F-5 川原寺 川原寺伽藍復元図(現地に設置されているパネルより作成) *川原寺の創建は? 謎の大寺とされる由縁はその創建時期に七説もあることで、それだけ注目されていた寺 であると云えるでしょう。 一つは584年説で「諸寺建立次第」に敏達13年に蘇我馬子が建立したとあるが川原 寺の発掘調査出土瓦からみてその可能性は低いとされている。 二つ目は653年説で「日本書紀」孝徳・白雉4年条に大化の改新で国博士となった僧・ 旻が没したのを嘆いた孝徳が画工に命じて仏菩薩像を描かせ川原寺に納めたとある。 三つ目は655年説で「扶桑略記」に斉明元年に飛鳥・板葺宮が焼失したため隣接する 川原宮に遷幸して川原寺を創建したとある。 四つ目は661年説で「東大寺要録」に斉明7年に創建したとあるが僧・行基や東大寺 の記述あり内容に矛盾がある。 五つ目は天智期創建説で諸説の中の本命説と見られているが、正史である「日本書紀」 - 20 - に川原寺創建を明確に記述されていないことが謎を生む要因となっている。斉明7年に百 済救援のため大王・斉明が先頭に立ち九州遠征した旅先で亡くなったが、唐・新羅軍との 戦い最中のため菩提も充分弔えなかった。更には白村江の戦で完敗し唐の進駐を受けると いう前代未聞の事態で対応策に追われていたが、一段落したところで斉明大王を弔うため に勅願寺としての川原寺を創建したとする福山敏男説である。 六つ目は673年以前説で「日本書紀」天武2年条に我国最初の一切経・写経が川原寺 で実施されたとあり既に創建されていたとする説である。 七つ目は686年説で「扶桑略記」天武15年条に弘福寺(ぐぶくじ)の創建記事があ るが、弘福寺は川原寺の法号であり655年説と重複している。 *どんな寺だったの? 天武期には飛鳥三大寺の一つで重要視されていた寺にも関わらず日本書紀に創建の経 緯が記されていないのが特異である。 日本書紀での初見は天武2年で仏教を鎮護国家の手段として活用し、写経を国家的事業 として取り組むに当たり川原寺で一切経の写経を実施していることからも天武朝では重 用されていたことが覗える。 現在の川原寺跡は江戸中期に廃寺となっていた川原寺の中金堂跡に弘福寺(ぐぶくじ) として建立された寺で飛鳥期の面影は全くない。 昭和32~35年の発掘調査で解明された伽藍配置は川原寺式と称される特殊なもの で、南大門から中門に入ると右手に五重塔、左手に西金堂、その向こう正面に中金堂、そ の後ろに講堂があり三面を僧坊で囲われている配置となっている。 この伽藍配置は天智が大津遷都で建造したと考えられる官寺・崇福寺で採用されている。 東門が南大門より立派な構成とされているのは飛鳥川を挟んで、板葺宮や飛鳥浄御原宮 等の存在が考えられ、更に斉明の宮(川原宮)跡に創建されていることからも官寺として の位置付けにあったのでしょう。 昭和49年に川原寺の北にある板葺神社の崖面発掘調査で大量の三尊塼仏と焼けた塑 造片が出土し注目を浴びた。これは川原寺が火災に遭った際に裏山に埋納したものと考え られ川原寺裏山遺跡であることが判明した。参照G-6 「飛鳥の塼仏」 PS.2015.9.23まで奈良国立博物館で開催中の「白鳳展」に発掘された塼仏 が全国版で展示されていますのでご覧いただけます。 これらの塼仏は中金堂の壁面や天井に張りめぐらされていたものと推定され、事例とし てはインドの石窟寺院で同一手法が採用されていることから、インド仏教寺院の影響を受 けたのではないかとする説を故網干先生が唱えた如く、川原寺は当時としては最先端の技 術を導入して創建されたものと考えられる。 これは斉明大王を弔うために創建したとされるに相応しい勅願寺であり、皇極(斉明) は三蔵法師がインドから長安に帰国した事をいち早く入手し、遣唐使を派遣し留学僧・道 昭にインド直伝の仏教を享受させたことからも予測可能でしょう。 更に平成15年の奈文研による川原寺寺域北限遺跡の発掘調査で寺域の南北長は30 - 21 - 0Mにおよび飛鳥寺と同規模の大寺だったことが判明した。 また寺域北部には窯跡や鋳物工房の存在が確認され創建期から平安時代に至るまでは 大寺院付属の工房施設で金属製品、瓦、ガラス、漆等の生産で寺の造営、補修を実施して いたことが伺える。 従ってこれまでの発掘調査結果から基壇や礎石の規模、特に礎石が他に類を見ない白大 理石製で創建当時の巨大寺院を構想することができる。 *なぜ飛鳥に残されたの? 平城京遷都で移転した大寺院は大官大寺が大安寺と名称を変えて新設、本薬師寺は薬師 寺として新設(?)、飛鳥寺は元興寺と法号に名称を変えて新設、厩坂寺を興福寺と名称 を変えて新設した如く飛鳥・藤原京に在った四大寺院は川原寺を除き全て新設された。 薬師寺のみは移設説が残されてはいるが他は新しい伽藍配置で寺名も変更して新設さ れたことは発掘調査で確認されている。 藤原京遷都では持統期に本薬師寺が、文武期に大官大寺が新設されているが飛鳥寺と川 原寺は創建時そのまま維持されたのは同一地域との認識が在ったためで四大寺院と位置 づけされている。 それでは何故川原寺が飛鳥に残され興福寺が平城京に新設されたかという謎が生じて 現在まで諸説が提唱されて通説には至っていない。 一説は昭和49年の「川原寺裏山遺跡」の発掘調査を指導した故網干先生が提起する案 で出土した大量の三尊塼仏や塑像片から推定して川原寺はインド仏教の影響を強く受け た寺院で、飛鳥仏教に独特の地位を築いていたと考えられ天武・持統期には重用されてき たが、仏教の日本化が進むにつれ日本仏教界の中では異端視されるようになり、人々の信 頼を失って来ていたため孤立し平城京への移転を許可されなかったとする説である。 他説として川原寺は斉明大王の菩提寺であり、斉明の板葺宮が焼失した際に隣接する川 原宮に遷宮したがこの宮跡に川原寺を創建したと考えられていること、斉明が飛鳥をこよ なく愛し多くの石文化を残していること、更に斉明陵は牽牛子塚古墳か岩屋山古墳が本命 視されているが両古墳共に川原寺を見下ろす西丘陵に位置する等の理由で川原寺を移転 することができなかったとする説である。 また平城京遷都の企画を一手に握っていた藤原不比等が飛鳥・四大寺の移転にあたって 藤原氏の氏寺・興福寺を入れる為に、敢えて川原寺を飛鳥に残す事由として上記の案を選 び、平城京を藤原氏が守護する都にしたとする説等がある。 *遷都後どうなったの? 遷都後は律令制度に基づく官僚群がそっくり移転してしまうため地域の人口減少で寂 れていく様は万葉集にも歌われているが、飛鳥に残った大官大寺、飛鳥寺、本薬師寺、橘 寺、岡寺、山田寺等と共に当面は寺格を維持していたと考えられる。 平成15年の北限遺跡の調査で工房群が発見され、飛鳥寺と同様に瓦、金属器、ガラス、 漆等の工房で生産活動を実施しておりそれなりの経営維持されていたのでしょう。 - 22 - しかし遷都で新設された大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺と比較して寺格の低下は避け られなく、聖武天皇による寺院への懇田施入は主要寺院の半分以下に減らされている事実 が在る。この頃に詠まれたと考えられる作者不詳歌二首(巻16-3849、3850) が川原寺仏堂の中の倭琴の面に落書きされているのが発見されたことからここに伎楽団 が居たことが知られる。 平安期に編纂された「延喜式」ではまだ十五大寺の一つに挙げられており、それなりに 寺格を維持して平安初期には空海が東寺と高野山の往来で川原寺を利用していた記録が 残されているが、9世紀~室町時代の間に川原寺は三度火災に遭遇していることが古文献 から覗える。 「裏山遺跡」の発掘時に出土品として平安期の銭が発見されており、川原寺は平安後期 に火災に遭っていることが予測でき、1077年には東寺の末寺となったと考えられる。 1191年に九条兼実の日記「玉葉」には第2回目の火災に遭遇していることが記され ているが、鎌倉期に再興されたらしい。 結局室町時代末期には雷火で3回目の焼失にみまわれて川原寺は衰退し廃寺化してい ったと考えられ、先に記した如く江戸中期に中金堂跡に現在の弘福寺を建立した。 <註> 扶桑略記:1094年以降に比叡山の僧・皇円が編纂したとされる私選歴史書で神武から 堀河天皇期まで日本仏教文化史で多くの史料を引用していることに特長があ り、史料としては貴重な存在である 飛鳥三大寺:天武期で大官大寺、飛鳥寺、川原寺を指す 三尊塼仏:G-6 飛鳥の塼仏参照 - 23 -
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