大阪通信 Vol.31

大阪通信
Vol.31
ワニの世界
去る5月18日(日)、ワニに会ってまいりました。
何やら書き出しが前号と酷似…していますね。「杉浦先生、やはりオツムがあちら
の世界に行ってしまわれた」…と、本気でご心配の皆さん、私は大丈夫です(笑)。ご
心配には及びません(笑)。
天理市産業振興課(観光課)のてくてくコース「はにわの里」を歩いてきたのです。
はにわの里には、なんとワニが…?いえいえ、川口浩探検隊ではあるまいし、突然、
あまりに予定調和的に目の前にポッカリ空いている洞窟を降りて行くと、突然あまり
に唐突に目の前にワニが出現し、
「隊長、危ない!」と叫んでいる暇があるのなら「そ
のワニ、なんとかせえよ」とツッコミを入れる間もなく、川口浩が孤軍奮闘、収録が
淡々と進行していく…はい、古かったですね、そんな「水曜スペシャル」とは無縁の
ワニ…です。
京大・古代史教室の重鎮に、岸俊男先生という方がいらっしゃいました。岸先生の
有名な論文「ワニ氏に関する基礎的考察」を読み始めましたのが一昨年、そんなに厚
くもない論文なのに内容豊富で、言い訳していてはいけないのですが「読み切れない」
と困っておりました期間が一年弱、天理市観光協会主催の講座モノ「大和の中のヤマ
ト」に「物部氏とワニ氏」を拝聴したのが昨年(大阪通信 vol.18 にて報告済み)
、な
んだか眼前がサーっと開けたような気がしました。
さて今回は満を持して、古代豪族ワニ氏の本拠地「和爾の庄」を訪れてきたのです。
ワニは和爾だけでなく、和珥、和邇、丸邇、丸とも書きます。同じく「ワニ」と発音
しますが、いろんな漢字をあてるのですね。
岸先生はおっしゃいました。ワニの本貫地は、和爾坐赤坂彦神社(わににいますあ
かさかひこじんじゃ)付近にあった、と。なるほど!と唸りました。ワニの祖廟は、
櫟本・東大寺山古墳群である、と。もう一度、なるほど!と唸りました。ワニの枝族
は多い、柿本人麻呂の柿本(かきのもと)
、小野妹子の小野、春日大社神官の春日、粟
田真人の粟田(あわた)
、大宅庄の大宅(おおや)など。なるほど、ワニを名乗ること
が、だんだんと少なくなっていったのか、名乗ることそのものをやめてしまったのか
…。
天理市教育委員会の松本洋名先生が、ワニの居館は和爾坐赤坂彦神社裏手の山を越
えた小さな扇状地にあったと言われ、帝塚山大学・天理大学の岩宮隆司先生が、ワニ
の研究は難しい…が、大王家への皇妃供給氏族として生き残ったと言われ、橿原考古
学研究所の青柳泰介先生が、大和田原から菩提仙川沿いに木材資源を流し、ヤマト盆
地に供給するこそワニの経済基盤であったと言われる…なるほど、研究はどんどん深
化しているのですね。
ともあれ、ワニに会いに行くことにしました。
JR櫟本駅から東へ、国道169号を超えるとすぐに和爾下神社古墳です。なんと
巨大な前方後円墳の墳頂に社殿が建っております。驚きました。戦国時代の城跡に姿
を変えた古墳にはたくさん出会ってきましたが、現役の神社が乗っかっているのは初
めてです。
ずんずん東へ、もうすぐSHARPの建物群といったあたり、名阪国道沿いに赤土
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山古墳があります。前方後円墳なのか、前方後方墳なのか、その論争が長いこと闘わ
されていたらしいですが、本格的に浅く掘ってみたら(幸い深く掘らなくてよかった
ようです)
、さっさと前方後円墳と判明し、予想もしなかったほどに大量の埴輪が出現
したそうです。一部復元されております。
特殊壺と特殊器台、特殊器台型埴輪、朝顔形埴輪、墳丘に所狭しとならべられた円
筒埴輪群です。墳丘の軸線上に、後円部を挟んで前方部と向かい合うような造り出し
が設けられています。ここではまるで一戸建てニュータウンのように配置された家形
埴輪群に遭遇します。家形埴輪よりも巨大なニワトリ埴輪もあります。ニワトリは冥
界状態の漆黒の夜から現世を呼び寄せる「常世之長鳴鳥」
(とこよのながなきどり)と
言われてきました。
なんと幻想的な空間なんでしょうか。3世紀の特殊壺から5世紀の家形埴輪まで、
少なく見積もって200年以上にわたる祭祀が、この墳上で行われてきたのです。お
墓という「死」のモチーフに色濃く染められながらも、祖霊はニワトリに呼び寄せら
れ、建物埴輪群に住まい、祈りをささげるすべての人々を見守ったことでしょう。人々
は祖霊のために祈り、祖霊は人々を護り、古き良き悠久と言わずして、何と申せばよ
ろしいでしょうか。
感動のあまり立ち尽くす私の横で、せっせとワラビ採りに忙しい妻が、未だ墳丘に
散乱する埴輪片には目もくれず、ワラビの調理法バリエーションに思いを馳せている
ようでした。
さっさと先を急ぎませんと、せっかく採ったワラビにアクが回ってしまいます。古
き良き悠久は、ワラビの煮つけに負けました(笑)。
予想通り和爾坐赤坂彦神社は静寂に包まれ、高塚公園史跡の丘は、かつてここにワ
ニの神殿があったとは思えないほどに、のっぺらぼうでした。本日の行程およそ12
km、ワニ発祥の地は周辺スポットを入れても、それほど広くはない里山でした。
ややご年輩の方にとっては、ワニと言えば『記紀』のワニ坂でしょう。大王家実質
初代の崇神大王が、諸国鎮撫のため四道将軍を遣わし、その一人であった大彦命がワ
ニ坂を超えるとき、崇神暗殺をたくらむ武埴安彦の陰謀を歌う不思議な少女に出会っ
た…というものです。大彦旗下の武埴安彦討伐軍に参陣し、安彦を一矢にして貫いた
のは、他ならぬワニの祖・彦国葺(ひこくにぶく)でした。
少し足をのばせば、
「ワニ坂伝承地」
。一瞬、何かを口ずさむ少女とすれ違ったよう
な気がしました。ハッとして振り向いても、誰もいませんでした。妻のいたずらだっ
たのでしょうか。和邇の庄に流れる時間は、なにかゆったりしたものに感じられまし
た。心地よくまったりしたものに相違ありませんでした。
【追記】
弥生時代末期「倭国大乱」の真っ最中、後漢「中平」年間の記銘をもつ鉄剣で有名
な東大寺山古墳、これこそワニの本丸というべきですが、今回は未踏査です。高塚公
園史跡の丘も、柱跡をプロットした発掘資料から考えてみたいものです。そうそう、
東大寺山古墳の発掘報告書は、発掘以来四十数年の歳月を経て、つい最近世に出まし
た。次から次へと絶えることなく、ワニはいろいろな顔を見せてくれます。もっとも
っと勉強してみたくなりました。
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