0912特集「今後の IT 政策」 - 東京大学政策ビジョン研究センター

東京大学 政策ビジョン研究センター
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はじめに
見える。信頼回復にあたって、Transparency(透
明度を上げること)やAccountability(説明責任)
は必須のことであるが、これまでのところ患者や
国民は不足していると考えているようである。不
医療分野にIT(Information Technology:情報
足の程度の認識が、両者間で乖離しているという
技術)を導入するにあたっては、「今までの仕組み
のは、「情報」の流通不足と考えられるだろう。す
では日が当たらなかった部署や人々に灯りを与え
なわち、「患者のための医療」を考える場合に、患
る」という視点が重要と考える。特に情報弱者と
者が求めているのは「信頼」であり、その継続に
いわれている人々に情報を届けることは大きな改
より、それは「信用」とか「ブランド」というも
革の原動力となるだろう。まだ民主化していなか
の(Trust)に変わっていくと考えられる。その
った国で、改革と原動力となったのは「情報」で
「ブランド」を維持することが、医療機関の目的に
あったことは周知の通りである。本年11月9日に20
もなる。そのためのキーワードが、前述した
周年を迎えたベルリンの壁崩壊以前の東欧諸国は、
TransparencyとAccountabilityと考えるが、医療
オリンピックでの国威向上を目指したが、そのオ
従事者から見ると、患者の側にも考えて欲しいこ
リンピックの場で選手たちは多くの情報を持ち帰
とがある。それはResponsibilityということであ
った。また、旧東ドイツ国民は西ドイツのテレビ
る。Responsibilityという語を日本語で訳した場
を視聴することによって、情報が伝わっていった。
合、責任とか責任感となるが、欧米ではそれとは
それらの情報が危機意識を募らせ、改革の原動力
少し語感の違う「自己責任」∼自分の力で決めて、
となったのである。これは、仕組みを変える際に
自分がその結果責任まで負うというニュアンスが
は「正しい情報」が大きな力を持つことを意味し
入っているのではないだろうか。その意味では、
ている。
病気に向かって、医療従事者と患者や家族達が、
一体となって戦っていく姿勢というのが、本当の
2
医療の信頼維持・回復
我が国の医療を考えてみると、今求められてい
るのは、「信頼維持・回復」ではないだろうか。特
に、医療費の問題や医療事故の問題では、患者・
国民側と医療従事者側の視点が、180度違うように
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行政&情報システム 2009年12月号
意味で患者本位の医療ということになると思われ
る。したがって、そこで担保されるべきものは相
互の信頼関係(Trust)になる。
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単純に信頼を回復できるとは思えない。例えば一
度事故が起こってしまうと、単に情報公開しただ
情報の偏在
けでは、また重心が戻ってしまうのではないか、
その信頼関係を考えたときに、それを阻害して
一部のみで全体像ではないのではないか、最悪の
いる大きな要因は、
「医療の閉鎖性」とか「ブラッ
場合、当初まで戻ってしまうのではないかという
クボックス」という言葉で表現されている。つま
危惧が、患者側にあると思われる。いわゆるカル
り、患者サイドから見たときに、いかに医療機関
テの改ざん等である。また、事故が起こった場合、
内部が見えないかということであり、その閉鎖性
そもそも「最初からカルテに記載しない」という
を払拭しようとする場合に、ITが役に立つ。即ち、
例もあるだろう。この場合は、いくら開示をして
情報の重心、すなわち情報の偏在性というものを
も無意味である。
解消することに、ITが有用である。現在は、診療
したがって、信頼回復時には、ただ単に見せる
情報の重心が医療機関側に偏っており、情報の偏
のみではなく、その情報が如何に正しいか、情報
在性が指摘されている。そこで、この情報の重心
の正確性ということが担保されなければ、いくら
を患者と医療機関とのちょうど中心に持って行く
カルテを見せて、いくら看護記録を閲覧しようが、
ことを、医療機関が目指すべきであり、情報公開
何の信頼感も得られない、言い換えればブランド
という言葉はこのことを指している。(図1参照)
は維持できなのではないかと思われる。即ち、「正
しかし、単に情報の重心を中心に移すのみでは
確に記録をする」ということは、簡単なようで意
不十分である。情報の重心を移動させても、カル
図1
医
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テ開示をする、カルテを見せるという行為だけで、
外と難しい。周知のように医療現場は大変忙しい。
医療における情報共有とは?
患者側
Responsibility
自己責任
未来
Transparency
透明性
Accountability
説明責任
現在
情報の重心
医療側
行政&情報システム 2009年12月号
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特
集
医師のみならず看護師も大変である。諸外国に比
心静脈に留置する作業は、カテーテルや医療材料
べ職員の数が少ないという大変な激務の中で、如
を発注し、病棟に運んで来て、一時的に保管し、
何に正確な記録を行うかを追求すると、さらに多
他の消毒器具などと一緒に直前に準備し、医師の
忙になる可能性がある。その正確な記録を取る時
穿刺を介助し、後片付けを行うというように、多
間をかけつつ、医療の質を下げないようにすると
くのスタッフの共同作業になっている。つまり、
いう難しい問題をはらんでいる。さらに、診療情
医師を含めて少なくとも5∼6人、場合によっては
報をただ単に見せるだけで、医療側の説明責任は
10人以上がかかわっている。しかし、伝票に記載
十分に達成されるわけでなく、患者や家族に理解
されている実施者は、指示を出した医師のみであ
されるように丁寧な説明を行う必要があることは
ることが多く、その行為に関わったすべての人間
いうまでもない。結果として、超過勤務が増える
の6W1H(whoにto whomが加わるので6Wになる)
ようでは、良い解決とはいえない。
情報は記録されていない。もちろん、紙でも同様
である。
4
ITで正確な記録を実現
それでは実際にITは何を実現するのであろうか。
チーム医療が重要であることは当然であるが、
記録まではチーム医療になっていない部分がある。
そこで、入力の自動化をはかり、すべての医療従
事者の実施記録まで、正確に記録できることが望
まれる。その場合、もちろん、技術的用件は担保
診療に関わる指示だけでなく、指示受け、実施を
されなければならない。電子カルテは平成11年4月
含む医療行為の経過や実績が記録されるシステム
の診療録の電子保存に関する旧厚生省3局長通知
であることが望ましい。具体的には、オーダリン
(現在の厚生労働省)にある、「真正性」「見読性」
グシステムや電子カルテシステム等において、医
「保存性」を十分に担保できるシステムであり、電
師による指示の発行、内容の変更、指示の中止の
子カルテシステムにおいては従来医療機関内で
記録以外に、看護師による医師指示の確認、診療
様々な媒体により伝達、蓄積、保管されてきた各種
や医療行為の実施記録、薬局、検査部門などの診
情報を、電子的な手段により一体的に管理、運用
療部門における指示の確認、指示に基づく行為の
できるシステムであることが求められている。
実施記録は必須であろう。もちろん、診療行為の
実施者によって作成された実施記録やレポートに
ついて指示・実施内容と更新履歴、またそれぞれ
の時刻、操作者が一元的に記録できるシステムで
あることも必要である。従来のオーダリングシス
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5
評価可能な記録∼全数を記録
テムは、いわば大型印刷機であり、病院内で迅速
さらに、患者から信頼を得るためには、それら
に伝票が印刷できることを可能としてきた。した
の正確な記録は、再評価(自己評価、客観評価)
がって、伝票を運んだり、再利用したり、コピー
が可能な記録が行えなければならない。そのため
したりする手間は大幅に省くことができた。しか
に、医師が行った診療行為に関わる記録を、自己
し、このデータの単位は、伝票単位であったため
および第3者が追跡、検証が可能なようにするた
に、「いつ(when)、どこで(where)、だれが
め、診療に関わる行為を発生順に参照、出力でき
( who)、 だ れ に ( to whom)、 ど う い う ふ う に
る手段を有すること、すなわち医療のプロセスが
(how)、どういう理由で(why)、何をしたか
分かるように時系列表示ができなければならない。
(what was done)」といった情報を正確に記録す
医師による指示の記録だけではなく、他の医療従
ることができない。例えば、IVH注カテーテルを中
事者が作成した記録、それらの記録の参照履歴
行政&情報システム 2009年12月号
(Audit trail)についても蓄積できるシステムである
点でどうしても誤差を生みがちである(図2参照)
。
ことが望ましい。さらに、蓄積された診療に関わ
しかし、コンビニエンスストアのPOS(Point of
る実績情報を患者、疾病、医療従事者、診療行為
sale)のようにITを用いると全数を集めることは
単位に抽出し、各々のグループの中で比較、分析
可能になった。後述するように、医療においても
を行うことにより、医療のパフォーマンスの数値
この考え方で全数を収集可能である。そうすれば、
化や治療結果の評価が可能なシステムであること
相互不信の解消につながるだろう。
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も求められる。さらに、経営に資する情報を含ん
だ記録が作成され、十分な経営管理を可能にする
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必要がある。その要件として、電子カルテシステ
ムに記録される情報は医事会計システム、物流シ
根拠に基づいた意思決定
ステム等から得られる実績情報と関連づけを可能
として、病院の経営状況を把握し、改善のための
さらに、どのような根拠に基づいて診断と治療
情報を提供可能なシステムであることが必要であ
を行ったかを検証できるシステムでなければなら
る。
ない。その要件として、電子カルテシステムにお
また、昨今の中医協(中央社会保険医療協議会)
いては各診療行為がどのような根拠に基づいて行
等の議論でも、データのサンプリングの偏りが問
われたかを検証できるように、診断の履歴、各種
題になっている。そこには、恣意的にデータを集
検査実施記録、検査結果などのレポートの参照記
めたのではないかという疑念である。周知のよう
録、医師の診療行為の指示、その他の医療従事者
に、ピアソン統計学では、データサンプリング手
が作成する各種記録について時系列的に追跡が可
法が、大きな問題点であり、全数をつかめないと
能であることが挙げられる。また、インフォーム
いう前提では、サンプリング時、データ解析時の2
ドコンセント推進の観点から、患者に説明する際
図2
誤った標本と母集団との関係
母集団
標本抽出方法を
誤ると、偏りが
生じ、母集団を
代表できない
二重の誤差
標本(サンプル)
測定値
サンプルの選別
失敗による誤差
母集団値
標本誤差
正しいサンプル
による標本値
行政&情報システム 2009年12月号
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に利用ができるためには、これらの情報を3D等、
特
集
最新のIT技術を用いて視覚的に提供する手段を有
することが求められる。さらに、EBMをより実効
的なものとするためには、個々の診療行為とその
行為を行う原因となった病名、プロブレム、アウ
トカム等との関連を明確にすることが必要である。
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医療行為発生時点管理システム
(POAS: Point of Act System)
以上のような視点から、2001年に国立国際医療
その上で、診療のガイドラインや各種データベ
センターでは、徹底した発生源入力を実現し、リ
ースの作成に資する情報も提供できる必要がある。
アルタイムに情報を一元管理する医療版POS
つまり、電子カルテは蓄積した情報を患者、疾病、
(Point of Sale)といえる医療行為の発生時点管理
診療行為単位に抽出し、その分析によってEBMの
システム(POAS:Point of Act System)を開発
根拠となる診療ガイドラインやデータベース作成
することで、省力化を図るとともに物流管理のみ
に資する情報を提供できることが望まれるだろう。
ならず医療行為の精度を向上させるシステムを開
医療費の問題についても、全数収集を前提にした
発した。このPOASにおいては、現場のシステム
正確なデータに基づく議論が必要である。
が、画像やレセプトを出すだけでなく、
「誰が、誰
に対して、どこで、いつ、何を使って、どういう
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情報共有
患者本位の医療のためにはチーム医療も重要で、
8
理由で、何をしたか」の記録が残る。つまり、正
確な記録が残るわけである。例えば、医療部門で
内視鏡のシャッターを押すと、押した瞬間にその
保険点数が医事会計に伝送される。同時に、画像
が保存され、誰が何枚写真を撮り、どれぐらいの
蓄積された診療情報を医師、看護師、その他の医
時間をかけて何を使って、どういう検査をしたか、
療従事者同士で容易に共有できるシステムでなけ
という業務情報も記録される。診療報酬請求用の
ればならない。患者に関わる診療情報を、医療従
データ、病院管理、業務管理、物流管理のデータ、
事者がそれぞれの求める観点で容易に参照でき、
更に、画像、レポートを含めた診療支援のデータ
医療の現場におけるチーム医療の実践を支援可能
が、同時に出るようなシステムである。つまり、
にする必要がある。このために診療情報をそれぞ
人(業務)、物(医療材料や医薬品など)、金(購
れの職制の特性に合った形式に加工し、参照を可
入費用や請求費用など)、情報(診療記録など)の
能とするシステムにしなければいけない。すなわ
動きを完全に把握可能となり、同時に保険請求伝
ち、職種毎に違う画面が用意されているというこ
票が不要になり、医事会計の伝票も不要になると
とになる。その上で、診療情報に対する不必要な
いった現場の省力化も実現する。更に、実施記録
アクセスを抑止するために、各情報にアクセスで
をもとに臨床研究も可能であり、診療現場で実施
きる権限を職制や個人単位で明確に管理できるシ
入力され蓄積されたデータをデータマイニング可
ステムであると共に、診療情報のアクセス履歴の
能とした。これは、病院経営改善という観点にと
保存を可能として、その記録の参照手段を有する
どまらず、リアルタイムに情報収集することで、
ことも必要である。さらに、患者の治療計画クリ
データウェアハウスの中にデータを蓄積し、EBM
ニカルパスが医師間、また看護師、他の医療従事
に基づいた医療ができているかどうかの検証(ク
者と共有が可能である必要もある。当然のことな
リティカルパスの検証)を可能にするのである。
がら、診療に関わる指示の伝達状況や、医療行為
この解析により、医療の質を担保したうえでの経
の進捗状況がリアルタイムに把握できることも望
営改善を可能とし、医療コストを下げた結果、医
まれる。
療の質が落ちることを防止できると考えられる。
行政&情報システム 2009年12月号
データマイニングは、医療におけるEBMにも有効
発点になるのではないかと考えている。医師の立
であるはずである。
場、看護師の立場、薬剤師の立場、技師やその他
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心
を
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のコメディカルの立場、管理部門の立場など、い
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医療安全
ろいろな視点があるだろう。同じ情報を流通させ
ることが、原点である「患者のための医療」とい
うことに繋がっていくのではないか、それが信頼
回復につながるだろう。
この医療行為発生時点での情報管理システムは、
医療過誤対策など医療安全対策にも有用である。
具体的には、例えば投薬や注射を行う場合、医師
や看護婦等の医療スタッフの個人識別を行い、処
【注】
「Intravenous Hyperalimentation」の略で、中心静脈栄養法
と訳される。主に鎖骨下の大静脈に留置カテーテルを挿入
して、高カロリー輸液で栄養補給をする術式のこと。主
方内容のバーコード、薬剤や注射液の識別のため
に、手術後や消化器疾患などで、経口摂取のみで必要栄養
のバーコードをバーコード対応無線LAN型PDA
量を充足できない例に用いる。
(携帯端末)でリアルタイムに読みとり照合し、誰
がいつの時点で何を処方し、誰がいつの時点で実
際に患者に投与したか、あるいは投与出来なかっ
【参考文献】
1.秋山昌範.国立病院における医療材料の情報標準化につ
いて―POS(消費時点物流管理)システムの病院物流管
たという場合等も含め、すべての診療行為のデー
理への応用―,医工学治療,12巻4号,886-889,2000.
タ化を図るのである。実施入力された時点でのエ
2.秋山昌範.ITで可能になる患者中心の医療(秋山昌範).
ラーチェックにより事故を防止でき、製剤のロッ
ト管理が電子的に行え、投薬記録などの管理も容
易になる。安全に医療が提供できるようになった。
このシステム稼動後の事故は、システムを使用し
日本医事新報社,ISBN4-7849-7278-1.2003.
3.秋山昌範.医療行為発生時点情報管理によるリスクマネ
ジメントシステム, 医療情報学 20 (Suppl. 2): 44-46,
2000.
4.Akiyama, M.Risk Management and Measuring Productivity
なかった少数例を除いて、ゼロである。すでに、
with POAS-Point of Act System-A Medical Information
注射の実施データだけでも、700万件以上のデータ
System as ERP (Enterprise Resource Planning) for Hospital
が収集されており、その捕捉率は99%であり、ま
もなく発表されるWHOの医療安全の国際協調報告
書にも取り上げられている。今後は、政策決定の
分野でも、これらのデータを利用できるような研
Management. Method Inf Med. 46:686-693, 2007.
5.Akiyama M, Kondo T.. Risk management and measuring
productivity with POAS--point of act system. Stud Health
Technol Inform. 129: 208-212, 2007.
6.秋山昌範、木下学;コンビニチェーンのITシステムを医
療に応用する.日医雑誌129(5):657-664,2003.
究が必要である。
7.Akiyama M., Migration of the Japanese healthcare enterprise from a financial to integrated management: strate-
10
最後に
ITというと、効率化ばかり取り上げられがちで
あるが、情報の共有化のツールであることが最も
gy and architecture, Stud Health Technol Inform. 84:
715-8, 2001.
8 . 秋山昌範.病院管理を行うためのERP(Enterprise
Resource Planning)システム.医療情報学23,3-13,2003.
9.GS1 Healthcare - Improving patient safety worldwide
http://www.gs1.org/sectors/healthcare/
10.Huckvale C., Car J., Akiyama M., et al. Information
基本である。共有化というのは、その程度が大き
Technology for Patient Safety, Report of the WHO
いほど効果を発揮するはずである。したがって、
Information Technology for Patient Safety Expert Working
「医療現場のすべての情報を現場に負荷をかけずに
Group, Quality & Safety in Health Care, in Press.
流通させる」ことが、患者本位の医療を考える出
行政&情報システム 2009年12月号
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