投稿 甘南備山と船岡山と玉の輿

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甘南備山と船岡山と玉の輿
倉光 正己
最近気が付いたことを、ちょっとだけ茶飲み話にご報告したい。
▲われらが山友会の会誌名に名前をいただいている「甘南備山」は、我々山友会メンバーにとっ
ては一番親しい山だろう。京都市北部の船岡山からわが甘南備山を見通す線が、平安京の中心道
路「朱雀大路」を決める基準となったと知ったのはいつだったろうか。もちろん、このことは皆
さんもご存じのはず。朱雀大路の最南端にあの有名なる「羅城門」があった(あまり知られてい
ないが、いま千本九条のちょっと北側に小さな公園があって、羅城門跡という石碑が建っている)
。
もう 5,6 年ほども前だったろうか、たまたま甘南備山の三角点付近を歩いているとき、山を整
備していらっしゃる保存会の人に出会った。三角点付近も整備され、新しい道が付き、説明看板
も設置されていた。それには付近に「白岩」なる岩があり、それが船岡山から見通す目印になっ
た、と書いてある。初耳である。それで、保存会の方に「白岩ってどこにあるんですか?」と聞
いてみた。返事に曰く、
「この下だよ」と。三角点のすぐ下をループ状も巡る新しい道が、まさ
にその岩を見るための道だったのだ。行ってみると岩は黒ずんでいて、そう目立つものではない。
昔は白かったのか。今回、改めて白岩の色を再確認しようと下の道の回ろうとしたが、雑草が胸
のあたりまでびっしりと延びていてあきらめた。
(11月下旬には刈り取られていた)
私は一応理科系である。理科系はちょっと理屈っぽい、というか、しょうもないことにウルサ
イ。本当にこの小さな岩が船岡山からの目印になるのだろうか、と気になってきたのだ。一昨年、
京都市北部に出かける用事ができた。チャンス到来。用事を済ませてから船岡山に登ってみるこ
とにした。そこから甘南備山を眺めてみようというのである。ちなみに、船岡山は枕草子でも「丘
は船岡」と書かれているほど古くから有名ではあるが、200mほどの甘南備山より低い 100mく
らいの丘だから、甘南備山側から船岡山を見ると、かすかに盛り上がった緑が見えるだけで山頂
も判然としないし、大路も見えない。
船岡山に登ってみてガックリした。夏だったせいで、空気がかすんで甘南備山がはっきり見通
せないのである。2 度目もダメ。冬場になってから登って、三度目でようやく見通せた。確かに、
昔の朱雀通りのなれの果てであるいまの「千本通り」が目の下を走っていて、先は甘南備山の方
向を向いている。伝承は確からしい。ただ、船岡山にあった説明では、「この山が朱雀大路の基
準になった」と書いてあるが、相棒であるはずの甘南備山には一言も触れられていない。それよ
りも何よりも、甘南備山自体が本当に小さく見えるだけである。神社のある頂上の緩いトンガリ
だけははっきりしているから、山を見間違えることはない。しかし、三角点のある頂上なんて、
その位置も判然としない。ましてや、その下の小さな白岩なんて肉眼で見えるはずもない。いま
なら双眼鏡や測量機を使えば見えるかもしれないが、平安の昔にそんなものがあったはずもない。
要するに、甘南備山全体がほんの小さく見えているだけだから、その頂上付近を大雑把な目印に
しても、方向に大きな誤差は出ないという感じである。理科系の疑い深さが当たっていたようだ。
▲もう一つ、ついでの報告。つい先日、甘南備山からの帰り道、三角点のベンチに座っている女
性二人に出会った。
「コンニチハ」と挨拶したら、何を思われたのか、私と同年配の女性から「甘
南備神社って古いんですか?」との御下問があった。普段、甘南備山に登っていらっしゃらない
感じの方だった。さて困った。私もちゃんとした歴史を勉強していないから一瞬詰まってしまっ
たが、一応もっともらしい返事をしておいた。「昔は神仏混淆といって、神社とお寺とが一体に
なっていました。甘南備寺というのがあって、そこの坊さんの話が今昔物語かなにか古い本に出
ていると聞いたことがありますから、神社も古いことは古いんでしょう。そもそも、カンナビと
いう言葉自体が、昔、こういうあまりとんがっていない山が神の下ってくる憑代となる、とされ
ていた証ですから、古いんでしょうね」と。ついでに朱雀大路の基準となった話もご披露してお
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いた。
女性たちと別れてから、自分の説明が気になってきた。そもそも「かんなび」という単語自体
が、
「固有名詞」である前に「普通名詞」だったのではないか、と思えてきたのである。それで、
帰宅後、天下の「広辞苑」で調べてみた。いままで、辞書で「かんなび」なる単語を調べたこと
なんてなかったのだが、ちゃんと項目としてありました!
「かんなび」(神名備・神南備)→「かむなび」 とあって、
「かむなび」:神の鎮座する山や森。神社の森。みもろ。祝詞、祝賀詩「大三輪の――」
とある。さらに「かむなびやま」を見よとあるので、そっちも見てみる。
「かむなびやま」(神南備山)神の鎮座する山の意。出雲風土記に4カ所見えるほか、次のもの
が有名。ア.奈良県生駒郡斑鳩町の三宝山。紅葉・時雨の名所。(歌枕) イ.奈良県高市郡明
日香村の三諸山。
(歌枕) ウ.京都府綴喜郡田辺町薪にある甘南備山。
スゴイ! かの「広
辞苑」のカンナビ山ベストスリー?に、わが甘南備山が堂々と載っているのだ!版が古いせいか
古い住所だが、まあそれくらいは仕方がない(後に第6版を見たら、「京田辺市薪」と改訂され
ていた)。他の二つの山には別名もあるのだが、わが甘南備山にはそれしか呼び方がない(昔は
地元では別名もあったのだろうが、私は聞いたこともない)なんていうことまで、自慢の種にで
きそうだ。人間、なにごとも勉強である。この歳になって、わが「甘南備山」のいわく因縁を確
かめることができたのである。アリガタヤ、アリガタヤ!
▲スペースが残ったので、さらにオマケ。船岡山のすぐ北側に今宮神社という古い神社がある。
船岡山に行ったとき、ついでに寄ってみた。いまの建物は江戸時代初期に桂昌院なる女性の寄進
で再建されたと書いてある。彼女は何者か? ちゃんと看板に説明があった。3代将軍家光の側
室にして、5代将軍綱吉の御生母という。そんな女性がなぜ京都の片隅の神社に寄進したのか?
実は、彼女はこの近くの「お玉さん」と呼ばれた八百屋の娘であったという。そんな女性が、な
ぜ将軍の側室なんぞに? 家光に、京都の公卿鷹司家の娘が嫁いだという。公武合体は明治維新
以前からあったのだ! 町人の娘が行儀見習いを兼ねて、公家の家に仕えることはよくあったら
しい。お玉さんも鷹司家に奉公していた。お嬢様の結婚にくっついて江戸まで。そのうちに、家
光育ての親である春日局のお眼鏡にかない、側室に抜擢?されたということらしい。彼女は信心
深い女性だったそうで、京都界隈でも沢山の社寺に寄進している。息子である綱吉は「生類憐れ
みの令」で悪名高いが、これとて行き過ぎがあったとはいえ、信心深さの表れでもある。御生母
の影響が大きかったのかもしれないという気がしてくる。
それで、こんなことを書き始めた最大の理由。一介の町人の娘が時の将軍の側室となり、後の
将軍の御生母となる。お玉さんのスゴイ出世である。よって、「これを『玉の輿』という」と神
社の説明には書いてあった。疑い深い私は、また広辞苑で確かめて見たくなった。
「桂昌院:徳川5代将軍綱吉の生母。名は宗子。京都の八百屋仁左衛門の子。二条家家司本庄宗
利の養女。大奥に入り、家光の寵を受けた。仏教の信仰篤く、綱吉に請うて護国寺を建立」
、
「玉
の輿:①貴人の用いる輿の美称。②(特に女が結婚などによって得る)富貴な身分。『女氏(う
じ)無うて――に乗る』
」
広辞苑では、どこにも「お玉さん」なる名前が出てこない。でも、
「お玉さんゆえの『玉の輿』
」
という俗説の方が、なんだか楽しいように思えるのだがどうだろう…? なんでも屁理屈をつけ
たがる私だが、いつも「広辞苑の権威」に頼ってばかりいるわけではないのである!!!
(終り)
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