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津軽藩儒黒瀧藤太について : 昌平坂学問所・藩校に
於ける活動
黒瀧, 十二郎
弘前大学國史研究. 77, 1981, p20-36
1984-10
http://hdl.handle.net/10129/2991
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http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
津 軽 藩 儒 黒 瀧 藤 太 につ いて
昌 平 坂学 問 所 ・藩 校 に於 け る活動 -
註 (
-) 「弘前大 学 国史研 究 」第 一八号
-
黒
瀧
十 二 郎
に於け る'昌平坂学問所及び藩校 での活動 を素描 したも のであ る。最 初
に次 のことをお断 りし てお-。藤 太 には著 書が な- 'ま た日記 や記 録類
津軽藩 の藩校 に関す る研究 には'羽賀与 七郎 「
梧 古館 成 立 に関 す る 一
(
-)
(
2)
(
3)
考察 」 ・ 「五井蘭州 と山崎蘭州」 ・ 「弘前藩 の学風 」 ・ 「
捨 古館 の用 也
(
4)
(
5)
と校舎 」'月足 正朗 「津軽藩 儒兼 松成 言 に ついて」が あ る。 ま た ﹃弘前
(
6)
市史﹄ (
藩政編)第 二章第 四節 「学問文化 の興隆 」 は'両氏 の執筆 によ
(3) 「弘前 大 学 国史研 究 」第 三 l号
はじめに
も現存 しな いので'藩儒と しての生き方 や思想等 を詳 細 に知 る こと はで
るが 'そ の中 で藩校 の創 設 ・変遷 '儒 学 及 び儒者等 の活躍 に ついて概 揺
(
7)
され ている。笠井助治氏は ﹃
近世藩校 に於け る学統 学派 の研究﹄ の中 で'
(4) 「陸奥 史談 」第 三 三 号
き な い。 そ のた め' 「
藩 日記 」 (国 日記 ・江 戸 日記 。 市 立 弘前 図書 館
全国 の藩校 の特色 ・学風 '諸学派 の興隆 展開 とそ の消 長 に ついて述 べ'
(5) 「弘前 大学 国史 研究 」第 五〇 号
た。
(2) 「日本 歴史 」第 一六 六号
蔵) から拾 いあげ た断片的な関係事項 を中心と して記述 せざ るを得 な か っ
津軽藩 の藩校 を全国的視野 から位置づ け て いる。
(
7)吉 川弘文館 昭和 四四年
(6)弘前市史編纂委員会編 。昭和 三 八年発 行
が 'まだ究明され ていな い部分が多- '今後 の究 明 に待 たねば な らな い
(
8)同右 笠井氏著書 上巻 一
〇 二頁
前述 のよう に ﹃
弘前市史﹄ によれは '藩 校 を制度 史的 に概 括 し て いる
こと は いうまでもな い。 したが って'個 々の学者 の活動 を調査 す る こと
によ っても '藩校 の実態が より明らか にな ると思 われ る。
(
8)
漢) 迄
本稿 は津軽藩儒 (
昌平学派)黒瀧藤 太 の文化 二年∼嘉 永 五年 (
20
[ 出自 と兄弟 ・親戚
黒瀧藤太 は'弘前城下 で庄兵衛 の三男 に生 まれ た。名 は僚師 '字 を元
師 と いい'藤太 と称 Lt鳴鶴 と号 した。藤 太 の正確 な生年 月 日 は不明 だ
が' 「
文化 7四年 丑年 学問所分限帳 」 (
国 立史料館蔵) によれば '三 二
「
日
右 のこと から'学者 とし ての人望 の高 さが う かが われ' ま た藩 政 を批
判 して藩 主 から叱責 を受け た こと等が 知 られ る。
旧 1〇 二頁 には'
笠井助治 ﹃
近世藩校 に於け る学統学派 の研究﹄
彦 輔 '藩 儒
本教育史資料」巻十 二を出典と した簡潔 な祐 介が 次 のよう に見 え る。
(
助)
・捨 古館教 授 '昌 平校
○黒瀧儀鳳 昌平学派'名儀鳳 '称
修学 '林述斎門
儀鳳 は'少壮 にして江戸昌平校 に入学 し'祭 酒林述 斎 に就 いて程朱 学
歳と見える ので'天明 六年 の出生 と推 定 でき る。投 した のは嘉 永 五年 二
月 一七日'六七歳 であ り'弘前城下 の法 立寺 に埋葬 され 、智 正院殿鳴 鶴
そ の得失 を論 及したため'詰責 に合 って犀 居 '幾は -も な-没 した。儀
(
3)
鳳 はそ の学識高遠 '常 に心を国事 に馳 せ て いたと言 う。
を研修 '学行俊秀 をも って捨古館教授 に抜擢 され たが '藩 政 を批判 し'
目勇居 士と いう (
墓碑 銘)。
(
-)
長兄 は藤太 の四歳年 上 の黒瀧儀鳳 であ り '儀 鳳 に ついては ﹃
津軽藩 旧
(
2)
記 伝類﹄ 三六八頁 に'次 のよう に記され ている。
儀鳳 の妹 (
藤太 の妹 でもあ る) の 一人 にやすが あ り'中 田勇蔵 の妻 と
(
4)
な っている。 したが って'中 田勇蔵 は儀 鳳 ・藤 太 と は義兄弟 にあ たる0
黒 瀧彦助儀 鳳 '字 '徳 夫 '弟藤 太 と 共 に儒 学 を 以 て鳴 る。寧 親
公御 代 '捨 古 館 学 頭 被 仰 付 ' 文 化 元 年 二 月御 家 老 大 道 寺 宇 左 衛
中 田は'寛政八年藩校捨古館が創設 され た際 に初代数学学頭 に任ぜ られ'
藤太 の母 (
黒瀧庄兵衛 の妻 '名前 は不明) は薄 田紋次郎 の娘 であ り '
(
6)
薄 田多門 は藤太 の母 の弟 であるから'儀鳳 ・藤太 の叔父 にあ た っている。
0年 には江戸 へ上り'天文学吉 田執負 ・高橋作左衛門 至時 ・間 五郎
同1
(
5)
兵衛重富 ・伊能忠敬等 に天文暦学を学 んだ学者 であ る。
門 '書院番 頭添 田儀 左 衛 門 '其 他 数 人 御 叱 被 仰 付 侯 '即 彦助 重 役
へ取 入御政事 向会談 に及 侯 旨 にて'御 留 守 居 支 配 へ御 役 下被 仰 付
侯 。 佐藤家記。
ふて之 を聴 Lt其教授 を受- '彦助 が そ の家 に至 るを以 て'栄 え L
笠井助治 ﹃
近世藩校 に於ける学統学派 の研究﹄
黒瀧彦助 '言行動作規矩 に当 り '頗 る人望高 Lt当時 巨室 世 臣争
と云ふ。又経 国 の識あ り'大臣 の知 遇 を得 る厚き を以 て'或 は政事
生 の巨魁なりと'彦助中年 にして死去す。時 人大 に惜 めり。著 す 処
四郎 '其他頗 る多 Lt而 して彦助 言行 一も 間然 す べき な し' 一時儒
予壮年交 る処 の学友 '黒瀧彦助兄弟 を初 め'菊 池形左 衛門 '伊藤熊
従学す るも の多く'藩老津軽備淵 (
貞 正) を はじ め'公族重 臣 の師事 す
窮行 を重 んじ'人となり清廉方正'君子 の行 な いが あ った。 一藩 子弟 の
多門 は寛政中 '捨古館草創 の際 '副督 学 と な って講説 'そ の学 は実 践
○ 蒲 田多門
旧 lO f頁 によれは' 「日
に預 ると疑 はれ遂 に腔勤を蒙 る。後年 '奥 瀬 l学 人 に語 り て日- '
本教育史資料」巻十 二を出典 とした簡潔 な紹 介が次 のよう に見 え る。
(
請)
古学派'名利用 '称多門 '藩 儒 '捨 古館 副督 学
の詩文世間 に多 し。 喫名稚話
21
るも のも多 か
(7)
った 。
以上 のこと から'黒瀧藤太 には長兄 に藩 儒 の黒 瀧儀 鳳 '義 兄弟 に藩 校
の数学者中 田勇蔵 '叔父 に藩儒 の薄 田多 門が いた ことが 知 られ '藤 太が
)
「
黒瀧家記」 (
筆者蔵)
学者 として成長す る環境 には比較的恵 まれ て いたと いえ るであ ろう 。
註 (
-
(
2) みち のく双書 第 五集 (昭和 三八年 )
も のであ る。
(3)絃介文中 の ( ) は筆者が 註 (
-) によ って誤 りを訂正 した
)
﹃弘前市史﹄ (
藩政編) 四九 五 ・五七 二頁
(4) 「中 田家由緒書 」 (弘前市中 田嘉 彦 氏蔵)。「黒瀧家記 」
(5
(6)註 (
-)参 照
(7) ( ) は筆者が註 (
-)及 び ﹃弘前 市史﹄ (
藩 政編) 四九 五
頁 によ って誤 りを訂正 したも のであ る 。
二 昌平坂学問所 での研鍵 と 「
文化 律」 改正作業
津軽藩 の藩校 は'弘前城 の南側 に隣接 す る場所 (
現東奥 義 塾高 校 の 一
角) に建 てられ'寛政八年 七月'三〇〇人余 の入学生を許 可し て開校 Lt
(
-)
校名 は穫 古館 と名付け られ た。黒瀧藤太が梧 古館 に入学 した年 月 日及 び
そ こで修得 した学問 の内容 に ついては不明 であ るが '文化 二年 八月 には
(
2)
二〇歳 で経学典句 に任ぜ られ た。梧古館 の教官 にな ったと いう こと は'
多数 の学生 の中 から俊秀 としての抜擢 によ るも のと思 われ る。
当時 '藩 では寛政改革 にも かかわらず '天明 の大飢薩 の傷 は容易 に痩
えず 財政窮 乏 に苦 しみ'文化 四年 二 一
月 には'幕 府 から 一
〇 カ年 賦 で
(
3)
五〇〇〇両を借 り入れた。 一方 ' これま で の東 西蝦夷 地警備 は'文化 五
〇 万石 に格 上
年二一
月 の幕命 で永久警備となり'それ によ って表高が 一
(
4)
げ され はしたが '格 上げ の分だけ軍役等 が増 加 し、藩財政 の窮 乏 に拍 辛
を かけ る こと にな った。
右 のような事情 で'藩 ではすでに同 五年 二月 二日梧古館 を当分廃止 Lt
規模 を縮小 し て新 た に弘前城 の三 の丸屋形 を補 修 し て学問 所 と Lt教料
目 は経学 ・数学 ・書学とす る旨が発表 され て いた。 一
〇月 には学問所が
(
5)
完成 し て授業が 再開 された のであ った。
藤太 は縮小 された学問所 で'引き続き経学 典 句 と し て教鞭 を と って い
(
6)
たが ' 「
国日記」文化 一
〇年七月四日 の条 に'
(
三)
一七戸理左衛門倖貢 八郎 へ黒瀧庄兵衛 二男藤 大儀 '動学 登被仰 付 旨 '
夫 々申達之 ' (
傍註筆者)
とあ り'藩命 によ って江戸 の昌平坂学 問所 に七戸貢 八郎 と共 に入学す る
る が '藤 太 にと
こと にな った ことが知られ る。 日数 二〇 日 で'同年 八月 一
〇 日 に江戸 へ
(
7)
っては昌平 坂学
到着 した。入学 した日 は八月 一九 日であ
問所 への第 1回目 の入学 であ った。
藤太と貢八郎が 入学 して佐藤 一斎 に師事す る にあ たり' 「江 戸 日記」
文化 一
〇年 八月 一八日の条 により次 のよう に見 える。
(
述斎)
大 学 頭 殿 江 入学被仰付侯 二付 '先 例
一黒瀧藤太七戸貢八郎申 出候 '林
之通謝礼金渡方申 出之通 '大学頭江金 宝両 ツ ツ'用人 四人 江銀 四両
〓 斎)
藤 捨 蔵 江銀弐両宛 '左侯 ハ ハ御
ツツ'取扱人妻入江銀萱両 ツツ'佐
入用金弐歩 卜銀拾 六両之旨申 出之 適中付之 '
(
傍註筆者)
2 2
昌平坂学問所 は幕府直轄 の学校 で'授業 料 は不要 のはず であ るが '津
一作事奉行申 出侯 '御参府 こと御 座 候 二而 ハ御 長 屋御 差 支 :付 '黒瀧
るも のとして'謝礼金 を納 めた のであ る。 このような こと は先 例 とな っ
所 二 ツ目) の長屋 から学問所 へ通 って いたと思 わ れ るが '下谷 柳 原 の中
とあ る。右 によれば '藤太 は貢 八郎 と共 に初 め は江 戸藩 邸 の上屋敷 (
本
藤太 七戸貢子儀 '柳原御屋敷 江引 移 之儀 伺 之 通 '
て いたよう に思われ る。学生 一人 に つき '林述 斎 (
直 接 学生 を指導 す る
屋敷 に移 り'そ こから通学 した ことが 知 られ る。 「国 日記」 翌 二 一
年九
軽藩 としては'自藩 の学生を派遣 して指導 を受 け る立場 上'授業 料 に代
機会 は少 な いが '大 学頭 と し て学 政 を総 掌 す る立場 ) へは金 一歩 '実
一黒瀧藤太申 出侯 '是迄御長屋拝借 仕 '林 大 学 頭様 江通 学之 虞 '此節
月 二七日 の条 には'
。
際 に指導 を担当す る佐藤 一斎 には銀 二両が支 払 われ て いる ことが 知 られ
る
昌平坂御学問所江寄宿之 上研究仕 '林家 江通学之儀老 是 迄之 通被仰
付度儀申 出之 '願之 通被仰付侯 t
とあ り'御長屋 は中屋敷 のことと推定 され るが '藤 太 は再 び移 って学 問
これとは別 に'藤太と貢八郎 は林述斎 のと ころ へ入学 の挨拶 へ出向き '
(
8)
鯛 を贈 って い る 。
「
江戸 日記」同年 二 一
月 二七 日 の条 に'
所 へ寄宿す る こと にな った。寄宿 した場所 は書 生寮 であ ろう 。 したが っ
被下置舎長手侍被仰付侯 二付 '話 合中金 武 両勤料増被 下置 侯 '此冒
一黒瀧藤大儀 '動学 登之 処'学業精 勤 二付 '公義 於御 学 問所御 扶持方
明 であ る。さら に 「国 日記」同 一四年 一
〇 月 一五 日 の条 によれは '
て入学後約 二年間 は書生寮 に入寮 しな か った こと にな り' そ の理由 は不
1七戸貢八郎黒瀧藤太郎申 出候 '歳 暮為祝儀 謝 礼金渡 方 '林 大 学頭様
江佐藤捨蔵 江百疋渡方申 出之適中 付之 t
とあ り'入学 に際 しての謝礼金 と は別 に'歳暮 をも贈 って いる ことが 知
られる。
右 のことから'津軽藩 では昌平坂学 問所 に学者 を研鍵 のた め に派遣 し
可被申付侯 t
と見 え'藤太 は書生寮 の舎長手伝 を命ぜ ら れ る に至 った。 これ は彼が倭
た際 に'入学時 の謝礼金納 入や年末 に歳暮等 を贈 って いる ことが 知 られ
るが ' これ以外 にも 'そ の時節 には'それ相当 の謝礼 や贈 物 を し て いた
書 生寮 の学生 は毎月三回'校内 にあ る儒官 (
寛 政 から文化 ま で は'柴
れた人材 として認 められたからであ ろう。
次 に通学 に ついてであ る。諸藩 から派遣 さ れ た学生 は'す で に各自 の
野栗山 ・尾藤 二洲 ・古賀精 里が儒官) の官 舎 で催 さ れ る講義 ・会講 に出
も のと推定 され る。
藩校 で師 に ついて基礎学力 を充分身 に つけ ' ま た年 齢 も旗 本 ・御 家 人 の
席す るのを常とした。儒官 の私宅 (
官舎)(
規授 であ る。 1年 二回 の詩会 .
四回 の文会も講堂 (
捨 古所) で開催 さ れ た。藤 太も このよう に して研鍵
いう 。
を積 んだも のと思 われ る。
子弟 よりも長じ ていた。学問所内 に設け られ た書 生寮 に入寮 した彼等 に
(
9)
「江戸 日記」文化
は'試験 はな-'同志 の切薩琢磨 を旨 と したと
一一年 五月三 日 の条 に'
23
「国日記」文政元年 八月 二八 日 の条 に'
一黒瀧藤大儀 '講釈会読詩文会等之節 '学 問所江罷 出教 授 いたし侯様
被仰付侯t
記」同年 八月 二 一
日 の条 には'
ル廿
(
七月 )
一黒瀧藤太申 出侯 '於昌平坂学問所是迄 四人扶持被 下置侯 処 、 去
一日蓋人扶持増被下置 '会長是迄之 通相 勤侯様被仰付侯 旨申 出侯 、
(
傍註筆者)
伝を つと めたが '右 の史料 によ って再度 の入学中 には舎 長 と な って いた
とあり'藩当局 から帰落 して藩校 の学問所 で講義す ることを命ぜ られた。
これ は文化 一
〇年 に昌平坂学問所 に入学 し'五年 の在学期 間 を経過 した
(
H
)
からであ ろう。さら に 「国日記」翌 二年 七月 一
〇 日 の条 に'
ことが知 られる。 しかし'師事 した学者 や学 んだ内 容 に ついては'記録
くわから
な
な
い。
藤太が舎長と して名 を轟 かした のは'次 のよう な事件 によ ってであ っ
が
とあ る。前述 したよう に'最初 の昌平 坂学問所 入学中 に書 生寮 の舎 長辛
一動学登黒瀧藤太申 出侯 '於御 国許御用御 座候 二付 '富 月中 出 立被仰
付侯虞 '会議残書籍有之 二付 '富 八月迄留学卒業之 上罷 下度儀 '隣
之通被仰付侯 t
とあ り'再び帰藩 を命ぜ られ たが 、八月 ま で に残 り の学業 を修 め てから
た。即ち' 「
国 日記」文政 六年 二 一
月 二八 日 の条 によれば '次 のよう に
(
4
1
)
る 。
見え
肥 後 守様御 家来 狩 野軍兵 衛儀 '致乱 心松 井慶
る。さら に 「国日記」翌年閏八月 1
0日 の条 には左 の通り記され ている。
東兵衛 ・西村有蔵 に傷 を負 わせたが '藤 太が軍兵 衛 を取 り押 え た のであ
会津藩 の狩野軍兵衛が発狂 して'文政 六年 一二月 三 日 に松井慶歳 ・吉村
侯'
付侯得共御役宅江罷出侯儀難相成 二付 '共 感御 留守居 江御 預被仰付
一右 二付 '藤大儀 町奉行 にて萱通御 尋被仰 付侯 '慶蔵儀 茂御 尋 可被 仰
一黒瀧藤大儀 '右軍兵衛を取押侯旨申 出侯 '
侯間 '則差下申侯 '
侯之処、慶蔵儀 三 ケ処得庇 侯得 共浅手之 旨委 細別紙 診察書 を以申 出
負 せ侯旨申来侯 二付 '御 嘗者高橋 雲昌井 御留守 居下役差 遣見分為致
蔵井松平肥前守様御家来吉村東兵 衛佐賀浪 人 西村有蔵右 三人江手症
1去 ル三日'於聖堂 松 平
(
会 津藩 主 )
帰 りた いと いう願 いが認 められ た。九月 には帰藩 し て (
藩 校 の)学問 所
2
1)
(
御用懸 にな った ことが知ら れ る。
再度 の昌平坂学問所 入学 に ついては' 「国 日記」文 政 五年 三月 二 日 の
条 に次 のよう に見 える。
一黒瀧藤太申出侯 '学業穿撃自分物 人を以 江戸表 江罷 登度 '富年正 三
ヶ年之御暇麻之通被仰付 '
右 によれば '三 カ年 の勉学期間中 の経費 は自 己負 担 と Ltそ の間藩 校
し た 。
での指導免除が認 められた.藤太 の研 鎖 への意 欲 をう かが う ことが でき
(
3
1)
「
国日記」
る。 かくして'四月 二 日 に吉崎慶蔵 と共 に江戸 に到着
同年 六月 一五日の条 に'
一黒瀧藤大儀 '於昌平坂学問所編集井詩文懸被仰付'武人扶持被下置 ∼
斎長相勤侯様被仰付侯旨申出侯 t
と見 え'藤太 は昌平坂学問所 の編集兼詩 文懸 に任 命 され て いる。 「国 目
24
懸宜敷 才 之儀奇特 二俣 '依之格段之 以御 沙汰今 日知行 五捨 石被 下置
(
上略)藤大儀 '不取敢軍兵衛を捕押侯段手柄之事 二俣。 必寛常 々心
中 から選ばれ てこの作業 に従事す ること にな ったが ' これは学者 の活動
はな-'津軽藩刑法 「
文化律」 の改正作業 のた めであ った。彼 は藩儒 の
「
文化律」 は'すで に文化 七年三月 に制定 され ていたが '天保 二年 に
の 一端 を示すも のと考 えられるので述 べ てみた い。
1林大学頭殿葺 御留守居御呼出 二付 '杉 山織衛罷出侯虞 '去十 二月 ≡
御馬廻被仰 付侯'(
中略)
日於聖堂松平肥後守家来狩野軍兵衛及 刃傷候節 '黒瀧藤太 '早速右
付侯 '
(
傍註筆者)
一黒瀧藤太申出侯'此度御刑法向穿 撃方被仰付罷 豊中侯間 '此節葺公
(
指)
遠其筋江罷越穿撃仕度奉存侯間、夫 々 御 差 圃被仰付度儀伺之通被仰
至り'刑 の適用 の円滑化 をはかるため に改 正が 企 てられ'藤 太 は同年 八
(
16)
〇 日 の条 に'
月 二五日 に江戸 へ到着 した。 「
江戸日記」同年 九月 一
軍兵衛を描押侯所 より怪我人茂多無之 ' 必責平 日武道 心懸茂有之文
武兼備致侯儀感 入侯 '随 而格別之御貫之 上御 召仕被成下度之 段'別
紙之通被申達侯旨御留守居申出侯間 '別紙 両通差 下申侯 '(
下略)
右 によれは '藤太が軍兵衛を取り押え'怪我人 を 最少 限 にとど めた のに
と見え'関係方面 に出向き作業 に着手 した ことが知 られ る。
(
17)
この年 の師走 には'特 に世話 にな った江戸 の町奉 行与力松浦作十郎 に
対 して'津軽藩 から知行五〇 石を与えられ '御 馬廻 を仰 せ つけ られた0
また林大学頭 (
述斎) よりは'武道 の心がけも有 り文武両道 を兼備 し て
対 し て' 「江戸日記」同年 一二月二九 日 の条 によれは '
千疋被下置侯様'附紙之通被仰 付侯'
(
傍註筆者)
之趣不待止事相聞得侯間'含所御有 品御 国織 龍
相成侯 二付'富歳暮祝儀肴代相鹿 二差遣度 二付 '御金波方之儀申 出
(紋)
門 上下 地妻具肴 代金
一黒瀧藤太申出侯'御用 二付松浦作 十郎 かた江罷越同所 二而格 別扱 二
いると賞讃された ことが知られ る。 このよう に'再度 の昌平坂学問所 で
の研車中 には'武勇伝もあ ったのであ る。
「国日記」同年間八月 二四日の条 に'
(
香)
一御馬廻黒瀧藤大儀 '聖 堂 諸 生寮退寮伺之 通被仰付侯所 '去 ル六日同
所引取侯旨申出侯 '
一去 ル七日同人儀 '御国許学問所学頭之取扱被仰付侯 '猶 又人別調役
とあ り'織物 の龍紋 一揃 '肴代金千疋が贈 られ ている。
(
18)
改正案 は翌三年 五月 に 一応完成を見 たが 、如何 な る改正条文 であ った
かは不明 であ る。 「江戸 日記」同三年 五月 二二日 の条 に'次 のよう に見
兼相勤侯様被仰付侯 (
下略)、(
傍註筆 者)
とあり'閏八月六日 に書生寮 を退寮 し ている。翌 日 には'藩 から藩校 の
える。
下置度儀申出之通交肴 一折被進侯様 '
者'林大学頭様御転 入被下僕処 葺 之儀 二御座候間 '御者 1折被 遣被
1黒瀧藤太申出侯 '此度御刑法心得方川路弥書殿葺 逐 1預御 東度侯倭
学頭取扱を命ぜられているが ' これは経学学頭取扱 のことを意味す るも
(
15)
〇月であ るから'約 二年半 の江戸滞在 であ っ
のであろう。帰藩したのは 一
た。
藤太 の三度目 の江戸上りは'昌平坂学問所 で の研鎖 を目的 とす る ので
2 5
一町方輿力佐久間彦大夫儀 '御刑法向 承合色 々取扱 二相成侯 二付 、為
御挨拶御着 一折被下置度旨申出之通御着料 三百疋被 下置候様 '
1寺社方調役川路弥吉殿江当春葺此節迄罷越 '御刑法無残所御 承度 二
預侯間'為御挨拶金千疋御国織上下地被進 侯様被仰付度儀申 出之過
被仰付侯様 '
1松浦作十郎江御刑法向穿聖 二罷越 、穿 撃済 二相成侯間 '金千 疋御着
一折可被下置哉之儀、金千 疋御 国塗横 縁被 下置侯様 '夫 々附紙之適
と見え、使者をも派遣 して丁重なお礼 の挨拶が なされ た のであ る。
(
20)
か- て藤太 は'帰藩 のため江戸を六月 四日 に出発す る こと になり、改
(
21)
正作業 に使用されたと思われる書物 の運 搬 に馬 の利用も許 され '六月下
旬 には弘前 へ到着 したようであ る。
右 に見 たよう に'藤太が改正作業 を行 う に際 Lt林大学頭 を通 し て辛
を運び'幕府関係者 から教示等 いろいろ世話 にな った ことが知 られ る。
また昌平坂学問所 で二度 に亙り研鎖を積 んだ経験 から知人も少く な いは
)
﹃
弘前市史﹄ (
藩政編)四九 六頁
ず であり'記録 に残され てはいな いが '多 - の人 々と の接触があ ったで
あ ろう。
中付之 '
右 によれば'改正条文が完成し'作業 の終 了 により'林大学頭 (
述斎)
註 (
-
研究」第三 一号所収)
昭和 1
1
1
四年 )
(
2) 「黒瀧家記」。 羽賀与 七郎 「弘前藩 の学風」(「弘前大学 国史
へ交肴 7折 '刑法心得方 ・寺社方調役 (
寺社奉行吟味物 調役) の川路弥
吉 へ金千疋と国産 の織物 '町方与力 の佐久間彦大夫 に御着料 三百疋'町
奉行与力 の松浦作十郎 には金千疋と国産 の塗物が それぞ れ お礼 と し て贈
四六頁
(3) ﹃津軽歴代 記頬﹄下 (み ち の- 双書第 八集
から寺社奉行所用 の職員 を選出して用 いて いた ので'寺社奉 行が交代 す
(4)同右 五 一頁
られた。尚'川路 について付言してお-。寺社奉行 は'初 め自分 の家 臣
るごと に事務 は中断 した。そ こで天明八年 に評定所 から留役 と いう幕府
(5)羽賀与七郎前掲論文。註 (-) 五〇 五頁
〇年九月五目の条
一
(6) 「江戸 日記」文化 一
〇年 八月 一〇 日 の条 。 「国 日記 」 文化
直属 の士が '寺社奉行 に配属され'新任 の寺社奉 行 でも '職務が運営 で
き るよう にな ったのであ る。 この留役 は'寛政三年 に支配留役 と改 めら
9
1)
(
川路弥書 は聖講 のこと で、右
れ た 。
(7) 「江戸 日記」文化 一
〇年 八月 一七 日 の粂
れ'同八年 には吟味物調役 と改称 さ
の史料 によ って吟味物調役 を勤 めた能史 であ った ことが知 られ る。彼 に
(
8) 「江戸日記」文化 一
〇年九月四 日 の条
(10)同右
館) 二〇五三頁
(9)笠井助治 ﹃
近世藩校 に於け る学統学派 の研究﹄下 (
吉川弘文
ついては 「四」 の項 で詳述す る こと にした い。
特 に林大学頭 へは' 「
江戸 日記」同年 五月 二六 日 の条 に'
一票瀧藤太申出侯'御刑法向穿聖 二罷越侯廉 々江 '為御挨拶御進物被
下置候内 '林大学頭様江老御使者 を以被 下置度儀申 出之適中付之 '
26
太が城下 に在住 していた時期 には、学 問所 で学生 の指 導 にあ たり 、経 学
縮小 し、弘前城 三 の丸 に学問所 を完成 し て、授業が 再開 され て いた。蘇
基準が 五年 であ って、制度 と し て確 立 され た在学期間 ではな
を担当 し ていた ことは いうま でもな い。文化 七年 正 月 、学 風が 古学 から
昭和 三七年) 九 一貢 。
いと思 われ る。
朱子学 に改 められ てから後 は、教科書 は素 読用 -論 語 ・孟子 ・詩書 ・礼
(‖)和島芳男 ﹃
昌平校と藩学﹄ (至文堂
「国日記」文政 二年 九月 一五日 の条
( 12 )
第 五集 )
文政 五年 五月三 日 の条
は ﹃
津 軽 藩 旧 記 伝 類 ﹄ (み ち のく 双書
記 ・易経 ・春秋、会読用 -朱子 の小学 ・史記 ・漢書 ・左伝 ・詩書 ・礼記 ・
(
-)
周礼 ・易経 ・明律講書 であ ったから、指導 には四書 五経が 中 心 であ った
)
ことが わ かる。
(
(13)同右
( 14 )
三六八貢 により筆者が付加 し た。
「江戸 日記」天保 二年 八月 二七 日 の条
った 。
した のは、四六歳 の時 であ った。 この年 以降 は、藩 にとど ま って活 動 し
藤太が 「
文化律」 の改正作業 を終 って、天保 三年 六月 に江戸 から帰藩
別 に書経 を講釈 したも のと思われ る。
〇代信順) ・重臣達 に対 し、山水之間 で特
指導す る以外 に、藩 主 (
第一
右 に関連す るが 、兼松伴太夫が同年 八月 一二 日と 二 二日 に、山水之 間
(
4)
で兵書 を講釈 し ている。 したが って、右 の史料 から藤 太が藩 校 で学生 を
とあ る。
以上聴聞被仰付之 、
一今 日於 山水之問 、黒瀧藤太書経講 釈被 遊御 聴聞 侯 、右 二付大寄 合格
弘前城本丸御殿芙蓉之間 で月並講釈が行 われ る こと にな
「黒瀧家記」
)
「国日記」天保 五年 一
〇月三 日 の条
( 15 )
( 16
)
文政 七年 には、再度 の昌平坂学問所 で の研鎖 から帰落 し て藩 校 の経学
(
2)
学頭取扱を命ぜられた。三八歳 の時 であ る。翌年 八月 から毎月 一
〇 日 に、
(
3)
「国日記」
( 17
同年 八月 一七日 の条 に、
「江戸 日記」天保 三年 五月 二八 日 の条
昭和 四五年 ) 二 一
九
によ って、町奉行与力 であ った ことが わ かる。
(18 )
天保 三年 六月 二日 の条
「
江戸 日記」天保三年 五月 二九 日 の条
∼ 一三〇頁
(19)笹問良彦 ﹃
江戸幕府役職集成﹄(
雄 山閣
(20 )
(21)同右
三 藩校 での活躍
藤太 は文化 二年弱冠二〇歳 で藩校梧 古館 の教官 、経学典句 に任ぜ られ、
「国日記」天保 四年 三月 一
〇 日の条 に、
た時期 であ り、断片的 ではあ るが年代 順 に見 て行 く こと にした い。
し、文政 二年研鍵を終 え て帰藩 し、学問所御 用懸 に任 命 され た こと はす
一今 日月並之講釈有之 、講師黒瀧藤 大貴 田英 八勤之 、
学生 の指導 にあ た っていたが 、同 一
〇年藩命 により昌平坂学問所 に入学
で に二 の項 で述 べた。また前述 したよう に、藩 では文化 五年 に梧 古館 を
27
とあ る。
これ は毎月 一
〇 日 に芙蓉之間 で行われ る講釈 であ る。藤太 は具体的 に
(
5)
何 を講釈 したか不明 であ るが 、貴 田英 八 は兵書 と推 定 され る。
講釈 は実施され ていたよう に思われ る。
(
8)
藤太 は同年 一
〇月、学問所小司取扱 となり、藩校 の重鎮 と し ての地位
に任ぜ られ た。 「国日記」同年 二 月 一目 の条 に、次 のよう に見 え る。
一黒瀧藤太申 出侯 、芙蓉之問月並講釈神文左衛 門井 私両 人 に而相 勤罷
黒瀧藤太大学講釈被遊御聴 (
中略)尤組 頭初 月並以 上 一統拝 聴被仰
御役人詰御 用番御家老御先 立 二而竹之 間 江被 為 入、牧 野左次郎 全書
一今 日月並以上於其庸 々 二御 檀被為請候 、其後 無程御座 数寄被仰 付 、
有侯虞 、文左衛門儀 、御免願之通被仰 付 童人 二相 成申 侯 間 、同人代
付之 、
「国日記」同七年 二月 二七日 の条 に、次 のよう に見 え る。
り被仰付度旨申 出 、長崎慶助被仰 付侯 旨申 遣之 、
一一月 一目、竹之間 で藩 主 ・重臣達 に対 し て、藤 太が 四書 のう ち大 学
一長崎慶助申 出侯 、私儀此度於芙蓉之 間月 並講 釈被仰付 侯 処 、病 気差
〇年九月二六日の条 に、
「国日記」天保 一
す る こと にな った ことが知 られ る。
儒学者 の藤太 と長崎慶助 の二人が毎月 一
〇 日 に行 われ る月並講釈 を担当
が行 われ ていた。神文左衛門 は何 を講 釈 し て いた のか不明 であ るが 、辛
(
6)
情があ って彼 の代 わり に長崎 慶 助 が任 命 され た のであ る。 したが って、
た部屋 から考 え て、月並講釈 ではな-特 別 の講釈 であ ったと思 われ る。
目 の粂) に見 られ る講釈が行われ ている のだ から、 日付 と講 釈が 行 われ
一日 に 「
今 日月並御礼後 、講釈経学長崎慶 助 、兵 学貴 田英 八、公 、竹 之
(
9)
間御着座御家中 一統聴聞」とあり、翌 一 一月 一日、右 の史料 (一 一月 一
同年 九月 四日 に初 入国し ているが 、学問 の奨 励 にも力 を注 いだ。一
〇月
第 二 代藩主とな った順徳 (
天保 一三年 九月 二七日順承と改 める) は、
右 によれば 、芙蓉之問 で藤太 と神文左 衛門 によ って これ ま で月並講釈
合等御座候之節御間 欠 二相成侯而恐 入侯間 、以前之 通黒 瀧藤 大 江茂
を、牧 野左次郎が兵書 の武教全書 を講 釈 したも のであ る。
可被仰付哉 、同人儀老在勤茂御座候 問 、伊藤熊 四郎茂被仰 付 、以 上
天保 一一年 二月 から は、毎月 一一日と 二 一日が 芙 蓉之 間 で行 う講 釈 目
(
10)
とされ 、四書 のう ち中庸 を教科書と した o
三人被仰付候老御 間欠 二茂相成間数 二付 、被 仰付度儀 、伺 之 通被 仰
とあ る。 これ は長崎慶助 の申 出 により、儒 学者 の長崎 ・藤 太 ・伊藤熊 四
(
7)
即 の三人を毎月 一
〇 日の月並講釈 の メソバ ーと し て決 めてお- ならば 、
「国日記」弘化 二年 五月 二二日の条 には、
用所向井御城代麻 上下着用 、
「国日記」同 一四年 六月 二 一日 の条 に、
一人 に事情が生 じ て講釈が 不可能 にな っても支障 が な- な る ので、三人
一梅之間御講釈経書黒瀧藤太兵書横 嶋 理 三郎中 上侯 、相済御意 有之 、
付之 、
が認 められたと いう こと であ る。 「国 日記 」 には、毎 月 一
〇 日 に芙蓉之
右 によれは 、梅之間 で藤太が経書 (
書名 は不明) を、横 嶋 理 三郎が 兵
一於梅之間 二黒瀧藤大横嶋理三郎御 講 釈中 上侯 、御 下向初 而 二付 、御
間 で行われる月並講釈 についての記録 は、そ の都度記され ては いな いが 、
2
8
書 (
書名 は不明)を講釈しており'月並講釈ではな- '特別 の講釈 であ っ
たと思われる。
以上 のことから'藤太 は弘前城本丸御殿 の芙蓉之間 で行 われ る月並請
釈 のほかに'山水之間 ・竹之間 ・梅之間 に於 いて'藩 主や重 臣達 に特別
の講釈をしていた ことが知られるのであ る。
一黒瀧藤太申出侯 '林大
学 頭 様 江学問所詩作御直 方奉 願侯付 '新鱈差
(
性字 )
上皮鱈御荷物便之節御登 せ被仰付度儀願之 通被仰付 '昨年 五本振差
登せ'尤鱈之儀老御重所手を以附 上侯 間 '富年茂右之 通被仰付度倭
願之通被仰 付之 '
(
傍 註筆 者)
これ は'詩 の添削 をお願 いす る にあ たり'昨年 のよう に鱈 を贈 りた い
と いうも のであ る (
昨年干鮭 を贈 った - 「国 日記」天保 一四年 一
〇月 一
か- て'藤太が昌平坂学問所 で研鎖 を積 んだ折 に出来 た'林大学頭 を
次 に昌平坂学問所と藩校と の関係 に ついてであ る。
から'藩校 の教官 の研鞍と学生 の指導 のため に'昌平坂学問所 へより高
初 めとす る儒官 の人脈 を通じ て、藩校 の教官 ・学生 の指導 にも力を注 い
七日 の粂 1後 に'鱈をも贈 ったのであ ろう)0
い指導をも仰 いでいたのである。 「国日記」天保 一四年 一
〇 月 一七日 の
だ のである。 いわば 、藩校 の学問隆盛 のため に'昌平 坂学問所 と藩 校 を
藤太が昌平坂学問所 で研鍵を環 み'帰藩 し て藩校 で教鞭 をと った関係
条 に次 のよう に見える。
結 ぶパイプ的役割を果 した こと になろう。
第三 に'藤太が支藩 の黒石藩 へ講釈 に出向 いた こと であ る。
一鈴木帯 刀申出侯'出雲守在邑中 '黒瀧藤太相招儒書講釈御頼被中皮
「国日記」天保 二 一
年 間 一月八日の条 に'次 のよう に見 える。
舞として干飽重箱差上、追 々 一統之作 詩御直 頂戴之儀茂奉願度奉存
旨、仲之 一月雨三度宛 '黒石江泊懸被相越侯様被仰 付度 旨来状 を以
一黒瀧藤太申出侯'先年御刑法御用 に付江戸登被仰付侯 ㈲'林家江罷
(
林述葡)
- (
蘇)
出'昔時之 大 学 頭 様江御 国表学問所学官井諸生之作詩御 難削奉願 '
(
蘇)
其後茂 御 製 削頂戴御直方 1同感心仕難有奉存侯 '随而此度時候御局
峡間'御荷物便之御序を以右進物大学頭様御用人中迄御 登 せ被仰 付
右 によれは '黒石藩主津軽出雲守承保 (
黒 石家第 一
〇代)が '黒 石陣
申出'願之通被仰付之 、
右 によれは'藤太が 「
文化律」 の改正作業 で江戸 へ上 った時 (天保 二
屋 に在住 の間'藤太を 一カ月 に二 ・三度 招 いて儒書 を講釈 させる こと に
度儀伺之通'御重所 頭江茂為知申達之 '
(
傍註筆者)
∼三年) に'藩校 の教官 ・学生 の作 った詩 に対 し て'林大学頭 (
述斎)
な ったのである。儒書 と見 るだけ でそ の内容 はわ からな い。
「国日記」同 一五年 一一月 二四日 の条 に'左 の様 に見 える。
の添削を受け ていた。そ の後 にも添削 を受 け たが '今後も添削 を願 いた
いので'時候 の挨拶として林大学頭 (
樫 宇) に干飽 一箱を贈 ること にな っ
一黒瀧藤太申出侯、出雲守様江毎月講釈 二罷 出侯処 '雪中 二茂相成侯
上御排之儀申出侯得共 '兼而御株御 差留被仰付罷有侯間 '難被仰 付
得者 、途中風雪難凌儀茂有之 二付 '右 防為用意熊皮登校代銭上納之
た のであ る。
「国日記」翌 一五年 二 月八日の条 によれは '詩 の添削が この年 にも
行われた。即ち'
29
侯様附紙之適中付之 、
(
3)同右 文政八年 七月二四日 の粂
徒歩 か馬を利用したのか交通手段 は不明 であ るが 、注意す べき は'冬期
(6) ﹃津軽藩旧記伝類﹄ (みち の- 双書 第 五集) 三七〇頁
(5) ﹃弘前市史﹄ (
藩政編)五 一六頁
(4)同右 文政八年 八月 〓 7
日、八月 二二日 の条
問 の我慢 し難 いほど の風雪 の目もあ ったため、防寒具と し て熊皮 の着用
(7)同右 三七三頁
藤太 は津軽東保 の黒石滞在中 には'毎月講釈 のため黒石 へ出向 いたが 、
願を出 したが許可されなか った。 これ は天保改革 による緊縮財政が 'そ
(
8) 「国日記」天保 1
0年 1
0月 一一日 の条 。 ﹃弘前市史﹄ (港
(
国立史料館歳) にょれば '
〇七頁。 ﹃黒石市史略年表﹄ (黒 石市
一
頁
人 々が いる。
昭和 五九年) 二八
黒瀧藤太が指導を受けた師 、及び交流 のあ った友 人 には、次 のよう な
四 師と友人
頁
笠井同右書 、 7
〇六 ・1〇七頁。 ﹃津軽藩 旧記伝類﹄ 三七〇
(14 )
〇六 ・
(13)笠井助治 ﹃
近 世藩 校 に於 け る学統 学派 の研 究 ﹄旧 1
三
〇歳と見えるので'安政 三年 には六八歳 とな る。
(
12) 「文化 一四年丑年学問所分限帳 」
(‖) 「国日記」安政三年 二月 一目、二月 二 一
日 の条
(10 ) ﹃
弘前市史﹄ (
藩政編) 五 一六 ・五 一七頁
(9) ﹃津軽歴代記額﹄下 (みち の- 双書 第 八集) 二 八頁
名 で'定員三名 であ る。
政編)四九四貢 によれば '小 司 は惣 司 (
定員 一名) に次ぐ職
の理由 の 一つであ ったと思われ る。
また'本藩 の藩儒長崎慶助が 、安 政 三年 二月 '津軽 東叙 (
黒 石家第
い る 。
二 代) から講釈 に招 かれ ているが 、老年 のため弘前∼黒 石問 を山駕寵
(
ll)
(
2
1
)
当時慶助 は六八歳 であ っ た 。
で往復 して
右 のこと から'木津 から支藩 へ出張講釈が行 われ ていた ことを知 り袷
るが '冬 の交通事情 はかなり困難 であ った ことが わ かる。
最後 に黒石藩 の藩校 についてふれ ておき た い。経学教授所 は、津軽順
徳 (
黒石家第九代)が長崎梅軒 ・畑井蜂竜 ら に命 じ て、天保 三年 一
〇月
に創立されたも ので、武術 は教授 せず '経学 ・史学を教 えた。学派 は朱
(
13)
子学 であ る。
長崎梅軒 は木津 の出身 で、前述 の長崎慶助 の弟 にあ たる。木津 の学問
所 に学びt のち昌平坂学問所 で研鎖を積 み帰藩 した。そ の後 '支藩 の黒
石藩主津軽承保 に仕 え、経学教授所 で藩 士を指導 し、やが て東寂 の侍請
(
14)
も つとめ'家老とな っている。
以上述 べた ことから、本藩 と支藩 の間 では、学問 の分野 でも密接 な関
係を保 っていたと いえるであ ろう。
註 (
-) ﹃
弘前市史﹄ (
藩政編)五 二 一
貫
(2) 「国日記」文政七年 間八月 二四日 の粂
30
藤太が藩校 に入学した年月は明らかではな いが '校名 は捨 古館 と称 さ
れ、学風 は古学派 の時期 であり、大きな影響 を受け たと思 われ る師 は'
(
-)
藩校 の惣 司の地位 にあ った津軽儲淵 であ る。 慣淵 に ついては'笠井助治
3九九頁 によれは 、 ﹃弘前市史﹄
﹃
近世藩校 に於ける学統学派 の研究﹄
古学派'名貞正、 のち緯照 、字 子壮 '称永字 '号償淵 、
(
藩政編)と ﹃日本教育史資料﹄ (
巻三巻十 二)を出典と し て、
○津軽僻淵
藩老臣 ・執政'棒古館督学'山崎蘭洲門
特 に佐藤 一斎 の影響が大き か ったと思われ る。
佐藤 1斎 は文化六年 一二月'江戸藩邸 で ﹃
論語﹄ を講義 しており'そ
の後も藩邸 に出入りし て講義 していたが 、文政 二年 正月藩邸 の学問所 -
弘道館 -が 再開され (
寛政 九年開校 '文化 二年 い ったん廃止)、そ の開
(
3)
蓮式 にも講義 していた ことが知 られる 。 このよう な l斎 と津軽藩 と の関
0年第 1回目 の昌平坂学問所 入学 に際 Lt
係から考え て'藤太が文化 1
(
4)
一斎 に納 めた謝礼金や歳暮 の金額が 「江戸日記」 に記され ていること は'
校梧古館 の開設を見 るに至 った。督学 に任 じ て創草期 に於け る藩校 の基
の設けなきを歎じ'百万焦慮建言 して' ついに初志 を遂げ 、寛 政八年藩
昌平校 に学び'天下 の諸儒と交 わ って学識 を広 めた。夙 に弘前藩 に学校
正卿 にt のち藩儒山崎蘭洲 (
道沖) に師事 し て経史 を修 め、さら に江戸
不明であり' 「国日記」 「
江戸 日記」 ﹃
津軽藩 旧記伝類﹄等 に記 され た
同僚 ・友人 であ ったと思われる。しかし、ど の程度 の交際があ った のか
この中 に藤太も名前を連ねているが' これら のメンバ ーは'藤太 の上司 ・
によれは、惣司'喜多村源八以下三八名 の藩校学問所 の職員が見 え る0
友人 については' 「
文化 一四年 丑年 学問所分限帳 」 (国立史料館歳)
一斎が藤太を指導 したことを示すも のであ る。
礎確立 に力を尽 した。 ついで参政 を歴 て'藩宰 に任 じ た。著書 '周易略
津軽藩 士 の友人を拾 ってみると、次 のよう にな る。
儒淵 の家 は弘前藩主津軽氏 の支族 で'世 々国老執政。備淵 は初 め松 田
説二巻。
三 一三頁 に 「
幼年 より漢籍 に勉励 し、黒瀧彦助、同藤太 '伊藤熊四郎等'
第 五集 )
(
上略)笹森達仲、蒔苗市兵衛'松 田常蔵 '黒瀧藤太 '黒瀧彦助 '
皆学友 たり」とあり'同書三六八頁 には 「奥瀬 一学人 に語 り て日- '予
奥瀬 1学 については、 ﹃
津軽藩 旧記伝類﹄ (みち のく双書
釜泡太 一、伊藤熊 四郎杯 、其外数 人皆永字 の力 を尽 して薫陶 せLと
と記され ている。また彼 の薫陶 を受け た人材 に ついては'
いふ。殊 に赤貧 の儒者、永李 の衣食 を減 し て煙 をあけ しめたるも の
七戸貢八郎 は'文化 一
〇年藩命 により藤太と共 に昌平 坂学問所 に入学
(
6)
した ことは 「二」 の項 で述 べたが 、文化 一三年 八月江戸 で病 死 したと い
(
7)
われる。
〇代藩主津軽信順 の用人を つと めた人物 であ る。
第一
壮年交 る処 の学友へ黒瀧彦助兄弟を初 め'菊池形左衛門 '伊藤熊 四郎 '
(
5)
其他頗 る多 し」と見え、藩校 に学 んだ頃 から の友人 と思 われ るが '彼 は
多Lと いふ。 棟方氏抄録・松E
E駒水筆記O
(
2)
と 見 え '藤太 はその中 の 一人であ った。
次 に昌平坂学問所 に於 いて'昌平学派 の学問 の研韓を積 んだ際 の師 に
ついては、す でに 「二」 の項 で述 べてあ るが '判 明 し ているのは第 1回
目の入学 の時 の師で'儒官 の柴野栗山 ・尾藤 二洲 ・古賀精 里 のほか に'
31
け る藤太 の同僚 であ った。天保 一
〇年 九月 には、藤太 ・長崎慶助 と共 に
伊藤熊 四郎 は、 「文化 一四年 丑年学問所 分限帳 」 によれは 、藩校 に於
者)
問を通 して不 レ絶 、藩士東都 に至 るも のあ れ ハ必慶助 '及黒瀧藤太
て侍講 せしむ。他 の異能 な しと錐も 、淳 々勉学 不レ怠 、 一斎常 に普
)
明であ る。松崎懐堂 は'掛川藩徳造書院教授 とな り'門 下 に塩谷宕陰 ・
(
13)
安井息軒 ・林伊太郎 ・海野石窓等が輩 出 した。
(
14)
松崎悌堂と の関係 は、 ﹃
懐 堂 日暦﹄ (- 一五 一頁 、文政 七年 閏 八月
場僻川 ・安積 艮斎 ・松崎懐堂等と切瑳 琢磨 し親 交厚 か った」 と見 え る0
、
〓l
草場 は佐賀藩 弘道館教授 、安積 は二本松藩 敬 学館 教授 から '昌 平 坂学 問
(
12)
所儒官 とな った人物 であ るが '藤太とど のよう な交 流が あ った のかは不
(
藩政編) ・ ﹃日本教育史資料﹄ (
巻十 二) を出典 と し て' 「同門 の草
世藩校 に於 け る学統学派 の研 究﹄
山 一〇 二頁 によれば 、 ﹃弘前 市史﹄
藤太が昌平坂学問所 で学 んだ際 に知 った他藩 の友 人 は、笠井助 治 ﹃
近
の安否を尋 ぬると云 ふ。年 七十 三 にし て没 せり。 (
下略) (
傍 註筆
弘前城本丸御殿 で行われ る月並講釈を命 ぜ られ 'そ の メンバ ーの 一人 で
(
8)
あ った ことが知られる。 ﹃
津軽藩 旧記 伝類﹄ 五三八頁 に'伊藤 に ついて
次 のよう に記され ている。
幼年 より学 を好 み、津軽永字を初 め、其頃 の諸先生 に従 て学 ふ、
(
第九代藩主)
寧 親 公 御 代 '文政 二年 正月藩費 を以 て江戸 にて動学被 二伸付 .、同
(
坂)
六年 三月帰国'直 ち に又 大 阪 にて動学被 二伸 付 .罷 登 り 、同 七年閏
八月江戸 へ帰 り、公 へ御 目見被 二伸付 .動学料増被 二下置 .、同年
(
梶)
九月帰国学問所 二教授被 二伸付 .、同八年 二月再 大 阪 へ勤学 登被 ニ
(
窮十代藩主)
仰付 .同所 三 ハ年罷有 り て天保 元年帰 国 、 信 順 公 御 代 '文 政十年 十
へ
所)
月朔 日書院番組頭格学 問 処 経学 士被 二伸付 l、新 二 一家 を成 す '順
東 公 御 代 、嘉永三年 四月廿 二目学問所小 司加勢被 二伸付 l、同 四午
(
第十一
代藩主)
二月十六日死去。 伊藤氏由緒書 (
傍註筆 者)
長崎慶助 は、 「
文化 一四年 丑年学問所分 限帳 」 によれば 、伊藤 と同様
一七日の条 に'次 のよう に見える。
かい
しヤ
十七日 蒲生 の招 に困り'本庄某 (
久留米 の文学) の廃合 に集 ま る。
こか
ん
故 歓 なり。例 を破 って こ
れが た めに山を出ず る こと 一日。 この日会 す る十 一人。豪斎 (山村
余 は名流と会 せざ る こと久 し。蒙 斎 は吾が
に藩校 に於け る藤太 の同僚 であ った。 天保 七年 二月 に、藤太 と共 に弘前
(
9)
城本丸御殿 で行われ る月並講釈 の担当 を命 ぜ られ '同 一
〇年 九月 には'
留守)、沢 田 (
名 は重徴 '字 は伯 猷 '山村 )' 主人 の本 庄 一郎 (
名
00 0 0
は謙 、字 は撒謙)、墨瀧 (
松山 )
、高 橋善 次 (
名 は粟 、字 は公 謹 、
大夫 、有馬織部 (
長照 、字 は子成)'余等 三人。 この日 の詩
下略)
」。 (
右の ﹃
悌堂 目暦﹄ の底本として使用 され た '静嘉 堂文庫 所蔵 の煉堂 の
題 「
菊 に芳あり」 「
某母を寿す」 「十 七夜観 月
息蔦
号 は桐陽)、
平井廉助 (
名 は篤 '字 は子信 、号 は弦 斎 、小古賀 の徒)'
藤太 ・伊藤 と共 に月並講釈を命ぜ られ 、そ の メ ンバ ーの 一人 に選ば れ て
(
10)
いる。 ﹃
津軽藩旧記伝類﹄三七〇頁 に'長崎 に ついて左 のよう に見える。
長崎慶助 、名 弼 、号 二金 城 丁性質 直 し て学 に志 し 、東 都 に於 而
(
ママ)
佐藤 一斉 に就 て学 ふ事年 あ り '詩 文 に長 し、下津 の後 穫 古館 の教
授 を司 り、後 に小 司とな る。 順 東 公 の時 、天保 十 一年 正 月御 錠 口
(
第十二代藩主)
斉 昭 公 世 子 の時 、慶 助 を江 戸 に召 し
役 を兼 、常 に経書 を侍 話 し 、
3 2
自筆本 によれば '墨瀧 (
松山) の松山 は松 山藩 士 の意味 で'下 の高橋善
(
5
1) .
次 にかかるのが 正 し い 。墨瀧 は ﹃
懐堂 日暦﹄ の中 で' ここだけ 一カ所見
● ●
えるにすぎず '懐 堂が記録す る際 に' 黒を墨と誤記 したも のと考 えられ
●
な いこともな い。断定 はできな いが '黒瀧だ とすれば 、藤 太 を含 めた倭
侯間 '御用便を以江戸表江御登'江戸表
願之通被仰付侯間 '進物 入小箱井書状添御 同所用人中迄差遣皮革存
右 の史料 によれは '藤太が奈良御奉行 の川路左衛門尉 へ、書状 を添 え
御奉行所江相達侯様被仰付度儀 '願之通被 仰付之 '
音大 坂江相 廻 '大 坂葺奈 良
一票瀧藤太申出侯 '奈良御奉行川路左衛門尉 殿江書状井進物差 上度儀
「国日記」嘉永 二年 七月五日 の条 に'
立 て、許可を得 てから面会 せよと仰 せ つけられ たと いうも のであ る。
堂等 二 人が '本庄家 で詩 を詠む会合 を催 し ている ことが知 られ る ので
あ る。
(
16)
「
御用格」弘化 四年 四月 二十 六日 の条 によれば '
q
a
茂来状御 座候 而
宿を以申出侯'尤先年江戸動学中懇意仕侯 、同藩・
る友人が いた ことを示すも のであ る。
た贈物 を遺す ことを許可されたも のであ り'遠-奈良方面 にも幕 臣 であ
面会仕度儀伺之通'
川路左衛門尉 は' 「二」 の項 で述 べた寺社奉行吟味物 調役 の川路弥吉
(
18)
〇年寺社奉行吟味物
と同 一人物 で'川路聖講 のことであ る。彼 は文政 一
一黒瀧藤太申 出侯 '仙台家中入江長之進 国分平蔵両人私江面会仕度 旨
右 によれは '仙台藩 士 の入江長之進 と国分平蔵 の二人 は'昌平 坂学問
調役 となり'天保 六年出石藩主仙石家 の内紛 の断獄 にあ たり'奉行脇 坂
渡奉行'翌 二 一
年小普請奉行'同 一四年普請奉行 '弘化三年奈良御奉行 '
安童 を扶け て能吏として名 を挙げ '勘定吟味役 に抜擢 され 、同 一一年 佐
所勉学中 の藤太 の友人 であり'弘前城下 に住 む藤太 を久 しぶり に訪 ねた
も のと推定 され る。
そ の他 の友人として次 に示すと' 「国日記」嘉永 四年 五月 五日 の条 に
度 よし こ而御苫地江相廻、昨 日慈意之考 古之紙面等持参仕逢呉侯様
一票瀧藤太申出侯 '仙台様御家中太 田盛 石沢俊平儀 、松前表 江遊歴仕
得 に奔走 したが' 一橋派と目され'井伊直弼大老就任 ととも に左遷 され
調印 した。同五年堀 田正睦 に随行 して上京 Lt日米修好通商条約勅許隻
た。同六年長崎来航 の ロシア使節 と交渉 し'翌安改元年 目露和親条 約 に
嘉永四年大坂町奉行を歴任 '翌五年 九月勘定奉行 に昇進 し海 防掛 を兼 ね
申侯 '伺之上対面可仕筈 二御座候得共 '今 日出立之旨 に付難黙 止対
た。文久三年 五月外国奉行 に起用され たが ' 一
〇月 に老疾 をも って辞 し
よれは '
面仕侯 、恐入奉存侯得共御聞届被仰付度儀申 出 '此度老御 聞届被仰
た。明治元年三月 一五日の朝 '江戸開城も 目前 にあ るを察 し て'辞世 杏
藤太が天保 二年 から三年 にかけ ての 「文化律 」 の改 正作業 に際 Lt川
書を残 している。
残 し'割腹 ののちビ ス- ル自殺をした。 また平素文筆 に親 しみ多- の遺
付'以来差懸 二而茂伺之上致対面侯様被 仰付之 '
右 の史料 から'藤太 は仙台藩 士 の太 田盛 ・石沢俊平 から面会 を申 し込
(
17)
ま れ た 。本来ならは '藩主 の許可を得 てから面会 す べき であ るが 、そ の
手続きをしている時間的余裕がな-'無許可 で面会 した。藩 主 へ伺 いを
33
そ の後も交際が続 いていた ことは'右 の 「国日記」嘉永 二年 七月 五日 の
路 から いろ いろと教示を受けた ことは'す で に 「二」 の項 で述 べたが '
(7
(6
)
)
)
「三」 の項 で述 べたが' 「国 日記」天保 一
〇年 九月 二六 日 の
﹃
弘前市史﹄ (
藩政編) 五三六頁
「二」 の項 '註 (6) (
7) (
8)参照
(5) 「一」 の項'註 (2)参照
年二一
月二七日の粂
)
「三」 の項 「国日記」天保 七年 二月 二七日 の条参照
粂参照
(
8
(9
条 によ って知 ることが でき る。
(
19)
また藤太 は'天保七年碇 ヶ関町奉行 を兼任 Lt同九年 には鯵 ヶ沢町奉
(
20)
行兼任 に転じ'藩 の重要ポ ストにあ たる役 人 でもあ った。学問 の分 野 の
みならず '行政面 にも かかわ っていた のであ る。
藤太が月並講釈や特別 の講釈を弘前城 本丸御殿 で行 う ため に'藩 主千
「国日記」天保七年 二月 二七 日 の粂参 照
(10)同右
引 用部
重臣達と接す る機会もあ り'幕府や朝廷 の動 向が '幕府 の川路 から藤太
一六 一八頁
昭和 四 五年
(11).笠井助治 ﹃
近世藩校 に於け る学統学派 の研究﹄㈹ 一六 一七∼
﹃弘前市史﹄ (
藩政編)五〇 六 ・五 一三 ・五三六頁
平 凡社
を通じ て藩当局 の耳 に入 ってい った ことがあ ったであ ろう。勿論 '江戸
藩邸 から国元 へ情報が連絡され て- る のは いうま でも な い。
(13)同右
右 に述 べた幕臣 の川路と藤太 の関係 から は'具体 的 な新 し い事実が判
明したわけ ではな-'推定 の域を出な い 一例 ではあ るが ' このよう な観
(14)山 田琢訳注 東洋文庫 一六九
(12)同右岨 二〇 1頁
岨 五九〇∼五九 l貢
点 から'他 の人物 についての綿密な分析が なされ るならは '幕末 から戊
分 の○印 は筆者 による。
﹃
津軽藩旧記伝類﹄三六八貢
)
「二」 の項 で述 べた 「江戸 日記」文化 一
〇年 八月 一八 日'同
(19) 「国日記」天保七年 一二月 二五 日 の粂
種 々ご教示を いただ いた。記 し て謝意 を表 す る次第 であ る。
(18)弘前大学助教授長谷川 成 一氏より'幕 臣 の川路 聖謀 に ついて
いした い。
(17) この両名 について ﹃
宮城県史﹄等 には見 えず 'ご教示を お願
ば幸 いであ る。
(1-) 「
御用格」 錯 錯 ⋮ 申立之部 (
市 立弘前図書館蔵)。「国日
記」 には見 え な い 。仙台藩 士 の両名 に ついてご教示を願 えれ
(15)山 田琢氏 のご教示 によるも のであ り'深く謝意 を表 した い。
辰戦争 にかけ ての津軽藩 の動向が ' 一層 明ら か にな るも のと思われ る0
以上述 べた他藩 の友人 に ついては'藤太が昌平坂学問所 で研鎮中 に知
りあ った友人 のほかに、江戸滞在中 にでき た幕臣川路聖謀 のよう な友 人
もあ った ことが知られる。 しかし' これら の史料 に記録され た友 人 以外
にも'東北地方 から関西方面 にかけ て'友 人が存在 した こと は推測 でき
)
るであ ろう。
註 (
-
(3
)
(2) 同右 六七頁
(4
34
( 20 )
「国日記」天保九年 一
〇月 二 一日 の粂
む す び
以上'四章 にわた って'藩儒黒瀧藤太 の昌平坂学問所及び藩校 に於け
法心得方 ・寺社調役 (
寺社奉行吟味物 調役)川路
(
聖譲)
弥 書 '町方与力佐久 間
彦大夫'町奉行与力松浦作十郎等 から教 示を受け '同 三年 五月 に改 正条
文が完成 して六月 に帰藩 した。 しかし' この改 正案 は施行されな か った
よう であ る。
二〇歳 の文化 二年 八月 から経学典句 と し て学生 の指導 にあ た って いた
。
(
3)藤太が藩校学問所 の教官 とし て活躍 した様 子 は'次 の通 りであ
(
-)藤太 は学者とし て成長す る環境 に比較的恵 まれ て いた。長兄 は
が 、最初 の昌平坂学問所 での研鎖を終 え て帰藩 Lt文政 二年 九月学問所
る
藩儒黒瀧儀鳳 (
昌平学派 ・林述斎門下) であ り'義兄弟 に藩校初代数学
御用懸 に任命され'経学を担当 した。三八歳 の時 であ る。同七年 一
〇月
る活動を中心 に述 べてきたが'まと めると次 のよう になる。
学頭 の中田勇蔵が おり'叔父 には藩儒薄 田多門 (
古学派 ・椿古館副督学)
には再度 の研鎖 から帰藩 Lt経学学頭取扱 とな って いる。
藩 にとどま って活躍 した時期 は' 「文化律」 の改 正作業 を終 え て帰落
が いたのであ る。
(
2)藤太 は二度 にわた って昌平坂学問所 で研鎖 を積 み'また江戸 に
に師事 した。同 一四年 一
〇月'書生寮 の舎長手伝 を命ぜ られ' 一斎 のは
藩命 にょる最初 の昌平坂学問所 入学 は'文化 一
〇年 八月 で'佐藤 一斎
取扱となり'藩校 の重鎮 の 一人とな った。月並講釈 のはかに'山水之間 ・
臣達 に対す る月並講釈を担当 していたが '同 一
〇年 一〇月 に学問所小 司
に'特 に弘前城本丸御殿 の芙蓉之間 で、毎月 一
〇 日 に行 われ る藩 主 ・重
した天保三年 (この時 四六歳)以降 であ る。藩校 で学生 を指導す る以外
か柴野栗山 ・尾藤 二洲 ・古賀精 里の薫陶 も受 け '文政 二年九月 に帰落 し
竹之間 ・梅之間等を使用 して'藩主 ・重臣達 に大学や中庸等 、特別 の請
於 いて津軽藩刑法 「文化律」 の改 正 にも尽力 した。
た のであ る。
生寮 の会長を つと め'名声 を轟 かした のは次 の事 件 による。即ち'同六
めとする儒官 の人脈を通じ て'藩校 の教官 ・学生 の詠 んだ詩 の添削指導
次 に'藤太が昌平坂学問所 で研鎖を積 んだ折 に出来 た、林大学頭 を初
釈をも行な っていたことが知られる。
年 一二月'会津藩士狩野軍兵衛が発狂 し て学問所 で刃傷事件 をお こし'
の仲介をしている。 これ は藩校 の学問隆盛 のた め に'昌平 坂学問所 と藩
二回目は、自費 で文政五年 四月 から約 二年半在学 した。そ の間 に'香
藤太が軍兵衛を取り押えたので'林大学頭 (
述斎) から文武両道 を兼備
第三 に、木津 の藩儒長崎慶助や藤太等が 、支藩 の黒 石藩 主 に招 かれ て
校とを結 ぶパイプ的役割を果した こと にな ろう。
三度目の江戸上りは天保二年八月 で'藩儒 の中 から選ばれ て 「
文化律」
出張講釈をしていることや'本藩出身 の長崎梅軒 (
慶助 の弟)が '黒 石
していると賞讃されたのであ る。
の改正作業を行うためであ った。それ には林述斎 を通 して事 を運 び'刑
35
藩 の藩校経学教授所 の教官 にな って いる ことが 知 られ る。右 の こと は'
木津 と支藩間 では'学問 の分野 でも密接 な関係 を保 って いた ことを示す
も のであ る。
(
4)藤太 の師と友人 については'藩校 の師 の中 では古学派 の藩儒津
軽永字 であ り'昌平坂学問所 では儒官 の柴 野 栗 山 ・尾藤 二洲 ・古賀精 里
のほか に、佐藤 一斉 の影響が強 か った。
津軽藩士 の友人 では'第 一
〇代藩主津軽信順 の用人とな った奥瀬 一学'
藩儒 の伊藤熊 四郎 ・長崎慶助等が いる。昌 平 坂学問所 で学 んだ時 の友 人
には'佐賀藩弘道館 の教官草場凧川 '昌 平 坂学 問所 儒官安 構 艮斎 '掛 川
藩徳造書院 の教官松崎懐堂等が知 られ '仙台藩 士 の入江長之進 ・国分辛
蔵も いる。 このほか に仙台藩 士 の太 田盛 ・石沢俊 平が 知 られ る。
特 に幕臣と し て有名 な川路聖講 と の交際 は'津軽藩 にと って'幕 府 辛
朝廷 の動向を知 る上 で'重要 であ ったと推 定 され '藩が 激動 す る幕 末 の
政治情勢 に対処す るための情報源 の 一つにもな っていたよう に思 われ る。
記録 には見 えな いが '藤太 には東北 地方 から関 西方面 にかけ て'広 範 囲
にわ たる友人が いたも のと推 測され る。
か- て'黒瀧藤太が藩校教官 と して果 した役 割 の大き か った ことと は
別 に'幕臣川路聖講 と の交際 によ って藩政 に及ぼ した影響 も 小 さ- ほな
か ったと思う のであ る。
(
青 森 県 立弘前実業 高等 学校教 諭)
36