おもいきり泣ける場所がここに

先週講壇
という標題がついている記事があります。ナインと
おもいきり泣ける場所がここに
いう町で、たった一人の息子を亡くした、夫が既に
2015年7月12日 夕礼拝
先立っているやもめの話が出てきます。そのやもめ
関伸子副牧師
詩編56編1~9節
ルカによる福音書7章36~50節
Ⅰ.涙の歴史
の葬列にたまたま出会った主イエスが、その葬列に
近づいて母親に言ってくださいました。
泣きながら、
自分の息子が棺に乗せられて葬られて行く、その後
をついて行く。そこに主イエスが近付かれて、
「もう
泣かないでいいよ」とそう言った後に、その若者を
私が神学校最終学年の後半6ヶ月間、家の近くの
甦らせてくださいました。
ここにも涙がありました。
同盟教会のバイブルクラスに行くようになりました。
この7章は更に、先ほど読みました記事において
そのバイブルクラスでダイアナ・ジョルダンという
もう一人の女の涙を記録しています。
これはよく
「最
先生が詩編の講読をずっと続けておられて、英語で
も美しい物語」と言われます。たとえば改革者ルタ
聖書の話をされました。ある時、先ほど私たちが聴
ーは、この箇所について何度も説教をしました。あ
きました詩編56編を美しい英語でお読みになりま
る説教の最初に、
「最も美しい物語がここにある」と
した。9節に「あなたはわたしの嘆きを数えられた
言って説教を始めています。
はずです。
あなたの記録に/それが載っているではあ
主イエスはよく食事をなさいました。この7章の
りませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてく
すぐ前、
34節のところでは、
「大食漢で大酒飲みだ」
ださい」と記されています。その英語の言葉をじっ
と人びとに言われたらしいのです。こういう噂が生
と聴いていて、ああ、神さまのところには革袋があ
ずる根拠はあったに違いありません。そういう宴席
って、そこに私たちの涙を蓄えてくださっている。
の一つです。ファリサイ派の男、のちにシモンと主
そのイメージが心の中にふつふつと湧きながら、あ
イエスに呼ばれている人の家に、主イエスが招かれ
あ、このダイアナ先生も涙を流し続けてこられたの
ました。当時の食事というのは面白いことに、横に
だなと思いました。
なって、左手を下ろして、だいたい右利きの場合で
教会はその歴史の節目、教会が何十年とか100
しょうけれども、右手で食事を取って食べたそうで
年とかいうと、よく記念誌を編集します。大体それ
す。シモンと主イエスだけではなくて、あとを読み
には、その教会がやってきた事を年表で記したり
ますと、同席の人たちが何人もいたようですから、
色々な思い出が語られたり、時には新しい教会堂を
ぐるっと円くなって、横になっている。
建てたというような事が書かれます。教会の歴史と
しかも、このような主イエスのような方を招いて
呼ばれる書物に記されていないことがたくさんあり
する食事というのは見物人がいたのです。時々この
ます。けれども「あなたの記録」にそれが載ってい
場面を想像します。そこに一人の女の人が入って来
る。私の嘆きは記録されている。私の流した涙は神
た。そしてまっすぐに、主イエスの足のところに行
さまの革袋には蓄えられているのです。そしてその
った。主イエスの足を見つけて、その足元で涙を流
教会が既に、涙の教会であるといえると思います。
した。涙で足が濡れたというのですから、ポタポタ
落ちるのです。これはたいへんな涙です。
Ⅱ.最も美しい物語
今日はルカによる福音書7章を読みました。7章
Ⅲ.罪の女
だけでも、始めからずっと読んできますと、例えば
一体この女は誰なのでしょうか。ここには、37
途中に、
11節には
「やもめの息子を生き返らせる」
節に「この町に一人の罪深い女がいた」とだけ記さ
れています。
「罪の女」と訳されることもあります。
二人とも共通に、金を返すことができなかった。こ
ギリシア語ではもっと単純に
「罪人」
というのです。
の二人に「借財を恵んでやった」と訳しているもの
女が何をしていたかという事を、この福音書は書い
が、いくつもあります。元のギリシア語がそういう
ていません。ただそこに用いられている言葉から、
意味を持つのです。
「恵みを与えてくれた」
、その恵
売春をしていたのではないかと想像する人もありま
みによって借財を許された。
す。たとえ売春婦でなかったとしても、どうも性的
お金を借りてしまうと、
貸してくれた人に対して、
な生活で過ちがあったのではないかと言われてもい
心の中で重荷を負うことになります。教会では罪を
ます。
語ります。罪からの救いを語ります。皆さんはそれ
いじけて、メソメソと一人で泣いていたかもしれ
を聴いてきたはずです。それを聴いて、信じてこの
ません。この女の涙が何であったかということを、
教会の教会員になったはずです。そしてこの教会で
主イエスご自身が理解をしてくださって、
そして
「こ
流されてきた涙は、ナインの若者の母のように、愛
の女は私を愛してくれた」
、そうおっしゃいました。
する者を失った悲しみの涙であると共に、自らの罪
ファリサイ派の男に向かって譬え話までなさいまし
を悲しむ涙でもあったと私は思います。私たちもこ
た。今までその男がご自分にしたことをいちいちち
の罪の女の仲間だという事だと思います。
ゃんと数えたてておられます。女のひたすらな愛の
主がそこにいてくださるから、泣ける、涙するこ
行為に比べるとその愛は小さいね、ということをは
とができるのです。そして、イエスは、それは私を
っきりおっしゃっていると言えます。
愛する涙だ、と言われました。涙をもって、私の恵
そういうことから考えると、34節に、
「徴税人や
みを受けてくれたのだ。そうして教会は建ってきた
罪人の仲間だ」とありますように、イエスという方
のです。そして、
「もうお前の罪は許されたよ。お前
が私を罪人だと知っていてくださるけれども、町の
は私を愛しているね。誰よりもまず、私を愛してい
人たちのように私をはじき出さない。この方は、こ
る。そうして私を愛する者は、人を殺せないよ。私
の足の持ち主は、私の仲間なのだ。他の人とは違っ
の真似をするより他に、生きることはできなくなる
たのだ。仲間になってくださった方の足なのだ。も
よ」
。
うそれだけで、そう思った時にこの女は抑えきれな
いものがあり、涙が溢れたのだと思います。
同席の人たちが、罪を赦すなんてこんなことがで
きるこの人は、
いったい誰だとつぶやいている中で、
いちばん最後に主イエスはこの女に「あなたの信仰
Ⅳ.悔い改めの涙を流す
があなたを救った。安心して行きなさい」と言われ
そのことを、主イエスはあらためてファリサイ派
ました。この「安心して行きなさい」というのは、
の人との話で、はっきり取り上げておられます。
「シ
直訳しますと面白い言葉なのです。
「平安の中へと行
モン」とファリサイ派の男をお呼びになりながら、
きなさい」というのです。なぜかと言うと、もう死
シモンに借金取りの話をなさっています。ある金貸
からも解き放たれ、神の子として死ねる平安です。
しがいて、その金貸しから二人の借財者が金を借り
その平安の中に向かって歩いて行けと、主イエスは
ていて、一人は500デナリ、もう一人は50デナ
言われたのです。
リ。デナリとは一日の給料と考えて良いようですけ
いま改めて、その主イエスの言葉をもって、安心
れども、とにかく10倍の差があるということは、
して、新しい一週間の旅立ちを始めましょう。お祈
これを読んですぐ分かります。しかしこの譬え話の
りをいたします。
中で、42節のところに、
「金貸しは両方の借金を帳
消しにしてやった」とあります。なぜかというと、