呉と私と3人の女性

平
呉と私 と 二人 の女性
高松 宮 妃︱ 喜 久 子妃 殿 下
問
洋
一
隊 や自 衛 隊 が非 難 の対象 であ った こと が ﹄
限 ら せ て凱 く.
高 松官 般 下は遠 洋航 海 の前 に は実 習幹 部 を 公邸 に招 き
兵 学 泄 同期 生 の奥 様 方 と お嬢 さ んを接 待 役 と し て■行 会
を 行 っておら れた。 こ のよう な こと か ら、 凛 習艦隊 司令
官 は出発 前 の訪 問 国 など の説 明 L■ 行会 、 帰 国後 の道 汗
航 海 実施 報告 と 三回 は高松 官 邸 に行 く こと にな って いた。
私 が高 松 官様 に最初 にお 目 にか か つた のは昭和 三十 七 年
のオ セ ア ニア遠 航、 翌 三十 八年 の コー ロ ッパ遠 “ の時 で
敗 戦後 は
,
海 上自 衛 隊 は
に
迷
が
か か ってはと 、阜 核 か ら受 け
皇
室
惑
た支援 や好 き に つ いては、
一切 、 公 にす る こと を控 え 活
副官 兼 語 学+ 僚 であ つた。 そ の後 に私 は練 習艦 隊 の語 学
海 上自 衛 隊 が特 に多
﹁“
,
L ■ 拐 08 ﹁
■ 日 内 ﹁男
,
こ と の 回 答 が あ った 臨
の で ド手 な ト クタ ーは手 元 が いう ね り に負 け てズ
,
ズ ブと 切 り込 ん でしま い 盲 腸 ,
の傷 口が大 き く な るな ど
う ねり が高 く 船 がジ ェット コー スター のよう にL 下す る
,
上 パ ー テ ィ の失 敗 タ ス マン海
で盲 腸 の手 術 を す ると
が
な った と か、色 の黒 い大使 を 現 地 人と 間違 え て実 習幹 部
が、 ﹁日本 語 が お 上手 です ね ﹂ と 共 語 で聞 いた ら 人 使
様 仲 間﹂は 一お話 が弾 みま す ね ﹂と 手 ■ち ぶさ た であ った.
妃 殿 T が話 しか け る ので、 タ マネ ギと こン ニクを 訊 訳
し た た め、 イ タ リ ア では 艦 内 が ニン ニク の臭 い 一杯 に
か。 最 初 にお 伺 いし た副官 のと き は 司令 官 と 般 下 のお話
が弾 み、妃 殿 下と 私 は離 れ た ソ フ アー で 妃 般 下は ﹁
責
幕 僚 首席 幕 僚と 四 回も 練 習艦 隊 司令 部 に勤 務 した た め
般 下 の馨 咳 に接 した のは十 回を 超 え た のではな いた ろう
め てき た。
肝 く の支 援 を 賜 つた皇 族
判 が高 松 宮 般 下 で、 海 上
該 自 衛 隊 の創 設 時 には米
嶽 海 軍 関係 者 を 公邸 に招
、
硝 き 海 上自 衛 隊 の再建
魂 を 図 る野村 吉 二郎 元 大
し 日米海早 の
田 将 など の活 動 を影 な か
■ ら支援
ド が あ るが 公 言 し関
瓢親密化には多くの隠れ
訓た支援があリエピツー
﹂
は と 私 の体 瞼 だ け に
か係者にご迷惑をかけて
-11-
と申 し上 げた.
こ んな話 が面白 か っ
カ メリ ア会 名誉 会 長 舟橋 素貞 様
幕 僚 で お 伺 いし た と き
部防 術部 長 の時 で 呉 市 立高等 女 学 校 同窓 会総 会 の行事
き さ つか ら話 さな け れば なら な い.
“ が ■ 橋 さ ん に初 め て お H に = か った の は 昭 和
創設 の い
海 上自 衛隊 呉■ 人協 力 会 ︶
ます 、 カ メリ ァ会 ︵
に は 妃 般 T か ら、 一あ ら、
く な ったわ
た のが、 二十年 後 に首席
副官 さ ん に” 上自 衛 隊 の音楽 隊を 出● mえ な いかと の相 談 を 中国
,■ にあ った た め 市 が
か 頼 さ れ た のは、 日校 が市 の中
依
■ に対 し て行う 行事 など に ■ に同■ の前 堂 が■ わ れ
化業 社 長神 津十 直 さ んか ら受 け た時 のこと であ った。 共
市立 高等 女 学 校鈴 蘭 回窓会 か ら 上自 衛 隊音 楽 隊 の出 ●
I十九年 の暮 れ のこと であ った。 それ は私 が呉 地方 総 監
け に話 し かけ
ね 一L 親 し,
ら れた。 それ から 呉 や江 田島 に来 ら れ た時 には県知 事 や
出
市 長 給■ な ど よりも 私と 長く 楽 しげ に話 され る ので一
し やばり ﹂ と反 感 を持 た れ てしま つた。
,
た関係 か ら 海 ●と はヽ にな に み深く こ のた め 同校 の
記 日な ど には海 T ■楽 隊 が演奏会 ■ 開 いて いたと いう。
,市 女 三 ●年 の歩 み﹂ 記合 誌 編 集 の際 に 昭 和 八年
﹁
呉
.
当 時 のプ ログ ラ ムが発 見 さ れ 同按 の役 員 か ら女 学生 の
お 有 の写真 の社 瓶 は葬 儀 の引 き出 物 と し て頂 いた
も,
ので 添 書 き に は 一故 ● 仁 刊 工 般 下 のお 印 の若 社 に
般 下 に ”が の深 いれ T の針を あ L ら い記 念 L いたしま
,
し た ﹂と■ かれ て いた.
ま た 般 下は 習幹 部 にパ ー テ ィ の初 め に■ 行 の■を
え た らと“ t自 衛 隊 に中 し出 た.
の副 官 で
L かし 担 当者 から 同窓会 は t ミ私 的 な機 関 であ るか
こ ろ海 T ■楽隊 から 聞 いた山 を 青楽 隊 に洒奏 し ても ら
, と し てお ら れた が 昭和 三十 七年 のオ
■尺 ら れ る のを常
t ア ニア●航 の■ には 一流位 は■確 に、 市方 の海 は 珊瑚
H で護 行 艦 隊 司 令 官 の池 田徳 太 れ
らと断 られ てしま った。
一等
,と か ら机 しく ご指導 を載 いて いた商,
工会 議 所会
あ つた こ
■ の成 長が 早く 海 国 に記 載 さ れ て いな い伐 ■ が多 いので
江 の色 の変 化 に留意 す る よう に 一と の海 軍L官 出 身らし
いわ話 と 一高 い本 を 読 みな さ い. な せ な ﹄ ば 高 い本 に
は良 いこと が書 いてあ るか ら。 ま た、 高 いノート に要点
” の=汗 幸 直 氏 から ﹁な んと かな ら んか﹂ と相 談 を け
,一の
た。 私 は か ね が ね部 下 に ﹁イ エス バ ット ■ 3 ●〓
た の であ った .
際 ソ ロプ チ ミ スト 県 会 長
l
や女 学 校 のi
l 窓 会 会 長 な ど 名 ■ の方 々が 参 加 し 発 会 式
に は 市 議 会 を 体 意 に し て市 長 市 会 議 長 が 机 梓 を 述 べ、
﹃中 □ 新 聞 ﹄ は ﹁市 議 会 中 断 、 海 上 自 衛 隊 に 呉 最 強 の応
握 団 誕 生 ﹂L 報 し た 強 力 な 海 上 目衛 隊 の応 援 団 が 誕 生 し
者 呉 医 師会 長 共 人 、 日
叫 員 に は 呉 市 長 夫 人 市 会
鰤 議 長 夫 人 、 呉 自 赤 の代 表
¨あり 他の組縦とは大き
鳩く■なる団体である。会
りあるが 前上自衛隊 し
”かも婦人だけの協力会で
″ 各 地 に商 I会 議 所 を
,
摯 体 と す る自 衛 隊協 力 会 は
”後援会から独立し 海上
¨ 自 術 隊 呉 婦 人協 力会 が 誕
′
﹁生した。
硼
冊
﹂
r
ビ
い
れ
〓
一
は
剛
幽
踊 な ど、 日本 の文 化 を “
介 し て凱 く と いう こと で
を メ モLな さ い. 高 いノートだ と 途 中 で正 めら れ な いか
ら﹂な どと 話 さ れた。
防衛 部 ﹂ 一ど んな 岨 間 でも 必 ず 引き 贅け よ. 相 手 の要求
に対 ■ では必ず 最初 に YE Sと 答 え よ。 相手 の要 求 通り
には出来 な くと も 一部 を変 更 す る こと で応 じ られ るはず
だ 一と 教育 し て いた 。 こ の手前 苦 し れ に考え ついた
のが自衛 隊 後援 会 の主 催 にす る こと だ ,
つた。
白侑 隊 ●援会 は 下 原 二郎会 長 以 来 商 工会 議 所会 頭が
‘援 会 の会 長 を さ れ て いた の で ﹁
神 津 さ んが会 長 〓し て
お られ る自省 隊 後 会 が■ ″す る のな ら 可能 な の で 市
女 の役 員 二十 人 く,
ら いで 日術 隊 後 援 会 婦 人部 を ■ ら れ
婦 人部主 催 で音 楽 会 を 円き 、 同窓 ■ の方 には確会 に抗き
場所を 変 え て参 加 し て凱 いた ら いか か です か ﹂と 進 言 し
会 婦 人部 が 誕 生
た. これ が端 結 と な って白 行 隊 呉 後
,展 した のであ った.
さら に ■ 日行 隊 呉 婦 人協 力会 へと 発
,日楽 隊 を 引き ず り 出す た め に
さ て■
メリ ア会 を ■ つ
てしま った が 自 衛 隊 の内 部 には女 性 ,
の団体 は問 性 が多
いと 反対意 見 も多 々あ つた.
一方 ■ 橋 さ ん から は これ で解 散 し た のでは心 苦 し い
ので 何 かお賀 L十一
でれば と言 わ れた。 そ こ で反対 者証
■ のた め に考 えた のが、 自 衛隊 の行事 、 特 に外 国 の軍艦
など が人浩 し た時 のバー ティな ど に ご婦 人 が少 な く技
し いの で これら の行■ に花 を 添 え て戴 く 特 に会 員 の
方 々は 日本 文 化を 理解 し 身 に つけ ら れ て いる方 が多 い
の で、 外 国 の軍 艦 が 入 港 し た 時 な ど に、 お 茶 や 日ホ ■
14
-15-
喜久子婢殿下から賜つた花籠
カ メリ ァ会 の名 称 と会散
海 上自 衛 隊 呉婦
カ メリ ア会 の愛 称 も 私 が 舟稿 さ ん の ﹁
人協力 会 ﹂ では 回 い感 じを受 け る ので愛 称 を考 え て欲
し いと の依 薫 によ って 四吉 八苦 の末 に考 えづ いたも の
で カ メリ ア会発 足当 時 に配布 さ れた バ ン フレ ツト には
﹁
名 は 体 を表 し ま す . 名 前 によ り 人 の性 格 も 人 生 も 決 ま
りま す。 そし て会 の性 格 も。 こ の観点 か ら海 上自 衛 隊 の
、
期待 す る協 力 会像 を それと なく表 し 呉L いう 地域 特性
カ
も 感 じ ら れ そ のうえ 可愛 い い名前 と いう こと か ら ﹃
メリ ァ会﹂ とま しま し た。
知性 と 教養 が感 じ ら れ 何 と なく ハイ ■ ンスで外 国 人
、
にも 通 じ る名 称 と いう 観 点 か ら 呉市 の市社 であ る ﹃つ
。
ば き ﹂ の英 語 訳 ﹁カ メ リ ア﹄ と ま し ま し た 化 言 葉 で
は ﹃
誇 り と友愛 ﹄ を意 味 し、 強 く涅 しく厳 来 に春 に先 が
け て咲く 先見 性 こそ、 自 衛 レ に対 し批 判 が あ る こ の時 期
■を 見 越 し て結成 さ れた本 会 の越旨 にも 合 う のではな い
。
でし ょう か ﹂と 愛 称決 定 の理由 を書 か せ て戴 いた
さ ら に 発会 の年 の昭 和 六十年 十 一月 には■ 人雨 本憲
事 には カメ リ ア会 ■ が生 ま れ
で呉古■ 隊 が演奏 し披 露 さ れた
。 作詞
古 先 生 の記念 証 演 を 開催 し 平成 四年 二月 一日 の発会 七
、 呉 音楽 隊 長 清
H年 記念
■ の指
水 昭” 三,
。
し
れ
先■
し
か
こ
も
。大
水 色 の ワル ツ﹂ など で有 名 な高
作山 は ﹁
は■ 橋 さ ん で ,
水 東 大先 生 であ った。 高 水 先生 は一兄 よ落 下傘 空 を行 く ﹂
よう に同 じ話を 絆 り返 さ れ る のが
の顔 を 立 てるた め にと自 宅 にお 邪庭 す る こと と し た
県 立 宮 原高 校教 諭 ︶が
田さ んは呉市 内 に長男 の英 雄 さ ん ︵
お ら れ る のに、 ﹁自 由 が欲 し いのよ﹂ と 市 営 住宅 に お 一
。
人 で ん でお られ た。 家 を 訪 れ ると 歌声 が聞 こえ る ラ
ジ オ,
でも 掛 け ておら れ る のかと 呼 び 鈴 を押 す と歌 声 が
正 まいた 田さ んが出 て来 られ た. 腰 が山 が った者婆 を想
像 し て いた私 の服前 に現 れた 若 々し い大 田さ んを見 た
のはt き であ った.
さ ら に大 き tき は訪 門時 に開 こえ て いた のは ラジ オ
,
ではなく 大 田さ ん自身 が オ ルガ ンを 弾 き な がら歌 って
いた こと を 知 った こと であ った。
第 七艦 隊 司令 官 訪 問
ブ ルーリ ッジ ﹂ が呉 を訪 問 す る こと
第 t艦 隊 の旗 艦 ﹁
、
と な った。 私 は こ の訪 問 を 日米期菩 のた め 何 と か意 義
。
あ るも の にす べく 大 Πさ ん の第 t 艦 隊 訪 円を 考 え た
、
﹁人 口さ ん 今 度 第 七 艦 隊 旗 侃 が呉 に来 る の です が 人
、
が アメリカ軍 に殺 され た 司令官 の奨 さ んが そ の アメリ
、
カれ の艦 上 パ ー テ ィに出席 され る のは 日米 の友好 親
, き な意義 があ ると 思う のです が いかが でし ょう
善 に大
か﹂と話 った。 大 田さ んは
﹁行 っても ょ いわ よ。 でも 招 待 状 も な いの に いく ら 平
間 さ ん が行け と 言 った って先 方 に失 礼 よ﹂
海 卓蓄 下傘 部 隊 ﹂を作 山 した大 の海 軍 フ ァンで の ﹁
,
信 さ ん の友人 でも あ り、 呉 海 上自衛 隊 婦 人協力 会 のお話
。
し に感動 し 山 を 付け て下 さ ったと のこと であ る なお
。
カ メリ ァ会 歌 の歌 詞 は次 の通り であ る
一、 海を 愛 し 日を 想う
尊 き使命 に 心 はμえ て
紅 い絆を 胸 にさ し
に祈 ら ん
共 に歩 ま ん 上^
あ あ カ メリ ァ ゅかし いカ メリ ァ
手 を とり歩 ま ん 共 に祈 ら ん
あ あ カ メリ ア 美 し いカ メリ ア
二番 、 二番 省 略 ︶
あ あ自 衛 隊 カ メリ ァ ヵ メリ ァ ︵
大 日実 夫 人︱ 大 田 か つ様
大 田か つさ んと の最 初 の出 会 いは大 田さ ん の表 現を 借
り るな ら、 子供 の頃 に家 が 近く でょく 遊 び に行 か れた兵
左 近允 ご から であ った。 昭
尚 ” さん ︵
学 校 七 十 二期 の ﹁
和 六 十年 二月 に私 が呉地 方 総監 部 の防術 部長 と し て赴 任
、
す る際 に、左 近 允 さ ん から
﹁
大 田 さ ん に紹介 し てお いた よ。 そ のう ち に連 続 が あ る
、
L 思う 一と の手 紙 があ った。 そ の翌 日 大 Πさ んか らも
メ信 があ った。 そ れは美 し い和 紙 に流れ るよう に吉 か れ
。
た毛筆 の手 紙 で、家 にお いて下 さ いと書 いであ った
八0歳 を過 ぎ た老 人 であ り、 どう せ壊 れた レ コード の
、
﹁いや 私 の招 待 状 には夫 婦 同伴 と 書 いてあ る し 単 身
赴 任 ■ ので私 の妻 の代 理 で行 って下さ れば宜 し いでは な
いです か﹂ と いう こと で第 七 艦 隊 司令 官 の艦 上 レ セブ
シ ョンに参 加す る ことと な った.
■ を アメリ カ軍 に段 され 戦 後 三十 数年 のさまざ まな
普 師 の性を茉 り 越え てこら れた大 田さ ん の心 境 はど んな
、
も のであ った であ ろう か。 自 分 の人 が殺 され たご遺 族 が
そ の相 手 を訪 問す る こと は普 しく 割 り 切れ な いも ので
あ ろう と 想像 し て いた が、 大 回 さ んは元気 にま た喜 ん で
タク シー で官 舎 に私を 迎え に来 ら れた.
大 田 さんと旗 艦 ブ ルーリ ッジ の舷 門を 上 がり 第 t艦 隊
司今 官 に、 さ て、 何 と紹介 し よう かと考 え た が そ れ よ
ジ ス イズ マイ ジ オ ロッ カ ル ワイ フ
り先 に我 が 口先 は ﹁
と 言 ってし ま って いた。
︵
私 の地 理的妻 です ︶
第 七艦 隊 司令官 は 三0歳も 私 より年 上 の大 田さ んを見
、
て怪 計 な顔 を した が、 私 の説 明 に感動 し 新 し い日米 関
、
係 の象 徴だ と カ メ ラ マンを呼 び 並 ん で記念 写真 を 撮 る
など 終 始 エス コート され た が 出港後 そ の写真 にサ イ ン
を し て送 ってく れた。
大 日さ んが そ の写真を 何 時 も 飾 ってお られ た こと から
ん でお ら れた のであ ろうと 思う .
大 田さ んも こ の訪 間を■[
、 私 の地 理 的 ワイ フがお
ま た 茶 H つ気 のあ る大 田さ んは
気 に いり で
-16- 17
﹁十 間 さ た ■ 語 で言 え ば オ ロジ カ ル ワイ フと 抵 抗
,
はな いけ ど 日本 語 に訳 す と 現地 日本 語 って何と な
,
、 t曰
く 品 がな いわね
っ
﹂
と
言
こ
と
に
な
が
う
た
以
後
,派な
衛隊 の行■ や ク ラ ス会 など で夫婦 同伴 の場合 には立
人 円 さ ん を 少 し でも 部 ド 豚 員 や ク ラ ス の奥 さ ん にも
知 っても らえ た らと、 地 理 的 ワイ フを 理由 に出 席■ く こ
と にな った.
PS1 1の事 故 と女 房教 育
を 回 のPS1 1 の墜 落事 故 で、 遺贋 か遺体 にす かり つ
きt き悲 しな シ ー ンが テレビ で放 映 され た 翌 日
﹁+凹 さ ん 自 術 隊 も だ め ね。夫 が 死亡 す る のは悲 し い
ことだ が 人 のま と し て人前 では悲 L み■而¨
え る のが
必 要よ 一 ,
﹁あのよう に■ の遺体 にす が り つさ 嗅 き悲 し む 姿 を テ
レビ で見 た 国 民 は こんな に嗅 き悲 し む妻 を持 った白 街
官 が、 本 当 に家 族を 忘 れ て回難 に当 た つてく れ る のか し
らL 不安 を青 つわ よ﹂
と厳 し いご注意 を■ け た。 そ こ で左 近 充先 輩 か ら送 ら
必 要 です ﹂ と強 引 に了解 を 取 り付 け、 呉 地方 隊 の幹 部 だ
けに ﹁
教育 参 考資 料 ﹂と し て限定 配布 さ せ て載 いた. 第
t艦 隊 で地 理的 ワイ フと 百 つてし ま つた た め 以後 は ク
ラ ス会 にも 出 て載 く こと にな った が 大 日 さ んも若 い人
と の会 話 が 好 き で、 楽 し ん でわ ら れ た よう であ つた し
わ が ク ラ ス のご 婦 人方も 大 田さ んか ら は教え ら れ ると こ
ろが多 か つた 。
ま た ラ オ ケ
の苦
︲
カ
‘
者 ′
.
帷 手 な私 は 部 下L の コ
罰 ミ ュ ニケ ー シ ョンを 図
帳 るた め に、 部 下 の幕 僚
嚇 や呉地方 隊 の各 級指 揮
難●を■ に してい
舎
待
招
流のご
人たが、海Tの一
腋婦人と尊腋する大Πさ
大んの偉大さを少しでも
知 って貰 おう と 、大 田さ んも 一緒 に招 待 す る ことと した。
は じ め の頃 は 私 が 料 理 を 準 備 し て いた が ﹁地 理 的 ワ
イ フ﹂ を よ いこと に途中 か ら主 客 転倒 、 い つの間 にか部
下 など を呼 ぶとき には、
大 日さ ん、明 日宴 会 を やりま す のでよ ろしく 。 5名 です 。
﹁
予算 は 一万 円 でお 願 いしま す ﹂
など と中 し上 げ ると 、午 後 か ら私 の官 合 のカギを 即け
れ て来 た ﹃
小 説新 潮﹄ 掲載 の大 田さ ん の半 牛 を ■ いた 小
説 ﹁わ が夫 を ■ ぶ﹂ を 増 刷 り し、 幹 部 自 衛 官 の女 房 教
育 資料 と ︱´て配布 す る こと を 考え た。自 身 が贅 美 され て
いる こ の小 説 の印 刷 に最初 は 反対 され た が、 私 は ﹁そ れ
ではど のよう にし て奥 さ んを教 育 す る の です か。 教材 が
。
んど ん泳 いで行 っ し
でも 起 こされ た ら
て
ま
う
心
臓
鷹
,の子 供 達 に■ 難 さ
一母を 海 な ど に■ れ 出 し て﹂ と ■ 一人
れ る のでは と オ ド オド、 ド キ ドキ の海水 浴 であ った。
人 口 さ んと の会 話 は ユー モ アと機 知 に流 れ、話 題 も豊
て掃 除 を し て 料 理 を ■ り 待 つて い てく だ さ る よ う に
な ってし ま った 。 そ の上 私 の部 下 に そ れ L な く 話 さ れ
が.
富 で楽 しか った が、 私を ■ に当 惑 さ せた のは、 計世 がお
子 さま のこと に及 んだけ であ つた。
るお 話 の中 か ら いか に 部 下 が 教 え ら れ た こと であ ろう
﹁部 長 や は り 違 いま す ● , 大 変 数 え ら れ ま し た ﹂
と 常 に感 謝 さ れ た 。 本 当 に人 日 さ ん 色 々と あ り が と う
一みど り がね 今 度 来 る のよ﹂
﹁
あ ︱ ニ ュージ ー ラ ンド から です ね﹂
ご ド・
いま し た .
思 い出 の いく つか
一いや千■ から よ﹂
︵
元防衛 大 学校 教 授 幹 候 八期 横 浜在 住 ︶
続 け る こと でし ょう 。
さ ん がそ れと なく 教 え られ た ご教 訓 は 今 後 とも 我 が ク
ラ ス、 わ が部 下、 そし てそ の奥 さ んた ち の間 に長く 生き
と 最 初 の寄 付を 戴 くな ど 心 から の支援 を 載 いた。 人 口
もう どう にも な ら な か った。 ま た、 工 上自衛 隊 婦 人協 力
会 を 設 立 した時 にも
﹁
女 性 を動 員 し なく てはね。 良 いこと に気 が つ いたわ ね﹂
は覚 え ら れ な か つた し そ れ に孫 の名 前 ま で加 わ ると 、
そ んな問答 のやり と り ば かりだ つた。
私 にと り 十 一人も の子供 の名 前 から、 職業 、 住所 ま で
﹁
失 礼 しま し た﹂
﹁あ ︱、 ニ ュージ ー ラ ンドは勝 子 さ ん でした ね﹂
﹁
あ ら、 勝子 は横 浜 よ﹂
大 田 さ ん は 戦 後 三 十 数 年 のさ ま ざ ま な 人 生 を 来 り 越 え
り 、 そ の セ ン スは抜 ■ 、 呉 の
て来 ら れ た た め か 独 立 独 歩 、 手 と り 足 取 り さ れ る のが
■ いであ った 。 人 ● 歳 と いう 高 綸 にも か か わ らず ヒ ー ル
のあ る靴 を 履 か れ 帽 子 を
, でも あ った 。 話 題 も 豊 富 で会
町 より は 六本木 が似合 う 方
話 は セ ン ス に溢 れ ウ イ ット に富 み 足 取 り も 性 快 で行
動 力 に溢 れ年 市 を 感 じ さ せず 年 寄 だ か ら と の配 慮 な ど
は無 用 であ った 。 大 Π さ ん が毎 週 二 回 は プ ー ル で泳 が れ
ると 問 いて、 冗談 十 分 に、
﹁大 田 さ ん の水 着 姿 を 見 た いも の です ね ﹂
と 申 し 上 げ た が 忘 れ て いた 。 す ると あ る 日突 然 に、
一明 日、 工 ■ のと こ ろ に 水ぎ に参 り ま し ょう 一
と 、 計 画 さ れ て し ま つた . 八 ● のお婆 さ んと の海 水 浴
な ど 考 え ても いな か った が 武 士 に 二言 な し と 行 く こと
にな った . 海 では フ ラ ン ス製 の水 着 を 着 て沖 の方 へ、 ど
-181, ―