東大阪文化財を学ぶ会 2015年 飛鳥と”万葉歌碑”めぐり 4 月 19 日 会 報 NO7 3 第1回例会 1.集合時刻 2.集合場所 4月19日(日) 事務局 TEL&FAX 06-6777-2137 小雨決行 午前9時(時間厳守) 近鉄橿原神宮前駅 東出口(飛鳥方面) 何かありましたら、090-8375-9655(南)まで 万葉文化館480円 飛鳥大仏350円(自由拝観)石舞台200円 昼食は弁当をご持参下さい。場所は、甘樫丘周辺か万葉文化館を予定しています。 どなたも奮ってご参加下さい。 3.費 用 4.昼 食 5.参加申込 6.行 程 剣池→古宮遺跡、小墾田宮推定地→豊浦寺跡→雷丘→甘樫丘→明日香村埋蔵文化財展示室→水落遺跡→入鹿 首塚→飛鳥寺・真神原→飛鳥坐神社→万葉文化館(飛鳥池工房遺跡)→酒船石遺跡→伝飛鳥板蓋宮→川原寺跡 →犬養万葉記念館→石舞台古墳→バス停へ *都合により、行程を変更することがあります。 ①剣池 『日本書紀』には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさか)池と 共に剣池を造った、とある。その剣池に比定されているのが、この石川池である。宮内庁はこの場所を第8代 孝元天皇の劔池嶋上陵として管理している。その根拠は、『日本書紀』と『延喜式』の記述にある。『日本書 紀』には、孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御し、皇位を継いだ第二子の開化天皇が即位から5年後に、 父の遺骸を劔池嶋上陵に埋葬したと記されている。平安時代の10世紀の初めに作られた『延喜式』も、『日 本書紀』の記述に基づいて劔池嶋上陵に比定している。 「軽の池の浦廻(み)行き廻(み)る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに」 (紀皇女 巻3-390) 作者は紀皇女(きのひめみこ)。天武天皇の皇女。母は蘇我赤兄の娘、太蕤娘。軽の池とは軽皇子を指すと 思われ、これは文武天皇の皇太子以前の名前。貴方には素敵な方がいらっしゃるのに私は一人寂しく夜を過ご しているのです。この頃の文武天皇は藤原宮子(藤原不比等の娘)に夢中であった。太蕤娘の持統天皇への忠 誠の証としてか紀皇女25、6才であった。 ②古宮遺跡、小墾田宮推定地(古宮土壇) 小墾田の宮跡伝承地と言われる土地に一本の木(ケヤキ?)がそびえている。その根元は「古宮土壇(ふる のみやどだん)」と呼ばれている盛り土で高くなっている。 説明板には、「古宮遺跡はこれまで推古天皇の小墾田宮ど推定されてきた遺跡である。明治時代には金銅製 四環壷が出土したと伝えられているが、現在は古宮土壇だけが残されている。 『日本書紀』『続日本紀』によると小墾田宮は推古天皇にはじまり、離宮や兵庫(武器庫)として奈良時代 まで存続したことがわかっている。昭和45年に実施された発掘調査では、上壇の南側で7世紀前半の小池と 石敷が見つかっており、推古天皇の時代の庭園跡であることが判明した。また、現在は駐車場になっている場 所でも7世紀前半から後半にかけての建物群が見つかっており、広い範囲に遺跡が広がることも確認されてい る。しかし、小墾田宮については、昭和62年に飛鳥川を隔てた東側にある雷丘東方遺跡で、奈良時代の井戸 から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、少なくとも奈良~平安時代の小治田宮について は、雷丘東方遺跡であることが判明した。推古天皇の小墾田宮も雷丘周辺にあったと考えられるようになった。 よって古宮遺跡は蘇我氏に関わる庭園とする説が有力となっている。」と書かれていた。 ③豊浦寺跡(現向原寺)、豊浦宮跡 『日本書紀』は欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上した。 群臣たちは、蕃神を祀ることに反対した。それで、天皇は蘇我稲目に仏像を与え、個人的に崇拝させることに した。稲目は小墾田の向原にあった自宅を寺に改造して、その仏像を祀った。それが向原寺の創起であり、我 が国の最初の仏教霊場であるという。まもなくして国中に疫病が流行した。そこで、物部尾興らは「蕃神」の せいであると奏上した。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。尾興たちは、 聖明王がもたらした金銅仏を百済に帰れと「難波の堀江」へ流し、寺を焼却した。記録には、難波の堀江に捨 -1- てた仏像が信濃の善光寺に祀られたと、『善光寺縁起』には語り伝えられているという。 しかし、長野善光寺の絶対秘仏の本尊はなぜか、一光三尊阿弥陀如来像(中央に阿弥陀如来、向かって右側 に観音菩薩、左側に勢至菩薩)。 豊浦宮跡 『日本書紀』によれば、崇峻天皇5年(592)、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫が、推古天皇として 豊浦宮で即位し、我が国最初の女帝が誕生した。それ以後、本格的な都城である藤原京が築かれるまでの約1 00年間、歴代天皇の宮はほとんど飛鳥に置かれることになる。推古天皇の小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮 と田中宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮と後飛鳥岡本宮、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原 宮である。言うならば、飛鳥時代100年の歴史は推古天皇がこの豊浦の地に宮を構えた時から始まったとい ってよい。 ④雷丘ー雷丘は雷神の降臨する聖なる丘 天皇(すめらみこと)、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂(かきのもとの あそみひとまろ)の作る歌一首 「大王は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬せろかも j(柿本人麻呂 巻3ー235) (天皇は神にあられるから、天雲の中にいる雷の上に仮に宮殿をお造りになっていらしゃやることだ) 右、或る本に曰はく、忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)るといへり。 その歌に曰はく、 「大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます」(柿本人麻呂 巻3ー235) ここでの、「神」は、道教思想にいう、「至人」最高の人間、絶対的な人格を持った人「真人」といえる。 では、雷丘とは、古代日本の仏教説話を集めた『日本霊異記』は、その上巻第一話に「雷を捉えし縁」と題 して、雷丘の名の由来に関係した説話を載せている。説話の概要は次の通りである。 「雄略天皇が小子部栖軽(ちいさこべのすがる)に雷を呼んでくるように栖軽に命じた。栖軽は山田道を雷 を求めたが見あたらなかった。仕方なく折り返してくると、豊浦寺と飯岡との中間の所に雷が落ちていた。そ こで、輿に雷を乗せ宮殿に運んで、雷を連れてきたことを天皇に奏上した。そのとき、雷が光りを放ち明るく 輝いたのを見て、天皇は恐れをなして、雷が落ちていた所へ返させた。その落ちていた所を、今でも雷の岡と 呼んでいる。」という。 ⑤甘樫丘 頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145 m の小高い丘である。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿 親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火 をかけて自害したといわれている。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の 東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が 大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致す ることなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。 「采女の袖吹きかへす 明日香風 遠みいたづらに吹く」(志貴皇子 巻1-51) (采女たちの美しい衣の袖を翻していた明日香の風 都が遠くなった今、むなしく吹くばかりだ。) 持統8(694)年12月飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都、その後ほどなくこの1首が詠まれたであろう。 それほど日がたってないとすると、風は春の明日香風である。 甘樫橋東の歌碑ー犬養孝氏の揮毫 「今日もかも 明日香の川の 夕さらず かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ」(上古麻呂巻3-356) (今日もまた明日香川は夕方になると、カジカカエルが鳴く瀬が清やかなことだろう。) ⑥水落遺跡 甘樫丘の東側、飛鳥寺の西側に位置する。発掘調査の結果、特異な基壇を持つ大形の正方形建物遺構が見つ かった。発見された遺構は他に、基壇内を走る木樋暗渠、銅管、漆塗木箱などがある。基壇内部に引き込んだ水 を基壇上へ汲み上げる装置を持ち、中国に現存する元・明・清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木箱の痕跡が検 出されていることなどから、これらの遺構は、中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であることが 想定されている。「漏刻」台が築かれた背景として、当時の中国的な政治理念にもとづいた「時の支配」の観 念が存在したことが考えられている。出土した土器の検討から650年~660年代の間に造営され廃絶した と推定されている。 -2- ⑦蘇我入鹿首塚 伝承では、645年の乙巳(いっし)の変で惨殺された蘇我入鹿(そがのいるか) の首がここまで飛んできて、力尽きたと言われている。その首を埋めた塚らしいも のが以前はあったようだが、今は整地されて平らになっている。ただ、塚の位置を 示すように丸い石が置かれ、その手前に鎌倉時代に建てられたという五輪塔(空輪・ 風輪・火輪・水輪・地輪)が一基置かれている。乙巳(いっし)の変と呼ばれるク ーデターの舞台は、皇極天皇の飛鳥板蓋宮。時は645年、女帝が臨席して大極殿 で三韓朝貢の儀式が執り行われた。その華やかな外交儀式の最中に時の権力者・蘇 我入鹿が惨殺されたという。板蓋宮は入鹿の首塚から直線距離で約620mほど南 南東の方向にある。果たして人間の首がこんなにも遠くまで飛ぶのだろうか。それ よりも、乙巳の変そのものが本当にあったのだろうか。 ⑧飛鳥寺 飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより、蘇我馬子が寺院建立を発願し、59 6年に創建された日本最初の本格的な寺院。法興寺・元興寺ともよばれた。現在は安居院(あんごいん)と呼 ばれている。 創建時の飛鳥寺は、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し、その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だっ た。寺域は東西約200m、南北約300mあった。百済から多くの技術者がよばれ、瓦の製作をはじめ、仏 堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団は、この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。さらに、こ れらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり、各地の寺院造営に関わるようになる。 創建飛鳥寺の中金堂に安置されたのは、金銅製釈迦三尊像。現在の本尊は飛鳥大仏(釈迦如来像)である。 年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われている。金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天 皇が止利仏師(鞍作鳥・鞍作止利、渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏。605年に造り 始め、606年に完成した。しかし、887年と1196年の落雷のため火災に遭い本堂が焼失したが江戸時 代に再建された。飛鳥大仏も補修されたが、顔の一部、左耳、右手の中央の指3本だけが当時のまま残ってい る。法隆寺金堂の国宝釈迦三尊像とよく似ている。 こ飛鳥寺の境内にある歌碑。 「三諸の 神名備山に 五百枝(いほえ)さし 繁に生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉かづら 絶 ゆることなく ありっつも 止ます通はむ 明日香の 古き京師は 山高み 河雄大し 春の日は 山し 見がほし 秋の夜は 河し清けし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に河蝦はさわく 見るごとに 哭のみし泣かゆ 古思へば」 (山部宿禰赤人 牧3-324) 長歌の歌碑は佐々木信綱氏の揮毫。 (三諸の神名備山に多くの枝が萌え出て伸びているつがの木。その「つが」という言葉のように、次々に絶え ることなく、止まず通いたいと思う明日香の古き都は、山は高く川は雄大に流れ、春の日は山が美しく、秋の 夜は川の音が 清やかである。朝立つ雲に鶴は乱れ舞い夕霧の中で、かじかはしきりに鳴いている。 それを みるたびに涙があふれてくる。過ぎ去った昔を思うと。) 反歌 「明日香川 河淀さらす 立つ霧の 思いすぐべき 恋にあらなくに」 (明日香河の川淀ごとに立つ淡い霧。その霧が消えてしまうような私の思いではないことだ。) ⑨飛鳥坐神社 社の由緒書には、創建の詳細・場所に関しては不明としながら、『旧事本記』に「大己貴神・大物主神が高 津宮命を娶り一男一女を儲け、その子事代主神を飛鳥社の神奈備に坐せて、」とあり、また『出雲国造神賀 詞』に「賀夜奈流美命・飛鳥神奈備三日女神の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とある。ことから、すなわち大 国主神が国土を天孫にお譲りになる際、わが子である事代主神を始めとする神々を天孫の守護神としてその神 霊を祭らせた。その際に皇室守護の神として、事代主神とその妹神とされる賀夜奈流美命・飛鳥神奈備三日女 神の神霊を奉斎されたのが当社の起源とされる。と述べている。 また、『日本書紀』に朱鳥元(686)年7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸社 飛鳥四社 住吉大社」と ある。これは天武天皇の病気平癒の祈願のため、国懸神社と住吉大社とともに幣帛が奉られたものである。 このことは、伊勢神宮に幣帛がされていないこと、アマテラスがまだ、皇祖神になっていないことを表してい るのではと考えられる。 -3- ⑩万葉文化館(飛鳥池工房遺跡) 明日香村は何処を掘っても遺跡が出ると言われる。奈文研は建設予定地に約9500㎡の調査区を設定して 翌平成10年に調査を開始すると、7世紀後半の石組み方形池遺構や石敷き井戸跡のほか、金・銀・銅・鉄・ ガラス工房と思われる遺構やるつぼ、金属製品などの遺物、7500点以上の木簡、大量の土器類が出土した。 平成10年に発見された木簡の中には、日本最古の「天皇」銘や、天武朝と思われる「丁丑年(ていちゅうね ん=677年)」銘のある木簡が含まれていた。天皇銘木簡は、国家元首の呼び名がこの時点で大王(おおき み)から天皇になっていたことを証明する超一級の史料である。平成11年1月には、廃棄物を捨てたと思わ れる7世紀後半の炭層から、完形品を含む33点の富本銭が出土した。それまでは”まじない銭”と考えられ てきた富本銭が、和同開珎をさかのぼる流通貨幣として脚光を浴びることになった。 飛鳥池の工房跡は「飛鳥池工房遺跡」の名前で国の史跡に指定され、遺構は現状のまま埋め戻して保存する ことになった。 ⑪酒船石遺跡、亀形石像物 万葉文化館の隣に竹林に囲まれて巨大な謎の石造物、酒船石遺跡がある。 東西方向の長さ5.5m、南北方向の長さ2.3mで、厚さ約1mの花崗 岩でできた扁平な長方形の石である。西側に約5.5度傾いており、西端 には長さ80cm、幅40cmの枕石がある。上の面は平坦で、そこに円 や楕円の浅いくぼみが掘られ、幅約10cmの直線状の溝でこれらのくぼ みが結ばれている。 この石の用途について、古来より酒を絞ったもの、油を作る用具、薬を 作ったものなど様々な解釈がされてきた。しかし、いずれの説も推測に過 ぎず、その正体は依然として謎のままと言わざるをえない。 昭和10年、酒船石の南で、酒船石の付属とみられる車石が16個発見された。平坦に整形された幅40c m、長さ50cmほどの花崗岩の表面に、車の轍のように直線の溝が彫られているため、酒船石から流れ出た 水を南側に導く施設に使われたと見られている。このことから、酒船石は庭園の流水施設の一部たったという 説も出されている。 平成12年に見つかった亀形水槽と小判形石造物。それぞれ全長は約2.4 m と約1.65 m。これらの 遺構は、湧水施設や導水施設をもつ精巧な造りで、湧水施設から水をながすと、小判形石造物をとおって亀形 水槽にたまるようになっている。使用目的は同じく未解明ながら全体の形式は庭園であり、高度な石工技術を みせる亀形水槽などは、渡来系技術者の関与も考えられる。また、亀形の意匠から道教の神仙思想を表現する 祭祀行事の執行や、亀形を鼈・スッポンとみて五穀豊饒を祈願した可能性も指摘されている。 『日本書紀』の斉明2年(656)の条にいう「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす」の記事とよく符合 するため、斉明天皇が山上につくらせた両槻宮(ふたつきのみや)の一部であることはまちがいなさそうだ。 ⑫伝飛鳥板蓋宮 宮殿遺構が重複している。上層B期は天武・持統朝の飛鳥浄御原宮、 上層A期は斉明朝の後飛鳥岡本宮であることがほぼ確定し、中層は皇極・ 斉明朝の飛鳥板蓋宮である可能性が大きい。 建物の造営方位を正方形に向けた最初の王宮である。この王宮は乙巳 の変(645)の後、難波宮遷都の間も維持管理された。下層が舒明朝 の飛鳥岡本宮とみられる可能性がある。 7世紀後半から藤原宮に遷るまでの時期のもので飛鳥浄御原宮であっ た可能性が高い。この宮の中で、長方形に塀で囲い多くの殿舎が配置さ れた一画を内郭と呼んでいる。この内郭の南面に中央に門があり、その 北側に東西7間・南北4間(1間=約1.82 m)の掘立柱建物があった。復元整備したこの場所は、内郭の 東南の隅にあたり、ここでは周囲に石敷を回らした南北10間・東西2間の掘立柱建物が2棟並んで検出され た。西南隅にも同様な建物があったと推定でき、宮の中の重要な建物であったと見られる。飛鳥京跡で、飛鳥 浄御原宮(あすかきよみはら)の正殿跡の全体が発掘され、東西23.5m、南北12.4mの高床建物だっ た。飛鳥時代最大級の建物で、渡り廊下でつながった別棟、池を望む縁側がついた建物跡も出土した。 -4- ⑬川原寺跡 川原寺は、飛鳥時代の天武天皇期には飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺として、下って持統・文武天皇 期では薬師寺を加えて飛鳥四大寺に数えられ、朝廷に重用されてきた大寺である。これら飛鳥時代の大寺は、 日本の正史である「日本書紀」にその創建目的や発願者等について比較的詳しく記載され、特に飛鳥寺は異様 なほどに詳細に記述されていることはよく知られるところである。 ところが、川原寺に限っては一切その記載が無く、また後述のとおり室町時代末期に焼失して以降完全に廃 寺となったために寺伝も残されておらず、川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、全く知ることがで きない、当時の大寺としては実に不思議な寺院である。 このため当寺院の創建年次は諸説あるが、未だ確定するには至っていない。しかし、「日本書紀」「続日本 紀」等の川原寺で行われた諸行事記録や発掘調査による伽藍遺構、出土瓦などの遺物などから、当寺院は、斉 明天皇没後から天武朝初期までの間、即ち661~670年代の間に斉明天皇の冥福を祈る為に、天智天皇が 発願し斉明天皇の宮であった川原宮の故地に建立されたのではないかというのが最も有力な説となっている。 「世間の 繁き仮廬に 住み住みて 至らむ国の たづき知らすも」(作者未詳) (煩わしいことの多い、この仮の世、移り変り破壊を免れない迷いの世界に長く住みすぎたのだろうか。極楽 浄土へいたる手だてもいまだわからすにいることよ) ⑭犬養万葉記念館 日本全国の万葉ゆかりの地を生涯を通して歩き、「万葉風土学」を提唱した万葉集研究の第一人者・犬養孝 氏。犬養万葉記念館は、『犬養節』と呼ばれる独特の万葉朗唱とともに多くの人に万葉の世界を広め、また、 歴史と万葉のふるさとである飛鳥を愛し、その保存に尽力した犬養氏の業績を顕彰する記念館。 ⑮石舞台古墳 石舞台古墳の築造は、古墳時代後期から終末期であると考えられている。墳丘上段の盛り上が失われている ために本来はどのような形をしているか確認できないが、発掘 調査によって下段は方形。今日、考古学者の中では、上下段と も方形の方墳であるという考え方と、上段が円形の上円下方墳 であるという考え方がある。残存している墳丘の下段部分は、 一辺約50 m で、幅5.9~8.4mの空濠があり、その外 側には上面幅7mの堤が確認されている。 石室は、玄室と羨道からなる両袖式の横穴式石室で、玄室は、 長さ7.7 m、幅3.5 m、高さ4.7 m、石室の全長は19.4 m。石英 閃緑岩(通称飛鳥石)と呼ばれる石舞台古墳付近で産出される巨石を積み上げ てできた石室の、特に2石ある天井石二のうち、南側の天井石は77 t もの巨 石を使用し、全体の重量は2300 t に及ぶと推定されている。石室内から は凝灰岩片が出土しており、本来は家形石棺が安置されていたと考えられてい る。石舞台古墳の墳丘がいつ失われたのかはっきりとはわからないが、江戸時 代に描かれた『西国三十三ヵ所名所圖會』の石舞台古墳は現在と同じような姿 をしている。 石舞台古墳の全貌を明らかにするため昭和50年代に外堤を調査した。結果、 石舞台古墳の下層にはいくつかの小規模古墳があったことが確認された。つまり、小規模古墳7基を破壊して 石舞台古墳は造られたことが確認された。石舞台古墳はその規模だけでなく、築造の背景からも大きな力をも った人物によって造られた古墳であったことが窺うことができる。 お願い 本年度も東大阪文化財を学ぶ会に多くの同好の皆さん方の会員登録、会費納入を戴いています。 大変有り難うございます。本年度会費未納の方は、納入方よろしくお願いします。 -5-
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