第304回平成27年10月月例会 ① 天石窟戸神話− 記紀原文の語る仰天真相 齋藤 守弘 じっは天照大神(紀表記・あまてらすおほみかみ)の名は実名ではない。高天原がある計画実行の ため、最高幹部諒解のもと、授与したもう一つの最高地位の名称なのである。 では実名はといえば、葦原中国(あしはらのなかつくに)の最高位の女性・伊奘冉尊(いぎなみの みこと)がその母親であり、夫・伊奘諾尊(いぎなきのみこと)との間に誕生した長女の名が実名な のだ。大日孁貴(おほひるめのむち)という。 ところがその後、夫の国・高天原に留学させられ、その地での呼び名は稚日女尊(わかひるめのみ こと)となった。 『日本書紀』第七段一書第一によると、この女性は素戔嗚尊(すさのをのみこと) の祭事妨害行為により傷つき死去したとされるが、死去したのはその幼時の名前だけ。名前の死とは 二度と使用しないとの意。負傷した本人自身は辛うじて逃れ、土塗りで固めた堅固な竪穴住居(天石 窟)に閉じ籠った。よほどの重傷らしく、そのまましばらく養生を余儀なくされた。それが高天原集 落の人々の日常生活を全面ストップさせる一大事になったのである。日本神話最大のハイライト「天 石窟戸障れ」の始まり。これを境に公式神名・天照大神が決定する。 なぜ一女性の負傷で集落全体の生活がストップしたのか。それは現在とかけ離れた高天原の生活習 慣こそ原因。縄文高天原では地動鋭以前。もちろん機械時計などまだない。星空の動きとその光をか き消す曙光との兼ね合いにより夜の世界の退去を察知する。そして、その闇夜退去を大声で集落中に 触れて回る仕事こそ、稚日女尊に課された仕事であった。 その毎朝の仕事が滞った。一大事である。 「カケコー」夜明けを告げる鶏の鳴き声に似た甲高い声。 稚日女尊の触れ回るその声を聞かぬと、高天原は一日の生活が始められない。 「そんな馬鹿な」と思 うのは、われわれがガリレオ以来の科学的宇宙観にたっぷりひたり、それに馴れきっているからなの だ。ちなみに伝統を重んじる伊勢神宮では、式年遷宮の際、今でも本殿遷座を昼間でなく、 「カケコー」 の発声とともに未明に執行する。 されば夜明けを画する正式のお触れがない限り、信じられようと信じられまいと、高天原では朝の 活動を開始できない。たとえ太陽が天高く、眩しく輝こうともだ。人々はひっそりと屋内にとどまる ほかない。そんな事態になれば、現代とて社会的に大損害が発生する。実際、高天原は事件の発端者・ 素戔鳴尊に莫大な損害賠償金・千座置戸(ちくらおきと)を課したばかりか、その支払いをも命じた。 そして、それが素戔嗚尊の出雲国形成の契機となったのだが、ここでは別の話。 ところで全四十四巻に及ぶ『古事記』の研究で知られる江戸の町医師・本居宣長によると、 「天石 屋戸(記表記)陰れの暗闇は全世界的に起こったことで、 日本はその一端にすぎない」と主張。 「いや、 暗闇に成ったのは日本だけ。 世界とは別だ」 と反論する知名の作家・上田秋成と論争になったくらいだ。 聞くが一度も会ったことのない弟が瞼の姉を求めてはるばるやってきた。 ここで従来の学界のだれひとり考え及ばなかった高天原の裏事情が顛在化する。女性トップを嫌う 反天照派の暗躍が始まるのである。いっさい表に顔を出すことなく、すべて裏から高天原事情に疎い 素戔嗚尊を巧みに操るのである。従来の日本神話の解釈では高夫原で素戔嗚尊が行った乱暴狼籍はす べて姉・天照への悪戯(いたずら)であり、それを姉は黙々と受けとめたと考えた。とんでもない。 その悪戯とやらを見ると、天照のトップ就任式に必要な奉献用の神稲、それを植える苗の段階から稲 の生長過程の要所ごとにことごとく生長を阻害し、刈り入れ時には田圃に馬を入れて押し潰し、新米 収穫不能にしている。馬主でない素戔嗚尊に馬を貸与したのは何者か、それこそが裏でうごめく反天 照派なのだ。 あげくの果、式典用の神衣を織る服織舎の屋根を破り、生剥ぎにした馬の皮を投げ込んだからたま らない。天照は壊れた機織器で重傷を負い、辛うじて天石窟戸に避難した。 傷の療養は意外に長びいた。その間、高天原集落の生活は全面ストップ状態。慌てたのは高天原の 幹部連。内部の天照を生活支援しながら、 引籠り状態の天照をいかにして再び外へ足を向けさせるか、 上層幹部たちは頭を抱えた。 そこへひとりの知恵者が現れた。思兼神(おもいかねのかみ)である。思兼とは二つの考えを同時 に考えることを意味する。すなわち伊奘諾尊の指示通り、成人稚日女尊を高天原の政治的実権者・天 皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と並ぶ今ひとりの宗教的トップ国巫女(朝鮮王国に存在例あり) に任命、本国に帰還させず高天原に足留めすること。それにより母・伊奘冉尊亡き後、自動的に葦原 中国の主権者(所有者)となった椎日女尊に、その本国統治権を高天原に委譲させ、代って高天原の 葦原中国へ、本拠の大移転・天孫降臨を可能にする。縄文晩期、一国の文字通りの国替えにはやはり それなりのルールがあったのであり、注目すべきは両者終始一貫、戦争を避け通したことだ。天照の 天石窟戸開き、高天原にとってまさに一石二鳥のチャンスだった。それにはまず天石窟戸内の天照に 国巫女就任を説得しなければならない。じつは彼女にとっては父親の指示通り、高皇産霊尊にとって 代る高天原の実質主権者・女王の地位が当然であった。現に粛粛と天照が準備していた新嘗祭の特定 形が現行大嘗祭であり、現日本国天皇位の即位式と繋がるのである。 交渉には天兒屋命(あまのこやねのみこと)が行い(第七段一書第三) 、天照の納得のもと、命自 身が国巫女就任式挙行を天照の要求をも受け入れ、細部までプロデュースした。 まず特記すべきは高天原には自生しない真坂木(まさかき)をわざわざ葦原中国まで行き、根っこ 付きで丸ごと運搬してきたこと。真賢木(記表記)を天石窟戸前に、 さながらクリスマスツリ記表記、 八十萬・やそよろづ) 、すなわち高天原傘下の集落の長老格、その人たちの前で「神懸(かむがか) りして……裳緒(もひも)を番登(はと)に忍(お)し垂(た)れ善き」 ( 『古事記』 )この女性こそ 天宇受賣命(あめのうずめのみこと)であり、頭頂(天)に渦のある女性といえば、まぎれもない国 宝土偶第一号縄文ビーナスの特徴である。天宇受賣命こそその伝統の巫女なのか。 かくして天照大神は天孫降臨する一行に天壌無窮の神勅を授けた。 「 (葦原中国)是、吾が子孫(うみ のこ)の王(きみ)たるべき地(くに)たり」 (第九段一書第一)と、 自己の女王権を天孫一行のトッ プ、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に委譲を余儀なくされた。 若き女性天照は少壮政治家・思兼神(高皇産霊尊の息子)にしてやられた。その分かれ目こそ天石 窟戸事件だったのである。 では『日本書紀』ではどう記述するか。 「(磐戸を閉ざした)故、六合(くに)の内常闇(とこやみ)にして、昼夜の相代(あいかはるわき) も知らず」(第七段本文) ここで六合とは前後、左右、上下、のこと。もちろん現代数学のⅩ軸、Y 軸、Z 軸の概念とはほど遠い。 要するに自分を原点とする身近な周囲、生活空間といった意味となろうか。もし宣長主張のような全 世界的暗闇を起こすとすれば、地球の自転そのものを停止せねばならず、科学的に不可能。 一方、私主張、 「石窟戸隠れ」の暗闇は「ガリレオ以前、高天原集落の一奇習」に過ぎない、との 見方は『日本書紀』本文「昼夜の相代も知らず」の記述どおり一致する。昼夜の区別がつかないとは、 両者を区別する責任ある誰かがいないという意味であり、外部的な闇夜継続のような環境変化があっ たとはどこにも青いてない。あくまで社会的人為的な暗闇続行なのである。 では同じ常闇を『古事記』の記述はどうか。 「ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇(くら)し。 此れに因りて常夜(とこよ)往(ゆ)きき」 常闇の起こった地域を『日本書紀』ではことの始まりから順々と説き、常闇の起こった地域が高天 原に限定すると文脈から判るよう書いてあるのに対し、 『古事記』では速須佐之男命(はやすさのを のみこと)の乱暴狼籍で天服織女(あめのはたおりめ)が死亡したのを見て天照は驚き、 天石屋戸(あ めのいはやと) に逃げ籠ったことになっている。 そこに稚日女尊存在のかけらもなく、代って天服織女が登場するが、もし存在したとしてもこの女 性は稚日女尊の助手格にすぎない。なぜなら敬称・尊のほうが上位だからだ。 さてここで一番の問題は、どの時点で、なぜ次代葦原中国トップ研修生として高天原にやってきた 大日孁貴こと稚日女尊が、盛大な天石窟戸式典を境に高天原のトップのひとり・天照大神に奉られる ことになったのか。そこには高天原の密かな三つの意図が隠されていた。一つは預かり娘の負傷の完 治祝い。一つはまだ十代の娘・稚日女尊の成人式を盛大に挙行すること。そして成人した彼女を石窟 戸籠りを奇貨とし、かねて準備中の高天原移転計画、葦原中国への大挙移住の実行にこの際利用。そ の計画敢行のため、人質娘に高天原トップ神名・天照大神を奉呈する必要があった。 以前から、高天原がいかに遠大な見通しを立てていたか。まだ誕れて間もない幼女、大日孁貴を、 手放しを渋る母親・伊奘冉尊を強引に夫権をかざし、高天原送りを承諾させたのは高天原族トップの ひとり、伊奘諾尊であった。 『日本書紀』は書く。 「早(すみやか)に天に送りて、授くるに天上(あ め)の事を以てすべし」なんとこの時、伊奘諾尊は葦原中国の次期王権継承資格者を、それとなく人 質に獲得したのである。第二子として誕れた月報尊(つくよみのみこと)もまた反乱首謀者となる危 険性を避け、同様高天原に送った。第三子・素戔嗚尊、この子だけは手放したくないとの母親のたっ ての願いを聞き入れたのか、もう人質は十分と考えたか高天原送りは中止した。 かくして誕れた三人の子ら、その親権は葦原中国の伝統(ルール)に従い、三人とも、母親・伊奨 再尊に属していた。ところが国生み期間中、不慮の事故により、伊奘冉尊は死去した。そこで夫・伊 奘諾尊は三人の子供を自分の子として認知、同時に父権を行使、三人の子それぞれに列島統治者とし て任務を授けた。 「天照大神は、 以て高天原を治 (しら) すべし。 月額尊は以て滄海原の潮の八百重 (やほへ) を治すべし。 素戔嗚尊は、以て天下(あめのした)を治すペし」 (第五段一書第六)父親の授けた任務に従い、天 照大神は高天原に君臨すべく、その式典の準備を粛粛と進めていた。そこへ生まれた時から姉の噂は
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