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唐護 法 沙 門 法 琳 に つい て (三
輪)
唐 護 法 沙 門 法 琳 に つい て
法 琳 は護 法 沙 門 と 冠 称 さ れ てい るが、 そ れ は唐 の武 徳 四年
(1)
三
輪
した 僧 と な つた の であ る。
晴
二九 〇
雄
儒 教 と 道 教 を学 ん で、 傅 変 の上 書 に 最も 強 く対 抗 しう る傑 出
傅 変 は 廃仏 の 上書 に お い て ﹁益 国 利民 ﹂ を骨 子 と し て仏 教
六月 (六 二 一)の 太 史 令 傅 変 に よ る ﹁廃寺 塔 僧 尼十 一条 ﹂ の上
を論 難 攻 撃 し た が、 こ の時 代 は 唐 朝 の草 創 期 で、 内 乱 は鎮 圧
仁 寿 元 年 (六〇 一)か ら 階 末 の戦 乱 期 に か け ては 各地 を 遊 行 し
承論 し、 夜 は俗 典 を吟 覧 し ﹃青 渓 山 記 ﹄ 一巻 を著 わ した が、
の開 皇 十 四年 (五九四)に 青 渓 山鬼 谷 洞 に 隠 棲 し、 昼 は仏 経 を
出 家 し て金陵 ・楚 鄙 へ行 き、 仏道 の修 行 に 励 ん だ。 か れ は階
法 琳 は俗 姓 を 陳 氏 と い い、 頴川 (河 南 省 許 昌 県 ) の人 で、
であ る。 そ れゆ え に こ こ に、 法 琳 が ﹁益 国利 民 ﹂ の思 想 を 仏
脅 威 と な つた。 廃 仏 の 上書 の争 点 も 実 はそ こに集 約 さ れ る の
あ る 傅変 の建 白 書 であ つた た め に、 仏教 徒 に と つて は 一層 の
仏 ・道 ・儒 の論 議 が 高 ま つた。 ま た、 これ は太 史 令 の要 職 に
た。 ﹁益 国 利 民 ﹂ の上 書 は 政 朝 の注 視 を う け、 これ に よ つ て
いた こと は人 心を 収 掩 し、 政 令 の徹 底 を は か る こ と で あ つ
(2)
いる。 これ に つい て は ﹃唐 護 法 沙門 法 琳 別伝 ﹄ に明 ら か であ
書 に 著 論 や 論駁 を も つ て仏 教 を擁 護 し 宣揚 し た こ と に よ つて
た。 こ の期 間 に、 か れ は僧 服 を 脱 い で髪 を の ば し、 儒 教 と 道
教 に求 め た と ころ を考 え あ わ せ て、 唐 朝 初期 の仏 教 に つい て
され る こと なく、 物 情 騒 然 と し て いた。 唐 朝 が最 も 希 求 し て
教 を 修 め、 義 寧 元 年 (六 一七)には道 服を 着 け道 観 に 居 住 し て
理解 を深 め てみ た いと思 う。
る。
道 教 の議 定 に参 与 し た。 そ こ で、 か れ は道 教 は張 偽 葛 妄之 言
法 琳 は傅 変 の上 書 を 次 のよ う に論 難 した。
人倫 の風 範 を傷 う。 ⋮⋮閾 庭 を 岡 冒 す る と こ ろ多 く、 聖 人 を
﹁文 言 浅 随 に し て事 理 詳 かな らず。 先 王 の典 護 を 辱 し め、
(3)
であ る こ とを 見 透 し て、 唐 の武徳 初 年 (六 一八)に は再 び僧 莚
に列 し た。 以 上 が法 琳 の 武 徳 四年 ま で の 事 跡 の 大 略 で あ る
が、 こう し て、 か れ は出 家 ・還 俗 ・再 出 家 を 経 て、 こ の間 に
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と ころ で次 に、 こ の八 論 のう ち で最 も 紙 数 を 費 し て い る
﹁第 五論 ﹂ に つい て検 討 し て み よう。
﹁論第五云、依挑長謙暦云、仏是周昭王甲寅歳 生、穆王壬中之歳
て自 ら いや しく も 進 達 を 求 め ん と欲 す る と こ ろな り。 実 に 未
殿 辱 す る と こ ろ甚 々し。 変 こ の意 な す はも とよ り これ に よ つ
始滅度者、因何、 法顕為伝 云、聖股王 時生、推於像 正之記言、仏
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だ よ く国 を益 し人 を 利 す るあ た わず。 た だ こ れ朝 野 を畿 弄 す
も な い混 迷 し た 世 相 を 背 景 と し て強 く 主張 し た の であ る。 唐
崩 壊 とな る の であ る。 法 琳 は、 こ のよ う な こ とを 唐 朝 成 立 ま
る。 そ れ ゆえ に、 聖 人 の教 説 を 唾 棄 す る こと は正 し く 国 家 の
仏 誕 の年 時 に つ い て、 周 昭 王 二 十 四 年 と魯 荘 公 七年 の 二 つ の
で あ つた。 そ れ は、 か れ が ﹃破 邪 論 ﹄ や ﹃弁 正 論﹄のな か で、
あ る。 こ れは 一面 に お い て 法 琳 に と つて きわ め て重 大 な 問 題
が 一定 し て いな い こと を 明 ら か に す る よす に求 め て いる の で
ここに は仏 誕 の 年時 に つ い て五 つの 説を 挙 げ て、 そ の年 時
乖素、無的可依仰、具顕先 後、不同遽 魎所以﹂
(6)
是周平王世出、道 安作論確執 桓王、長房為録固言庄代、是知伝述
る のみ。﹂
聖 人 と は仏 陀 であ り、 ま た 孔老を 含 み、 聖 人 と称 さ れ る 人
朝 は威 徳 政 令 を 誇 示 す る急 務 に迫 ら れ て おり、 傅 変 と 法 琳 の
々の教 説 を 侮 蔑 す る と いう こ と は、 朝野 を 危 く す る行 為 と な
建 議 によ つて廃 仏 ・護 教 の二 者 択 一を 求 めら れ て いた と み な
説 を挙 げ て論 述 し て いる が、 こ こ では 明 ら か にそ の矛 盾 を 指
が これ に 加 わ つた。 か れ ら は ﹁広く 三教 を 引 き、 治 道 の昇 沈
尚 書 劉徳 威、 礼 部 侍 郎 令 狐 徳券、 侍 御 史 草 綜、 司 空 毛 明 素 ら
唐 の高祖 は 三教 の師 を 招 い て、 しば しば 論 争 を さ せ、 刑 部
陳 べん﹂ と い つて、 そ の 一々に つい て 論 述 し て い る の で あ
く 彼 の多 く の家 に 拠 取 す。 ま ず そ の真 を 列 し、 後 に そ の 妄 を
摘 され た も の と思 わ れる か ら で あ る。 かれ は ﹁(
法琳)今 正 し
(7)
け れ ば な ら な い。
を 叙 べ、備 さ に は 十 王 を 挙 げ、 崇敬 の優 劣 を 標 し、 或 い は仏
る。 こ こ で、 仏 誕 の年 時 の五 つの説 を 論難 に そ つて、 )
(一周 昭
王 二十 四 年 説、 口 股 王 説、 国 周 平 王 説、 四 周 恒 王 説、.
国魯 荘
(5)
道 の先後 を述 べよ ﹂ と い つ て いる よう に、 三 教 の優 劣 や そ の
公 七年 説 と し て、 法 琳 の 論 駁 の概 略 を 次 に 列挙 し てみ よ う。
二 九 一.
伝、伝毅法王本記、呉尚書令閾沢等衆、 また阿含等経に准う﹂
天子伝、周書異記、前漢劉 向列仙伝序、 古 旧 二録、後 漢 法 本 内
(一)周 昭 王二 十 四 年 説
﹁
魏国曇護最法師、斉朝 上統法師、階修暦博士挑長謙 の説、周 穆
先 後 の論 争 は、 中 国 へ仏 教 が 将 来 さ れ て こ の かた 最 も 重 要 な
関 心事 の 一つであ つた。 劉徳 威 ら の難 詰 は三 教 の優 劣 や そ の
先後 を も つて ﹁益 国 利 民 ﹂を 志 向す るも の であ つた と 考 え ら
輪)
れ る。 か れら は、 法 琳 の ﹃弁 正論 ﹄ 八 巻 に 対 し て、 八 論 を も
つて論 難 し て いる。
唐 護 法 沙 門 法 琳 に つい て (三
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唐 護 法 沙門 法 琳 に つい て (三
と いう 記 事 と典 籍を 挙 げ、 ま た、
輪)
﹁
普 曜経に云う。普く大光照を三千世界 に 放 つ。周 書 異 記 に 云
う。昭王二十四年甲寅 の歳四月八 日、江河泉池忽然 と汎濫す。井
枯 れ泉湧き並皆溢出す。宮殿人舎山川大地成悉震動す。その夜即
五色 の光気あり、入りて太微を貫き西方に遍し、ことごとく青 紅
色を なす。﹂
と いう ﹃普 曜 経﹄ の仏 誕 の瑞 相 と ﹃周 書 異 記 ﹄ の記 事 と を 二
重 写 し に した形 で論 拠 と し て いる の であ る。
二九二
入 浬 架 と し て いる。 ま た 月 日 に考 定 を 加 え て、 そ の誤 謬 を 正
﹁第十九主荘王佗十年即魯春 秋荘公 七年 夏四月辛卯恒星不見、夜
し て いる。 こ の第 五説 は費 長 房 の ﹃歴 代 三 宝 紀﹄ に、
中星阻 如雨﹂
とあ つ て経 典 を 次 の よう に 引 用 し て いる。
(8)
﹁瑞応経云、沸星下現侍太子生、故左伝称星隈如雨、本行経説、
虚空 無雲 自然而雨、杜氏注解 蓋時無雲﹂
これ ら の論 拠 はま た、 法 琳 の踏 襲 す る と こ ろ であ る。 口 日 圃
ら の年 時 を 採 用 し て いな い。 法 琳 は、 さ き に 述 べたよ う に、
の仏 誕 の年 時 に つい て の論 拠 は薄 弱 であ つたが、 法琳 は そ れ
(二
)股 王説
これ は法顕 伝 に見 え る と ころ であ る が、 法顕 の外 遊 中 で何
仏 誕 の年 時 と し て(一)と(
説五を
)採
の用 し た の であ る が、 特 に 8
す。略 そ遽適 を陳 べ、後先確 かなる者を揚げるなり。﹂
指南 すると謂 う。琳、今見聞すると ころを粗述し、諸史録を詳に
をなす。而 るに差違 ・増減 ・出没あり。皆師己が意 によつて各 々
秦 五典 の焚 に遭う。年紀なす者少からず。帝暦を序 する者多く家
難 し。況や東西隻遠にして、年代遽遙 なり。また六国縦横に して
定 むるもよる べからず。詳 かに聖はまさに方なく、理 は窺 い測り
﹁法門 の東漸 はまさしく是周時、劉向 の言誠に謬らず。長房 の録
昭 王 二 十 四 年説 を重 視 し た と いえ る。 こ の論 末 に、
によ つた か不 確 か であ り、年 時 が大 きく 異 な つて いる とす る。
﹃像 正之 記 ﹄ に 依愚 す る も 見 る と ころ な し、 とす る。
日 周 平 王説
㈱ 周 恒 王説
道 安 己 丑上 統 甲寅、 諸 無 所拠 未 定為 験、 追 記 と し て ﹃羅 什
記﹄ に よ つて論 じ たも の と し て いる。
田魯荘公七年説
﹁
階 朝翻経学 士費長房言う。仏 は荘王時 に生るとは、房 二荘を も
と い つ て、 劉 向 の言 の正 し さ を 述 べ て い る。 こ こ では仏 教 徒
つて世同じく周荘十年、すな わち魯荘 (公) 七年なり。ただし恒
星験 るるにより而し て仏生るる という。 いまだ恒星他 の事にょる
と し て の費 長 房 の言 説 はあ え て否 定 さ れ て いる の であ る。 し
か し な が ら、 法 琳 は、 ﹃破邪 論 ﹄ 巻 下 に お いて費 長 房 の 荘 公
を悟 らず。
﹂
と いう。 法琳 は こ れを ﹃文 殊 師 利 般 浬 墾 経 ﹄ によ つ て文 殊 の
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七 年 説 を 引 用 し て、 そ の 結 び に、
﹁通儒 以為仏生時也﹂
と述 べて いる。 し たが つ て、 か れ 自 身 の説 が 矛 盾 し て いる こ
とは 明 ら か であ る。 ま た、 荘 公 説 は儒 家 に対 処 す る 説 であ つ
た こ とが 知 ら れ る。 周 昭 王説 は道 家 に対 処 す る説 であ つた こ
﹁
釈迦出世年月 は知ること得 べかちず。仏経即ち年歴注記なし。
梁 の沈約 の陶 華 陽 に答 うる 書 に は次 のよ う に いう。
この法ま た未 だ東流 せず。なんぞ これ周荘 の時なる ことを知る こ
(12)
とを得 ん。春秋魯 荘七年四月辛卯恒星見えざるをも つて拠る とな
す にすぎず。﹂
と こ ろ で、 さ ぎ に述 べた、 昭 王説 と荘 王 説 と は、 とも に 天
優 劣 先 後 の具 とな つて争 われな け れ ば な ら な か つ た と こ う
とは 当 然 の こ と であ る。 そ れに も か か わ らず、 仏、 道、 儒 の
仏 教 に よ く 通 暁 し て いた沈 約 が この よう な 説 を 主張 し た こ
変 地 異 と いう自 然 現 象 の 記述 と、 仏典 に 現 わ れ る仏 陀 の瑞 相
であ ろ う。 ま た 仏 教 の起 源 が イ ンド にあ つた と いう こと こ ろ
に、 中 国 仏 教 の複 雑 な 一面 が存 在 し て いる こ と を 理 解 す べき
とは 疑 いな いの である。
の記 述 を 重 ね合 わ せた も の で あ る。 仏 陀 の 瑞 相 と い う も の
に そ の大 き な 原 因 があ る。 イ ンドは も とも と非 歴 史 性 に富 ん
は、 中 国 人 に と つては神 秘 な 世界 を 空 想 さ せ る も の で あ つ
た。 こ れ は仏 教 が中 国 に受 容 さ れ て、 人 々 の興味 を そそ る に
とは いう ま でも な いこ と である が、 そ れ は、 仏教 が イ ン ドと
だ 世 界 であ る。 そ こ で育 つた仏 教 が そ の特 性 を備 え て いる こ
昭 王説 は、 北 周、 北斉 の時 代、 曇護 最 や 法 上 ら に よ つて語
は全 く 対 照 的 な 歴 史 性 に富 んだ 中 国 に 受 け 入 れ ら れる と き の
充 分 な 内 容 をも つて いた と考 え ら れ る。
ら れ、 そ の説 が広 く 流 布 し て いた と考 え ら れ る。 荘 公説 は梁
軋 礫 であ つた と み る こ と ができ る の であ る。
(10)
法 琳 が 仏 誕 の年 時 に ついて仏 典 に み え る 仏 誕 の瑞 相 を 中 国
の時 代 に 信 じ ら れ て いた こ とが 知 ら れ て いる。 ま た この説 は
(11)
﹃二 教 論 ﹄ に 見 る ことが でき、 南 北 朝 を 通 じ て広範 囲 な地 域
の典 籍 に求 め る と いう こ のよ う な短 絡 的 な 説 を 強 調 し た の
は、 太 史 令 傅 変 の 存在 に よ つて いる こと も 無 視 で き な い。 傅
にお い て信 愚 性 を も つて語 ら れ て いた よ う であ る。
仏 誕 の年 時 が 多 く説 かれ た のは、 北 魏、 北 周 の廃 仏 や仏、
(13)
道、 儒 の論争 が契 機 と な つた か ら であ ろう。 とく に これ が、
かえ し仏 誕 の端 徴 を 記述 す る理 由 も こ こ に求 め ら れ なけ れ ば
変 は 占 候 や 予 見 を そ の職 掌 と す る太 史 令 であ る。 法 琳 がく り
二九 三
法 琳 が提 示 し た 仏 誕 の年時 の二 つの説 は、 と ころ を か え て
なら な い で あ ろ う。
道 教 の老 子 化胡 説 の出 現 に 触発 さ れ て、 老 子 とそ の出 生年 時
輪)
の新 古 を 競 う と いう卑 近 な問 題 に端 を 発 し て いる こ とも看 過
でき な い であ ろう。
唐 護 法 沙門 法琳 に つ い て (三
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輪)
二九 四
諸説 を 仏 身 を も つて理 解 す る こと が、 そ の趨 勢 で あ つた と思
唐 護 法 沙 門 法 琳 に つい て (三
広 く 引 用 さ れ て い る の であ るが、 そ れ は道 家 や 儒家 の論難 に
わ れ る。
に つい て、 仏 誕 の年 時 に視 点 を 置 い て述 べ た の であ る が、 そ
の仏 教 界 に 甚 大 な 影 響 を 与 えた。 いま法 琳 の護 法活 動 の 一端
﹁益 国 利 民 ﹂ を か かげ た傅 変 の廃仏 十 一条 の上書 は、 唐 初
応 え る た め のも の であ る。 しか し、 そ こ に は ど う に も な らな
い矛 盾 を 見 る の であ る。 か れは そ の矛盾 を 次 のよ う に解 決 し
﹁
総謂之十 善道也、能具此者、近獲 天報、遠得菩提、 四月八日夜
こに は、 仏 ・道 の優 劣 先 後 と いう 皮 相 な論 に端 を発 し、 初 唐
て いる よ う に思 わ れる。
従 母右脇 而生、当周昭魯荘之世、姿 相超異者 三十 二種、 天降嘉瑞
の仏 教 にお け る 仏 陀 観 の 一面を 知 る こと が でき た。 こ れ ら の
7
この矛盾 した記述は、破邪論 中に五 ケ所、弁正論 中に三 ケ所
6 ﹁別伝﹂巻中 (大正蔵五〇巻二〇 七頁上-二〇八頁 上)。
5 ﹁別伝﹂巻中 (大正蔵五〇巻二〇 四頁下)。
4 ﹁別伝﹂巻 上 (大正蔵五〇巻 一九九頁下-二〇〇頁 上)。
3 破邪論巻 上、(大正蔵五二巻四七頁中)。
2 大 正蔵五〇巻 一九八頁 中-二 一三頁中。以下 ﹁別伝﹂と略称。
第 一巻第三号) の追記 による。
1 小笠原宣秀氏 ﹁
唐 の排 仏論者傅変に ついて﹂(支那仏教 史学。
ろう(
1
6
)。
れ ぞ れ異 な つた 仏 教 思 想 と し て、 改 め て考 え てみ る べ き であ
滅 の年 代 は相 即 不 離 の関 係 にあ る が、 こ の二 つ の事 柄 は、 そ
で、末 法 思 想 の興 起 と関 連 し て論 じら れ る。 仏 誕 の年 時 と仏
ま た、 仏 誕 の年 時 は、 仏 滅 の年 代 の算 定 の基 準 とな る も の
に昇 華 さ れ てき た よ う に思 わ れる。
事 柄 は、 北 魏 北 周 の廃 仏 の線 上 にあ つて、 順 次 に 形 而 上学 的
以応之﹂
(14)
法 琳 は、 周 昭 王 か 魯 荘 公 の世 に、 仏 は 三十 二 相 を も つて顕
現 さ れ た と い い、 ま た仏 に は ﹁真 応 二身 あ り ﹂ ﹁法 身 像 な し﹂
と述 べる こと に よ つて、 ﹁仏身 ﹂ を も つ て仏 誕 の年 時 の 矛 盾
の打 開 を は か つた と考 え ら れる。
四分 律 の学 匠 で、 ﹃続高 僧 伝 ﹄﹃広弘 明 集 ﹄ な ど多 く の著 書
を も つて知 ら れ る道 宣 は、﹃道 宣 律 師 感 録 ﹄ に お い て、 中 国
に は仏 誕 の年 時 に つい て、股、 周 昭 王、魯 荘 公 と説 があ る が、
こ れを い か に定 め る べき か と いう 問 いに 対 し て、 天 人 に 仮 託
し て次 のよ う に述 べて いる。
﹁皆ゆえあり、弟子夏桀 の時生るるを ミ
具ハ
さ には仏 の垂 化に見る、
か つ仏 に三身 の法報あり、二身 は則ち人 の見る ところにあらず、
⋮⋮釈迦は人に随 ひて感 ずる所、前後定めず、股末 に在り、或 は
(1
5)
魯荘 に在り⋮⋮﹂
これ に よ つ て、 道 宣 は、 三身 思 想 に裏 付 け ら れ た仏 陀 観 を
も つて いた こ とが 明 ら か であ る。 唐 初 に は こ の仏 誕 の年 時 の
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歴 代 三 宝 紀巻 一 (大 正 蔵 四 九巻 二三 頁 上 ・中 )。
見 る こ と が でき る0
8
大 正蔵 五 二 巻 四 八 四 頁 中。 広 弘明 集 巻 十 一 (大 正 蔵 五 二巻 一
道 樹 始 於 迦 維、 徳 音 盛 干 京 洛、 恒 星 不 見 周 監娠 徴 ﹂ と、 侍 中
六 五頁 下 ) に は ﹁信 知 仏 生 時 也﹂ とす る。
9
10
安 前 将 軍 丹 陽 サ 郡 陵 王 が ﹁廃 李 老道 ﹂ を梁 の武帝 に 上奏 する 章
旬 に見 え (広 弘 明集 巻 四、 大 正蔵 五 二 巻 一 一二頁 下 )、ま た ﹁迦
維 羅 道 最 尊分、 黄 金 之 誰 能 原分、 恒 星 不 見 頗 可論 分、 其 説 彬 柄
多 聖 言分 ﹂ と梁 の江 俺 の ﹁遂 古 篇﹂ (広 弘 明 集 巻 三、 大 正 蔵 五
二巻 一〇 七 頁 上) に 見 え る と ころ で あ る。
﹁観 察 天 文稽 定 暦 数 凡 日 月 星 辰之 変 風 雲 気 色 之異、 率 其 属 而
広 弘 明集 巻 五、 (大 正 蔵 五 二巻 一二 二頁 中 )。
11 広 弘 明 集 巻 八、 (大 正 蔵 五 二 巻 一四 二頁 上 )。
12
大 正 蔵 五 二巻 四 三 九 頁 中。
と の関 連 に お いて 考 え な け れば な ら な いも の があ る。
破 邪 論 に お い て論 じ ら れ ら れ て お り、 とく に ﹁法 身 無 像 ﹂ に
つ い ては、 北周 の武 帝 の論 難 に 答 え た ﹁慧 遠﹂ の ﹁
真 仏 無像 ﹂
占候之﹂(
﹃旧唐 書 百 官 志﹄)。
13
14
15
こ の問題 に つい ては、 矢 吹 博 士 ﹁正像 末 三 時 観﹂ (
﹃三 階 教 の
研 究 ﹄)、高 雄 義 堅 氏 ﹁末 法 思 想 と諸家 態度 ﹂ (
﹃支 那 仏 教 史 学﹄
16
一巻 一号 ・三号 ) な ど、 多 く の論文 に 見 ら れ る の であ る が、 そ
こ で は仏 誕 の年 時 と仏 滅 の年 代 が同 列 視 さ れ る傾 向 が あ る。 し
かし、 これ に つ い て ﹁内 観 的 な 末 法 の自覚 ﹂ と いう こと を 野 上
輪)
俊 静 博 士 は、 と く に ﹁中 国 にお け る 末 法思 想 の展 開 に つ い て﹂
唐 護 法 沙 門 法 琳 に つ い て (三
(﹃山崎 先 生 退 官 記念 ・東 洋 史 学 論 集 ﹄) のな か で指 摘 さ れ て い
る。 し た が つ て、末 法 思 想 を主 と し仏 滅 の年 代 を従 と し て考 察
西 山蕗 子 氏 ﹁法 琳 ﹃破邪 論 ﹄ に つい て﹂ (鈴 木 学 術 財 団
さ れ る べき で あ ろ う。
追記
つ て語 ら れ帽と く に傅 変 の廃 仏 十 一条 の再 現 を試 みら れ て いる。
研 究 年 報 ・ 一九 七 二 ・九) は、 こ の ﹁論﹂ の構 成 を 詳 細 に わ た
こ の論 稿 を い ただ き多 大 な 示唆 を 得 た ことを こ こに 附 記 し て謝
意 を 表 す る次 第 です。
二九 五
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