第7章 武甲山

第7章 武甲山
第1節 はじめに
武甲山は秩父神社のご神体である。とすればどのような神が武甲山におられるのか、とい
うことが私の抱く大きな疑問である。秩父神社社報「柞乃杜(ははそのもり)」第11号
(平成6年12月3日)『秩父の風土と「夜祭」』で 宮司園田稔さんは次のように述べ
ておられる。すなわち、
『 「大神」とは、つまり秩父の大いなる地主の神、国魂の神としての大国主神であられ
るのです。古くは、この秩父地方の風土全体を守って下さる国魂の神として特別お名前を
呼ぶ必要もなく、ただ「大神」と称え申し上げたに相違ないのですが、のちに中央の歴史
にかかわって特殊な御神格を帯びられるようになる。』
『 この神様が鎮まるところが武甲山である。』・・・と。
また、 秩父神社社報「柞乃杜(ははそのもり)」第11号(平成6年12月3日)『秩
父の風土と「夜祭」』でも 宮司園田稔さんは次のように述べられている。すなわち、
『 神社にまつわる妙見菩
は女神様、武甲山に棲む神は男神さまで、お互いに相思相愛
の仲である。』
『 たしかに武甲山は、その山麓に対面して鎮座する秩父神社の、いわば神体山に当た
る。盆地の南面を遮って1000mほどそそり立つ山容は、山麓に拡がる秩父市街を見守
る巨大な屏風をなすが如くである。』・・・と。
以上のとおり、秩父地方の風土全体を守って下さる男神の鎮座する武甲山は、秩父神社の
ご神体であるのである。しからば秩父地方の風土全体を守って下さる男神とはどのような
神なのかということを解かない限り、秩父神社夜祭の際、妙見信仰の女神と武甲山の男神
とは何故
瀬を楽しむのか? 以下において、この疑問点を解き明かしていこう。
第2節 武甲山は霊山である
私は、私の論文「三峰神社の歴史的考察」第7章第1節の(3)「秩父周辺の山の道」で
次のように述べた。すなわち、
『 縄文時代の信仰は、神奈備信仰か霊山信仰のどちらかである。神奈備は、神の依り代
であり、神籬と磐座の総称である。したがって、神奈備は山とは限らないし、山の場合で
あってその山が集落から見えるとは限らない。これを神奈備山と呼ぼう。一方、霊山は、
集落から見える。集落の人びとが日頃見ている周りの風景の中で、霊山とは、その風景の
中に特別視した山であって、時にはその山頂に登って祭祀を行った山である。』
『 霊山は、集落から見える。集落の人びとが日頃見ている周りの風景の中で、霊山と
は、その風景の中に特別視した山であって、時にはその山頂に登って祭祀を行った山であ
る。』
『 神奈川県の大山(おおやま)は霊山の一つの例である。私には「縄文人と山と題した
ホームページがある。http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyomoyam.html 』
『 小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)で縄文人と山
との繋がり詳しく述べている。「神奈川県大山頂上からは縄文土器の破片60点、注口土
器(ちゅうこうどき)と二個体以上の深鉢が発見されている。発掘調査した赤星直忠は、
小出義治 共々、縄文人の関与には否定的で、<縄文土器は山伏が塚をつくるときに埋め
た><鎮めもの説>をとっている。縄文人の所業と心をみくびっていまい か。」』
・・・と。
縄文時代の「霊山」については以上のとおりであるが、 「霊山」とは、 集落の人びとが
日頃見ている周りの風景の中で、その風景の中に特別視した山であって、時にはその山頂
に登って祭祀を行った山である。問題は、武甲山に古代祭祀の証拠があるかどうかだが、
牧田 忍 (日本大学大学院総合社会情報研究科)の論文「古代日本の〈山口〉の意味」
では、『武蔵国式内社の秩父神社とつながりが強い埼玉県武甲山山頂付近でも縄文時代の
土器が確認されており、養老元年(717 年)に泰澄大師が開いたとされる福井県文殊山の山
頂付近からも縄文時代中期や後期の土器が発見されている。このように〈霊山〉に最初に
登攀したのは縄文人である事例は比較的多い。』と述べており、縄文時代の土器が発見さ
れているところから、武甲山は縄文時代からの「霊山」だと言っている。武甲山は、古
来、集落の人びとが日頃見ている周りの風景の中で、その風景の中に特別視した山であ
る。
武甲山の風景は今なお人びとの心に深く浸透していて、確かに武甲山をその風景の中に特
別視される「霊山」である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bukohuu.pdf
第3節 武甲山とヤマトタケル伝承
秩父地方にはヤマトタケル伝承がいろいろあるが、その中で武甲山に関するものを次のよ
うなものである。
横瀬町の公式ホームページに「よこぜの伝説」というページがあって、それには次のよう
に書かれている。すなわち、
『 むかしむかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上
から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねま した。里人
はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答えました。すると日本武尊はさっそくその山に登
り、天の神・地の神をまつられたのです。そしてその時、着用 していたご自分の甲(かぶ
と)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶよ
うになりました。横瀬町のシンボル武甲山 の名はこうして付けられたのです。』・・・
と。
秩父地方にはヤマトタケル伝承が実に多い。これらをただ単なる伝承だからとして、切り
捨ててしまうのではなく、そこから何か有意義な認識が得られるよう、私なりの考察を
行った。
まずは、ヤマトタケル伝承のさまざまを纏めてみた。それらを一
の上、私の考察を見て
頂ければありがたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatakeden.pdf
さて、横瀬町の公式ホームページ「よこぜの伝説」では、「日本武尊はさっそくその山に
登り、天の神・地の神をまつられた。」と述べている。武甲山には古代から神が鎮座して
いる。 横瀬町の公式ホームページ「よこぜの伝説」では 「天の神・地の神」と言ってい
るのだが、そこで私が思うに、ヤマトタケルが歴史上の人物でないことを考えると、武甲
山には古代から「古層の神」が祀られていたのは間違いないと思う。では「古層の神」と
はどのような神であるのか。それをいろいろと考えてみた。ここでは結論だけを申し上げ
る。
武甲山の神は、宇宙の真理を象徴する神であり、すべてのものを生み出す大神なのであ
る。それが私のこの度、思考を重ねて
り着いた今の考えである。私たちは、武甲山の神
に、新しい命の誕生と地域の豊穣を祈るのである。すなわち、武甲山の神は「豊穣の神」
である。
詳しくは次の「武甲山の神について」というページをご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bukouka.pdf
第4節 武甲山の象徴「龍」
秩父神社の宮司・園田稔さんは、 秩父神社社報「柞乃杜(ははそのもり)」第11号
(平成6年12月3日)で『秩父の風土と「夜祭」』と題して武甲山の象徴「竜」のこと
について、『 地元風土の地主神が竜神であり、土地第一の聖山に棲んで治山水源の「大
神」(大国主・大名持の神)であることは全国各地の土地神話も物語っている。秩父神社
の現社殿にある有名な「つなぎの竜」の伝説も、夜祭で「お諏訪渡り」する理由も、諏訪
神が本来竜神であることを思えば、先史以来の「秩父大神」が「お山」に棲む竜神である
ことと無縁とは考えられない。』と書いているが、この点について少し説明をしておこ
う。
秩父地方第一の聖山は言うまでもなく武甲山である。薗田稔さんは、その武甲山の「大
神」は竜神であると言っておられるのだが、第3節で述べたように、武甲山の神は「豊穣
の神」であるので、武甲山の竜神と「豊穣の神」は言い方が違うだけで、同一の神と考え
てもらいたい。「竜」は武甲山の象徴であるが、それは「豊穣の神」に他ならないのであ
る。宮田登によれば、 中国の竜神(りゆうじん)信仰は、日本の水神にも影響を与えて
おり、水神と竜神は一体化している事例が多いし、 水神は豊穣をもたらす神であり田の神
と同一視されているので、水神は田の神や山の神と一体化していて3者をそれぞれ明確に
区別できなくなっている。
秩父神社の宮司・園田稔さんは、上記の『秩父の風土と「夜祭」』の中で、『 竜神は、
先に紹介した旧暦二月三日の春祭、今は毎年四月四日に執行される「御田植祭」に登場す
る。この祭は、春先に豊作を祈って稲作りの所作を神事とするものだが、その際に市内の
一角に鎮座する今宮神社の竜神池から水神を神役たちが迎える行事があって、そのご神体
が、田の水口をかたどる藁の竜神なのである。そしてこの竜神池は、かって河岸段丘の豊
かな湧水を成し、盆地内でいちはやく住民が定着した中村(丹党中村氏の在所)の水源で
あり、しかも武甲山からの伏流水とみなされてきた。つまり、そのことは、春を迎える本
社の田植神事を通して武甲山の竜神を迎えることを示しており、したがって秋の収穫を終
えての夜祭には、神幸行列の大
に乗ったその竜神を、また武甲山に送り還すことになる
のである。』・・・と述べているが、水神=田の神=山の神(竜神)ということが秩父神
社に関連する一連の祭からも読み取れる。
しかしながら、これらの神は「妙見さん」ではない。
秩父の人びとの潜在意識には「古層の神」が二人いる。第3章で詳しく述べた秩父神社の
「妙見さん」とこの章の第3節で述べた武甲山の「宇宙の真理を象徴する神」「豊穣の
神」である。秩父の人びとにとっては、それら二人の「古層の神」、すなわち秩父神社の
神と武甲山の神を切り離す訳にはいかないのである。
秩父神社の宮司・園田稔さんは、上記の『秩父の風土と「夜祭」』の中で、『 諏訪神が
本来竜神であることを思えば、先史以来の「秩父大神」が「お山」に棲む竜神であること
と無縁とは考えられない。』・・・と述べているが、この点についてはちょっと判りにく
いかと思われるので、節を改め第4節で説明したい。
第4節 武甲山と諏訪神(ホト神様)
私は、論文「三峰神社の歴史的考察」の第6章で次のように書いた。すなわち、
『 私は、邪馬台国も古代史の最新で、諏訪の守屋を物部守屋の子孫と断定しているが、
秦氏は物部守屋の関係一族を束ねたので、当然、諏訪の守屋も秦氏に従ったと思われる。
秦氏は諏訪の守屋を引き連れて諏訪の守屋ゆかりの地・秩父に入って来たのではないか。
秩父の産鉄や養蚕かそれから盛んになる。秦氏は、諏訪の守屋と一緒に秩父に入って来た
頃、当然、秩父の産鉄民を束ねていたと思われる。秩父は、縄文時代から、守屋氏の領地
というか支配する土地でもあり、秩父地方の祭祀は、守屋氏が行っていたので、秦一族も
それに力を貸したと思われる。』
『 地元の言い伝えによると、鎌倉時代の頃だろうか、 武甲山に近い所を「上(か
み)」とよび、その上郷中心に、武甲山の蔵王権現社や熊野権現社の祭祀を行っていたら
しい。それらの人びとは、諏訪の守屋氏の末裔であり、本来の神は諏訪神である。』
『 秩父は、縄文時代から、守屋氏の領地というか支配する土地でもあり、秩父地方の祭
祀は、守屋氏が行っていたので、秦一族もそれに力を貸したと思われる。』
そしてまた、論文「邪馬台国と古代史の最新」の第8章で次のように書いた。すなわち、
『 諏訪大社の御柱祭りは、歴史的のも極めて重要である。この地方では、小規模ながら
もいたるところで同じような祭りが行われている。私の直感では、この諏訪地方の柱を
おっ立てる祭りは、歴史がまことに古く、多分、旧石器時代まで
るものと思われる。旧
石器時代の柱の祭りとは、石棒をおっ立てる祭りだ。』
『 諏訪大社の御柱祭りは、歴史的のも極めて重要である。この地方では、小規模ながら
もいたるところで同じような祭りが行われている。私の直感では、この諏訪地方の柱を
おっ立てる祭りは、歴史がまことに古く、多分、旧石器時代まで
るものと思われる。旧
石器時代の柱の祭りとは、石棒をおっ立てる祭りだ。』
『 「諏訪の御柱祭」の歴史をたどるためにキーワードは、旧石器時代の「柱とホト神さ
ま」に対する信仰である。その諏訪大社の主神「ソソウ神」を知って、慈覚大師円仁は、
後戸の神「摩多羅神」を考え出した。』
『 諏訪大社の「ソソウ神」に慈覚大師円仁はお参りしたかどうか、そのことについて
は、確かな事はいえないが、私は、鷲峰山法華寺がかって諏訪大社の神宮寺の中にあった
こと、また慈覚大師円仁が創建したと言われる 松原大明神(諏訪神社)が、諏訪大社を
意識して創建されている事などを考えると、慈覚大師円仁は諏訪大社にお参りし、「ソソ
ウ神」が諏訪大社の古き神である事を知ったと思う。』・・・と。
上述のとおり、縄文時代から、 秩父は守屋氏の領地というか支配する土地でもあり、 武
甲山の神を祀っていたのは諏訪の守屋氏の末裔である。したがって、武甲山の本来の神は
諏訪神、すなわちソソウ神(ホト神様)である。