安房一の宮について 平成27年4月3日 国土政策研究会 会長 岩井國臣 安房一の宮 はじめに・・・何故安房に一宮が二つあるのか? ご承知のように、令制国(りょうせいこく)は、律令制に基づいて設置された日本の地方 行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本 の地理的区分の基本単位だった。その一覧は次をご覧いただきたい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD %E4%B8%80%E8%A6%A7 そして、その 令制国(りょうせいこく)における「一の宮」は、次をご覧いただきた い。 http://ichinomiya.gr.jp/ 一つの 令制国(りょうせいこく)に一の宮が二つあるのは珍しいが、安房の国以外にも ない訳ではない。しかし、私は、安房の一の宮である安房神社と洲埼神社のを論ずること は、神社というものの生い立ちを理解する上できわめて大事だと思うので、以下におい て、 「 安房にはなぜ二つの一の宮があるのか? そして、どちらの方がより古いのか? 」、そういったことを考えながら、旧石器時代または縄文時代の信仰形態が現在の神社に どのように繋がってきているのかを説明したい。 では、まず、安房神社と洲埼神社の公式ホームページをご覧いただきたい。 http://www1.ocn.ne.jp/ awajinja/ http://www.sunosaki.info/ 安房神社の由緒には、『 ■ 神代 安房神社の創始は、今から2670年以上も前に り、神武天皇が初 代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前 660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受 けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこ に麻や穀 (カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。 その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗 り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。 この時、天富命は上陸地である布良 浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされてお り、これが現在の安房神社の起源となります。 ■ 奈良時代 時代が下り養老元年(717年)になると、吾谷山(あづちやま)の麓である現在の場所に安房神社が遷座され、 それに伴い、天富命と天忍日命をお祭りする「下の宮」の社殿も併せて造営されました。 ■ 平安時代 平安時代には、『延喜式』の「神名帳」に記載された式内社(しきないしゃ)となり、その中でも特に霊験著 しい名神大社(みょうじんたいしゃ)として、国家から手厚い祭祀を受けておりました。またこの時代には、 「安房国一之宮」としても、広く一般庶民からの崇敬も集めています。因みに現在においても、安房国の一 之宮で有ることには変りありません。 ■ 近代・現代 明治時代になると、新たな社格制度が制定され、当社は「官幣大社」(かんぺいたいしゃ)という最高位の社 格を賜り、 昭和20年の大東亜戦争(太平洋戦争)終結まで、国家の管理下に置かれることとなっていました。 しかし終戦時に、GHQによる「神道指令」によって、当社を含め、それまでの社格制度は全て廃止されてし まいます。昭和21年には、戦後発足した神社本庁 (じんじゃほんちょう=全国の大多数の神社を包括する団 体)によって、神社の由緒や活動状況を考慮して、特に優れたお宮に定められる「別表神社」(べっぴょうじ んじゃ)の指定を受けることとなりました。それ以降、氏子の皆様は勿論のこと、日本全国の多くの崇敬者 の皆様に支えられて、現在に至っております。 』・・・と書かれている。 また、洲埼神社の由緒には、『 神武天皇の御代、 安房忌部一族の祖天富命が四国の忌部族を率いて 房総半島を開拓され、忌部の総祖神天太玉命を祀ったのが安房神社で、后神天比理刀咩命を祀ったのが当社 です。平安時代の延喜式神名帳に式内大社として后神天比理刀咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきの かみ)と称されていました。 治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総の地に逃れてきた源頼朝は、先ず当社に参籠し源氏の再興を 祈願し、寿永元年(1182)には妻北条政子の安産を祈願され広大な神田を寄進されました。 里見家よりの信仰も篤く七代義弘は社領五石を寄進。また徳川幕府も朱印状で安 している。 室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社 の前身と伝えられています。また東京湾をはさみ湾の 西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎する 神社が数社あり、また成田市鎮座熊野神社境内には、明和2年(1765)建立の「六十六社石碑」があ り、四方に一宮の社名が刻まれていますが、そこには安房国一宮として当社の社名が刻まれており、広く信 仰されていたことがうかがわれます。 江戸時代後期の文化9年(1797)房総の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主老中松平定信が当社に参詣し て「安房国一宮洲崎大明神」の 額を奉納されています。 』・・・と書かれている。 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、安房神社の他に全国において、天太玉命神社 (奈良県橿原市)、大麻比古神社(徳島県鳴門市)、大原神社(千葉県君津市)、洲崎大 神(神奈川県横浜市)、金札宮((京都府京都市)などで祀られている。 天太玉命(あめのふとだまのみこと) の妻である天乃比理刀咩命(あめのひりめのみこ と)を祀った神社は、洲埼神社の他全国に、東京都の品川神社しかない。 東京都には 天太玉命(あめのふとだまのみこと) を祀った神社はないので、 天太玉命 (あめのふとだまのみこと) と天乃比理刀咩命(あめのひりめのみこと)のお 二人を 祀った神社は安房しかないことになる。安房神社の他に洲崎神社を創建せざるを得ない事 情があったのではないか?その事情とは何か? 「安房一の宮」というこの論文では、その事情を探っていこうとするものである。 洲埼神社について 2007年頃の「劇場国家にっぽん」( http://www.kuniomi.gr.jp/geki/index2007.html ) の中に「和のスピリット」というのがあるが、その頃私は、中沢新一の「精霊の王」(2 003年11月、講談社)を勉強しながら書いた私の記録である。 ●和のスピリット ●中沢新一の「精霊の王」 ●胞衣(えな)信仰 ●柳田国男と胞衣(えな)信仰 ●中津川の胞衣(えな)伝説 ●安房口神社の ●洲崎神社の御神体 ●魅惑の女神たち ●「劇場国家にっぽん」と「いわき」 ●いわき大国魂神社 ●縄文・ミシャグチ・道祖神 ●土着的な曼陀羅の世界 ●鳥の巣あさり ●結婚の条件 ●人権問題と「劇場国家にっぽん」 ●スピリット ●太古の響き 日本の歴史の中で平安時代がいちばん平和な時代であったと言われている。平安時代のど こに平和の原理が隠されているのか? 当時、ちょうど平安遷都1200年ということも あって、私は, 平安時代のどこに平和の原理が隠されているのか・・・ そんな疑問を持 ちながら,「怨霊,妖怪,天狗」の勉強をはじめた。平安時代というのは,怨霊のうごめ く時代であった。多くの権力者が「呪い」におびえる時代であった。そういう時代がなぜ 歴史上いちばん平和な時代になったのか? その秘密は,どうも御霊神社がそうであるよ うに,「祈り」にあるようだと気がつきながら,私は、これから私の哲学の勉強をどう進 めていけば良いのか,はたと困ってしまった。そのような折に、 中沢新一の「精霊の王」 (2003年11月、講談社)の勉強をしながら、「劇場国家にっぽん」のおいて、「和 のスピリット」というページを作ったのであった。 これらの内、私の思考を深めたのは、洲埼神社を訪れたことがひとつのきっかけになっ た。私はひょんなきっかけから洲埼神社を訪れた。そして、私は、洲埼神社を訪れたあ と、「安房口神社の謎」という小論文を書いた。そこでは次のように書いたのである。 館山市立博物館で行なわれた平成14年2月の企画展「鏡が浦をめぐる歴史」の展示図 録No14によれば、竜宮から安房の洲崎大明神へ奉納された二 つの石のひとつがこの三 浦半島に飛来したという。また、その資料によれば、口のようなくぼみをもった石の正面 が、安房の方を向いていることから安房口神社 というだが、何だかよく判らない説明 だ。説明になっていないようであるので、おいおい私の説明をしたいと思う。 ここでは、竜宮から安房の洲崎大明神へ奉納されたという二つの石のもうひとつの石に ついて触れておきたい。もうひとつは、洲崎神社の浜の鳥居の下 の海岸にあるのだが、先 の資料によれば、三浦半島の石と房総半島の石とは「阿吽(あうん)」で対になっている のだという。まずは、その御神体を見てみよ う。 洲崎神社の御神体は、浜の鳥居の下の海岸にある。 県道から神社の反対側、海岸の方に降りていく。 まもなく、鳥居の向こうにそれがある。 海は難所になっていて、神社は船の守神になっている。 [海を見る] [山を見る] 館山市博物館の資料によれば、三浦半島の石と房総半島の石とは「阿吽(あうん)」 で対になっているのだという。二つの御神体はまちがいなく女陰で あるが、それがなぜ 「阿吽(あうん)」で対なのであろうか。確かに女陰は男根の入り口である。口であるの なら「阿吽(あうん)」があっても不思議はない。 う∼ん、確かにそうかもしれない が・・・、それにしても、安房口の説明としてはちょっと・・・??? 二つの御神体が「阿吽(あうん)」で対だとしても、安房口の説明は別に考えるべきだ と思う。なぜ安房口なのか?なぜ三浦半島のあの場所が安房の入り口なのか??? まず、わが国の歴史観として、縄文時代は東北が中心で、西に行くほど文化は低かっ た・・・という認識が必要である。その判りやすい例が津軽の三内丸山文化で ある。人 びとの交易は相当広範囲に行なわれていたのであって、大和朝廷が東北へ勢力と拡大する 頃、つまりヤマトタケルノミコトが東征をする頃は、すでに各 地に豪族がいたと考えられ ている。もちろん、大和朝廷の関係者が移住をして勢力を蓄えるものも出てきたであろう し、大和朝廷の武人が地方の豪族を制圧する という例もあったであろう。しかし、大和 朝廷の東征によって東北の文化がはじめて芽生えたなどと考えてはならない。とんでもな い勘違いである。縄文文化、 とりわけ東北文化については、中沢新一のいう「環太平洋 の環」という脈絡の中で考えるべきであって、大和朝廷との関係だけに矮小化して考えて はならないの である。 上の図は、7世紀の始め、ヤマトタケルノミコトが東征した道筋である。房総半島には 「走り水」から船でわたった。房総半島の往来は、江戸が発展す るにつれて、次第次第に ヤマトタケルノミコトの通った道筋とは逆になっていくのだが、東海道ができた当初は、 房総半島には「走り水」から船でわたったので ある。つまり、「走り水」というの8世 紀ぐらいまでは東海道における海運の要衝であったのである。 大和朝廷の東征は、鎌倉、安房、筑波、石城・・・と次第次第に北に向うのだが、その 進展というものを考える場合、黒潮の流れとそれを巧みに利用した航海技術を抜きには考 えられない。黒潮の流れを考えた場合、いちばん難しいのは東京湾以北であって、まかり 間違えばアメリカ大陸に行ってしまう。 したがって、安房の海人の存在というものは実に大きかったのではないか・・・。要 は、安房である。その安房における海の守神が、洲崎の神である。 すなわち、安房神社 の神・天太玉命(あまのふとたまのみこと)の妻である天火乃理刀姫(あめのひととめひ め)である。そして、その御神体が・・・安房口神社や洲崎神社における・・・あの「阿 吽(あうん)」の対・二つの女性シンボルである。 先にも紹介した・・・館山市立博物館で行なわれた平成14年2月の企画展「鏡が浦を めぐる歴史」の展示図録No14によれば、安房に祀られている 神仏の中で特異な信仰の 広がりを見せたのが、洲崎神社であった。航海神としての信仰が、中世東京湾内に広がっ た。「永享記」という記録には、室町時代の末 に江戸城を築いた太田道灌(どうかん) が江戸神田に安房の洲崎明神を祀ったことが書かれているし、横浜や品川にも洲崎明神が 祀られたことを伝えている。ま た、三浦市城が島の安房崎にも洲御前(すのみさき)社が ある。 また、南総里見八犬伝で有名な里見氏は、房総半島に君臨したが、その力の源は・・・ どうも東京湾の支配にあったらしい。 これらのことを勘案すると、安房というところは、古代から近代に至るまで、東京湾以 北の海運を牛耳る・・・誠に大事な「場所」であったことが知れるのである。そして、そ の要所が洲埼神社のあるところであり、その守神が天火乃理刀姫(あめのひととめひめ) という女神であったことが判る。 ここで私の論点を整理しておこう。 1、 わが国の歴史観として、縄文時代は東北が中心で、西に行くほど文化は低かっ た・・・という認識が必要である。 2、大和朝廷の東征によって東北の文化がはじめて芽生えたなどと考えてはならない。と んでもない勘違いである。縄文文化、 とりわけ東北文化については、中沢新一のいう「環 太平洋の環」という脈絡の中で考えるべきであって、大和朝廷との関係だけに矮小化して 考えてはならないの である。 3、安房というところは、古代から近代に至るまで、東京湾以北の海運を牛耳る・・・誠 に大事な「場所」であったことが知れるのである。そして、その要所が洲埼神社のあると ころであり、その守神が天火乃理刀姫(あめのひととめひめ)という女神であったことが 判る。 大和朝廷の東征はおろかもっともっと古い時代から、東京湾以北の海運はあった。だとす れば、洲埼神社の歴史は、旧石器時代または縄文時代から論じなければならない。それが 私の考えであって、以下において、その点をご説明するが、まずは、私がひょんなきっか けから洲埼神社を訪れた、そのことから始めたい。今から思えば、神の思し召しとしか言 いようがない。 私は、全国一の宮の巡礼をやっていて、ポケットサイズの本「諸国一宮」を愛読してい た。そこで眼についたのが、次のような記事であった。 安房一の宮「洲埼神社」は、館山駅から洲の崎灯台・安房白浜行のバスで洲の崎灯台で下 りる。道路は北から南に通じて周囲にはお花畑が散在し、灯台のある洲崎には鉈切洞窟が ある。道を海岸の方に下ると洲崎神社のある御手洗山の森が左に見え、右は海岸である。 土地では「すのさき」と呼んでいる。神社の前の道路をへだてて鳥居が 海に向かって立っ ている。遥か沖には大島の御神火の煙が見え、目を転じると三浦半島が見える。その海は 黒潮の流れる太平洋である。 社殿は御手洗山の中腹にある。御手洗山は古代から を入れたことのない自然林である が、御神体山として古代信仰の聖域となっていたからで、極相林の典型 的なものとして千 葉県天然記念物に指定されている。神域であるから自然林が保存されてきた。高い石段を 登って行くと社殿である。参拝して背後を振りかえる と太平洋の壮大な風景が展開してい る。 私が注目したのは、「社殿は御手洗山の中腹にある。御手洗山は古代から を入れたこと のない自然林であるが、御神体山として古代信仰の聖域となっていた」という部分であっ て、山そのものがご神体になっているというのは、相当に古い歴史があると直観したので ある。 洲埼神社前方の海岸から御手洗山を見る 洲埼神社の本殿の背後に見えるのが御手洗山 実は、御神体山とは別に、洲崎神社の御神体が浜の鳥居の下の海岸にもあって、私はそれ を探しに、県道から神社の反対側、海岸の方に降りて行った。二度目に洲埼神社を訪れた 時である。 私は最初に洲埼神社を訪れたあと、洲埼神社の姉妹のような神社が横須賀にもあることを 知り、そこを訪れた。安房口神社である。そして、安房口神社のことを書いたのだが、そ のページで、私は、次のように述べた。すなわち、 『 館山市立博物館で行なわれた平成14年2月の企画展「鏡が浦をめぐる歴史」の展示 図録No14によれば、竜宮から安房の洲崎大明神へ奉納された二 つの石のひとつがこの 三浦半島に飛来したという。また、その資料によれば、口のようなくぼみをもった石の正 面が、安房の方を向いていることから安房口神社 というだが、何だかよく判らない説明 だ。説明になっていないようであるので、おいおい私の説明をしたいと思う。 ここでは、竜宮から安房の洲崎大明神へ奉納されたという二つの石のもうひとつの石に ついて触れておきたい。もうひとつは、洲崎神社の浜の鳥居の下 の海岸にあるのだが、先 の資料によれば、三浦半島の石と房総半島の石とは「阿吽(あうん)」で対になっている のだという。』・・・と。 三浦半島の石というのは、安房口神社のご神体になっている次の石である。 これが対になっている石が洲埼神社のもあるという。女性シンボルがご神体となっている 二つの石。安房口神社と洲埼神社の・・・二つの御神体。 館山市立博物館で行なわれた平成14年2月の企画展「鏡が浦をめぐる歴史」の展示図録 No14ではそう説明されている。そこで私は、安房口神社のご神体を確認した後、再 び、洲埼神社を訪れ、女性シンボルがご神体となっている片方の石をは探し回ったのであ る。 洲埼神社の本殿あたりを探し回ってもそれらしきものは見当たらない。県道の向こう側、 海岸が怪しい。通常、鳥居は参道にある。洲埼神社の場合は、本殿とは別に、海岸にもあ る。ひょっとしたら、その先に、女性シンボルがご神体となっている石があるのではない か? あった、あった。あれがそうかもしれない。 そうだ、これがご神体だ。海に向けてのホト神様、これがご神体に違いない! これが洲埼神社の祭神「天火乃理刀姫(あめのひととめひめ)」を象徴するホト神様であ り、安房口神社のホト神様と対になっているのである。房総半島と三浦半島の両方で、こ の二人のホト神様が東京湾における航海の安全を守っているのである。 そして、洲埼神社のホト神様は、東京湾のみならず太平洋における航海の安全を守ってい る。洲埼神社の祭神「天火乃理刀姫(あめのひととめひめ)という神はそういう神であ る。 では、以下において、 洲埼神社の祭神「天火乃理刀姫(あめのひととめひめ)が太平洋 における航海の安全を守っている神なのか、そのことに少し触れておこう。 古来、漁業で働く海の男たちは、岬信仰という信仰を持っていた。その岬信仰について は、判りやすく説明しているホームページがある。 http://www.miyapedia.com/index.php?title=%E5%B2%AC%E4%BF%A1%E4%BB%B0 それには次のように説明している。すなわち、 『 漁船が風に頼って航行していた時代は沖合に出る距離も限られていた。そんな時代、 漁師たちは沖合から陸地を見て己の位置を確認しながら漁をしていた。その 際の目印に なったのが岬であり、岬や目印の山が視界から消える付近より沖合を他界としていた。他 界とはあの世でありそれ以上陸地を離れることは死を意味し た。板子一枚下は地 獄・・・の例えの如く古来より漁師たちは危険と隣り合わせで魚を捕るのが生業であっ た。胴の間に魚を満載するほど大漁しても一寸先は闇、 風を読めなければ帰港はおろか 身の安全さえも危ぶまれるのであった。そんな沖合での漁を終え帰港する時、母港の見慣 れた岬を目指し、その入り江に入ることは何よりの安 であった。そのような経緯から岬 そのものが信仰対象となり後(のち)に何らかの信仰媒体を祀るようになって神社などへ と信仰が展開してゆく。これら の神社は土地によって様々な名前になっているがどれも大 漁と海上安全を約束する神社だ。』・・・と。 そして、洲埼神社に関連するものとして、次のようなホームページがあるので、これらを じっくり読んでもらいたい。 http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0014&strID_Page=004&strID_Section=02 http://www.mboso-etoko.jp/ttbako/11.html これらの要点をかいつまんで説明すると、洲埼神社の少し北、洲の埼灯台のある岬が洲の 埼岬だが、それを東京湾の方に回り込んだところが館山湾である。館山湾は浪穏やかな湾 であるので、別名を鏡湾と言い、古来、港として利用されてきた。館山湾周辺は縄文時代 からかなりの人が住んでいたらしく、その歴史は相当古いようだ。縄文時代から、洲の埼 岬が漁業を営む海の男たちの岬信仰の対象になっていたことは間違いなかろう。 しかし、洲の埼岬は、その土地の人たちだけの信仰対象にとどまらず、太平洋を行き来す る縄文商人にとっても、大事な目印であったに違いない。 私は、「山他国と古代史の最新」という論文の第1章にも書いたが、 縄文時代後期、東 海地方から北海道まで東日本全域に大流行したのは「ベンケイガイ」製の貝輪である。愛 知・千葉・秋田・北海道などには、貝輪づくりを専門にしていたムラも現れるようだ。 ベンケイガイは、房総半島から九州までに分布する。それが秋田や北海道に運ばれている のだ。 また、 昭和23年に調査された館山市稲原貝塚から、イルカの骨にささった黒曜石製の銛 先が出土している。黒曜石は、利器を製作する材料に適しており、その刃部 の鋭利さは他 の石材を優越する。産地は限られ、信州の和田峠、伊豆の箱根・天城、神津島などがよく 知られている。安房地方の13遺跡で出土した19点の黒曜石の産地同定を行った結果、18店 が神津島産であることがわかった。安房と神津島は黒曜石という物質で結ばれていたこと の一端がうかがえる。 さらに、京都大学の藁科哲男という人の研究論文によると、次のように書かれている。す なわち、 『 北地方、青森県下では、25遺跡からの114点の黒曜石遺物の産地分析を行った結果、 三沢市の根井沼遺跡の繩文早期の3点には、伊豆諸島の神津島 産黒曜石が使用されている ことが明らかになり、古代の活動とか交易の広さに驚かされる。沿岸部に位置する遺跡 で、北海道、秋田県、東京都の神津島などの黒 曜石が見られることから、海路を利用して 遠距離伝播したように推測される。内部部の遺跡からは、これら遠距離伝播の原石は見ら れず、沿岸部の遺跡が他地域 との交流を積極的に行っていたと推論できるであろ う。』・・・と。 これらのことから、太平洋の「海の道」は、西日本だけでなく、東日本にもあったことは 間違いない。したがって、東日本の「海の道」を行き来する人たち、これらの人たちは交 易のために活躍した縄文商人であるが、これらの人たちは 、洲の埼岬を大事な目印とし たのである。太平洋を航海していて、最初に眼につくのが洲埼神社の背後の「御手洗山」 であって、それをご神体として祈りを捧げたのではなかろうか。地元の漁師の岬信仰と合 体して、「洲埼神社」の原型が形作られた、私はそのように考えている。洲埼神社の祭神 「天火乃理刀姫(あめのひととめひめ)」の元の姿「ホト神様」が太平洋における航海の 安全を守っている神であった。それが神社の形をとるのはずっと後年のことであって、後 年、 天太玉命(あめのふとだまのみこと)を主祭神とする安房一の宮が創建されたとき に、洲埼神社も同時に創建されたのである。 盛大な祭りをやることによって、聖なる山「御手洗山」には天の神が降臨する。そして、 地の神「ホト神様」と交合することによって、山の幸、海の幸、豊穣がもたらされる。洲 崎神社の海岸ではそのような祭りが行われたに違いない。そういう「祭りの哲学」につい ては、以前に書いた文章があるので、それをこの際紹介しておくが、洲埼神社の祭りを考 える時、少し訂正しておかなければならない点がある。吉野ひろ子の扇を「ミテクラ」と 見なす見解は、それはそれで間違いないとして、扇というのはもっと広い概念で捉えない と洲埼神社で行われている祭りの本質を見誤ってしまうだろう。洲埼神社の場合は、吉野 ひろ子が言うように両手で持つから女性の象徴になっているのではなく、扇そのものが女 性の象徴になっているのである。もちろん、扇には他の多くの機能がありその使われ方は さまざまだが、神への祈りのため、女性のシンボルとして使われる場合があるということ だ。そのことを説明したのが次のページである。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ougiha.pdf では、洲埼神社の祭りで奉納される「かしま踊り」について、触れておきたい。 洲埼神社の「かしま踊り」は、昭和36(1961)年に千葉県指定文化財となり、昭和48 (1973)年には国の無形文化財なった。洲崎神社例大祭の8月21日と2月の初午に、弥勒踊 りと鹿島踊りが奉納される。 これは弥勒踊り。 弥勒踊りでは右手に扇子、 左手にオンベと呼ばれる幣束を持って肩に担ぎ、 豊富な振りと動きで踊る。 ( http://tateyamals.blogspot.jp/2012/10/59.html より) これは「かしま踊り」 かしま踊りでは 扇のみを使い、単調な振りで踊る。 ( http://tateyamals.blogspot.jp/2012/10/59.html より) ( http://tateyamals.blogspot.jp/2013/08/821.html より) ( http://ameblo.jp/nanao320/entry-10993522405.html より) ( http://ameblo.jp/nanao320/entry-10993522405.html より) これは弥勒踊りの一幕。 左手にもっているのは「オンベ』といわれる御幣。 弥勒踊りでは 2月の初午のときは青竹にサカキと五色の幣束をつけたオンベ(御幣)を、 また8月の例祭では木に白い幣束と鏡をつけたオンベを持って踊る ( http://blogs.yahoo.co.jp/kara084/33375439.html より) このオンベは何を意味しているか? 私の考えでは、男性のシンボルを表しているのでは ないかと思う。扇は女性にシンボルである。それらが対になっているのは、お雛さんで男 雛が笏を持ち、女雛が扇を持っているのと同じように、また縄文時代の祈りが男性のシン ボル「石棒」と女性のシンボル「炉」からなっているのと同じように、神が多くの幸(さ ち)をもたらしてくれることを祈っているのではないか。縄文時代の幸とは豊穣であり、 ひな祭りでは女の子の幸せであるし、洲埼の場合は、地域の人びとの幸せと豊穣である。 海上安全が含まれているかもしれない。 鹿島踊りは、 歴史的に本来別系統の弥勒踊り(みろくおどり)と混合・融合しており、 その純粋な起源はもう判らなくなっている。すなわち、鹿島踊りは、弥勒菩 の下生信 仰、とりわけ東の海上から弥勒船がやってくるという民間信仰から発生した弥勒踊りと混 合・融合してもおり、純粋に鹿島踊りのみにその起源を求めようとするのには無理がある のである。 なお、鹿島踊りの起源については、柳田国男が、著書『海上の道』において、これらと沖 縄・八重山諸島に存在する類似信仰とのつながりを模索しており、その後の研究もあるの で、この際、その研究を紹介しておきたい。 沖縄大学・須藤義人の研究に「琉球諸島における「弥勒神」の図像学的研究」というのが ある。 https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2010/seika/mext/38002/20720050seika.pdf その要点は、次の通りである。すなわち、 『 柳田國男の「海上の道」というコンセプトは、一九二〇年から二一年にかけて、九州 の東海岸から奄美諸島・沖縄本島・宮古諸島・八重山諸島を旅行した時の紀行文と論考 を、『海上の道』や『海南小記』の中で固定化していった概念である。「弥勒節」も日本 文化の北上説を補論する要素として捉えられている。房総・相模・伊豆の海岸地帯でも、 稲の稔りを運ぶ「ミロク歌」や「鹿島踊り」が伝承されていることを踏まえれば、日本本 土の弥勒信仰との相互関係も考察しなければなるまい。なぜなら、八重山から遥か二〇〇 〇キロメートル離れた本州にも、ミルクに纏わる歌謡として「ミロク歌」が残っているか らである。それは茨城県の鹿島地方においてであるが、ここでの「ミロク歌」や「ミロク 踊り」では、〈弥勒の船〉が鹿島灘に到来する...と歌われている。この「ミロク歌」は他 にも本州太平洋岸に点在している。 柳田は、「海上の道」の根拠の一つとして記述しており、八重山から稲作が北上し、黒潮 の流れに乗って伝わった証拠とも考えた。この仮説は、黒潮に育まれた人々の〈南方の 島々〉への憧憬でもあり、「原日本人」の〈常民〉としての他界観を言語化したものであ るとは言えまいか。まさに「海上の道」の概念は、八重山に伝わる「南波照間島(パイパ ティローマ)」伝説の影響を受け、そのコスモロジーを導入して成立したのである。 時代的な前後関係や日本本土における弥勒信仰との関係から考察すると、「ミロク踊り」 が直に八重山諸島から伝わったことについては疑問視されている。しかし、黒潮の流れと 「ミロク歌」の伝播には何らかの関係があることは否定できない。この解明には、ミルク という仮面神に籠められた二つの海上信仰が、キーワードとして重要となってくる。それ は「弥勒信仰」と「補陀洛信仰」である。 来訪神信仰と他界信仰が融合した「ミルク信仰」は、日本本土の「弥勒信仰」や熊野の 「補陀洛信仰」から、大きな影響を受けているのは間違いない。 以上のように「ミルク神」というマレビトのルーツが諸説乱立しているのだが、これは一 体どういうことなのであろうか。台湾やベトナムにおいては現在もミルク仮面が出現する のを鑑みるに、八重山一帯に分布するミルク仮面群は、琉球弧から〈海洋アジア〉へと繋 がっていく〈黒潮文化〉の一つの表象であったとは言えまいか。 八重山諸島においてミルク神は女性として扱われ、子孫を引き連れ行列してくるモティー フがミルク芸能で再現される。しかし、ミルク神の扮装は中国南東部の弥勒菩薩と似てお り、禅僧をモデルとしている可能性が高い。確かに、弥勒菩薩信仰は、歴史上の人物であ る布袋和尚が崇められるようになったという経緯を辿っており、その元型は男性の聖者が 神格化されたもの...という見方が優勢である。 ところが、本田安次が著した『沖縄の祭と芸能』の記述にもあるように、鳩間島の豊年祭 では、過去においては仮面が着用されておらず、青い着物をまとい、クバの葉を頭から 被ったミルク神が出現していたという調査報告もある。これは、ミルクの存在が、仮面が 伝播される以前において、「アカマタ・クロマタ」のような草荘神であったことを意味す る。ミルク神の神格を定義する上で、男神か、女神かは明確に区別できないが、プリミ ティブな意味で、両性的な自然神であると言えよう。 これらを踏まえれば、琉球弧のミルク神は、外見上は中国南東部の弥勒菩薩であるが、観 念的には日本本土の弥勒信仰と深く結びついている...という重層的な存在であることが分 かる。そして元々のかたちは、両性的な豊穣神であり、アニミズム(自然崇拝)に基づい た草壮神であった。「ミルク芸能」に関しては、仮面や扮装に限って考察すれば、中国南 部や東南アジアの系統に属するという見方ができる。そして、海上信仰と来訪神信仰が混 交した「ミルク信仰」は、日本本土の影響を受けて成立したと考えられる。つまり、中国 伝播説と日本本土伝播説が折衷された視点から、アニミズムの要素をまとった「ミルク信 仰」として捉えるのが妥当ではなかろうか。 沖縄本島では、ミルク神は那覇市首里に伝えられているが、とりわけ旧赤田村のミルク祭 祀は有名である。そのミルク祭祀は「弥勒御迎え」(ミルクウンケー)と呼ばれ、旧暦七 月十六日に出現し、集落内を練り歩く。「御迎え」(ウンケー)と言われているように、 来訪神(マレビト)として島人に迎え入れられている。かつてミルク仮面は、赤田にあっ た「首里殿内(スンドゥンチ)」(女性神官の屋敷)に祀られていた。旧盆の後に、ミル クを先頭にした行列が集落内を練り歩き、豊穣、健康、繁栄を祈願したという。その時に 「赤田首里殿内」(アカタスンドゥンチ)という節が歌われる。この歌は現在わらべ歌と して親しまれているが、その旋律は途中まで「ミルク節」と全く同じである。ミルク神の 形すがたについては既に述べたように、赤田の神も着物をはだけて太鼓腹を見せ、福々し い表情の仮面を着けている。琉球弧で見られるミルク仮面は、七福神の布袋の姿をしてお り、日本本土(ヤマト)でみられる弥勒仏とは全くかけ離れた容姿をしている。これに関 しては、琉球弧のミルク神の風貌が、日本本土経由ではなく、布袋和尚を弥勒菩薩の化生 と考える中国南部の弥勒信仰に強い影響を受けた...という見方ができるであろう。歴史的 には、布袋和尚は中国に実在した人物と考えられ、唐末期、宋、元、元末期の四人の僧が 「布袋」として崇められている。その姿は、大きな腹をし、大きな布袋をかついで杖をつ き、各地を放浪したと言い伝えられている。このような弥勒信仰は、中国南部から、イン ドシナ半島にある安南にも広まった。さらには琉球弧にも伝播し、もともと伝来していた 仏教観やニライカナイ信仰と結びついて、「ミルク神は豊穣をもたらす来訪神(マレビ ト)」と信じられるようになったという見解もある。 弥勒世〉(ミルクユー)とは「過去にあった理想的な豊穣の世の中」という意味であり、 島人たちが「神遊び」をする祭祀の中で、その様子を再現したのが「ミルク踊り」である と考えられる。これを踏まえれば、「ミルク踊り」とは、理想的な時空を再現するという 祭礼の本質を表したものである...と言えよう。弥勒菩薩の元来の役割は、釈迦入滅後56億 7000万年後にこの世に現れ、竜華三会の説法によって釈迦の救いから漏れた人を救う... という未来志向の来訪神信仰である。ミルク信仰は、仏教的要素を取り込むかたちで習合 し、成熟していったのである。琉球弧には多くのマレビト芸能があるが、豊饒をもたらす ミルク神を演じた「ミルク芸能」のように、「フェーヌシマ」も来訪神や異人のなす業と して崇めていたのかもしれない。結願祭や豊年祭などの季節の変り目に、異様な姿に扮し た踊り手たちは「ミルク芸能」や「フェーヌシマ」を奉納し、神々をもてなすために踊っ ていた...とは言えないであろうか。 弥勒芸能を図像学の視点から体系化するために、来訪神信仰に関する資料収集と調査を 行ってきた。弥勒芸能は「マレビト芸能」の一種であり、他の来訪神(マレビト)を表象 する仮面芸能との比較研究を進め、その成果を『マレビト芸能の発生』(芙蓉書房出版) という研究書にまとめた。』・・・である。 日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行した。弥勒を穀霊と し、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強いであるが、こ の観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、「弥勒踊り」などの形で 太平洋沿岸部に展開したのである。 洲埼神社の「弥勒踊り」と「かしま踊り」は、間違いなく黒潮文化圏の祭りである。 安房神社について 1、安房神社の歴史について まず、安房神社の公式ホームページをご覧いただきたい。 http://www1.ocn.ne.jp/ awajinja/ 安房神社の由緒には、 『 ■ 神代 安房神社の創始は、今から2670年以上も前に り、神武天皇が初代の天皇と して御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前 660年)と伝えられております。神武天皇の御命 令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島 県)に上陸、そこ に麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。 その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れ て海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。 こ の時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖 にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源とな ります。 ■ 奈良時代 時代が下り養老元年(717年)になると、吾谷山(あづちやま)の麓である現在の場所に安房 神社が遷座され、それに伴い、天富命と天忍日命をお祭りする「下の宮」の社殿も併せて 造営されました。 ■ 平安時代 平安時代には、『延喜式』の「神名帳」に記載された式内社(しきないしゃ)となり、その 中でも特に霊験著しい名神大社(みょうじんたいしゃ)として、国家から手厚い祭祀を受け ておりました。またこの時代には、「安房国一之宮」としても、広く一般庶民からの崇敬 も集めています。因みに現在においても、安房国の一之宮で有ることには変りありませ ん。 ■ 近代・現代 明治時代になると、新たな社格制度が制定され、当社は「官幣大社」(かんぺいたいしゃ) という最高位の社格を賜り、 昭和20年の大東亜戦争(太平洋戦争)終結まで、国家の管理下 に置かれることとなっていました。 しかし終戦時に、GHQによる「神道指令」によっ て、当社を含め、それまでの社格制度は全て廃止されてしまいます。昭和21年には、戦後 発足した神社本庁 (じんじゃほんちょう=全国の大多数の神社を包括する団体)によって、 神社の由緒や活動状況を考慮して、特に優れたお宮に定められる別表神社(べっぴょうじ んじゃ)の指定を受けることとなりました。それ以降、氏子の皆様は勿論のこと、日本全 国の多くの崇敬者の皆様に支えられて、現在に至っております。 』・・・と書かれてい る。 では、安房神社の主祭神・ 天太玉命(あめのふとだまのみこと)という神はどういう神 であろうか? 出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊尊(たかみむす び)の子と記されている。岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための 策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。 そして、八 尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、 アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、アメノコヤネとともにその前に鏡を差し出し た。天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴 した。『日本書紀』の一書では、アメノコヤネと共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮) の守護神になるよう命じられたとも書かれている。 太玉命(ふとだまのみこと)の孫に天富命 (あめのとみのみこと)という人がいる。その天 富命 (あめのとみのみこと)は、神武天皇のため橿原(かしはら)の御殿をつくったと言わ れているが、 神武天皇の御代に、神武天皇の御命令を受けられ、大和朝廷の勢力拡大の ため、最初は阿波国(現徳島県)に移り住んだ。その後、やはり神武天皇の命により、安房 に移住して、麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められた。つまり、 天太 玉命(あめのふとだまのみこと)は、安房開拓の神・天富命 (あめのとみのみこと)の 祖父なのである。 安房神社の主祭神・ 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は安房とは直接の関係はな く、実際に安房の国を開拓したのはその孫・天富命 (あめのとみのみこと)である。 では、ここらで房総半島の古代の歴史を少しお話しておきたい。房総半島が大和朝廷の勢 力下におかれるのは、 天富命 (あめのとみのみこと)の力によるところが大きい。で は、房総半島が大和朝廷の勢力下におかれるまでの歴史を概観しておきたいのだ。 天富 命 (あめのとみのみこと)を理解するための参考にしてもらいたい。 房総の最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。 千葉県の旧石器時代の人々は、古鬼怒川沿いに石器の原材料を求め北は高原山から南は房 総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら生活を営み、主 な狩場である常総台地ではナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活を営ん でいたと考えられている。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進 化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代 の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層等から発見された。千葉県には、石器の原 料となる産地が乏しく、高原山や甲信地方の中央高地などから運ばれたと考えられてい る。千葉県の旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されており、県北部の台地に多 い。 縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300 か所[28]を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の 宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644 か所ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地に は、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察する ことができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘された ハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。 弥生時代、農耕社会に入ると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、 生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年 (昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地 にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれてい たと推測されている。 弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の 環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の 北に大型住居を伴ったムラが作られ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。 こうした変化は、墓がム ラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。 ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するよ うにな り、古墳時代に至る。 古墳時代の房総半島は、「 国」(ふさのくに。古くは =麻がよく育ったことに由来、 「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、天富命が阿波(徳島県)か ら黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功したのが 国(ふさのくに)で、忌部(斎部)の 一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。 『記紀』神話では、日本武尊の説話が起源とされているが、元々は当地の神話であった物 を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別 の任官方式が取られ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半まで は、東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神を上回っていたとされる。 また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏が上総国に上陸、開拓を行い ながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。8世紀の頃のこ とである。『常陸国風土記』の記述は正しい。その辺の事情は、私の書いたものがあるの で、それをここに紹介しておく。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kasimano.pdf なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとさ れている。この頃より、鹿島神宮を中心とする霞ヶ浦周辺が大和朝廷東征の一大拠点とな り、安房の国の役割は小さくなる。7世紀∼8世紀の頃の話である。 2、安房神社参拝の思い出 私は、時間に余裕のある時は、その場所がどのようなところにあるのか、まずは周辺の地 形や自然環境を見てから、最後にお目当ての場所に行くということが多い、安房神社の場 合は、海との関係が深いから、まずはその地形を知るために、神社の背後の海の見える場 所をに行くことにした。安房神社には「野鳥の森」という立派な自然公園があって、判り やすい看板が眼についた。それによると、海の見える展望台がいくつかあって、そのどれ かに行けば海が見える筈だ。神社から続く山道を探し、まずは展望だに行き、海を眺め た。 では、ゆっくり山道を楽しみながら、神社におりていこう! おわりに はじめに「和のスピリット」ということに関して、次のように述べた。 日本の歴史の中で平安時代がいちばん平和な時代であったと言われている。平安時代のど こに平和の原理が隠されているのか? 当時、ちょうど平安遷都1200年ということも あって、私は, 平安時代のどこに平和の原理が隠されているのか・・・ そんな疑問を持 ちながら,「怨霊,妖怪,天狗」の勉強をはじめた。平安時代というのは,怨霊のうごめ く時代であった。多くの権力者が「呪い」におびえる時代であった。そういう時代がなぜ 歴史上いちばん平和な時代になったのか? その秘密は,どうも御霊神社がそうであるよ うに,「祈り」にあるようだと気がつきながら,私は、これから私の哲学の勉強をどう進 めていけば良いのか,はたと困ってしまった。そのような折に、 中沢新一の「精霊の王」 (2003年11月、講談社)の勉強をしながら、「劇場国家にっぽん」のおいて、「和 のスピリット」というページを作ったのであった。 しかし、その後、洲埼神社を訪れたことがひとつのきっかけになって、ホト神様に関して いろいろと考え、現地にも出かけていって、 「花園神社」「宝登山神社」のページを書 き上げたので、ここに紹介しておく。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hanazono.pdf http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hodosan.pdf 人びとがホト神様に祈れば、どういう御利益があるか? 人びとがホト神様に祈れば、 人 びとは本当に豊かな人生が送れるのか? ホト神様は、国というものがなかった時代か ら、宗教というものがなかった時代から、限られた特定の人たちかもしれないが、それな りの人びとによって延々と祈られてきた。その場所が、現在、神社として存在していれ ば、ホト神様に対する祈りは、神に届きやすい。だから、「洲埼神社」「花園神社」「宝 登山神社」は、強力な「バワースポット」になっているのである。また、桜井徳太郎 によ れば、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」であ り、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復する。だから、そういうところの祭にはせ いぜい出かけて行って、祭りを楽しんでもらいたい。 洲崎神社の「ミノコオドリ」は、1961年(昭和36年)に千葉県の無形民俗文化財に指定さ れ、1973年(昭和48年)には国の無形民俗文化財に選ばれた素晴らしい祭りである。
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