韓国 扶余(プヨ)郡 視察報告書 =(仮称)静岡市歴史博物館 基本構想への提言= 牧田博之 1.はじめに(視察目的) 静岡市は、平成28年頃の完成を目指して、市の歴史文化施設の整備 を計画している。 平成22年度にその基本構想の策定を進め、第2次総合計画(~H26)においては、その準 備段階の施策を展開する予定となっている。 市内の著名な歴史的旧跡・史跡というと、国指定特別史跡である登呂遺跡(弥生時代)や 国指定史跡の小島陣屋跡、清見寺、江戸時代初期の徳川家康公関連史跡、幕末から明治 期の井上公・西園寺公などに関わる史跡などいくつか思い浮かぶものの、市民にほとんど知 られていないのが、3~7世紀にかけての古墳時代 (飛鳥時代を含む。以下同)である。 例えば、葵区の 賤機山古墳 が国指定史跡であり、現在復元工事中の清水区の 三池平 古墳 が県指定史跡であるのを知る市民は少ない。 この地域には、地域最大の前方後円墳 谷津山1号墳 (柚木山神古墳)や、JA しみず本 部向側にある 神明山古墳 (卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳と同形、1/4サイズ)、清 水インターチェンジ北側にある 午王堂山 (ゴウドウヤマ) 古墳 (“卑弥呼の鏡”といわれてい る三角縁神獣鏡が出土)など、大和朝廷と深い関わりのある 前方後円墳を含む重要古 墳が多数 点在している。 当時、静清平野を中心とした古代「 廬原国 」は、富士川から大井川まで及ぶ広大な勢力を 持ち、豪族(王)「廬原氏」が支配していた。これらの古墳はどれも、「廬原国」を治めていた歴 代「廬原氏 」の墳墓と推定されているものである。 また、天武天皇の命で編纂された日本書紀 によると、西暦663年、滅亡した百済 の復興 を目指して出兵した、倭国の援軍の将が「 廬原君臣 (イホハラノキミオミ)」であると記載され ている。いわゆる「白村江の戦 」である。 その廬原氏の系譜「菴原公系譜」には、9代目「臣足(オミタリ)」に「天智2年救百済」と注 記があり、日本書記に記された「君臣」と同一人物と推測されている。 そこで今回の視察の目的は、この地を治めていた廬原氏が倭国の将として救済に向かった 百済とはどのような国であったのか、そして百済と倭国、大和朝廷と廬原国の関わり は一体どのようなものであったのか、を調査し、 静岡市の歴史の中でのこの時代の位 置付けを明らかにすることにある。 1/14 2.扶余郡を視察先に選んだ理由 (1)百済の首都は、韓城(現在のソウル:~AD475年)から、熊津(現在の公州市:475年~ 538年)、泗泚(現在の扶余郡:538年~660年)と2回遷都されたが、倭国に仏教や五経 博士、寺院建造技術などを伝えた当時の首都であり、 “白村江の戦”直近の首都 である こと。 (2)2008年10月、扶余において発掘された 「王興寺」の遺跡 から、建立年月(577年2 月)が記載された仏舎利器が発見され、 我が国最古の寺院とされる飛鳥寺のモデル が王興寺だったのではないかと注目されてきたこと。資料2(日本書紀によると、577年11 月に百済王から技術者が送られ、国内技術者の育成など建立の準備の後、588年に仏舎 利が届き造営を開始、596年に仏塔が完成、とされる。) 3.東アジアと倭国の関係 (1)百済の略歴と倭国との関わり ・北方の高句麗から常に侵略の圧力を受けていた漢城時代の百済は、東方の新羅と同盟 を結ぶと同時に、 倭国から軍事的支援を得ていた が、勢力を拡大した高句麗に、475 年ついに首都・漢城を落とされた。 ・難を逃れた文周王は、都を熊津(現・公州市)に遷し 倭国との外交関係を強化 しなが ら国力回復に努めたが、6世紀に入り高句麗南部(百済北部)に新羅が領土を拡大させる中、 538年首都を熊津から南方の泗泚(現・扶余郡)へ遷都 した。 ・この頃から新羅との対立関係は悪化し、百済(聖明王)はますます倭国との同盟関係を強 化すべく、 仏教や経典、諸博士、高官などを倭国に送ると同時に兵士や武器など の軍事的支援を受け、関係を深めていった。 ・554年新羅との戦いで聖明王が戦死するなど緊張が続く中、朝鮮半島は「百済・高句麗」 対「新羅・唐」の対立構造となり、隋や唐との交流を進めていた倭国は微妙な立場にあった。 (遣唐使を新羅経由で帰国させるなど両方向外交が続いた。) ・660年山東半島から唐に攻め込まれた百済は、あえなく首都を占領され滅亡した。 ・直接支配していた唐の主力が帰国すると、鬼室福信など百済遺臣の反乱が続き、倭国に 人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋を百済王として迎えるなど、百済復興運動が 盛り上がった。倭国においては、大化の改新(645年~)により、国家の平定と律令国家の 実現を推し進めていた 中大兄皇子(後の天智天皇)が百済救済に動く 。 2/14 ・663年、唐・新羅の連合軍と戦った倭国軍 (この援軍の将が「廬原君臣」) はこの 「白村江の戦」に大敗し、百済はここに完全に滅亡した。 ・百済と倭国は、後述するようにとりわけ深い友好関係を築いていたが、高句麗、新羅など からも国家盛衰の歴史の中で、多くの朝鮮人が渡来すると同時に、倭国民も出兵などを機に 定住する者も多く、盛んに交流 が行われていた。特に百済滅亡の後には、王族貴族を含む 亡命者が大挙して渡来し、大和朝廷内部や畿内において、知識人、文化人、技能者などとし て大いに活躍し足跡を残すと共に、現在の滋賀県や兵庫県などを始め、 国内各地に 散ら ばりながら時代の流れと共に同化していった 。 ・自然の良港があり水軍が発達していたわが廬原国にも、多くの渡来人が行き来したと 考えられるが、現在の静岡市に全国的に見ても岐阜県と並び断突に多くの「白髭神社」 が存在するという事実と、決して無関係ではないと考えるのは間違えだろうか。 (2)百済の文化と倭国との関わり ・泗泚への遷都を行った第26代聖明王(523~554 年)は、仏教を護国の理念に 掲げ、積極的に仏寺の造営や仏像・仏具・書画などの製作と経典の整備、工匠・絵師の育成 などに取り組んだ。その後の歴代王もその理念を引き継ぎ、 百済の仏教文化 は稀に見る 高度な文化として大きな花が咲いた。 ・その代表的な傑作が1993年に出土した 「百済金銅大香炉」 (国宝287号)だ。[写真 ⑭:国立扶余博物館所蔵]当時の宗教・思想が凝集された驚異的な美術品・工芸品であり、 その高度な製造技術にも注目が集まっている。 ・その他にも、 金銅観世音菩薩立像 (国宝293号)[写真⑯⑰]など多くの仏像群や工芸 品などが出土し国立扶余博物館に所蔵されている。[写真⑩~22] ・建造物としても、 扶余定林寺址五重石塔 (国宝9号)[写真④]や、何といっても注目は 一昨年発掘され日本の新聞にも大きく報道された王興寺跡 [写真⑧⑨⑳]がある。 ・王興寺の 仏舎利器 は、純金・純銀・青銅と3重の入れ子になっていて、 純金の純度は 実に98%以上 というすばらしい製造技術で造られていた[写真⑲:国立扶余博物館所蔵]。 しかも、青銅製容器には 王興寺の建立年月 (577年2月)が刻まれ、日本書紀の577年 11月に百済王が造寺工と造仏工を送ってきたとの記述から、 王興寺建立技術者が我 が国に派遣され 、最古の飛鳥寺(588年着工)や、その後の倭国における寺院・仏像 3/14 建立技術伝播の礎となったのではないかと大きな話題となっている。資料2 ・日本書紀によると、我が国に 仏教が伝来したのは552年 (聖明王の時)とされる(53 8年説なども有)。その後 聖徳太子 が推古天皇の摂政となった翌年の594年、 「三宝(仏 教)興隆の詔」が発せられ、貧民救済など大乗仏教の教えが政治的に実践されること となったのと同時に、全国各地に寺院の建立が広まる こととなったのである。 ・百済はまた早くから漢文や古典に習熟し、 五経博士や仏教経典などと共に漢字や 「論語」などを倭国にもたらした。 ・このように百済は、思想・学術・文芸・技能などにおいて 高度な仏教文化 を築き挙げた 国家であり、倭国は、 軍事力の派遣と交換に その力を最大限活用し、 国内諸国の平 定 や律令国家構築 の為に、 統治の精神的柱として仏教の布教と寺院の整備 を進 めたのである。 ・このことは、その後の平城・平安時代から武士社会、近代へと続く 我が国の精神的大 本を築いたものといえ、日本の歴史上、最も重要な出来事の一つでもあった。 ・聖徳太子はその後も「官位十二階 」(603年)や「憲法十七条 」(604年)の制定を行う など、国家としての形態づくりを推し進めていった。 (3)大和朝廷の中央集権的律令国家に向けた取組み ・仏教が伝わる以前の倭国は、地方ごとに 豪族が支配する分散国家の体 であった。 初代神武天皇から始まり、日本武尊の熊襲(九州)征討や蝦夷征討(東征)などを経て、次 第に国内が平定されていく。その過程の中で、地方豪族に対して中央政権は、鉄器や青銅 器、鏡、玉などの重要で貴重な品々を与えると共に、 前方後円墳の築造 を進めるなど 権 力者としての地位を認めていった。 ・地方における前方後円墳の築造は、労働力の消耗と、鉄器などの貴重資源・武器の収納 など、大きな負担をかけることによる統治、の意味合いもあったとされる。 ・仏教が伝わると、前述したように、仏教や寺社の建立による思想的宗教的統治 が併せ て行われるようになった。 ・ 聖徳太子 によって「 冠位十二階 」や「 憲法十七条 」などが制定され、統一国家として の諸制度づくりがはじまり、その後の大化の改新に向けて整備が進んでいく。 ・中国に統一国家「隋」が興る(581年)と、倭国はその国家の制度や文化、先進技術 などを学ぶ ため、小野妹子など「 遣隋使 」を派遣(600年~618年、6回)。その間、留学 4/14 生たちが学んだ知識や経験は、大化の改新の際の政治や国づくりに大きな影響を及ぼすこ とになる。 ・618年、隋が滅び唐が興った後も、倭国は中国の先進的な諸制度や文化、技術などを学 ぶため、計20回に亘る「 遣唐使 」の派遣を続けた。これはその後の我が国における、仏教 伝播にも大いに貢献した。 ・645年、乙巳の変によって政権を握った 中大兄皇子 は、中臣鎌足らと共に 大化の改 新 に着手。公地公民制の導入や班田収受法の制定、租庸調の整備、国郡制度の導入など、 中央集権的律令国家の建設に向けて諸制度の整備 を推し進めていった。 ・唐・新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦」の後685年、天武天皇は改めて「 諸国禮拝 供養の詔 」を発し、仏像や経典を全国隅々まで整備し、禮拝供養を広めようとした。 ・一方、一連の大化の改新の中で「薄葬令 」が発布され、地方豪族の墳墓建設を制限した ことによって、我が国の「古墳時代」は実質的に終焉に向かうことになる。 ・清水区には、この時代(7世紀後半)に建立されたといわれる 「尾羽廃寺」跡 がある。奈 良の 薬師寺や興福寺、東大寺などよりも古い この廃寺は、折戸湾と三保半島を望む 山裾、袖師海岸との間の平地にあり、 金堂跡や石造露盤 (塔の最上部に重石として据置 くもの)、瓦、礎石、(瓦を焼いた)窯址など多くの史料が出土され、市の 埋蔵文化財センタ ーなどに保存 されている。 ・「白村江の戦」後、「援軍の将、廬原の君臣」の地元に、帰国した多くの兵士や百済からの 渡来人を迎え、その戦没者の供養の為に建てたのか(?)、「三宝興隆の詔」や「諸国禮拝供 養の詔」に呼応して建てられたものなのか(?)、はたまた廬原氏の氏寺として建てられたも のなのか(?)、その目的は定かでなく、 今後の研究が待たれるところである。 ・8世紀中葉の741年になると「 国分寺建立の詔 」が聖武天皇により発せられ、この地 「駿河国」(7世紀後半、「廬原国」と「珠流河 国 」が併合された)にも、国分寺が建立された。 現在の 駿河国分寺 (静岡市葵区)又は国指定史跡の 片山廃寺跡 (静岡市駿河区)であ るといわれているが、未だ確定されていない。 4.大和朝廷と廬原国の関係 5/14 (1) 縄文・弥生時代の生活 ・元々この静清平野には、縄文・弥生時代の遺跡遺構が数多く出土し、古くから人々の生活 が営まれていたことが知られている。 国指定の特別史跡「登呂遺跡」 はその代表的な遺 跡で、弥生時代後期、1世紀ごろの集落跡といわれている。 ・その他にも市内各地でこの時代の遺跡が発掘されているが、清水区庵原地区だけでも、 縄文時代で大乗寺遺跡など15遺跡、弥生時代で午王堂山Ⅰ遺跡など10遺跡が確認されて いる。それぞれ 独自の生活圏 を持ち、時には 敵対しながらも盛んな交流 が行われてい たものと考えられる。 (2) 市内で発見された主な古墳とその数についての考察 ・現在までに確認された下記の古墳は、どれも古代 廬原国歴代の王 (「キミ」=廬原氏)の 墳墓であると推定されているが、大和朝廷の勢力拡大と前方後円墳の広がりが3世紀~7世 紀中葉であることや、『菴原公系譜』で「君臣」が9代目であることを考え合わせると、王として の廬原氏の古墳は、 少なくとも9つは存在する こととなり、未だ発見されていない古墳 がどこかにあるのではないかと考えられている。 ・現在その候補地として、秋葉山、豊由気神社裏(庵原球場南側丘陵地)などが上がってい るが、今後の調査に期待 をしたい。 ・尚、上記以外にも、瀬名古墳群、塔作古墳群、東久佐奈岐古墳群、尾羽西山古墳群、瓢 箪塚古墳群など市内には 多くの古墳群 が存在し、どれも廬原氏に関わる古墳群であると推 測されている。 ① 神明山 1 号墳 (4世紀前半) 全長70m、後円部高7m。この地域 最古の前方後円墳 。奈良 箸墓古墳(卑弥呼 の墓?)と相似形 。未発掘 なるも県指定史跡の手続き中。今後の調査が待たれる。 ② 谷津山古墳 (4世紀) 全長110m、後円部高10m以上。 この地方最大 の 前方後円墳 。江戸時代・明治 時代に発掘された副葬品はほとんど散逸。 ③ 午王堂山3号墳 (4世紀後半前葉) 全長78m、後方部高5m以上の前方後方墳 。「君宣高官」銘 三角縁神獣鏡 出土。 ④ 三池平古墳 (4世紀末~5世紀初頭) 6/14 全長67m、後円部高5m以上の 前方後円墳 。畿内型前方後円墳の 最東端 に位置 する。割竹形石棺、排水溝など精巧な築造技術が特色。未盗掘のまま昭和33年発見。 特に「 帆立貝形石製品 」は、奈良日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)陵とここでしか出土 していない。現在古墳の復元工事中。12月には完成予定。 ⑤ 午王堂山1号墳 (5世紀中葉) 全長40~50mの前方後円墳 。昭和39年発掘。 ⑥ 賤機山古墳 (6世紀後半) 直径32m、高さ7mの 円墳 。巨石を積み上げた横穴式石室内に、家型石棺が収納。 国指定史跡 。 (3) 廬原氏に関わる記述(各種史書から抜粋) ① 『古事記』 孝霊天皇の条 「賦斗邇命(7代孝霊天皇)8柱の御子の一人、・・・五百原(廬原)の君・・祖 となる」 ② 『日本書紀』 景行天皇40年の条 「天皇 則命 吉備武彦 大伴武日連 令従 日本武尊 」 ③ 『先代旧事本紀』 巻十「国造本紀」 廬原国造の項 「志賀高穴穂(13代成務天皇)朝代・・・吉備武彦命児 意加部彦 命定賜 国造 」 ④ 『新撰姓氏録』 「吉備武彦命 景行天皇御世 被遣東方伐毛人及凶鬼神到千阿部 廬原国 復命之 日廬原国給之 」 ⑤ 古代 廬原氏の系譜 『菴原公系譜』 意加部彦 ―芦母利―阿加毘古―忍疑―身毛古―籠―田根―莵―臣足 ―・・・ 9代目臣足のところに「天智二年救百済」と注記あり。 ⑥ 『日本書紀』 斉明天皇6年の条 「欲為百済伐新羅。及勅 駿河国。造船 。己訖」 ⑦ 『日本書紀』 天智天皇2年の条 「大日本國之 救将廬原君臣 率健児萬余。」 (4) 天皇家と吉備一族の関係 ・ 吉備国 (現在の岡山県)は温暖な気候と肥沃な洪積平野が広がる地域であり、もともと 7/14 稲作に適した地域 であった。また古くから 鉄と塩の産地 でもあり、鉄製農機具の発達が 豊かな稲作を支え、塩も全国に供給するなど、百済の皇子とされる「温羅(ウラ)」の統治の下、 強大な勢力を持った国であった。 ・10代崇神天皇(「日本書紀」による。「古事記」では7代孝霊天皇)の皇子である「 大吉備 津彦命 (オオキビツヒコノミコト)」が大和朝廷から派遣され、温羅との激戦を制し山陽道一体 を平定した。おとぎ話「 桃太郎 」伝説の主人公 になった人物である。 ・やがて優れた造船技術や航海術 をもって瀬戸内海の制海権・交易権を握ると、巨大な 吉備王国を実現 すると共に、古墳時代になると大王家との密接な婚姻関係 を通じて、 同盟や軍征で大きな政治的地位を占めるようになった。(景行天皇・応神天皇・仁徳天皇・雄 略天皇・舒明天皇はそれぞれ吉備一族出身の女性を妃としている。) ・日本武尊に従って東征に参加した 吉備武彦命 (キビノタケヒコ)は、その大吉備津彦命の 弟、稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)の子であり、また吉備武彦の娘、大吉備建比売(オオキビ タケヒメ)は日本武尊の妃になっている。 以上の文献・史料などから、大和朝廷と廬原国の関係を考察すると以下のようになる。 (1)弥生時代、小集落群で暮らしていたこの地域の人々は、日本武尊の東征を受け 、 大きな権力を持つ大和朝廷の傘下 となった。 (2) 日本武尊と共に東征に加わった吉備武彦 の子、意加部彦 がその褒賞として 「廬原国」の国造 としてこの地を賜る。 (3) 吉備一族の持つ高い造船技術 ・操船技術と天然の良港 を活かし、廬原国は 大和朝廷の東方支配前線基地 としての重要な位置付けとなった。 (4)吉備一族と天皇家の深い姻戚関係 と廬原氏と大和朝廷との強い関わり の中で、廬原氏は代々この地を治め、王 (キミ)としての墳墓 (前方後円墳中心) を築いていった。 (5)7世紀、大化の改新を進める中大兄皇子ら朝廷の命 を受けて、「廬原君臣 」が 百済の「救将」として「 白村江の戦」に参戦 することになった。 (6)全国的な国分寺建立の約半世紀前 に、尾羽廃寺 が築造されたことも、廬原氏と 仏教の浸透を図る大和朝廷との、関わりの深さを表すものといえる。 8/14 5.静岡市における古墳時代の位置付け ~縄文 日本の歴史の中で、この地域が文献に現れる、最初の地名が「五百原」で -300 300 710 1192 弥生 あり「廬原」である。その後「駿河」「駿府・江尻」「静岡・清水」などと変遷してい 古墳(飛鳥含) く中で、政治的軍事的文化的に、その時代その時代に それぞれの特徴が 奈良平安 あったものと考えられる。 鎌倉室町戦国 1603 1868 中でも徳川家康が全国を平定し、政の中心となった 江戸時代初期は特 江戸 筆 されるものであるが、上記調査研究を通じて、時々の中央政権や天皇家、 明治~ 海外との関わりの中で、 「廬原氏」が活躍する古墳時代 は、静岡市の歴 史の中で、登呂遺跡の弥生時代、今川義元の戦国時代、明治以降の近代社 会以上の重みある「輝いた」時代 であることが分かった。 6.まとめ 以上述べてきた各種調査研究結果から、古墳時代における当市域(廬原国・駿河国) は 、市の歴史を語る上で、徳川家康公が駿府において政を執り行った大御所時代に次ぐとも いえる 重要な位置付け を持つものであり、当市の歴史文化施設の中でも 相当の比重を か けた展示がなされるべきものである。 本市内においては、この時代に対する調査と検証がまだまだ充分行われているとは言えず、 今後更に発掘調査が進めば、新たな発見も期待されるところである。 現在検討されている歴史文化施設には、静岡市に住んでいる私たちや子どもたちが、市の 歴史や文化を知って、皆がこの 市に愛着と誇りを 感じて「ここに住みたい」と思える、そのよう な啓蒙施設として 、そして「世界に輝く」静岡として海外の人々に知ってもらう施設として 、 その内容検討には充分な審議を尽くしてもらいたいと願うものである。 その意味で本報告書は、平成22年度に策定される 「基本構想」への提言書としてまと めたものである。一助となれば幸いである。 7.参考文献 (省略) 以上 9/14 資料1 古墳時代の廬原国に関わる歴史略年表(日本書紀の記述等による) 年号 廬原国 ~ 3世 紀 前 660 110 倭国 東アジア 初代神武天皇即位 日本武尊東国遠征 12代景行天皇の子 副将吉備武彦の子 意加部彦廬原国を 賜る 4世 紀 200 313 前半 後半 5世 紀 初頭 中葉 475 6世 紀 百済首都韓城 現ソウル 倭国百済要請により 出兵 高句麗と戦う (広開土王碑) 百済熊津へ遷都 現公州市 百済泗泚へ遷都 現扶余郡 百済(聖明王)より 仏寺建立技術者倭国 へ派遣 仏教伝来(公伝) 威徳王 王興寺建立 飛鳥寺建立開始 33代推古天皇即位 聖徳太子摂政となる 「三宝(仏教)興隆の詔」 飛鳥寺仏塔完成 賤機山古墳 遣隋使派遣(6回) 小野妹子・高官・ 僧・知識人 等 7世 紀 「冠位十二階」制定 「憲法十七条」制定 史書編纂 645 646 乙巳の変・ 大化改新 「改新の詔」 ・ 公地公民制 ・ 班田収受法 ・ 租庸調整備 ・国郡制度 ・薄葬令 8世 紀 685 後半 701 710 741 中葉 14代仲哀天皇妃 三池平古墳 午王堂山1号墳 603 604 620 630 ~894 660 663 668 672 673 神功皇后三韓征討 16代仁徳天皇即位 神明山1号墳 谷津山古墳 午王堂山3号墳 538 552 577 588 593 594 596 後半 600 ~618 備考 遣唐使派遣(20 回) 留学生の知識は大化 改新に大きな役割を 果たす 『天皇記』『国記』 唐の制度や文化・ 技術・経典等の収 集 仏教伝播に貢献 蘇我入鹿殺害 中大兄皇子 中臣鎌足 地方豪族の墳墓制限 百済滅亡 「白村江の戦」 「百済救将廬原君臣」 38代天智天皇即位 壬申の乱 40代天武天皇即位 (中大兄皇子) 大王→天皇 倭国→日本 記紀編纂の命 「諸国禮拝供養の詔」 尾羽廃寺 「大宝律令」制定 奈良平城京遷都 「国分寺建立の詔」 駿河国分寺 初の国家基本法典 (大化の改新完成) 片山廃寺? 10/14 11/14 12/14 13/14 14/14
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