難波宮・京の廃絶とその後

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Title
難波宮・京の廃絶とその後
Author(s)
積山, 洋
Citation
積山洋: 都城制研究(6) 都城の廃絶とその後, pp. 51-61
Issue Date
2012-03
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3514
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難波宮・京の廃絶とその後
積山
洋(大阪歴史博物館)
はじめにー難波京の時期区分ー
飛鳥奈良時代の難波は、時には首都であり、主には副都であった。
本稿では飛鳥時代、孝徳朝の難波遷都から天武朝前半ごろまでを難波京 I期、天武朝後
半から奈良時代の元正朝までを難波京 E期とし、聖武朝から桓武朝にかけての時期を難波
京 E期と区分する。その細分は以下の通りである。
大化元年( 6
4
5
)1
2 月、乙巳の変で即位した孝徳は、わずか半年で飛鳥を離れ、難波遷都
(6
5
2)には難波長柄豊碕宮
を断行する。同 3年、難波小郡宮が造営され、その後、白雄 3年
が完成する。しかし白維 5年
(6
5
4
)1
0月、孝徳が難波宮の正寝に没すると、翌年正月、飛
鳥板蓋宮にて斉明女帝が重詐し、都は飛鳥に還る。ここまでが難波京 I-1期である。土器
編年では難波直中段階にあたる
(
1
)。廃都以後も難波宮は存続するので、この期間を
I-2
期とする。天武朝前半ごろが下限である。土器編年では難波 E新段階が中心となる。
(6
7
7)の摂津職大夫の任命、同 8年の難波羅城の建設を経て、天武 1
2年( 6
8
3
)1
2
天武 6年
月、複都制の詔によって難波は正式に副都となるが、朱烏元年( 6
8
6)正月には難波宮が焼亡、
同年 9月には複都制を推進した天武が没してしまい、難波の副都建設は頓挫する。ここま
でを難波京 I-1期とする。難波 N古段階が中心となる。奈良時代の聖武朝で難波宮が再建
I
-2期とする。土器編年では難波 N新段階のころにあたる。
される以前を I
神亀 3年
(7
2
6
)1
0月、難波宮の再建(後期難波宮)が始まり、天平 4年( 7
3
2
)3月、一定
の完成にいたる。同 6年 9月には京域の宅地造成がほぼ終了し、その班給にいたる。聖武
のいわゆる「訪律 5年」の後半、天平 1
6年(7
4
4
)2月には難波が皇都とされることもあっ
たが、翌年 9月、聖武は平城に還都する。おおむね聖武朝を中心とする 8世紀中ごろまで
が難波京国一 1期で、土器では難波 V古段階のころである。その後の 8世紀後半を難波 E
-2期とし、下限は延暦 3年
(7
8
4)の長岡遷都により、難波宮が解体され、その資在が長岡
宮に運ばれるまでとする。土器では難波 V中段階が含まれる。
2年( 7
9
3)年 3月にはすでに難波宮が廃されたことを以て、摂津職は摂津国へと格
延暦 1
づけが変更され、ここに都としての難波の歴史が幕を閉じることとなった。
このように、難波の地は孝徳没後、天武没後、桓武朝と 3度の廃都を経ることとなった。
今回は廃都後の難波宮および難波の様相について述べることとする。
期の廃絶後(斉明∼天武朝前半)
1.難波京 i
『日本書紀』によると、白雑 3年
(6
5
2)に難波長柄豊碕宮が完成した翌年、皇太子中大兄
皇子ら王族・官人の大半が、孝徳の意に反して飛鳥へ還ってしまうという事件が発生して
-51-
いる。その背景に何があったのか、『書紀』は何も語っていないが、孝徳没後の飛鳥還都の
伏線となった可能性は高いと思われる。
5
5
)7月、「難波留」
廃都後の難波について『日本書紀』には以下の記録がある。斉明元年( 6
にて蝦夷 1
9
4名・百済調使 1
5
0名を饗応し、同 5年( 6
5
9
)7月には難波の氏族である津守連
吉祥ちが率いる遣唐使船が男女 2名の蝦夷を伴って難波三津之浦を出発している。 6年 5
2月には滅亡した百済の救援のため、
月、高句麗の使人乙相賀取文らが難波館に到る。同年 1
斉明が難波宮に到着し、翌年正月、救援軍は筑紫へ出発するも、斉明は彼の地にて没し、
1
0 月に難波に帰還した。天智 2年( 6
6
3)の白村江での敗戦を経て、翌年 3月には、倭に亡
命した百済王善光らに対し、難波に居住地を与えている。天武元年( 6
7
2)、壬申の乱がぽっ
発すると、 7月、大海人方の将軍大伴吹負が難波小郡に入り、西国諸国の「国司」らに命
じて官鎗、駅鈴、伝印を進らしめた。翌年、新羅使金承元らが難波で饗応され、天武 4年
(
6
7
5
)4月、新羅王子忠元が難波に到り、 8月に帰国の途についている。
これらの記録は、難波宮が廃都後も存続し、難波の地が蝦夷や朝鮮半島との外交や出兵
の拠点であり、また新たに百済の王族を迎え入れ、従来にも増して渡来人の拠点となった
ことを示すものである。また難波小郡が西国支配の拠点であったことは、壬申の乱での大
伴吹負の行動によって象徴的に窺える。
次いで発掘調査の資料をみてみよう。
難波宮の南方では点々と難波 E中段階ごろの建物群が発見されており(図 1・2)、少な
0
0
4年]。建物群は難波宮と同じ正方位をとるものや、地形
くとも 8地点にのぼる[積山洋 2
の傾斜に即して方位が傾くものなどがある。特徴的なのは、これら建物群がのちに続かな
いことである。なかには建物を撤去し、周囲を囲う塀や溝を埋めて新たな土地造成を行い
ながら、そこに何も建設されていないという例もある(図 1の⑦)。つまり、難波宮南方の
建物群は飛鳥還都とともに廃絶したのではないかと推測される。
斉明・天智朝にあたる土器様式は主として難波 E新段階であるが、その標識資料が難波
宮の北側の谷からまとまって出土している[大阪府文化財センター 2
0
0
2年]。谷を埋めた土
のうち、最下層(第 1
6層)から出土した多量の土器群がそれである。木製品などの出土遺
物に見るべきものが多く、大化 4年
(6
4
8)と推測される「戊申」銘木簡や各種食品名を記し
た木簡群、最古の絵馬や漆壷などがある。木簡など飛鳥還都以前のものをかなり含むと思
われるが、それが難波 E新段階になってまとめて棄てられたわけであり、このとき難波宮
の「大掃除」が行われたようである。
この時期にもうひとつ注目されるのは、百済王氏の氏寺建設である。天王寺区所在の堂
ケ芝廃寺の創建瓦は四天王寺 E期の Ec・Id型式軒丸瓦であり、 7世紀後半に位置づけ
られている(2
)。かつて藤沢一夫が目撃し、いま所在不明となっている方形柱座の塔心礎は
類例が百済・新羅に多いものであり、この寺院跡が百済王氏の氏寺と考えられている[藤沢
一夫 1
9
6
9年]。元々、この地には百済系渡来氏族らが建立した細工谷廃寺があり、斉明朝
-5
2-
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SB田 1実測図
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図1難波京 E期復原図
企: I期
.及び復原条坊: E期
図3 難波京 E期の調査例
調査地 2.S
S
9
5
2次(上:部分図,下:全体図)
図2難波京 I期の調査 2例
FhU
ο
η
にはすでにあった「百済寺」(3)にあたるとみられる[積山洋 2
0
0
8年]が、その南方に位置
し、細工谷廃寺と対を成すかのように百済王氏の氏寺が建設されたことは、のちに両寺が
百済寺と百済尼寺として再編される原形となった。
このように、文献から窺われた廃都後の難波の姿は、考古資料からみても、難波宮の存
続と百済王氏の活動(氏寺建設)を認めることができる。そのほか、大化の難波遷都以前
からのこの地には多くの住人がおり、難波宮建設に際して立ち退きを迫られたが、こうし
た人々は、飛鳥還都によって官人や大和の有力氏族らが居なくなった後にも難波に居住し
続けたことであろう。
2
. 難波京 H期の廃絶後(持統∼元正朝)
『日本書紀』朱烏元年( 6
8
6)正月条に「乙卯 0
4日)酉の時、難波の大蔵省に失火し、宮
室悉くに焚けぬ。或は日く、阿斗連薬が家の失火、引きて宮室に及べりと。唯し、兵庫職
のみは焚けず。」とある。
「大蔵省」や「兵庫職」の用語は、もちろん『日本書紀』編纂
時の潤色であろうが、前期難波宮が火災に遭ったことは、発掘調査の結果、柱の抜取穴に
焼土が混じることによって確かめられている。
ここで前期難波宮の擢災の実態をみておこう。火災痕跡は宮の南門から内裏にいたるま
で広範に認められるが、焼土がまったく混じらない殿舎もある(図 4)。その端的な例は第
一に東方官衝であり、第二に内裏西方官街(大蔵)の倉庫群のうち、もっとも重要な北端
の並び倉と、その北と西を限る塀、さらにその西の塀などである。宮室の東西両端が羅災
していないのである。特に、東方官街がまったく被災していない。
東方官衡の南方で点々と行われた試掘調査によれば、明らかに宮室の建築とみられる大
型の柱穴が良好に残っているが、火災痕跡はない。いま、その全貌は明らかではないが、
東方官街とその南方に、被災しなかった前期の殿舎群がそれなりの規模で存続していれば、
離宮もしくは行宮程度の利用に供することは可能だ、ったかもしれない。のちに持統(太上
)が、東方官街はその際の行在所となりえ
天皇)や文武、元正らは難波宮に行幸している(4
たと思われる。また、持統 6年
(6
9
2
)4月、親王以下に「難波大蔵」の鍬を賜ったこと(『日
本書紀』)は、権災を免れた大蔵の並び倉との関連を想起させる[積山洋 1
9
8
9年
]
。
しかし、難波で、は宮の再建や京建設の再開は行われなかった。前期難波宮の柱穴には大
量の焼土を含む柱抜き取り穴が伴うので、火災後の宮地で跡地整理は行われたのであろう
し、後期難波宮が前期宮と造営軸線をぴたりと一致させていることから、難波宮の再建を
期して造営軸線の目印が何らかの形で現地に残されたこと、さらにはその地が厳重な管理
下に置かれたことなどが想定される。だが、その後、新たな殿舎は建設されないまま、聖
武朝の後期難波宮の建設に至っている。その問、藤原京だけは造営が再開され、持統 8年
(
6
9
4
)1
2月には遷都を迎えた。つまり、持統は天武が構想した複都制を継承せず、放棄した
と考えざるをえないのである。その背後には、天武朝末年に同時進行した国境画定など、
戸町
U
A斗み
I
i
端正
図 4 前期難波宮の火災範囲(アミカケ部分)
四天王寺
堂ヶ芝廃寺
細工谷廃寺
四天王寺 I
細 工 谷I
iju
ミ尋問系
評
J
治以凶
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A干、妻阿 耐ぷ肉儲抑仇苛、一平一
細工谷E
1
5c
m
O
図 5 細工谷廃寺・堂ヶ芝廃寺の五編年(四天王寺は参考例のみ)
phυ
Fhu
令制の国および七道制という新たな地方支配制度の成立があったため、天武の複都制は継
承されなかったとされる[栄原永遠男 2
0
0
3年
]
。
以上のような経過からみると、唐における洛陽のような第一類陪都(首都機能を代替し
うる陪都)
0
0
2年]にまで、未だ、難波が発展しきれていなかったという
[朱土光・葉騒軍 2
のが実情であったと思われる。難波京 E期の建設が、難波宮の擢災と天武の死によって未
0
11
年]ことからすれば、当然であろう。
完に終わった[積山洋 2
とはいえ、注目されるのは、京域ではまだいくつかの建設事業が継続していたことであ
9
9
9年]である。ここでは
る。それをうかがわせる資料は、ひとつは宰相山遺跡[積山洋 1
正東西の溝群が埋まったあと、礎石建物が建設された(図 1・3)。この建物は桁行 4間( 5
.0
m)、梁行 4間( 4
.5m)の総柱建物で、掘り込み地業された掘形に 3
0∼4
0
c
m大の礎石を置
いていた。掘形の掘り込み地業は非常に堅固であったこと、総柱構造であることなどから、
この建物はクラであろう。
もうひとつは細工谷遺跡 E期の瓦が象徴する「百済尼寺」と、
「百済寺」とされる堂ケ
芝廃寺である。両寺は瓦の同箔関係で結ぼれた百済王氏の氏寺である。難波に来住した百
済王氏がこれらの氏寺を建設したことは、
「百済尼寺J (復原)や「僧寺」の墨書土器多
9
9
9年]。その
数が細工谷遺跡で出土したことによって明らかとなった[大阪市文化財協会 1
年代は細工谷 E期の瓦が、軒丸瓦は重弁八葉蓮華文、鋸歯文縁複弁八葉蓮華文(法隆寺式)
などで、軒平瓦は法隆寺西院伽藍の金堂・塔所用瓦と同箔の可能性が指摘される忍冬唐草
6
9年、五重塔が6
7
3年、中門が6
8
5年の伐採と
文であり(図 5)、西院伽藍の用材が金堂は 6
0
0
5年]ことから、 7世紀第 4四半期の中∼後半に位置づけられ
される[奈良文化財研究所 2
る。しかも百済王氏一族が外国の亡命王族から倭王権下の君臣秩序に編成され、彼らが相
次いで高位の冠位を得るのが持統朝であることは、その時期に氏寺建設が大きく進んだ、こ
とを物語るのである[積山洋 2
0
0
8年
]
。
このふたつの事例が示すのは、京域の造営が頓挫したのちも、難波が廃れてしまったわ
けではないということである。確かに、難波宮の火災は京建設の核心的拠点を失うことを
意味し、天武の死によって複都制の推進者を失うこととなった。それゆえ、その後の難波
はすっかり廃れてしまったと思われがちであるが、百済王氏の氏寺のように、官によらな
い形での建設事業が継続していたのである。
(7
0
3
)2月、太上天皇(持統)の七七忌にあたり、朝
『続日本書紀』によると、大宝 3年
廷は四天王寺等 7寺に遣使して斎を設けている。住吉大社も、持統 6年
(6
9
2
)5月の藤原遷
宮に先立つ奉幣、同年 1
2月の新羅調の奉納など、朝廷の崇敬を集めていた。
(6
9
2
)1
1月、大宝 3年( 7
0
3
)
外交館舎としての難波館も健在であった。少なくとも持統 6年
閏 4月には難波館で新羅使を饗応しており、慶雲 2年
(7
0
5)来日の新羅使金儒吉は入京した
ので、藤原京との往還の際にも、難波館を経由したことであろう。
こうしてみると、難波京では E期後半の長柄豊碕宮焼亡後も、百済王氏をはじめとする
円
hu
﹁円U
渡来系氏族らや寺社に仕える人たち、外交官舎の官人らをはじめとして、様々な人々(百
姓)の集住が継続していたと考えられるのである。
3
. 難波京川期の廃絶後(桓武朝∼)
(7
8
4
)5月 1
3日、蝦墓 2万匹が難波市の南道より南行し、四
『続日本紀』は、延暦 3年
天王寺に入ったという怪異事件を伝えている。その 3日後、長岡遷都の勅が出されたため、
この記事は遷都の予兆記事とされている。同年 1
1月、桓武は早くも長岡に移る。平城宮に
手をつけずにこれほど迅速な遷都が行えたのは、難波宮を解体・移築したからである[清水
みき 1
9
8
6年、山中章 1
9
9
7年]。実際、長岡宮朝堂院の軒瓦の 9割を難波宮式が占めている。
そして、本稿冒頭に挙げたように、延暦 1
2年
(7
9
3
)3月にいたり、難波宮がすでに停止し
ていることを以て摂津職は摂津国に格下げされた(『類家三代格』)。
5年( 7
9
6
)1
1月 2
1日付太政宮符によれば、天平年間以来、
しかし、『類来三代格』延暦 1
「官人百姓商旅之徒」が大宰府管内の港津から、禁制を破って「国物」を勝手に流通させ、
その船がみな難波に集まっていたという。難波で出土する内面布目の北部九州・防長系の
9
9
3年]であり、これらの製塩土器で運
製塩土器はそのような私的な交易の結果[積山洋 1
(7
8
5)正月 1
4日、「使いを遣して
ばれたのは「私塩」であろう。『続日本紀』には延暦 4年
摂津国の神下、梓江、鯵生野を掘り、三国川に通ぜしむ。」とあり、難波津を経ずに瀬戸内
から新京(長岡京)にいたる水運ルートが開削されたことを伝えるが、上の太政官符によ
る限り、難波津は健在なのである。
発掘調査の結果によれば、難波宮という京の核心が去った難波では、奈良末∼平安前期
の遺構・遺物群の分布が、大きく南北に分裂ないし拡散したかのような様相を示す(図 6。
)
このうち、南の遺跡群の新たな求心力となったのは四天王寺であった。廃都後も四天王
寺周辺では人々の居住が絶えることなく継続し、中世の遺構も多数みつかっている。四天
王寺がのちのちまで重きをなし、百姓集住の核となっていたことが窺われる。難波旧京「朱
雀路」をはさんだ東方の摂津国分寺においても、四天王寺で葺かれた平安後期の花菱文軒
平瓦・連珠文軒平瓦、平安∼鎌倉初期の「四天王寺」の文字文とみられる軒丸瓦( 5)などが
9
9
1年、同 1
9
9
8年]し、国分寺もまた四天王
出土[大阪市教育委員会・大阪市文化財協会 1
寺に吸引されていったものと知られるのである。
そして北方の遺構・遺物群は京域から西へ進出するとともに、あたかも難波津の水運を
通じた物資流通と経済活動の地である大川つまり難波堀江へ吸引されるかのようである。
しかも、この地で発見された溝や道路跡などが、一様に北で西に 8 ほど触れている(図
0
7)ことは、人々の新たな集住地に形成された平安時代の地割を示す可能性が高い。
これと同調するかのように、延暦 2
4年( 8
0
5)、摂津国府がこの地に移される(『日本後紀』
4年 1
1月 2
0日条)。その後、国府は移転またはその計画がもちあがることも再三あ
延暦 2
(8
2
5
)3月 3
0日条、『続日本後
ったが、そのっと、当地に戻っている(『日本紀略』天長 2年
-57-
図 6 難波京国期とその後
上: f
尼寺」
下:「百済尼」
よ薄堅調 ----In
0
図 7 難波京廃都後の調査 2伊j
2
3
2
図 8 調査地 2
8墨書土器
l
O
c
m
nHU
FhU
紀』承和 l
l年(8
4
4
)1
0月 9日条。また{河音能平 1
9
8
8年])。難波津周辺には人々が引き続
き集住していたこと、その新たな求心力として国府を想定することができるのである[積山
洋2
0
0
2年]。『扶桑略記』によれば、治安 3年 (
1
0
2
3
)1
0月 2
8日、高野山詣を済ませた藤原
道長が「国府大渡下j で乗船して京都へ帰ったというから、国府はその時点には熊野街道
の起点たる「渡辺津」(難波津の後身)に所在していたのである。
また、百済王氏が北河内の交野へ移転したのは、聖武に寵愛された百済王敬福が河内守
9
5
8年l
が、実はこのころまで健在である{積山
に就いた天平勝宝年間とされる[今井啓一 1
洋2
0
0
8年]。細工谷遺跡で「百済尼寺」と復原される墨書土器(墨書は「百済尼」「尼寺」
など、図 8)が多数出土した井戸はこの時期に廃絶している。百済寺への経済的援助も、
延暦 2年
(7
8
3
)1
0月 1
6日(『続日本紀』)、同 1
2年(7
9
3
)5月 1
1日(『日本後紀』)、同 1
7年
(
7
9
8)正月 1
1日(同)と、この時期に相次いでおり、河内移転への援助とみられるのであ
る。上の延暦 1
2年の記事には「銭三十万および長門・阿波両国の稲各一千束を、特に河内
国交野郡百済寺に施入す。」とあり、これが河内百済寺の初出なのである。
とはいえ、百済王氏の河内移貫が延暦年間以前に始動していた可能性は否定できない。
難波百済寺の移転先が枚方市所在の特別史跡百済寺跡であるが、その河内百済寺の軒瓦の
7
0∼7
8
1
)ごろとさ
うち、多数を占める北河内の瓦が、平城宮の軒瓦の編年から宝亀年間( 7
0
1
0
年]からである。私は、百済王氏が交野移転を計画し、現地に居宅を構
れる[古閑正浩 2
え、氏寺を建設するという準備期間中は本拠地難波の氏寺には手をつけず、史料にみた延
2年までの聞に交野移貫を果たしたとするのが自然だと思う。墨書土器が出土
暦 2年から 1
した細工谷遺跡の井戸が埋められた時点があくまでも移転の時期と考えるが、あえて限定
的に言えば、この井戸の廃絶は移貫の最終段階を示すものではないかと思うのである。
おわりに
(8
2
5)の豊島
平安時代になっても、難波が要地であることに変わりはなかった。天長 2年
郡への国府移転は、難波の住民たちの「百姓騒動」と記されるような反対運動で撤回され
た(『日本紀略』天長 2年間 7月 2
1日条)。このような特筆すべきエネルギーは、この地が
多くの人口を擁していたからこそであろう。『土佐日記』には承平 5年
(9
3
5)の難波津に少
なからぬ人々が居た様子が記されている。やがて i
i世紀には難波津は渡辺津となり、熊野
街道の起点となって高野・熊野参詣の人々で賑わうようになる。四天王寺はその聖地とな
り、のちに門前町を形成するにいたる。こうして、水陸交通と物資流通の結節点に位置し
た難波は、中世社会への転進を遂げたので、ある。
最後に述べたいのは、 3度に及ぶ廃都を経験しながら、なぜ難波の地はそのたびに廃れ
てしまわなかったのか、という点である。逆にいえば、なぜ 3度も都が置かれたのか、と
いうことでもある。これを考えるには、大化の難波遷都以前に遡る検討が必要であるが、
ここでは要点だけを述べる。
-59-
難波の地をもっとも特徴づけるのは難波津である。近畿の二大河川たる淀川と大和川が
合流して海に注ぐ地点に位置した難波津は、水陸交通と物資流通の結節点であり、瀬戸内
を通じて大陸への門戸となり、また西国支配の拠点であった。その原点は、難波堀江を望
む上町台地の高台に巨大な倉庫群が置かれた古墳時代中期に遡る。その廃絶以後、上町台
地北端において人々の集住が開始され、それは長い伝統となる。それまであまり人が住ん
でいなかった地に突知として建設されたこの倉庫群が在地氏族のものとは考えられず、当
時の王権に直属したものであることは想像に難くない[直木孝次郎・小笠原好彦編 1
9
9
1
年
]
。
このように、難波の開発は王権によって進められたのである。これと連動して、難波津
の成立も推測されるところである。つまり、難波の地は王権の直轄地として開発されたの
であり、それがのちの副都となる原形となったのである[積山洋 1
9
9
4年]。難波の地が、副
都として、時には首都として 3度も都が置かれ、また廃都されても簡単には廃れなかった
のはこうした歴史的背景によるものであり、人々の集住もまた、簡単には崩壊しなかった
のであろう。
注
(
1
) 古代難波の土器編年は[佐藤隆 2
0
0
0年]による。
(
2
) 四天王寺の軒瓦の分類と編年は[網伸也 1
9
9
7年による。
(
3
)
『日本霊異記』上巻第 1
4話
。
(
4
)
『続日本紀』文武 3年
(6
9
9)正月笑未( 2
7日)条、慶雲 3年
(7
0
6
)9月丙寅( 2
5日)条、
養老元年( 7
1
7
)2月壬午 (
11日)条。
(
5
) [四天王寺文化財管理室編 1
9
8
6年]の N
o
.
1
9
9・4
2
0などがそれである。
参考文献
網伸也「四天王寺出土瓦の編年的考察」(『堅田直先生古稀記念論文集』真陽社、 1
9
9
7年
)
。
今井啓一「摂津国百済郡考」(『続日本紀研究』 5
8・5
9号、続日本紀研究会、 1
9
5
8年
)
。
大阪市教育委員会・大阪市文化財協会『平成 2年度大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報
告書』 1
9
9
1年
。
大阪市教育委員会・大阪市文化財協会『平成 8年度大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報
9
9
8年
。
告書』 1
大阪市文化財協会『細工谷遺跡発掘調査報告』 I、 1
9
9
9年
。
大阪府文化財センター『大坂城牡』 E、2
0
0
2年
。
河音能平「院政期における渡辺党の活動」(『新修大阪市史』第 2巻、大阪市史編纂所、 1
9
8
8
年
)
。
2
1号、大阪歴史学会、 2
0
1
0
古閑正浩「河内百済寺の造瓦組織と王権」(『ヒストリア』第 2
-6
0-
年
)
。
栄原永遠男「天武天皇の複都制構想、」(『市大日本史』第 6号、大阪市立大学日本史学会、
2
0
0
3年)。
佐藤隆「古代難波地域の土器様相とその史的背景」(『難波宮祉の研究』第 1
1、大阪市文化
財協会、 2
0
0
0年
)
。
四天王寺文化財管理室編『四天王寺古瓦衆成』(柏書房、 1
9
8
6年
)
。
清水みき「長岡京造営論 J (『ヒストリア』第 1
1
0号、大阪歴史学会、 1
9
8
6年
)
。
朱士光・葉騒軍「中国史上の陪都制」(『大阪歴史博物館研究紀要』第 1号、積山洋翻訳、
2
0
0
2年。原題「試論我国歴史上陪都制的形成与作用」『中国古都研究』第 3輯、中国古
都学会、漸江人民出版社、 1
9
8
7年
)
。
2
4号、大阪歴史学会、 1
9
8
9年
)
積山洋「前期難波宮内裏西方官衡の検討」(『ヒストリア』 1
積山洋「律令制期の製塩土器と塩の流通−摂河泉出土資料を中心に−」(『ヒストリア』 1
4
1
号、大阪歴史学会、 1
9
9
3年
)
。
積山洋「上町台地の北と南一難波地域における古墳時代の集落変遷一」(『大阪市文化財論
集』、大阪市文化財協会、 1
9
9
4年
)
。
積山洋「難波京東部域の発掘調査」
、 1
9
9
9年
)
(『大阪市文化財協会研究紀要』第 2号
積山洋「難波京の変容−奈良末から平安前期の様相をめぐってー」(『条里制・古代都市研究』
第1
8号、条里制・古代都市研究会、 2
0
0
2年
)
積山洋「孝徳朝の難波宮と造都構想、J (塚田孝編『大阪における都市の発展と構造』、山川
出版社、 2
0
0
4年
)
積山洋「難波京と百済王氏」(『ヤマトの開発史( 2)』奈良女子大学 2
1世紀 C
O
Eプログラ
ム報告集 V
o
l
.1
9、2
0
0
8年
)
0
1
1
積山洋「難波京条坊地割の基礎研究J (『大阪歴史博物館共同研究成果報告書』 5、 2
年)。
9
9
1年
)
。
直木孝次郎・小笠原好彦編『クラと古代王権』(ミネルヴァ書房、 1
奈良文化財研究所「トピックス
法隆寺西院伽藍と年輪年代法」(『奈良文化財研究所概要
2
0
0
5
、
』 2
0
0
5年
)
。
9
6
9
藤沢一夫「摂津百済寺考」(『日本のなかの朝鮮文化』 2号、日本のなかの朝鮮文化社、 1
年)。
山中章「都城の展開」(同氏『日本古代都城の研究』相書房、 1
9
9
7年、初出 1
9
9
1年
)
李陽浩「前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(『難波宮祉の研究』第 1
3、大阪
市文化財協会、 2
0
0
5年
)
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