第110号 - 山王1・2丁目自治会

山王と私
—山王日枝神社の想い出—
山王1丁目在住会員
桑原幸子
毎月、自治会ニュースの「山王と私」を楽しく読ませていただいております。
最近では今年4月号、5月号を書かれた正木覚さんの文とスケッチに魅了されました。
4月号には、現在は保護樹林と池のある庭を持つ共同住宅になっている場所に建って
いた古い日本家屋が描かれ、5月号には山王日枝神社のお社と大きな椎の樹が描かれ
ていました。
5月号の挿し絵を見て、あの椎の樹の下に落ちていた小さなツヤツヤした椎の実を
友達と一緒に拾った記憶が鮮明に浮かびあがってきました。あんなにたくさんの椎の
実を拾って、一体何に使ったのだろう?
あれは秋だったのか、では祭りの頃だった
のか? いや、あの頃は祭りは夏だったような気がする。なんとも薄暗い電灯の下で、
友達やいとこたちと大興奮して「雷魚つり」というのをやったのを憶えている。あの
頃の子供たちはお祭りが大好きで、春日神社から熊野神社、天祖神社、日枝神社、
そして鹿島神社まで、軒並みお祭りに出掛けて行ったものだ。楽しかったなあ。
山王日枝神社といえば、この神社のすばらしさは、
表通りから本殿を真正面に見る落ち着いた佇まいで
しょう。新しくて違和感のある物は何も見えません。
表の石段を上がると右手に、高さ2メートルを越え
る石碑が堂々と聳えています。「村社日枝神社鎮座
正二位清浦奎吾
八十三」とあります。山王に居を
構えた第23代内閣総理大臣清浦奎吾が83才の時
に書いたもので、この山王村の由緒正しさが伝わっ
てきて、この山王の住民が山王を誇りに思う気持ち
に納得がいくというものです。清浦奎吾の屋敷は
みずほ銀行の後ろ、現在は大きなマンションになっ
ています。
先日、調べたいことがあって久しぶりに日枝神社の境内を散策しました。そもそも
「山王」という地名の由来は江戸時代の地誌「新編武蔵風土記」によると、当時日枝
神社が「山王権現様」「山王様」と呼ばれていたので、俗にこの辺りを山王村と呼ぶ
ようになったということで、私は山王1丁目にあった魚銀(うおぎん)という魚屋の
店主、故後藤浅次郎さんからその話を伺っていました。(つづく)
第111号山王と私
ー山王日枝神社の想い出、庚申塔ー
山王1丁目在住会員
桑原幸子
魚銀(魚銀)店主だった後藤浅次郎さんは郷土史家でもあり、大変記憶力が良くて、
昔ご用聞きの魚屋として出入りしたお屋敷やご主人たちのことを詳しく覚えていま
した。山王の歴史をいろいろと調べて地域の新聞にコラムを書いたり、山王小学校の
周年記念誌作成の手伝いをしておられました。山王小の第5回卒業生でもありました。
最近私が調べているのは、山王小学校通りに面してあったと言われる[庚申塔を兼
ねた道標]についてです。実は山王小学校通りとジャーマン通りの交差点に三角形の
花壇がありますが、近頃とてもきれいに手入れされていると評判となり、その中心に
設置されているライオン像についての問合せがあったのです。このライオン像は昭和
年に当時山王2丁目に居られた外務大臣経験者の川島正次郎氏が寄贈・建立した
と記されていますのでこの設置のために庚申塔を動かしたのかと考えたのです。しか
し、お話を伺った80代の方が「あの手前の山王小の角の辺りに昔は庚申塔があった
と思う」と話すのを聞いて、後藤浅次郎さんから伺った話を急に思いだしました。
その話とは、十数年前に、山王の歴史や折口信夫(おりぐちしのぶ、民俗学者・国
語学者・歌人、歌人名は釈超空)について調べていた区の職員に、折口信夫のひとと
なりを表すエピソードとして後藤浅次郎氏が語ったもので、同席していて大変印象に
残っています。
「戦後、国学院大学や慶応義塾で教鞭を取っていた折口信夫氏は通勤の際、山王小
学校通りの角に在った庚申塔の前を通ると、毎回きちんと立ち止まって帽子を脱ぎ、
頭を下げ一礼してから出掛けたものです。」という話でした。
「そして、その庚申塔は
現在は日枝神社にある。」というのです。
この話を思い出したので、日枝神社に行ってみたのです。この写真の庚申塔がどこ
にあったのか、ご存知の方は是非ご一報下さい。電話&FAX 3777-1047、メール