第1章 現世幸福の教え

(参考)
参考)徳川家康の
徳川家康の遺訓
人の一生は
一生は重荷を
重荷を負うて遠
うて遠き道を行くがごとし。
くがごとし。
急ぐべからず。
ぐべからず。不自由を
不自由を常と思えば不足
えば不足なし
不足なし。
なし。
こころに望
こころに望みおこらば困窮
みおこらば困窮したる
困窮したる時
したる時を思い出すべし。
すべし。
堪忍は
堪忍は無事長久の
無事長久の基、いかりは敵
いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知
ばかり知りて、
りて、負くること知
くること知らざれば害
らざれば害その身
その身にいたる。
にいたる。
おのれを責
おのれを責めて人
めて人をせむるな。
をせむるな。
及ばざるは過
ばざるは過ぎたるよりまされり。
ぎたるよりまされり。
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。
急いではいけない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、
「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を責めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。
第1章
5
現世幸福の
現世幸福の教え
願望成就・
願望成就・祈願の
祈願の法:観音菩薩の
観音菩薩の法
(1)神仏への
神仏への間違
への間違った
間違った依存
った依存と
依存と、正しい祈願
しい祈願の
祈願の違い
さて、次に、現世の幸福と神仏への祈願に関して述べたい。ある意味では残念なことだが、
これは、宗教と現世幸福の最大の接点である。現世幸福を得るために、精神的・宗教的な智恵
を学んで実践するというよりも、宗教が説く神仏に祈願して、それをかなえようというものだ。
これが自分の努力を伴わずに行われれば、安直な神仏・宗教への依存ということになる。宗
教が、弱い人間のものだという批判にもつながる。しかし、正しい意味で、神仏への祈願が行
われるならば、それは決して無智・依存ではなく、智恵を高めるものだとも思う。
ここでいう正しい祈願とは、自分の努力を行い、人事を尽くした上での祈願であり、神仏に
過剰に依存したり、甘えたりすることではない。そして、自分で努力することを前提としてい
えば、自分の努力は重要ではあっても、何ごとも自分一人の力だけで達成できるものではない
というのも、また重要な真実である。
何ごとも、さまざまな人々の助けがあってこそであり、さらには人だけではなく、他の生き
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物を含めた大自然の万物という意味での神仏の支えがあってこそである。何かの物事を達成す
ることはおろか、毎日を生きることにさえ、万物の支えが必要である。こうした謙虚な心構え
も、神仏に過剰に依存しないことと同じくらいに重要だと思う。こうして、神仏への過剰な依
存もなく、独りよがりの慢心もなく、その双方を避けながら、正しい願望成就の祈願をするこ
とが最善だと私は思う。
(2)祈願の
祈願の前に、感謝が
感謝が重要であること
重要であること
私が思うに、神仏に祈願する人が多いが、間違った形で祈願している場合が少なくない。正
しい祈願をするためには、まず日頃の神仏・万物に対する感謝が重要である。祈願とは、ある
意味では、現状にはないものを与えてくださるように求めるものである。よって、それは、必
要以上のものを求める=貪りの過ちを犯す危険性をはらんでいる。それを防ぐためにも、まず、
今すでに与えられている恵みに対して、十分に神仏に感謝する実践が必要である。
神仏の立場に立てば、貴方が欲張って求めても、それを与えることはない。なぜならば、財
物や地位や名誉など、この世のあらゆるものには限りがある。世の中のお金が無限ではなく、
天下の回りものである以上、自分がお金を得ることは、誰かが失うことである。
つまり、貴方が生きるために必要以上のものを欲張って求めるならば、それは他人から奪う
ことを求めていることになる。万人に対して公平な愛を持つ神仏が、そうした願いをかなえる
わけがない。また、前に述べたように、なすべき努力をしないのに、願いをかなえれば、貴方
の怠惰を助長することになる。それは貴方の成長を損なうから、そうした願いをかなえるわけ
はない。
よって、神仏にお願いする前に、神仏に対して感謝する必要がある。その感謝の中で、自分
の得ている恵みを考えながら、必要以上のものを求める貪りの心を静めるのである。そして、
本当に必要と思われるものだけを祈願するのである。
そして、私の個人の経験では、こうした本当に必要な祈願をした場合には、何らかの形で、
それが必ずかなった。2007 年のひかりの輪の発足以来、バブルの崩壊やリーマンショックに
よる低迷する経済や東日本大震災の被害もあった社会の中で、私は、団体の代表として、賠償
金支払いや、高齢者や病人を含めた数十名のスタッフの生活を維持する義務を背負ってきた。
その義務を果たすために、経済面を含めて、必要最低限のものを求めた祈願をしたが、それは
全てかなったと記憶している。
もちろん、貪りを排除して、必要最低限のものに限り、しかも、自分の努力をした上での祈
願であるから、そう度々したわけではない。経済面でいえば、10 回未満である。しかし、そ
うして祈願をした際には、かなわなかったことはなく、これまで何とかやってこられたのであ
る。
しかし、これまで生きてこられたことに対する神仏への感謝をせず、必要以上を欲張る心で
神仏に祈願しても、そういった祈願はかなわない。そういう人は、神仏への感謝もなく、祈願
してもかなわないから、神仏を信じなくなると思う。逆に、神仏への感謝をし、必要な祈願を
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する人は、祈願がかなうから、神仏を信じる傾向に行くと思う。
(3)自分の
自分の中に神仏がいるという
神仏がいるという思想
がいるという思想
こうして、神仏を信じる・信じないを分けるものは、神仏側にあるのではなく、その人の心
構えにあるように思う。
そして、この点を心理学的に説明することもできると私は思う。それは、表層意識と潜在意
識の理論である。火事場の馬鹿力というように、本当に集中したときには、人の心や体は、大
変な力を発揮する。しかし、その力は通常の状態では発揮されない。
よこしま
特に、 邪 な願いを持っている場合は、自分の心の奥底の良心が、それに反発して、後ろめ
たさを感じている。これは、いわば心が分裂している状態である。表層意識と潜在意識が分裂
しているのである。よって、自分の心全体の力で、願いを実現することはできない。
これは、言い換えれば、良心という自分の中の神仏が、願いをかなえようとしていないと表
現することもできる。人は、祈願するときに、神仏が、良心という形で、自分の外だけでなく
自分の心の中にも存在すると考える必要があるのではないだろうか。
これは、すべての人が、自分の(心の)中に「仏の胎児」を宿しており、未来に仏になる可
能性を有するとする大乗仏教の思想があるが、これは、ここで述べてきたものと同じ思想では
ないかと思う。
また、この意味で、神仏を信じるとは、自分の中の神仏=良心の力を信じる、ないしは、自
分の心が統一されたときの、大きな力を信じるという意味とも解釈できる。そして、これは、
自分なりに正しい生き方に努めておれば、真に必要なものは与えられるという思想につながる
と思う。
なお、
(正しい願いであれば)あらゆる願いを叶えるとされる仏の法力の象徴として、観音
菩薩などが手に持つ「如意宝珠」という法具がある。そして、この法具の突起をもった球形の
形状が、表層意識=個人と、潜在意識=宇宙が、統一された状態を象徴するという解釈がある
(突起=表層意識=個人、球形部分=潜在意識・宇宙)
。観音菩薩は、悟りに加え、
(最終的に
悟りに導くまでの)当面の方便として、現世の幸福を与える菩薩として、広く信仰されてきた。
最後に、神仏に対する感謝の習慣を作るために、ひかりの輪では、神仏に対する供養の儀礼
ろうそく
を行なうことがある。これは、お寺にもある灯明(火の付いた蝋燭)やお香の供養と似ている
が、灯明・蝋燭に加え、お水や食べ物などの供物も捧げるように、儀礼化している。
(4)守護符、
守護符、お守りについて
神社仏閣では、除災招福のために、守護符やお守りなどの神具・法具が提供されており、そ
の御利益を信じて、多くの人が買い求めている。このお守りの効能に関しては、科学的な証明
はないが(逆にいえば科学的な反証もない)、そもそもが、科学的な検討に馴染む事柄ではな
いだろう。
これまで述べたように、お守りを買う時に、日頃の恵みに対する神仏への感謝を込めたり、
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貪りを避け、必要なものに限ってお願いしたりするといった正しい心構えを持って行なうこと
が重要であろう。一方、単にお金を払ってお守りを買えば幸福になると考えるのであれば、そ
れはどうかと思う。
また、そのお守りを身につけて、例えば、それを見る度に神仏を意識して、貪りを静め、感
謝と分かち合いといった良い心を持つように、自分に言い聞かせるなどすれば、本当の意味で
効果的なものになるだろうと思う。そうすれば、お守りは、自分の心を悪い考えから守る象徴
になる。
また、科学的に証明することはできないが、霊的な修行の見解からすれば、そういったお守
りは、事前に清らかな波動が込められるように霊的に浄化・修法され、それを持つ者が、清ら
かな心を持つことを助けるものであることが伝統的に期待されている。
また、インド占星学の思想では、その人に応じた霊的な守護物がある。一部の純粋な金属や
貴石や植物が、その人の良い心の働き(カルマ)が現象化することを助け、悪い心の働き(カ
ルマ)を現象化させることを防ぐという考え方である。インドのヨーガ行者などは、これを霊
的な科学だと考えており、彼らの経験から来る智恵に基づいて取り扱っている。
第2章
現世幸福を
現世幸福を司る神仏
五神仏の
五神仏の由来・
由来・特徴など
特徴など
観音菩薩
梵名はアヴァローキテーシュヴァラ。仏教の菩薩の一尊であり、北伝仏教、特に日本や中国
において古代より広く信仰を集めている尊格である。
「観世音菩薩」または「観自在菩薩」と
もいう。
「救世菩薩」
(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的には「観音さ
ま」とも呼ばれる。
「観音菩薩」という名称の由来は、後述のようにサンスクリット(梵語)のアヴァローキテ
ーシュヴァラの意訳から生じたとする説が有力である。インドの仏教遺跡においても観音菩薩
像と思しき仏像が発掘されていることから、その起源は中国への仏教伝来よりも古いものとも
考えられ、ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやインド
神話のラクシュミーとの関連が指摘されている。
梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+isvara(自
在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそ
れを採用していることになる。
く ま ら じ ゅ う
鳩摩羅什の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩であった。
これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説
がある。また、中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、
「avalokitasvara」となっており、これに沿えば avalokita(観)+ svara(音)と解され、また古訳
では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。
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なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvara がもっとも古形であ
る。
たいそう り せいみん
いみな
ひ
き
避諱の原則により、
唐代に、
「世」の文字が二代皇帝太宗李世民の名(諱 )の一部であったため、
唐代は「世」の文字は使用できなくなった。そのため、
「観音菩薩」となり、唐滅亡後も、こ
の名称が定着した。
玄奘三蔵以降の新訳では観自在菩薩と訳しており、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自
在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。
「観自在」とは、智慧をも
って観照することにより自在の妙果を得たるを意味する。また衆生に総てを畏れざる無畏心を
く
ぜ
だ い し
施す意で施無畏者、世を救済するので救世大士ともいう。
観音菩薩は、観音経などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、般若心経の
冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』
の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩
ほんぜい
りくちょう
『観世音応験記』
)が遺され、日本で
は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝 時代から霊験記(
は飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰され
ている。
観音の存する浄土は、ポータラカ(Potaraka、補陀落)といい、
『華厳経』には、南インド
ぽ
た
ら
か
の摩頼矩咤国の補怛落迦であると説かれる。
偽経とも言われるが、
『観世音菩薩往生浄土本縁経』によると、過去世において長邦(ちょ
そ う り
そ く り
うな)というバラモンの子・早離であったとされる。彼には速離という兄弟がおり、のちの勢
至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前
に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、
ちょうな
観音菩薩になったという。なお、父の長邦は未来に釈迦として生まれ変わった。
し ょ け
チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、最上位に
位置する化身ラマのダライ・ラマは観音菩薩の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮
の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potaraka、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩
薩はチェンレジーとして知られる。
て つ みょう
観世音菩薩は、本来男性であったと考えられる。例えば、松原哲 明(天台宗僧侶)は、梵名
のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)
、観
世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている。
しかしながら、
「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多
だ い ひ せ ん だ い
い。これは、例えば地蔵菩薩が観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性
の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る
場合が多い。
そく げ ん ぶ に ょ し ん に い
観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性には女性に変身して説法すると
もあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を
せっこう
女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江
しゅうざん
省・舟山 群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信
ま
そ
仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている。
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観音について説かれた仏教経典は数多いが、最古かつ最も有名なのは妙法蓮華経観世音菩薩
ふ も ん じ げ ん
普門品第二十五、別名「観音経」である。三十三身普門示現もこの教典に説かれている。この
ずいがんそくとく
略本と考えられている十句観音経や、十一面観音について説かれた十一面観世音菩薩随願即得
だ
ら
に
陀羅尼経がよく読誦される経典である。これらの経典は、観音の慈悲が広く、優れた現世利益
を持つことを述べている点が共通している。
観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形
ふ も ん じ げ ん
体を現じる。これを観音の普門示現という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」
(観音経)
ぼんのう
しょうもん
「梵王身」など、
には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」
「声聞身」
し ょ う む げ きょう
33 の姿に変身すると説かれている。なお、観音経とは別に、密教経典『摂無礙 経 』にも三十
三身の記載があり、両者は細部が異なる。
西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。な
お「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰される
ようになったものであって、法華経の中にこれら 33 種の観音の名称が登場するわけではない。
この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身
しょう か ん の ん
を派生するに至った。このため、観音像には基本となる聖 観音の他、密教の教義により作られ
へ ん げ
た、十一面観音、千手観音など、変化観音と呼ばれるさまざまな形の像がある。阿弥陀如来の
脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そ
た め ん た ひ
のため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人
間的な姿に表されることが多い。
じゅんてい
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称
し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(あ
らゆる生命は 6 種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六
道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道-聖観音、餓鬼道-千手観音、畜
生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせ
になっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされている
が、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像などわずかな
例外を除いて、42 本の手で「千手」を表す像が多い。観世音菩薩が千の手を得た謂われとし
か ぼ ん だ る ま
せんじゅせんげんかん ぜ お ん ぼ さ つ こうだいえんまん む
げ だい ひ
しん だ
ら
に きょう
ては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼 經 』がある。この経の最後
に置かれた大悲心陀羅尼は、現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。
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