⑦高市皇子

D-7
高市皇子
藤原京跡
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*高市皇子の人物像は?
天武天皇の長子で壬申の乱で活躍したとされる高市皇子は筑紫国・胸形君善徳の娘・尼
子媛(あまこひめ)を母として653年に生まれている。
天武の長男ながら婢母腹のため王位継承権は持統を母とする草壁皇子が第1位、2位は
大津皇子で10皇子中8位なるも、天武の実力主義で重用されたと考えられる。
壬申の乱勃発時には近江に居たが、天武の呼びかけに呼応して近江を脱出して天武軍に
合流し、実質天武軍の総指揮官として活躍するが天武朝では長男として皇子達の取り纏め
役に徹し、持統朝では草壁皇子、軽皇子を皇継にたて官僚のトップ・太政大臣として持統
を支援し、藤原京建設に尽力し遷都後突然に43歳で亡くなった。
高市の人物像を見るには柿本人麻呂による高市皇子挽歌が端的に示していると考えら
れる。
(万葉集巻2-199~202参照)
*高市皇子の謎
日本書紀・持統10年条に突然「後皇子尊薨」とのみ記され、前後に経緯が全く記され
ていないことや高市と云う固有名詞を使っていない事から多くの謎を呼んでいる。
後皇子尊とは草壁皇太子の死後に立太子の可能性を推察させ、皇子尊は持統3年の草壁
皇子尊薨と同じ表現を使っている。
更には高市皇子が没した翌年に軽皇子に譲位して文武天皇としていることから高市皇
子の死を待望していたかの観がある。この背景には大王継承者は成年が条件とされており
15歳の軽皇子の即位には賛同を得られなかった可能性から高市皇子の謀殺説が生まれ
ている。
また昭和63年に平城京の工事現場から大量の木簡が出土し長屋王家木簡と称されて
いるが、この中に長屋親王と記された荷札が発見されたが「親王」の呼称は原則からして
天皇の皇子が条件で、「日本霊異記」でも長屋親王が使用されていることから父親の高市
皇子が皇太子か天皇に類する存在だったとする説が生まれている。
高市皇子の妃に関しても謎が多く、天智の娘・御名部皇女を正妃として長屋王が生まれ
後継者としているが、壬申の乱後天武の元に戻ってきた大友皇子の妃であった十市皇女を
天武から功として与えられた可能性があり、突然死した十市皇女のために高市皇子の挽
歌・三首が万葉集に在るが内容は相聞歌とみられ妃としていたのではないかとする説があ
る。 (万葉集巻2-156~158)
ひ か み ひ め
また天武と不比等の姉氷上媛との娘・但馬皇女を妃か養女として高市皇子の宮に居た時
に異母弟・穂積皇子との不倫説が在り咎められて消息不明になった事件が万葉集にあり、
不比等との関係から微妙な話ではある。(万葉集巻2-114~116)
しかしこれらの謎は日本書紀からは覗い知れず後世資料から推測される謎で、高市皇子
の活躍の実績記載は僅かで、天武8年の吉野の盟約でも草壁皇子を支援すべく長男として
きよみがはられい
天武から頼りにされていた筈で、持統三年に発令されたとする浄御原令も高市皇子が中心
に編纂されたと考えられるが全く詳録なく、むしろ不祥事を記して「続日本紀」の大宝律
令完成の記載振りと対照的である。
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更には高市皇子の最後の業績であった藤原造営の記事も全て持統の業績として実務で
活躍した高市皇子の業績には一切触れておらず、不比等が「日本書紀」の編纂に関与した
根拠にもなっている。
*高市皇子の墓は何処?
柿本人麻呂による高市皇子の挽歌で埋葬地は檜隈近くとする説あり、延喜諸陵式にある
三立岡墓(広瀬郡)と矛盾するが三立岡墓は昭和の開発で除去されており当時掘削跡から
の遺物は無かったとされており確認しようが無い。
しかし三立岡にこだわる馬見古墳群に存在する説があり、この中心部に在る巣山古墳や
新木山古墳が候補に挙がっている。
しかし巣山古墳は4~5C の前方後円墳で2009年の発掘調査でほぼ全容が明らか
になっていることから無理が在り、新木山古墳は宮内庁指定の陵墓参考地・押坂彦人大兄
皇子の墓としているため発掘調査は未済なるも古墳編年で5C 初期の前方後円墳と考え
られているため対象外となる。いずれにしろ薄葬令が徹底されている7C 末に前方後円墳
はあり得ない点から広瀬に隣接する上牧の久渡古墳群・2号墳が(径16M の円墳)7C
末の古墳として候補に挙げられているが未調査のため今後の課題でしょう。
一方人麻呂の挽歌から壁画古墳で有名となった高松塚古墳の被葬者は墓誌が発見され
ていないため確定は困難であるが、天智、天武の皇子が多く候補に挙げられており、出土
遺物から埋葬が7世紀末~八世紀初で、出土の海獣葡萄鏡は西安十里舗 337 号出土の鏡と
同型品とされ、人骨は筋骨発育良好な熟年男子で正常・健康な骨萎縮状態が全く認められ
ないことから急死の可能性大とされていることから高市皇子説が有力視されている。
またキトラ古墳を有力視する考古学者もいる。
I-11 飛鳥の古墳被葬者 参照
*高市皇子と不比等の関係は?
高市皇子は天武の第一皇子で壬申の乱で大功績を挙げ、天武朝では若くして朝廷の重鎮
としての役割を担っていた。一方不比等は天智朝での大功臣・藤原鎌足の息子として嘱望
されてはいたが、壬申の乱で藤原一族は没落したが不比等は幼少が故に許されて鎌足の家
を継いだが天武期には全く姿を見せない。D-6 藤原不比等参照
天武朝において草壁皇子を推す持統派:大友の舎人だった石上麻呂、神祇官として生き
残った中臣大嶋や律令国家形成のために育成された律令官人で構成、一方に大津皇子・高
市皇子を推す皇親勢力・壬申の功臣派:多治比嶋、阿部御主人、大伴御行等の両派が競合
しており、天武が没した時に行動に移したのが劣勢であった持統派で大津皇子を謀略の罠
にはめて抹消したため、高市皇子は功臣派の期待を一身に受けることとなった。
持統3年に浄御原律令制定で活躍した官人を持統派に引きこみ勢力圏を広げた筆頭に
居たのが不比等だったが壬申の功臣派にはまだ頭は上がらなかったでしょう。
従ってこの時に初めて姿を見せることになるが、天武の意志を繋ぐ浄御原律令や庚午年
籍が出された時期で、これらを主宰していたのは高市皇子と考えられ、不比等もこの編纂
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に加わっていたとは予測されるが作成要員の一人としての立場で高市皇子は雲上人だっ
たでしょう。
しかも玉の草壁皇子が失って持統自身も功臣派を皇后の権威で抑え込むことは出来ず、
高市皇子と取引せざるを得ない状況に追い込まれ、高市を太政大臣として天皇代行権を与
える代償として軽皇子の成長を待って後継とする策を持統に与えたのが、草壁の舎人をし
ていた不比等だったと考えられ、孫の軽皇子の皇位継承に全力投入することになるがこれ
を好機として捉え支援したのが不比等であった。
高市皇子の突然の死で最も利益を受けたのは持統であり不比等であったと云え、これを
契機として持統派が実権を握り翌持統 11 年2月文武は前代未聞の 15 歳の若さで皇太子と
なり 8 月には持統が譲位して文武天皇として即位している。軽皇子の即位で不比等の独壇
場に変遷して行くことになる。
これらの事実から不比等と橘三千代による謀殺説が生じる由縁で、息子の長屋王も藤原
一門の専制を阻止しようとして謀略で倒れることとなる。
<註>
吉野の盟約:天武と持統が吉野宮に天武の皇子・草壁・大津・高市・忍壁、天智の皇子・
河嶋・志貴の6皇子を集めて草壁皇子を支援すべく盟約したとされている
十市皇女:天武と額田姫王の娘で天智の皇子・大友の妃となるが壬申の乱で大友が亡くな
り天武のもとに引き取られていた
石上麻呂:物部麻呂で大友皇子の舎人として最後を見届け首を天武に捧げた功により石上
の姓を与えられ持統朝では左大臣として官僚のトップになった
大伴御行:大伴旅人の父親で壬申の乱の功臣として天武・持統朝で武官として仕えた
橘三千代:県犬養三千代で出生は不明、軽皇子の乳母として仕えていたが美努王と離別し
て不比等の妻となり安宿媛を生み、首皇子の夫人としの光明子となった
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