中 国 と 私 の 文 学 の 道 - 国際交流基金

2007「日中文化・スポーツ交流年」
認定事業
第17回 開高健記念アジア作家講演会シリーズ
Takeshi Kaiko Memorial Asian Writers Lecture Series No.17
中
李
鋭
リー・ ルエイ
日程
私国
のと
文
学
の
道
講演会
【大阪】
引き裂かれる苦悩
対談:吉田富夫氏 [佛教大学教授]
平成19年11月3日(土) 14:00∼16:00
大阪国際交流センター 小ホール [大阪市天王寺区]
【東京】
小説を書き始めた頃
対談:大石智良氏 [法政大学名誉教授]
平成19年11月6日(火) 19:00∼21:00
国際交流基金国際会議場 [港区赤坂]
【仙台】
永遠なるものと消えゆくもの
平成19年11月10日
(土)14:00∼16:00
仙台文学館 [仙台市青葉区]
【函館】
漢字による自己表現
平成19年11月11日(日) 14:00∼16:00
函館市中央図書館 [函館市五稜郭町]
コーディネーター:毛丹青 [在日中国人作家]
[使用言語] 中国語(北京語)
(日本語逐次通訳付)
主催 独立行政法人国際交流基金
財団法人大阪国際交流センター [大阪会場]
財団法人仙台市市民文化事業団 [仙台会場]
財団法人北海道国際交流センター [函館会場]
はじめに
このたび国際交流基金(ジャパンファウンデーション)では、第17回開高健記念アジア作
家講演会シリーズとして、中国より作家の李鋭氏をお招きしました。
中国は、開高健が1960年に日本文学代表団の一員として初めて訪れた異国の地であり、そ
の生涯における43カ国、20回以上にわたる海外への旅の起点でもありました。
東西を山で遮られ、その間に黄土高原が広がる山西省の太原にて執筆活動を続ける李鋭氏
は、貧しい山村農民の生き様を基に、農村部における中国の現在を描いています。
本講演会を通じて、より多くの方々に、中国文学、また、現代の中国社会についての理解
を深めていただき、日中両国の文化交流がますます盛んになることを願っております。
独立行政法人 国際交流基金
開高健記念アジア作家講演会シリーズ
国際交流基金では、1989年に亡くなられた開高健氏のご遺族から寄せられた志をもとに、90年よ
り「アジア作家講演会シリーズ」として、毎年アジアより文学関係者を日本に招へいし、日本で
は紹介される機会の少ないアジアの文学を多くの人々に紹介しています。
開高健(1930∼89)は混迷をきわめる現代社会とそこに生きる人々に真摯なまなざしを注ぎつづけ、小説のみな
らず、ルポルタージュ、エッセイ、釣りを中心としたフィールドワーク、広告コピー、雑誌編集など多種多様な分
野で活躍しました。変化と驚異を求める心と、不変・普遍なるものを求める心――このふたつの心の衝迫のままに
世界を駆けめぐり、人生を旅した開高健は、歴史上のホット・スポットに数多く立ち会い、自身の捉えた現実を臨
場感あふれるルポルタージュという形で発表して同時代の問題に対峙しつづける一方、体験を醸成・深化させ、時
空を超えて読み継がれる幾多の優れた小説作品に結実させました。58年の生涯において、海外に赴くこと20回以
上、訪れた国は40カ国以上であり、
「行動する作家」でありつづけました。
「開高健展」
(1999年4月 主催:県立神奈川近代文学館・財団法人 神奈川文学振興会)企画書より
■ コーディネーター 毛 丹青 [マオ タンチン]
在日中国人作家。1985年北京大学を卒業後、中国社会科学院哲学研究所の助手研究員を
経て、1987年に来日、三重大学に留学。大手商社勤務のかたわら、日本各地を旅行。その
体験をまとめた「にっぽん 虫の眼紀行」
(法蔵館・文春文庫)がロングセラーとなる。現在、
文学・演劇・映画などの日中文化交流につとめながら、日本語と中国語による執筆活動を続
けている。中国のビジュアル旅月刊誌にコラムを持ち、紀行エッセイの旗手として注目され
ている。2002年以後は、日本の芸術、観光、人物などをテーマに旺盛な取材で特集を企画
し、主筆をつとめる。中国語の本では「莫言・北海道走筆」
、
「閑走日本」等、翻訳書では、
2
「禅与中国」
、
「歎異抄」等、多数の書籍を出版している。
私は多くの国を訪問したことがありますが、日本へはまだ行ったことはあ
りません。日本とはいったいどんなところなのだろう?ずっと気になって
いました。これまでは、ただ書籍、映画、テレビ、ニュースを通して、日
本の友人からの手紙やちょっとした会話から、断片的に感じるだけでした。
残念ながら、これらの体験はすべて間接的なもので、いずれも答えを与え
てくれるものではありませんでした。中国には「百聞は一見にしかず」と
いうことばがあります。私は今、ついに日本を訪問する機会に恵まれ、日
本の自然を見て、日本の人々の
メ
ッ
セ
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ジ
日常生活を目にすることができ
ます。ついに長年の謎を解き明
かす機会を得て、間接的で断片
的であった認識を、肌身に感じ
られる直接的な現実の体験に変
えることができます。もうすぐ
日本に行けるのですから。この
たび、国際交流基金が日本訪問
の機会を与えてくれたことに感
謝いたします。
李 鋭
1950年、北京生まれ。文化大革命中に下放知識
青年として山西省呂梁山脈の寒村で定住すること
■
李
鋭
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6年、その体験をもとに、土地に縛られつつ貧困
と無知の中で生き、かつ死んでいく農民群像を見
つめた連作短編集『厚い土』
(1988年)で文壇
に独自の地歩を築く。かたわら、四川省の古き町
を舞台に、中国の近・現代史を俯瞰しつつ中国社
会の本質を見つめた長編『旧址』(1992年)、
『銀城物語』
(2002年)などを発表。最近作には
農具シリーズ『太平風物』(2006年)があり、
独特の語り口をみせる。欧米でも早くから多くの
翻訳があり、評価が高い。
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引き裂かれる苦悩
佛教大学文学部中国学科教授
吉田 富夫
〈引き裂かれる苦悩〉というのは、初めての訪日に当たって李鋭氏が用意した講演の題目の一つ
ですが、それは、一人の作家として彼が背負っている課題を端的に示すにとどまらず、現代中国の
文学界が直面している情況をもよく物語っているように思えます。しかし、やはり多少は時間を遡
ってみなければなりません。
四半世紀を超える毛沢東時代が終わって、中国がいわゆる〈改革・開放〉期に入ったのはつい40
年足らず前の1970年代の末でした。それまで党、国家、社会主義、革命など、
〈公〉が絶対善とさ
れる時代から、経済競争にともなう多様な価値観がどっと流れ込んできたのです。それにつれて、
文学の世界で言えば、
〈公〉に替わって〈個〉が浮上してきました。つまり、あらためて人間の問題
を考えようとし始めたのです。その意味で、この時期の中国文学の課題を「人間の再発見」
(劉再復)
と呼んだ人もいます。
それにしても、
〈公〉の思想が一元的に支配した30年におよぶ事実上の文化的鎖国情況からいき
なり人間の問題を追及しようとしても、文学者たちに出来合いの処方箋などあるわけもなく、彼ら
は出し抜けに都会の真ん中に出てきた山男のように、戸惑うばかりでした。彼らはとりあえず毛沢
東時代、とりわけあの文化大革命時代の体験をおずおずと語ることから始めました。80年代に入っ
おの
て、海外からルーツ文学や構造主義など流行の文学が次々と入ってくると、己がじしそれらの武器
を拾って走り出しました。中華民国時代の文学があらためて読み直され、そこからもエネルギーを
得ようとしたことは無論です。そうした文学者の多くは人民共和国成立後に生まれた世代で、文革
でいわゆる下放知識青年として農山村や辺境に赴いた体験を持つ人々でした。1950年生まれの李
鋭氏など、さしずめその典型と言えましょう。ただ、李鋭氏の特徴は下放した山西省にとどまり、
4
――作家 李鋭を取り巻く情況
流行の流れからつねに距離を置いて自らの世界を追求しつづけたことで、そこに独自の文学世界が
生まれるのですが、それについては別に紹介が用意されています。
ところで、転機は1989年の〈天安門事件〉に来ました。それまで、保守的勢力にあらがいなが
らも、この向こうには新しい〈人間〉の世界が拓けるものと信じて突っ走ってきた人々の前に、中
国共産党は一党独裁体制の巨大な壁としてふたたび立ちはだかったのです。すでに毛沢東時代を体
験していた文学者たちにとって、天安門事件にはまさに悪夢の再来を見る思いがしたことでしょう。
未消化ながらもさまざまな武器を手に、人間の真実に向かって体制に風穴を開けようとそこまで突
っ走ってきた文学者たちは、呆然としたはずです。それ以後、中国の文学者たちはいちばん熱い
〈その問題〉を抱え込まざるを得なくなるのですが、そこでどうするか。もちろん、厳しい検閲は体
制の敏感な部分に触れることを許しません。それは厳しい現実ですが、より厳しいのは、文学者た
ち自身から信じるべきものが失われているという事実です。
いま、中国の文学者たちは、商品経済の氾濫にともなって急速に進む国内のモラルハザードのま
っただ中に立たされていますが、それはまた、この二十年来、世界的規模で深化してきたさまざま
な人類的危機の一部でもあります。中国はどこへ行けばよいのかという問題は、人類はどこへ行け
ばよいのかという問題そのものであるということがますますはっきりしてきています。そうしたな
かでいま、中国の文学者たちは、本当はそこにこそメスを入れるべき体制の不条理に気付きながら
も、それとどう向き合うかというところで戸惑い、価値観の喪失に引き裂かれつつ、手探り状態で
仕事をしているように見えます。そうした情況を思想的なかたちで直接体現しつづけているのが李
鋭氏で、その作品が寡黙がちなのは、苦悩の深さを示しているように思えます。
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李鋭
法政大学 名誉教授
大石 智良
李鋭は新作のたびに新鮮な驚きを味わわせてくれる。作家として立って20余年、絶えず、新しい
文体を模索し、文学空間を開拓しつづけているからだ。
彼は1950年、北京市東郊の国営農場場長の子として生れ、果てしなく広がる緑の畑と社会主義教
育のなかで、幼少年期を送った。この時期のナイーブな感性が彼の作品の底に流れる第一の基調音と
なった。
66年、文化大革命勃発の年に初級中学を卒業。69年、山西省呂梁山の寒村に下放し、6年にわた
り多感な青春期を過ごした。首都近郊の国営農場とはまるで掛け離れた貧困と愚昧。また、想像を超
える男女関係のあり方や独特の習俗・伝統に触れ、激しい衝撃を受けた。その衝撃が第二の基調音を
形成した。
李鋭が作家として内外に名を馳せたのは、
「呂梁山印象」と副題した短編連作『厚い土』を発表し
てからだ。この連作に特定の主人公はなく、登場人物の多くは名をもたない。男、女、若者、老人、
そして農夫、牛飼い、御者、大工……がいるだけだ。人物の個性もほとんど問題にされない。にもか
かわらず、そこに繰り広げられる世界はきわめて個性的だ。李鋭独自の文学空間の成立である。
この連作の過程で、彼は一種の虚無に近い文学的自由を獲得し、青年期の青臭い情緒と既成イデオ
ロギーの贅肉をそぎ落とした簡潔な文体を確立した。それはどんなに荒々しい事象にも立ち向かえる
6
――文学言語空間の開拓者
硬質で鋭利な文体だ。しかも少年期のナイーブな感性は失われず生きている。
『厚い土』の一編「偽
婚」の老農夫は、流浪の子連れ女との最後の交わりのあと、節くれだった手を女の顔にはわせ、その
熱い涙をふく。
次いで、
『厚い土』の文体から新たにふたつの文体――文語体(知識人の書き言葉)と口語体(山
村の話し言葉)を練り上げた。
初の長編小説『旧址』は、20世紀動乱期の事業家、軍人、革命家とその妻たちの熱い生と無残な
死を、硬質かつ簡潔な文語体で描いた。現代史を父方の李氏一族が受けた深い傷においてたどり直し
たかつてない歴史小説である。その背景に李鋭自身が体験した家の歴史があることは容易に推察でき
る。文革のなかで両親が死に追いやられ、兄弟姉妹が四散することになった。一家のたどった道程が
彼の内に、官製の歴史とは決定的に異質な歴史意識を植え付けたのだろう。
『銀城物語』はその延長線上に成立した重厚な歴史文学だ。舞台は父の原籍である四川省自貢市、
塩業の中心都市だ。時は辛亥革命前夜の1910年8月。革命同盟会による軍事反乱計画がひそかに進
められるが、手製の爆裂弾による要人暗殺以外は最終段階で未発に終わる。その顛末を数日間の緊迫
した動きに凝縮させて描き切った。登場人物は教育家、軍人、事業家、テロリスト、政府側の地方高
官、農民一揆の首領等々……。それぞれの人間像と相互の関係を緻密かつ立体的に描き出し、息もつ
かせぬ緊迫感を盛り上げる。また舞台の都市そのものを物語の一方の“主人公”として扱ったことも、
作品の大きな特徴だ。都市と長江水系との係わりはもちろん、塩業に欠かせない水牛の働き、燃料と
しての乾燥牛糞とその売り手などを克明に描く。これらは反乱の“動”に対する“静”の部分を担っ
ていて、作品に奥行きと膨らみを持たせることになった。文語体の成熟による新たな文学空間の達成
というべきだろう。
李鋭のもう一つの文体は山村生活者による口語独白体だ。そこで使われた“方言”は恐らく呂梁山
区の人々の言葉を土台に作者が創作したもので、山村の生活から生れたであろう独特のリズムを具え
ている。大勢の登場人物が入れ代わり立ち代りそのリズムに乗せて文革期の生活と事件を語り進める
とき、同じ呂梁山区の村が『厚い土』とはまったく異質な文学空間となって立ち現れる。
「富農」老
人の自殺事件(
『無風の樹』
)や「神樹のお告げ」事件(
『万里、雲なし』
)を農夫たちの独白体でつづ
ることで、作者はいったい何を成し遂げたのか。
文字を知らぬ農夫たちの意識と感情を直接、作品として定着しえたのだとすると、知識人と山村生
活者とのあいだに“共通言語”を創出したことにならないか。これはひょっとすると中国文学史上の
特筆すべき“事件”なのかもしれない。
最新作は「農具連作小説展覧」と副題した『太平風物』
。文語体と口語体を再統合した短編連作だ。
紀元前から基本的に変らない農具に、農夫たちの生活の“不変”の歴史を象徴させ、その農具をめぐ
る出来事やエピソードに、呂梁山区の村にまで及ぶ21世紀初頭中国の“変化”を物語らせる趣向が
新しい。
李鋭の文学言語空間は今も新鮮な驚きに満ちている。
7
李鋭
毛:今日は太原へ来て、李鋭さんの日本での講演のテーマについて相談することになり
ましたが、実際のところ地域を越えた思考といえますね。と言いますのも、私達がこ
こで話すのは全く別の場所で行われようとしていること、李鋭さんと日本の聴衆との
毛
丹
青
直接交流についてだからです。遠くへ行くとき、我々はよく「道に出る(旅に出る、
出かける)
」と言いますが、今回のテーマは「中国と私の文学の道」です。このような
二重の意味を通して「道」を解釈するには、実際に歩くことから始めることもできま
すし、または文学におけるフィクションあるいはリアリティという観点から始めるこ
とも出来ます。当然、これらはみな中国と深い関わりがあると思いますが、今回の講
演のテーマについて、お考えを話していただけますか?
李:私はこれまでにも国内外で多くの文学講座に参加してきましたが、日本の皆さんに
私の文学の経歴や考えをお話するのは初めてです。テーマを聞いたとき、
「中国」の前
に「変化する」という言葉を付け加えられないかと思っていました。なぜなら私の
「文学の道」と、変化している中国は常に関わりがあります。激しく揺れ動き変化する
中国で、人生と文学への追求を体験してきたわけです。大げさではなく、この半世紀
の中国は世界上で最も激烈に、最も大きく変化した国家であるといえます。中国にお
けるこの半世紀の激動の歴史は、世界との関係が最も大きく変化した時期でもありま
した。世界によって中国は変化し、また反対に中国によって世界も変化しました。激
烈に移り変わる歴史は、誰もが身をもって経験できることではありません。もちろん、
歴史の変動を経験した人が必ずしも作家になれるわけではありません。とてつもない
歴史の波のなかで経験した生命の体験は、私の創作の源泉となり、自らを顧み、中国
を顧み、歴史を顧み、あらためて世界を見る立脚点となるのです。
この世には誰一人として本に書いてある定義から始まって「人」となる人はいませ
ん。一枚の木の葉が他の葉と同じではないように、一つ一つに命があり、みな自らの
経歴と苦境の中で、ただ自分だけの喜怒哀楽を経験しているのです。ですから、同じ
歴史背景においても、いくつもの異なった人生の道が生まれ、異なった作家が生まれ
ます。今回、自分の思いを日本の皆さんと向かい合ってお話したいと思っています。
私は直接触れ合ってお互いを理解するのが好きです。目を見て、表情を見ることは
往々にして本を読むより豊富で素晴らしいものです。
毛:映画には「ロードムービー」というスタイルがあ
ります。
「旅する映画」といえるかと思いますが、こ
れはある人がある場所を出発し、旅先での出来事や
心境的な変化を経て、もう一つの場所に到着し、結
末を迎えるという話です。日本映画の『幸福の黄色
いハンカチ』がその典型で、古典的な傑作といえま
す。私が個人的にこのような系統の映画が好きだか
らかもしれませんが、李鋭さんの講演のテーマに
「道」ということばがあるのを知って、パワーを感じ
8
生 き 残 る 文 学
ました。今回の日本講演に私も同行しますが、前後して四都市、
また農村へも行きます。全行程は二千キロ以上です。李鋭さん
が期待されるものは何でしょう? 日本で何を見たいですか?
李:私の両親は四川省出身で、四川の自貢が私のルーツです。
私自身は北京で生まれ18歳まで過ごしました。文化大革命の
下放で山西省の呂梁山に赴き、6年間農民を、2年半職人を、
11年間雑誌編集をして、その後作家になりました。これが私
の歩んできた道のりです。井塩(井戸水に含まれる塩分から
精製する塩)の製塩が盛んな古都自貢と貧しく辺鄙な呂梁山
が私の創作における二つの源泉となり、私の小説はほとんど
これらの場所と関わりがあります。
中国に古くからある訓戒に「万里の道を行き、万巻の書を
読め」ということばがあります。何かをしたければ、また自
分にしかない奥深い境地にいたる体験を得たいならば、遠く
に旅をして、苦労して勉強することによって初めて、自らの
心と眼差しに豊かで広々とした境涯をもたらすことができる
のです。今回、日本で長い旅をして様々な所へ行き、各地の
友人を訪ねられるのは、得難いチャンスです。初めて日本を
訪問しますが、中国にいると日本はとても身近な存在です。
子供たちが好きなマンガやアニメ、女性の化粧品、家電や自
動車、学校の歴史の授業から毎日のニュースなど、どこへ行
っても日本をみることができます。
中日間ではここ100年で2回の戦争がありましたが、清末
の知識人たちは「明治維新」を青写真として中国を改革する
ことを望んでいました。当時の日本は近代においては最大規
模で中国の留学生を受け入れていました。辛亥革命の指導者
孫文も日本を革命運動の拠点としていたことがあります。ま
た唐代の文化は日本に深い影響を与え、今でも日本の文字に
は中国の漢字が存在します。鑑真和上が日本へ渡り建立した
唐招提寺は今でもお参りの人が絶えません。千年以上ものあ
いだ、中日両国は互いを師弟としながら、無数の愛憎に満ち
たもめごとも乗り越えてきました。このような国と国の関係
は世界でも稀にみるものです。「何を期待するか」と言われる
と答えにくいのですが、よい本を読むのと同じで、一番いいのはあらかじめ予測し
たり、背景の事情を推測したりせずに、いわゆる「百聞は一見にしかず」で、実際
に自分の眼で見て、身をもって経験したときに、思いもよらない喜びや収穫を得ら
れるのではないかと思います。
9
李鋭 毛丹青
毛:今の中国は情報選択の時代に突入して、少なくとも私が80年代の初めに大学生活
を送っていた時のように外からの情報に飢えているなどということはないと思います。
当時は電話がある人も少なくて、もちろんパソコンや携帯メールもありませんでした
し、今のような情報が溢れかえっている状況とは全く違います。情報収集の手段が発
達して、もともと歩くべき道があっという間に短縮され、以前はやっと把握できる情
報を、今ではいとも簡単に入手できるようになりました。このような飛躍的な変化に
ついて、どのように思われますか?
李:仰る通り、情報過多時代の到来ですね。マウスをクリックするだけで、娯楽を楽し
み、世界と繋がる時代になりました。パソコン隆盛である上に、さらに便利で速い携
帯電話もあります。携帯とパソコン、そしてテレビが一体化すると、情報の受け渡し
において、空間の限界は無視することが出来ます。中国と日本にいてそれぞれ同じ速
度で情報を手に入れることができます。これはある人を広野に連れて行って、
「この世
界にある空気はすべてあなたのものですよ、思う存分使ってください」と言うのに似
ています。
しかし、実際には私たちは、一人の人間が一生で消耗できる空気は限られているし、
生きていくのに「世界中の空気」が必要でないことを知っています。例えば一人ずつ
に図書館をまるごと与えられたとしても、一人の人
間が記憶できる知識もまた限られています。たとえ
天才でも、理解し、使いこなせる情報は大海の粟粒、
たかが知れています。
一方、科学技術がいかに進歩しても、想像できな
いレベルの情報過多だとしても、人間性、人の本質
は何も変化していません。烽火台で情報をやり取り
したり、刀や矛を振り回して戦争する人、衛星写真
で情報を得たり、レーザー制導爆弾や、巡航ミサイ
ルを使う人、いずれにしても同じ人殺しです。飛行
機に乗っている人が牛車に乗っている人より必ずし
も善良だとはいえないし、エアコンの効いた部屋に
いるひとが焚き火のそばにいる人より思いやりがあ
るとも限りません。情報社会で、人間の能力が想像
できないほど拡大しても、人間の本質は何ら根本的
に改善されていない、これは大きな難題です。
今の人たちは宗教を信じず、道徳を信じず、“主
義”や“真理”を信じず、自然も信じない。ただ自
分の欲望と能力だけを信じています。そうすると、
世界中の空気が足りなくなり始め、世界中の水が足
りなくなり始めるのです。人間の欲望と能力がとう
とう自らが生存する自然の限度を破壊し始めている
10
のです。私はこれらのことが禍
福いずれであるか、本当に分か
りません。
毛:そのような意味で、私は個人
的に李鋭さんの新作『太平風物』
が好きなのですが、この農具シ
リーズの小説で仰っていること
は文明の消失であり、過去への細やかな目配りであり、内面からわきあがる思いやり
だと思います。この作品を構想する上で、まず考えられたのはどういうことですか?
李:それは実は先程の問題と繋がっています。
『太平風物』で伝えたかったことは“進
歩至上”
、
“化学至上”への懐疑、
”現代化という神話“への懐疑です。私は6年間農民
をして”汗は滴る禾下の土に“とはどのような気持ちかよく知っています。何億人も
の人たちが代々土地に縛り付けられて、太陽を背に地面と向かい合う暮らしが最も残
酷で、人道的でないことを知っています。もちろん私も人類文明の発展が山を転げ落
ちる石ころのように、もはや遮れない、止められないプロセスであることも分かって
います。
農具の物語を書くのは、心情的にとても複雑なのです。
「田園のロマン」を使って過
酷な生活を覆い隠すのが大嫌いですが、呂梁山の貧しい農民達がいつの日か彼らの運
命と生活を変えてくれることを心から望んでいます。しかし、あの古い農具が「現代
化の進歩」という潮流にのみこまれるのに遭遇し、たくさんの残酷で血なまぐさい出
来事や、永遠に取り戻すことのできない純朴と善良が失われていくのをみています。
人間は複雑で、命に罪はありません。これらの「失われた文明」は、とりわけ目にす
るすべてに胸が痛み、とくに心が動かされるものがあります。これもまた文学の存在
理由の一つといえるでしょう。
生
き
残
る
毛:このような状況は日本でも同じで、色々な所で起こっている、もしくは既に起こっ
たことがあると思います。我々は今回日本の農村へ行ってみるべきですね。また別の
地方の様子を、特に些細な状況をみたいですね。
李:日本は早くに先進国の仲間入りをしましたから、きっと同じことが、日本だけでな
文
学
く他の国や地方でもかつて起こり、もしくは今まさに起こっているのでしょう。昔か
らずっと、太陽の下では新しいことはない、しかし太陽の下でずっと喜怒哀楽する人
たちが生活している。ただ一つ違うのは、人々が暮らすこの世界がだんだん窮屈で、
だんだん小さくなって、溢れかえる情報の洪水が私たちを同じ急な流れの河に突進さ
せていることです。私は日本に行って、人々がこの激流のなかでいかにして心の安ら
ぎと尊厳を保っているのかを見てみたいと思います。
●対談日 2007年8月2日
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■李鋭作品関連地図
開高健記念アジア作家記念講演会シリーズ17
李鋭講演会
中国と私の文学の道
2007年11月
監修 毛丹青
発行 独立行政法人 国際交流基金 市民青少年交流課
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