研究連絡誌 第69号の1 - 千葉県教育振興財団

千葉市人形塚古 墳 の い わゆる地 割線 につ い て
澤
山ユ
沼
は じめに
よって、筆者 の企画論、尺度論 の正 当性 の証 じとした
千葉東南部 ニ ュー タウン報告第35冊 として、人形塚
1)が
古墳 を含 む椎 名崎古墳 群 B支 群 の報告書
刊行 さ
い。
れた。 多数 の埴輪 を伴 う人形塚古墳 をは じめ とす る十
1.古 墳 の概要 と地割線
数基 の古墳 に加 え、厖大な旧石器や縄文土器 をバ ラ ン
人形塚古墳 は前方部 を南西面 させ る前方後円墳 で、
スよ く網羅 し、綿密周到 な編集 と事実記載、簡 に して
二重 の周溝 を伴 う。周溝 は、前方後円墳 に通有の盾形
要 を得 た調査の意義 づ けが配 された きわめて質の高 い
報告書 である。刊行 まで20年 、直接担当者だけで も延
や墳 丘 相似 形 の平面 プラ ンで はな く、例 の 少 な い 長
4)で
ぁ る。地形 の制約か ら、外溝 は右側縁
方形周溝
べ30余 名 にのぼる。セ ンターの総力が結集 された記念
のほぼ全 面、左側 も後方 の 隅角が斜面 にかか り、予定
碑的労作 とい って過 言 ではなかろ う。
2)は
思 えば東南部報告第 1冊
筆者 が執 筆 した もの
どお り設定 されてい ない。内溝 の左後方 の 隅角 も、斜
面 を避けたため直角 になってい ない。 また、前方部の
であ ったが、比べ 見て汗顔 の至 りとい うほかない。 こ
左隅角 の先 に竪穴住居があ り、 これを避 けるかの よ う
の調査 は椎名崎古墳群 A支 群 の古墳 6基 (前 方後円墳
に、内溝、外溝 とも途切れている。墳 丘は比較的 よく
1を 含 む)を 対象 とし、主体部 は横穴式石室 5、 箱式
遺存 して いたが、左側では、 くびれ部 を中心 に後円部
石棺 2を 発掘 した。今の歩掛 りなら何 月人の力量 にな
か ら前方部にかけてかな り広 い範囲で裾部 を削 り取 ら
るのかわか らないが、実質 Hか 月で発掘か ら整理 まで
れてい た。
一 人で担 当 した。地形測量 には じまって石室 ・石棺 ・
墳 丘規模 につ い て、墳 長 は内溝下端 で とらえる と
遺物出土状況 の実測 ・写真撮影、整理に入 ってか らも
42.6m、
熟練 の調査補助員は配 されず、遺物の実測・撮影、遺
上端 で26.6m、 前方部前幅 は復元推定28.4mと 報告 さ
構 。遺物 の トレース、挿図 ・図版組み まで何か ら何 ま
れてい る。
上 端 で は41.8m、 後 円部径 は下端 で27.2m、
で一人でこな し、事実記載の原稿 までがやっ とで、新
円筒埴輪 のほか、人物、馬、家形などの形象埴輪が
年度 になる と千葉 市東寺 山石神遺跡 の 調査 に まわ さ
出土 し、それ らは殿塚古墳、姫塚古墳 など山武地域 の
れ、校正 さえ見せて もらえなかった。
古墳 出土品 と同工の可 能性が高 く、殿塚古墳が二重 の
報告書 に書けなかったことの うち、円墳 の築造企画
長方形周溝 をもつ こととと もに、両者 の親縁性 を示す
に関す る着想 については、それか ら25年 の あ と、本誌
3)に
第56号
掲載す ることがで きた。それ を機 に、全
要素 と考え られて い る (報 告書481頁 )。
国の あ らゆる墳形の古墳、 さらには横穴式石室の企画
墳 丘封土 を除去 した ところ、黒色の旧表土面に、幅20
性 にまで論 を及ぼ して きたが、筆者 の築造企画論 の原
cmほ どの黄褐色土面が帯状 に、あ る い は小 ビッ トの
点 ともなった千葉東南部地区 の200基 を超す古墳 にお
連続 として検出され、存在が明 らかになった。深 さは
ける企画性 を検証す る、 いわ ば足下 を固める作業は等
1∼ 5 cmで 、黄褐色土は意図的に充填 された可能性 も
閑に付 されたままであった。
考 え られる とい う (292頁 )。 この地割線 に関 しては、
5)(以
下
本誌第 19号 に発掘担 当の笹生衛氏が調査概要
そ こで、人形塚古墳報告書 の刊行 を機 に、 この古墳
の企 画性 と、旧表土面で検 出されたいわゆる地割線 の
意義 について検証 し、辺境 の一古墳が、全国一律の設
計原理 によって築造 されて い ることを確認す ることに
-1-
いわ ゆ る地割線 (報 告書 で は「墳 丘 計画線」)は 、
「概要」 とい う)を 寄稿 し、その意義 につい て も所見
を述べ てい る。
後円部 では 2条 の 同心円状 の地割線が確認 され、内
(1781)
円 の直径 は14.4m、 外 円は くびれ部にのみ残 された円
す ると、外 円は半径 12単 位 目の 円周に一致 し、内円は
弧か ら25.2mと 推定 された。内外 円周 の意義 について
半径 7単 位 目の 円周によく一致 して い ることがわかる
概要 と報告書 では多少表現が異 なるが、内円は墳 丘第
(第
2段
周間 にお さまってい る。
(上 段 )の 基底 (裾 )を 画 し、外円 は周溝 (内 溝 )
の掘 りこみ 開始線、すなわち内溝 の上端線 を示す とい
1図 )。 横穴式石室 は半径 8単 位 日と12単 位 目の 円
実 は筆者 が発掘 した椎 名崎古墳 群 A支 群 の 2号 墳
A-2号 墳 の ようにい う)が 同 じ径 18歩
う見解 で一致 してい る。
(以 下、
(24.7
くびれ部か ら前方部方向 には、 4本 の直線状 の地割
m)の 規格で、横穴式石室は奥壁 を中心か ら8単 位 目
Dと 仮 に名づ け
に置 き、羨門を12単 位 目に置 くとい う、人形塚 と同 じ
線が確認 された。左か らA、
B、
C、
る と (第 6図 )、 左 内側 の B線 は、後円部寄 りでは墳
平面構成 をもってい た (第 2図 )。
丘 中軸線 に平行 し、途中か ら左 に開 きは じめ、 いわ ゆ
両古墳 とも石室 は脆弱 な水成砂岩 で造 られ、天丼石
る撥形 のカープを描 く。一 方、 A線 とC線 は直線的に
にも同 じ石材が使われて いた。当然天丼石 は発掘時 ま
延び、部分的に も中軸線 と平行する ことな く、前方に
でに崩落 して いたが、その脆弱性 ゆえに石室 の上に厚
向か って開 いて い る。右側の D線 はご く一 部 しか残 ら
く盛土 し、盛土の過程で封土 を叩 き締めるような作業
ないため、開 き方はわか らない。 4本 とも内円の外側
は絶対 に避けなければならない。そのため、 A-2号
を起点 とし、 内円 とは接 しない。
墳 では、半径 8単 位 目より内側にのみ高 く盛土 し、外
線
概要では、「前方部側面 にそって走 る直線状の地割
側 は低平 なテラス として石室 を保護す るとともに、天
C線 か ?)は 前方部上段墳丘 の上端部稜線 と
井石崩壊 に備 えて第 2、 第 3の 主体部 を追加設置で き
(A、
一 致す る」 として、「前方部 上段墳丘 の盛土作業 と密
接 な関係がある ことは間違 い ないJと 評価する。 一方、
るよ う措置 されていた もの と推察 した (注 3文 献 )。
この想定 を基本的に修正す る必要 を感 じないが、墳
報告書 では、「前方部 の墳 丘構築 に関わる と考 え られ
丘裾 を中心か ら 8単 位 目と考 えた点は、人形塚の例か
「盛
るが、現状 の測量図 とは合致 して い ない」 として、
ら推 して 7単 位 日とした方が妥当で、訂正 したい。 8
土範囲を画す る線 とは考 えに くい」 (294頁 )と 結論 じ
単位 目が墳裾 とすると、墳 丘構築後 に追加 された とみ
て い る。
られる箱式石棺 を設置す るためには、墳裾 をかな り削
り取 らなければな らない。墳裾が 7単 位 日であれば、
2.後 円部 の地割線 と当初 プラン
裾線 ぎりぎりになるので、墳 丘 をほとん ど損壊 しない
筆者 はこれ までの研究 によって、古墳 は主丘 部直径
で設置 された ことに なる。
の24分 の 1の 長 さ (24等 分値 )を 基準単位 として設計
椎名崎 A-3号 墳 も同 じ径 18歩 (24.7m)の 墳 丘規
されて い ること、つ まり半径 を12単 位 に とり、墳丘各
格 で、横穴式石室の設置 にも同 じ企画性が認め られる
段 の裾や肩 の線 の半径 を単位数で決定 し、前方部長や
(第
幅、周溝 の幅なども同 じ基 準単位 によって決定 して い
3図 )。
椎名崎 A-1号 墳 は前方後円墳 で、後円部 は人形塚
よ り半 ラ ンク (3歩 )大 きい径21歩 (28.8m)の 規格、
ることを明 らかに して きた。
また、古墳 の主丘部直径 または一辺 の長 さは ,最 初
前方部長は12単 位、前幅 は24単 位、周溝 はほぼ一 定 の
の古墳 である奈良県箸墓古墳 の120歩 (164.4m)を 基
幅 (4単 位 )で め ぐる墳 丘相似形 であ る (第 4図 )。
準 と して、古 墳尺 (1尺 22.9cm)の 6歩 (8.22m)き
横穴式石室 は くびれ部 に近 い変則 的な位置 にあって、
ざみにあ らか じめ定め られた規格値 の序列 の 中か ら選
そ のためか奥壁 は 8単 位 目よ り外側 にあるが、墳裾部
択 されて い ること、径30歩 (41.lm)以 下の中小規格
の地下に置かれ、中央墳丘 を避けてい る点 は人形塚そ
では 3歩 (4.1lm)き ざみに微調整 されて い ることを
の他 と変わ らない。
明 らかに した
人形塚の後円部 と、椎名崎 A-2号 墳、 3号 墳 の主
6)。
後円部地割線 の外円直径 は25.2mと 推定 されて い る
丘部は同一の墳 丘規格 (直 径 )を もち、墳丘第 2段 裾
が、 これは径 18歩 (24.7m)の 規格値 に近 い。外 円の
の径、石室 の設置位置など共通 の企 画性 を示す。 これ
地割線 は くびれ部 に残 ったわずかな円弧か ら推定 され
は決 して偶然の ことでは な く、石室構築材 の脆弱性 に
てい るので、若干 の誤差 はまぬがれ難 く、本来は径 18
配慮 した上で、古墳尺 を用 い る24等 分値企画法 とい う
歩 に設定 されてい た可 能性が高 い。
設計法 によって設計、施工 された結果である。
径 18歩 (1単 位 は3/4歩 、 1.03m)の 円周 図 を作成
(1782)
-2-
地割線の内円に関 しては、報告者の見解 の とお り墳
第 1図
人形塚古墳
24.7m)
企 画図 (後 円部径 18歩 。
-3-
(1783)
ノ てなく
aし
:α
:
第 2図 椎 名崎 A-2号 墳 企画 図 (墳 丘径 18歩 。
24.7m)
― 既発表の図に半径7単 位 の 円周 (破 線 )を 加筆 一
丘 第 2段 の裾線 を示 し、封土 を高 く盛 り上げる範囲を
図か らも墳 丘 第 1段 の高 さが この程度だった ことが納
明示 してい ることはまちがいない。 このことは墳 丘断
得 される。第 1段 の斜面幅 を推定す る情 報 はないが、
面図 (第 5図 )か らも見て とることがで きる。 まず中
あ ま り急勾配に仕上げ られてい なかった とみて 2単 位
央墳丘 を高 く盛 り上げ、次 いで墳丘第 1段 を横穴式石
の幅 と考えてお くのが無難であろう。テラスの幅は 3
室設置後に積み上げるとい う構築手順が とられている
単位 とな り、埴輸群像 を置 くには十分な幅が確保 され
のは明 らかである。
ているといえよ う。
石 室 天丼石 は、奥壁 の上 に載 った 部分 が わ ず か に残
り、 そ の上 面 は旧表 土面 よ り50cmほ ど高 い か ら、 これ
3.前 方部の地割線 と当初プラン
を被 覆 す るため墳 丘 第 1段 は 1単 位 (1.03m)程 度 の
前方部地割線 の B線 と C線 が 対応す る もの とす る
高 さに仕 上 げ られ た もの と思 われ る。前 方 部 の 横 断面
と、その 中間に古墳 中軸線が通 ることとなるが、筆者
(1780
―-
4 -―
第 3図
椎名崎
A-3号 墳
企 画図 (墳 丘径 18歩・24.7m)
の推定す る中軸線 より4度 、報告者 の もの より5度 ほ
とい う こ とに なるが、 これ で は第 2段 の斜 面 幅が狭 す
ど左 に振れて い る。 一つの解釈 として、当初地割線 の
ぎる点 は難点 とな る。 また、 第 2段 肩 の 線 (B、
よ うに計画 したが、右側に斜面が迫 っているため不都
は盛 土 が始 まれ ばす ぐに埋 もれて しま うか ら、 旧表土
合が生 じ、中軸線 を左 にず らす修正が図 られた可能性
面 に表示 して も実用 的 な意 味 は な い。
B')
後 円部 の 2本 の 地割線 には、盛 土 と周溝 掘 削 の 範 囲
は考え られ よ う (報 告書 はこれに近 い見解 をとる)。
これ とは別 に、 B線 に対応す る地割線 が中軸線 の右
を示 す とい う実用 的 な意 味 が あ った。前 方 部 で もA線
側では検出で きなかった可能性 は考 えられない だろ う
とD線 が周溝 の掘 りこみ 開始線 、 B線 と C線 が墳 丘 第
か。 A線 を筆者推定 の 中軸線 を基 準 に折 り返す とC線
2段 の 裾 を示 す もの な ら実 用 的 意 味 を もつ とい え る
B線 を折 り
が、 そ れで は前 方部 の 幅 が小 さす ぎ、 また中軸線 と も
返 した線 B' を引 くと、 BB'は くびれ部では中軸線
ブ レが あ って、 で きあが つた墳 丘 プ ラ ンとの離齢 が甚
に平行 し、前方部先端 に向けて徐 々 に幅 を広げる。 こ
だ しい 。
にほぼ重 なるのが 根拠 となる (第 6図 )。
れは前方後円墳鞍部 の肩 のラインとしてふ さわ しいプ
A、
B、
C線 は、 後 円 部 の 外 円 と第 1段 肩 線
(中
ラ ンとい える。後円部規格 の大小 にかかわ らず、鞍部
心 か ら10単 位 目の 円周線 )を 大 き く越 え、 内円近 くに
の両側肩線間の幅が 4単 位 となる前方後円墳 は多 い。
追 って い る。 したが って、 これ らは前 方部 の墳 裾 線 や
B'が 前方部第 2段 の肩線 を示す とすれ ば、 A
第 1段 肩線 を示 す もの で はな く、 第 2段 裾 よ り上 の線
B、
線 とC線 は第 2段 の裾、 D線 は第 1段 の肩 の線 を示す
-5-
を示 す とみ る しか な い
(D線 は10単 位 目の 円周線 をわ
(1785)
彦
, ′/
十
/
/
/
\
\
/
/
I
ア
ヽ
ヽ
瑳
ア
愈
/
呵
\
/
\
く
″
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ヘ皿
響
/
\
≡ /
一ヽ
`
`
ヽ
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\
7左
/
\
、 \:
\
′ ■
/
\
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驀 ヽ` 山ヽ
)ヽ
\
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ヽゝい ヽ
\
夭
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遮
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ヽ
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ヽ
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ヽ
ば、
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+1
ヽ
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ミヽ
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一
ミ
〆
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ゝ
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│ヽ
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カ
べヽ
︲
ノ
ヽ
一
ヽヽ
、
々
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壼
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漣︶
マ
ご
ヽ︵
‘
ヽ
十
ミ
′
ミ
2
士
+
(1786)
椎名崎
0
ノイ
注
第 4図
―
A-1号 墳
ト
グ
企画 図 (後 円部径 21歩 。
28.8m)
-6-
LC
+
0.
0.
b十 +
ヽ
′
4
/\
+0.6
第 5図
人形塚古墳
墳丘断面図 (報 告書 第 114図 から改図 )
-7-
(1787)
第 6図
人形塚古墳
前方部地割線折返 し図
ずかに越 える ものの最 も手前で止 まってお り、第 1段
ている。 したがって、第 1段 肩 よ り上の計画線 を地上
肩線 を示す とみる余地 を残す )。
に表示 して も意味はないこ とになる。
墳 丘 断面図によるか ぎり、前方部では墳 丘 第 2段 に
土色の差が見分けに くい とい った事情 のため、検 出
当たる中央墳丘 を先 に盛 り上 げ、そ の後墳丘第 1段 を
されなかった地割線があ ったことは十分考えられる と
その まわ りに付加する工 法 は とられてい ない。逆 に第
ころとい えよう。ただ、 いずれに しろ前方部では実用
1段 を墳丘範囲全体 に 1単 位 の高 さ
(前 方部前縁部で
的 には必要 な い線が引かれて い るこ ともまちが い な
は 1単 位半 )で 盛 り上 げ、そ の後に第 2段 を積み上げ
い。なぜそ の よ うに実用的に意味 のない線が引かれた
(1788)
-8-
のか、断案は示せ ないが、おそ らく設計図をもとに作
中堤 も全体 に幅 3単 位 に設定 されて い ることは明 ら
業工 程 を検討 した り、作業員 のための説明用 に、墳 丘
かで、中堤外周 は51× 36単 位 (17× 12区 )に 計画 され
築成上のポイ ン トを示 した もの と考えるのが今 の とこ
ていた とみ られるが、 これ も実際には51× 35単 位 の仕
ろ最善 の解釈か と思われる。
上が りとなっている。
この よ うに、後円部 と異 な り地割線か ら前方部 プラ
外溝 の幅 は後円部背後 ではほぼ 3単 位 だが、左側縁
ンを復元する ことは今 の ところで きないので、発掘状
では 3∼ 4単 位、右側 は コー ナー部 しか確認で きない
況図に、後円部中心点 を基準 とす る24等 分値方格線 を
がほぼ 4単 位、前方部手前 では 7∼ 8単 位 ほどにもな
重ねた企画図によって前方部墳裾プラ ンを復元 した。
リー定 しない。
前方部長は、報告書 の とらえ方 では16単 位 ほ どにな
近年、二重周溝 を伴 う前方後円墳 の発掘調査 による
るが、 これでは周溝 内壁 の下端 に達 して しまう。後円
確認例 が増 えつつ あるが、総 じて中堤や外掘の設定は
部直径 は旧地表の掘 りこみ 開始面 でお さえ られ るか
厳密 に行われてお らず、等分値方格線 とよく一致す る
ら、前 方部 の規模 も同 じ面でお さえ、前方部長 は15単
のはせいぜ い内溝外周線 までである。それに くらべ 人
位 とみてお くのが妥当である。
形塚 では中堤 までかな り厳密 に施工 されてい るとい え
後円部径24単 位 を加 え、墳長は39単 位、歩数では29
歩 1/4。 40.lmと なる。
るが、外溝 になると掘 りこみ も浅 く、幅 も一定 しない
など、地形的市U約 などもあってか、やや杜撰 な仕上が
前方部前幅は、内溝 の外壁 との関係な どか ら26単 位
りにな っていることは否 めない。
に、 くびれ部 の幅 は、右隅角か ら前 方部側縁 の右側斜
面部 の等高線 と平行す る直線 を引 く作図 (左 側 は損壊
5.施 工基準面 と墳裾面
が著 しくこの方法によ り難 い)に よって16単 位 ととら
人形塚で検出された地割線、中で も後円部 のそれは
え られる。 この よ うに して推定 したall縁 線 は、地割線
筆者 の企 画論、尺度論 の正 しさを立証す る資料 となっ
と平行 してい るか ら、 この推定 の正 しさと、地割線が
た。
やは り前方部 の墳 丘側縁部 の構築 に深 く関 わる計画線
後円部 の地割線外 円 は周溝 の掘 りこみ線 を示すが、
そ の直径 は古墳尺 の径 18歩 (24.7m)に 正 確 に一致 し
であったことが理解 される。
なお、復元 した右隅角 は、現状の隅角下端 よ り外 に
ていた。 このことは、掘 りこ まれた周溝内壁の下端線
張 り出 して しまうか ら、実際には隅角 は斜めに面取 り
によって墳丘規模が示 される例ばか りでな く、掘 りこ
されていたことが分かる。葺石の基底石列が全面的に
み 開始面、すなわち施工基準面 で墳丘規模 をとらえる
発掘 され、隅角が面取 りされていることが確認 された
べ き類例がある ことを教 えて くれる。
事例 として長野 県飯 田市久保 田 1号 墳 (前 方後 円墳、
筆者 は、墳 丘規模が示 される面 を「墳裾面」 と呼ん
前方後円墳集成編年 8期 か)、 大阪府藤井寺市鞍塚古
でいるが、人形塚 は施工基準面 と墳裾面 が同一 レベ ル
墳 (帆 立貝古墳、 6期 )、 群馬県高崎市若宮八幡古墳
になる例であった。 これに対 し、栃木県の基壇古墳 な
9期 )な どがあげ られ る
7)。
実際 の施
どは、施工基準面は旧地表面 にあ りなが ら、墳裾面は
工 に際 して、斜面が安定す るよ う隅が丸 く仕 上 げ られ
掘 りこまれた周溝 の 内壁下端線 にある。施工基準面 と
る場合 も多かった ことが理解 される。
墳裾面 の レベ ル を異 にす る例である
(帆 立貝古墳、
8)。
墳 丘規模 をどの面で計測すべ きかは大 きな問題であ
4.周 溝 と中堤
り、そ の とらえ方を誤れば、当初 プランの把握や使用
前方部長 は15単 位 とい う奇数単位 と確定 されたが、
尺度の推定 にも成果は期 し難 い。墳裾 に葺石の基底石
これは 3単 位 を 1区 とす る大 単位 (3単 位区)の 5区
があれば、そ こがほぼまちが い な く墳裾面 で ある。問
に当たる。 この古墳 の概略設計 にこの大単位が使 われ
題は関東地方南部 の よ うに葺石 をもたない古墳 で、 こ
た可能性が高 いこ とを うかがわせ る。事実、内溝 の幅
の場合 は等分値円周線 と墳 丘 各段 の裾や肩 の線、 主体
は後円部背後 と左、前方部前面 で 3単 位 であ り、内溝
部、埴輪列 な どとの一致状 況 を確認す る作 図作 業 に
外周 の全体規模 は45× 30単 位 (15× 10区 )に 計画 され
よって、慎重 に判定 しなければならない。
ていた可能性が高 い。ただ し、墳丘右側 だ けは斜面が
迫 っているため幅 2単 位 にせ ばめ られて い る
(し
た
人形塚では、後円部 の 2条 の地割線お よび横穴式石
室 と等分値 円周線 との一致か ら、周溝掘 りこみ 開始面
で墳 丘規模 を とらえるべ き こ とが確 認 され、後 円部
がって実際の 内溝外周幅は29単 位 )。
-9-
(1789)
規格が確定 された。 また、近傍の椎名崎 A-2号 墳 で
認 され、類例 はこち らの方が多 い
121。
は二重 の周溝 と横穴式石室 との一致か ら、 A-3号 墳
蔵塚報告書 (72∼ 73頁 )で は 島根県松江市古 曽志
で も横穴式石室 との一致か ら、同様 の事実が確認 され
大谷 1号 墳 (前 方後方墳、 8期 )を 腹付 工 法 が とられ
た。
た類例 としてあげて い るが、後方 部 の築造が先行 し、
『前方後円墳 集成』9)で は墳 丘規 模 は周溝下端 で計
その あ とに前方部が付加 されてい るのは確か だ として
測すべ きとして い るが、一律的なその よ うな とらえ方
も、後方部 自体 では中央方丘の築成 を先行 させ るよ う
では、築造時に意図 された墳丘規模、 さらには墳丘の
な手順 は認 め られない (基 本的に墳丘第 1段 は地山削
平面プラ ンを正 しく把握 で きない場合がある ことを知
り出 しによって形成 されて いる)。
るべ きであろう。
墳 丘の 断ち割 り調査 によって、後円部 の築成 が先に
行 われ、そのあ とに前方部が付加 されてい ることが確
6.墳 丘築成の手順
認 された事例 はそれほ どまれではない。静岡県磐田市
後円部 の地割線内円は、墳丘第 2段 の盛土範囲を示
赤門上古墳 (3期 )、 名古屋市大須 二子 山古墳 (8期 )、
す もので あ った。墳 丘断面図か らも、内円の内側 に急
島根県松江市 岡田山 1号 墳 (10期 )、 同出雲市大念寺
傾斜 の 円丘 を盛土 し、そ の後そ の周囲 に第 1段 の封土
古墳 (10期 )な ど")の ほか、 筆者 自身 も椎 名崎 A―
を付加 して い ることが明 らかに見て とれる (以 下、 こ
1号 墳 で 同様 の状況 を確認 してい る。
の工 法 を、既存 の堤防を補強す るため側面 を盛 り足す
「腹付」 とい う伝統的工法 の用語 を借 りて 「腹付 工法」
しか し、後円部 自体 の築成手順 が、土壇積み上げ工
法 によらず、中央円丘 の築成 を先行 させ る腹付工法に
よる事例 はきわめて まれである。その確実な類例 とし
と呼 ぶ)。
腹付 工 法 は大 阪府羽曳野市蔵塚古墳 (9期 か)で も
確認 されて い る
101。
この古墳 では「土嚢列」が検 出さ
て人形塚 を追加で きた意義は大 きい。
蔵塚 は 6世 紀 中葉か ら後葉、人形塚 は 6世 紀末 の築
れ、その観察か ら盛土作業の手順が明 らかに された。
造 とみ られるか ら、古墳時代後期 になってこの よ うな
まず後円部「内円丘」が第一に築成 され、次 いで 同「外
円丘」→前方部 「内方丘」→ 同「外方丘」 の順で積み
工 法が 一 部 で採用 された ことは確 かだ として も、 どの
程度普及 した ものか今 の ところわか らない。
封土内に横穴式石室 を築 く古墳 では、側石 を 1段 積
上げ られて い る (第 7図 )。
一方、 一 定 の厚 さの土壇 を積層模型の ように何段 も
み上げる ごとに、石が外側 へ 転落す るの を防 ぐた め、
積み 上 げてい く工 法 (土 壇積 み上 げ工 法 )も 知 られ、
裏込 め として固 く締 め固め られた土や粘土が石の高 さ
大阪府堺市百舌′
島大塚 山古墳 (5期 )H)の よ うな大王
まで盛 られ る (石 室 内側 へ の転落 は木 の枠型 に よっ
墳 に準ず る大古墳 をは じめ として、千葉県 で も市原市
て防がれ る)141。 結果 として石室が完成す るころには、
新皇塚古墳や大厩浅間様古墳 (共 に 4期 )な ど広 く確
そ の まわ りに土餞頭 の よ うな甲高 の盛土がで きあがる
ことになる。その あ とに土慢頭 を被覆す る盛土が行 わ
れ、墳丘の全体的形状が調整 される。墳丘断面か らこ
の よ うな構築手順が観察 される事例は各地で知 られる
ので、腹付工法 は横穴式石室の導入に伴 って成立 した
新 工法 の可能性が考 えられる。
仮 に、 6世 紀代 にこうした工法がある程度普及 して
い た とすれ ば、人形塚 もこ うした新技術 を導入 して築
E後
円部 内 円自 1'ロ ヨ 前 方部 内方 自 Ⅲ
El後
円部 外 円丘(Π
造 された可能性 は考え られる。ただ し、 この古墳 の石
)
I El前
室は封土 (中 央墳丘 )内 には築かれず、地山を掘 りこ
方部外 方 日 m
んだ地下に構築 されてい た。
人形塚 の場合、脆弱 な石材 を使 って横穴式石室 を構
築 しなければな らない とい う事情があ り、石室の周囲
で大 きな圧力 と振 動が生 じる盛土 を行 うことはで きな
第 7図
(1790)
い。封土積み上げの過程 で、締 め 固めの際 の圧 力 など
大阪府蔵塚古墳 の墳丘 構造模 式図
(報 告書 から転載 )
がかかる中央墳 丘 を先 に築成 してお き、そ の後に石室
-10-
を地下 に構築す る とい う合理 的 な手順 が とられて い
い もの ねだ りとい うべ きだ ろ う。
る。石室 を地下に構築するのは、石材の脆弱性 に配慮
いずれに して も、本稿 の よ うな検討が可能 になった
して この地で創案 された地域色 といえよ う。ただ、人
の も、旧表土面 での地割線 を見逃 さなかった調査担 当
形塚 のほか椎名崎 A-2号 墳、 3号 墳 で も石室構築に
者 の功績 に負 うもので あ り、その慧眼に感服する しか
同一の企画性が確認 されるか ら、単発的な築造技法で
ない。
はな く、一定 の地域的広が りをもっていた可能性 は十
それに して も筆者が椎 名崎古墳 群 の 調査 を担 当 し
分考え られる。殿塚古墳 との長方形周溝や同工人物埴
た昭和49年 当時、墳 丘の全面除去な ど考え られ もしな
輪 の共有 などに着 目すれば、山武地域 なども含む広域
かった ことを思えば、 10年 ほ どの間に文化財保護側の
に及ぶ技 法 であった可能性 も高 い と思われる。
意向が開発者 にも理解 され、十分 な調査がで きる体制
中央墳丘 の積土 を先行する腹付工法 も、脆弱 な石室
が整備 された ことを知 ることがで きる。直接 の調査担
に配慮 して この地で考え出 された もの なのか、それ と
当者 のみ な らず、埋蔵文化財保護体制の強化 に尽力 さ
も蔵塚 に見 られた よ うな畿内の技法が導入 された もの
れたすべ ての関係者 に感謝 しなければな らない。
か、その評価 によって人形塚 における古墳築造技術 と
技術者 に関する評価が分かれることになるが、その判
注
定 は今後 の課題 としたい。
1)白 井 ほか『千葉東南部 ニュータウン35-千 葉市椎名崎古墳
いずれに しろ、人形塚古墳 などの設計か ら施工 管理
群 B支 群―』的千葉県教育振興財団,2∞ 6年
までをになった、ある種の専 門的造墓技術者 の存在 を
2)沼 澤 『千葉東南部ニュー タウン 1-椎 名崎古墳群
一』0千 葉県都市公社,1975年
想定 して誤 りな い もの と考 える。古墳 尺 に よる一定
3)沼 澤「円墳築造 の企画性」『研究連絡誌』 第56号 ,国 千葉
の主丘 部規格 (直 径 )が 採用 され、24等 分値企画法に
よって築造 されてい ることか らそれはい える。後円部
(第
1次 )
県文化財センター,201Xl年
4)市 毛勲「前方後円墳 における長方形周溝 について」『古代
学研究』第71号 ,1974年
の築成工 法が中央 の新技法 を導入 した ものだった とす
5)笹 生衛「椎名崎古墳群 。人形塚古墳発掘調査概要一人形塚
れば、その古墳 1基 か ぎりの施工者 による仕事 とは到
古墳旧地表面上の地割線について一」『研究連絡誌』第19号
底考えがたいこ とになる。同様に、墳形や主丘部規格
19874F
の決定 も、造墓主体者 の任意にまか された ものでは な
く、 6世 紀末 になって もなお、倭王権 による造墓管理
,
6)筆 者の築造企画論の全容については沼澤 『前方後円墳 と帆
立貝古墳』 (雄 山閣,201p6年 )に まとめたので参照 されたい。
7)澁 谷恵美子 『久保田遺跡 久保 田 1号 古墳 (正 清寺古墳)
閻魔 王塚古墳― その 2
政策 の統制下に置かれてい たこともまた認めなければ
古墳編―』飯 田市教育委員会
,
2003年 :田 島桂男 『八幡原古墳』高崎市教育委員会,1974年
な らない もの と考える。
:
三木弘 『土師の里遺跡―土師氏 の墓域 と集落の調査―』大阪
おわ りに
形象埴輪群像が注 目される人形塚古墳 であるが、そ
の優 れた報告書 に触発 されて、筆者 の 関心あ る分野に
つい てのみ卑見 を述べ た。ほかに長方形周溝 をもつ前
方後円墳 の企 画性や、 いわゆる変則的古墳 の企 画性 な
どについて も考 えるところが あるが、紙幅 の都合 もあ
府教育委員会,1999年
8)沼 澤「古墳築造企画の普遍性 と地域色― 栃木県南部 におけ
る基壇 を有するとされる古墳 をめ ぐって一」『古代』第114号
,
2004年
9)『 前方後円墳集成』各巻,第 2章 「マ ニ ュアル作成 の過程
および凡例」山川出版社,1991∼ 20∞ 年
10)江 浦洋ほか 『蔵塚古墳一南阪奈道路建設 に伴 う後期前方後
円墳 の発掘調査一』②大阪府文化財調査研究セ ンター,1998
年
り別 の機会 を待 ちたい と思 う。
11)樋 口吉文「百舌鳥大塚山古墳発掘調査報告―前方部北西 コー
地割線 の検出 は確か に大 きな成果で、 これによって
上に述 べ たよ うに古墳 の設計、施工上の貴重な情報 を
得 ることがで きた。内円、外 円は同心 円をなす ので、
その 中心点 に杭 な どを打 ち、縄 を張って円周が描かれ
ナーの調査―」『堺市文化財調査報告』第40集 ,堺 市教育委
員会,1989年
12)沼 澤「墳 丘断面か ら見た古墳 の築造企画」『研究連絡誌』
与
601ナ , 2001`F
傷
た と思われるが、その痕跡が確認 されなかったのはい
13)沼 澤「前方後円墳 の墳丘規格 に関する研究」『考古学雑誌』
第89巻 第 2∼ 4号 ,211k15年
ささか残念であ った。旧表土面 に痕跡が残 らない程度
14)沼 澤「古墳 の築造企画 と横穴式石室」『考古学雑誌』 第87
の細 い棒 で 間 に合わされたのだろうか。そ のほか墳丘
巻第 1,2号 ,2CX13年
中軸線 に縄 を張 った痕跡や、斜面角度を規定す る「丁
張 り」 を設置 した痕跡 なども検 出されなか ったが、な
- 11 -
(1791)