやることによって、聖なる山「御手洗山」には天の神が降臨する。そして、 地の神「ホト神様」と交合することによって、山の幸、海の幸、豊穣がもたらされる。洲 崎神社の海岸ではそのような祭りが行われたに違いない。そういう「祭りの哲学」につい ては、以前に書いた文章があるので、それをこの際紹介しておくが、洲埼神社の祭りを考 える時、少し訂正しておかなければならない点がある。吉野ひろ子の扇を「ミテクラ」と 見なす見解は、それはそれで間違いないとして、扇というのはもっと広い概念で捉えない と洲埼神社で行われている祭りの本質を見誤ってしまうだろう。洲埼神社の場合は、吉野 ひろ子が言うように両手で持つから女性の象徴になっているのではなく、扇そのものが女 性の象徴になっているのである。もちろん、扇には他の多くの機能がありその使われ方は さまざまだが、神への祈りのため、女性のシンボルとして使われる場合があるということ だ。そのことを説明しようとするのがこのページである。 古代信仰に関して、吉 野裕子という人の素晴らしい研究がある。彼女には、「性」と古代 信仰の 関係を追求した・・・「扇」(昭和45年1月、学生社)という名著があるが、 私の小論文「七夕祭りの再魔術化」の中の第6項「祭 りの哲学」において、その骨子を 紹介した。すな わち、 『 蒲 葵(びろう)は、熊野那智の「扇祭り」をはじめ多くの神事の に一歩をすすめれば、古代日本の信仰の をとく を解く 、さら となるものではなかろうか。そうして 蒲葵がもし男性のそれを象徴するものとすれば、その次にくる問題はそ れがなぜ尊ばれ なければならなかったのか、ということになる。』 『 人間の生誕は女だけでは起こりえない。もし御嶽(うたき)の形が女陰を象どるも のならばそこにはかならず男性を象どるものがなければならないだろう。御嶽 における 男性の象徴がほかならぬ蒲葵だと思われる。御嶽の女性のそれを象どった空地「イビ」の スケールに見合った男性の象徴が蒲葵であった。』 『 神霊はニライの火の神に導かれて海を渡り御嶽(うたき)に迎えられる。そこには男 性を象徴する蒲葵と女性を象どるイビがある。神霊は男性の種として蒲葵に 憑依し、巫 女の力をかりてイビと交歓する。神霊を迎えた巫女は食を断ち、苦行にひとしい厳重な忌 みこもりをする。母のなかに芽生えた生命が永い期間、狭く 暗いところにじっと時がく るまで耐えしのんでいるように。そ うしてその時がくれば神は自らを、巫女そのもののな かに顕(あらわ)される。新生児が裸であると同様にみあれの神もおそらく裸形であろ う。あるいは神は小 児の姿をとられることもある。み あれの神には木の葉をあんだ笠と 白の神衣が奉(たてま)つられる。新 生児は産声をあげて誕生を知らせる。神のみあれ は鉦(かね)の音のひびきによって、かすかに遠く里人にも伝えられる。巨岩や森かげか ら出土する銅鐸は神の みあれを告げるものではなかったか。岩や森かげまた丘の傾斜地 は神のみあれに関係の深いところである。そこには御嶽(うたき)があったのだ。遠 い 森蔭から白く小さく神の姿は拝まれるが、神をこの目で見てはならないことになってい る。里に降りられる神を人々はひれ伏して迎える。あるいは 家にこもってこれを迎える。 こ れが古代の祭りだった。沖縄の島々に伝えられる祭りは多種多様であるが大筋はこう だと思う。』・・・・と。 吉野ひろ子は、沖縄の御嶽(うたき)の祭りについて思考を重ね、遂に、「ミテグラ」と いう言葉を思いつき、その一般的な意味を明らかにする。それによると、ひな祭りの女雛 が持つ扇は、両手で持ってこそ「ミテグラ」を形作るのだそうである。その「ミテグラ」 に神が降臨する。ちょっと判りにくいかもしれないので、そのことを判りやすく説明した ホームページが見つかったので、それをまず紹介しよう。 http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=51 それには、次のように説明されている。すなわち、 『 祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野ひろ子は二種類の意味があるといって いる。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神 聖な神降 臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの 形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。 だとすればお祭りで扇を 持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の 平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだに はさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児 が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。』・・・と。 また、「ミテグラ」については、『 クラは、U字形のくぼみ、あるいはV字形の谷間を 言うものです。磐座(いわくら)というものがありますが、十分な質量をもって存在する 岩の、深いくぼみが、霊界においては反転し、光の出口になっているのかもしれません。 ミテグラは手のクラです が、頭のクラが、アタマクラです。睡眠中の人間の頭が沈み込む マクラのくぼみは、霊界ではどのようになっているでしょうか。他に、アシクラ→あぐ ら、ムネ クラ→むなぐら、マタクラ→股ぐら、などがあります。ミテグラの場合には、手 のクラに、垂直に、扇や樹木の枝などを立てることに意味合いがあるそうです。』・・・ という説明をしているホームページもある。 http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=51 以上のような吉野ひろ子その他の説明を読んでいると、扇そのものが女性の象徴としての 意味があるというのではなく、女性が扇を両手で持って「ミテグラ」を作ってこそ意味が あると思えてくる。果たしてそうだろうか? 両手で持とうが持つまいが、神社に扇を奉 納したり、扇を使った踊りを神社に奉納すれば、神が降臨し、幸が齎されるのではなかろ うか。私としては、扇の多面的な価値を再認識したい。 実は、『 扇の多義性--四つの類型 (2.3MB)』という優れた研究論文( 高橋 貴)があっ て、その中で、高橋貴は、吉野ひろ子の功績を十分認めながらも、その足らざるところを 鋭く指摘している。彼は、「ご神体とされる扇は各地に見られる」と言っている。まった く高橋貴の言う通りであって、これからその説明をしたい。 中沢新一の「精霊の王」( 2003年11月、講談社)という本があって、その中に、 長野県辰野町沢底(さこそ)というところに、鎮大神社という小さな神社があって、中沢 新一がそこを訪れた記事が書かれている。その記事を読んで、早速そこに行ったことがあ る。随分前のことだが、当時、その様子をホームページにした。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enasinko.html そのホームページにも書いたが、中沢新一は、「精霊の王」( 2003年11月、講談 社)の中で、『 扇と言えば女性器の象徴でしょう。それに結びつけられている真綿の袋 と言えば、やっぱり胞衣でしょうなあ』・・・と言っているが、私は、 神 俗としては、扇は女性のシンボルとして広まっているのではないかと思う。 ではなく民 なお、宝登山(ほどさん)では、おみくじであるが、こんな風景もある。 宝登山(ほどさん)は、神社で言われている公式説明とは違って、本来は、ホトの山で あって、縄文時代は、洲埼神社と同じように、ホト神様が祀られていたのである。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hodosan.pdf
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