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法令より見たる津軽藩士の生活 : 衣食住を中心とし
て
黒瀧, 十二郎
弘前大学國史研究. 86, 1989, p14-39
1989-03-20
http://hdl.handle.net/10129/3045
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publisher
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
-
衣食住を中心 とし てー
法 令 よ り見 た る津 軽藩 士 の生 活
はじめに
黒
瀧
十 二 郎
いずれも尾張藩 士 の ﹃
艶鵡寵中記﹄ の如 き 、世相を赤 裸 々に書 き と めた
(
5)
内 容 ではな い。 したが って、 法 令 と日記 の記述を かみ合 せた考察 はでき
な ってから で、慶長十 五年 から着手 Lt翌年 には いち おう完 成 した。
尚 、 この考察 は 「
法令 より見 たる津軽藩 の農 民 の生活 」 及 び 「法令 よ
のであ った のかを把握す る こと は可能 であ ると考 え る。
るが、藩政中期以降を通 して の法令 から津軽 藩 士 の生活 が ど のようなも
ず 、多数 の法令 の分析が中 心となt
i
l
ざ るを 得 な か った。 史料的 限界 はあ
城下 は慶安期 に現在 の祖型を型 づ- っており'周 辺農村 と は在 郷道 で
てり
圭
ち
結ば れ て いた。慶長 二年 の寺 町大火、延 宝 二年 と天和 二年 の岩木 川堀香
り見 たる津軽藩 の町人 の生活 」 (
共 に別稿 と し て発表 予定) と の 一連 の
弘前城 の建設が本格化 した のは、第 二代 藩 主津軽 信枚 (
牧) の時 代 に
え、元禄年 間 と宝永年 間 の二度 にわた る武家 屋敷 の郭外 移転 、寛 政改辛
作業 であ る。
一 藩士に対す る生活規制
による藩 士土着 とそ の後 の城下 への復 帰 によ って、城下 の景観 は度 々変
更を余儀 な-され たが 、町屋 ・武家 お よび寺社 の配置 は、十 九世 紀 の初
頭以後 ほとんど変化 はな か った。
本稿 は右述 の弘前城下 に住む津軽藩 士 の生 活 の実 態を 、法令 の分析を
本章 では藩 士 の生活が如何 に規制 され て いた かを 知 る た め に、主要法
令が出された時期 とそ の背景を藩政 の動 向を 通 し てさぐ ってみ た い。
通 して考察 したも のであ る。 そ の際重要 な ポイ ントは、藩 から出 さ れ た
法令が藩 士 にど のよう に受 けと められ た のか、 また法令 が藩 士 に対 し て
以降 、家督相続 か又は藩 主とし て江戸 から弘前 へ初 入国 の時 に 「
藩士 へ
の法度 」が出されている。それは幕府 の大名統制 とし ての 「
武家諸法度 」
第 一に津軽藩 では第三代藩主津軽信義 (
それ以前 は史料 の欠如 で不明)
効果的 に適 用がなされ たか否 か、と いう こと であ る。
(
-)
そ のた め'藩 士 の書 き記 し た日記類 を 調 査 し たが 、 「三 橋 家 日記 」
(
2)
(
3)
(
4)
「葛西彦六日 記 」 「楠美甚之助 日 記 」 「家 記 」 等を 知 り得 た にすぎ ず 、
1
4
の発布 とまさ に対応 していると考 える ことが でき る 。
(
6)
五箇条 (
三代 信義 )
ぐ る 1大転換期 に出されたも ので'藩体 制維 持を は かるた め の基本法 の
L
12J
lつと考 えられ る。
寛永十 一年 の五箇条 と同 じ内容 であ る。 これ は津軽藩 の家督相続を め
信義 は寛永 八年十 三歳 で家督を継ぎ ' 同十年 十 月江 戸 より弘前 へ入国
第 七代信寧 は延享元年 八月 に五歳 で相続 す るが ' 「日記 」同年 九月 二
;寛永十 7年 九月-
した際 に御国騒動 が起 り'藩 士間 の対 立動 揺を 鎮 め'藩 士 への生活 の心
十 1日 の条 に'文武 の緩 みを戒 めた御触 が 江戸 で出 さ れ て いる ことが 記
・t
13)
され て いる。
節を怠 らず' 一生懸命勤 めよ」と いう共通 した内 容 の御 自筆 '御染筆 な
「忠
信政 は明暦 二年十 一歳 で家督を継ぎ 、寛 文 元年 六月 三 日 に入国 し十 一
どと いう名称 のも のであ る。 これ は第 五代 信 寿時 代 ま で の 「
藩 士 への法
第 八代信明以降 では'家督相続後 か初 入国 の時 に出 され る のは'
箇条 、続 いて翌年 三月 に十七箇条を出 し'藩 士 の衣食を はじ め日常 に於
臼
が まえとしての意味 で出され たも のであ る。
ハ
7一
寛文元年 六月二十 1日- 十 一箇条 (四代 信政 )
8」
臼寛文 二年 一
一月- 十 七箇条 (
四代 信政)
ける行動 の各方面 にわた って規制 して いる。 これ ら は幕府 法 であ る寛 永
度 」と全く異な る。 したが って第 七代 信寧 の時 代を 境 と し て生活 への規
(
14)
制が見 えず ' 「
藩 士 への法度 」はそ の性格を 異 にす る よう に思 われ る0
それ はただち に次 に述 べる生活規制が出 され て いるから と は いえず '今
信寿 は宝永 七年十 二月 に四十 一歳 で家督を 継 いだ。 ついで翌正徳 元午
いるかに ついて考 え てみた い。但 し規 定 の内 容 分析 に ついては次章 以下
第 二に衣食住を中 心とす る主な生活規制 が 'ど のような時 に出 され て
後 の検討 の課題 としておき た い。
八月江戸 に於 いて十 二箇条が出 され'右 の規定 の中 に衣食住 の倹約 と武
で述 べる。
十 二年 十 二月十 二日 に出された 「
諸 士法度 」二十 三箇 条を 参照 し て作 成
(
9)
されたも のであり'藩政確立 への基礎 とな った のであ る。
(
10一
佃 正徳元年 八月 二十 六日 の条- 十 二箇 条 (五代 信寿)
芸等 の倹約 と奨励が知 られる。
「日記」元禄八年 十月十 九日 の条 に次 のよう に見 え る。
(
月番家老大道寺隼人宅 )
ち ょうど この時期 は幕府 の財政窮乏 が表 面化 し て通貨を 悪化 ・増 発 す
る悪循環が見 られ'五代将軍綱吉 の死去 から家 宣が第 六代将 軍 とな り'
一於同所御家中之 面 々相詰 '嘗年就 不作 於 江 戸被仰 渡候御書 付御右 筆
一食物之儀老 平生軽-可任侠得共'猶 以此以後 随分軽 可任 侠 '振舞 夜
一作事繕住居替之儀 '堪忍可被威儀老 '柳 以手を 付 不申 堪 忍可仕事 '
(
中略)
讃之 '右之御書付壱通宛大 目付神 源大 夫相渡 之 '左 二記之 '
元禄期 の施政 の欠陥を修 正改善 す る転換期 であ る。
津軽藩 に於 いて元禄 八年 の大飢僅以後 、次第 に財政 が苦 し-な って い
る事が知られ る ので'正徳元年 の十 二箇条 は右 の事情 を背 景 にし て信秦
の家督相続後 、江戸 に於 いて出 されたも のと思 わ れ る。
t
I,
些 享保十 五年 九月十 五日 の条- 五箇条 (五代 信寿)
1
5
かう の物 之外 出中 間数侯 '尤 吸物 肴 酒 1切 停 止 可仕 候 ' 他 所 之 出
以上 の法令が出 された時 と豊凶 と の関係 に ついて見 ると'元禄 八年 は
定 が見 られ る。
合 たりと いふ共' 1汁 二葉外 こかう の物 之 外老 '其 客 江勤 し家中之
大凶作'正徳元年豊作 (
前年 も豊作 )'同四年 天候 不順'享保九年 豊作 '
(
17)
寛延三年 豊作 (
前年 凶作)'安永 六年 豊作 (
前年 不作 ) t のよう に豊作
合等之儀今来年 相慎可申侯 '不叶 子 細有之 出合候 共 ' 一汁 一菜外 こ
訳を 断可申侯 '他客を寄 酒不出 し て不叶 訳茂有之 侯 ハハ'是 又断を
の年 にも出 され ており'凶作時 に対す る倹約を 命 じたも のば かり と は い
えな い。
中二7
遍之外出 し申間数侯 '肴之儀 茂 有合 之 1種出 し可申事 '
一衣類之儀 ハ猶以来暮迄 二 切仕間数候 '若 不仕候而不叶儀茂侯 ハハ'
禄 八年 の大凶作 は大飢健 の惨状を 口
王Lt藩 財政 に打 撃を与 え て財 政 の窮
元禄期 は幕府 の財政窮乏が始 まる時 であ り'津軽藩 に於 いても特 に元
1家内之祝儀事 '或仏事等 に不寄 '随分 軽仕 '人を 大勢 呼申事 な ど 一
乏化がすす み'藩 士 のみならず領 民 の経済 生活を 脅 かし て行 -時期 であ
絹紬木綿之外 ハ仕間数侯事 '
切仕間数侯 '不叶子細有之侯 共'今 来年 之 内 ハ先 江断申 急皮 相慎 '
したが って元禄 八年 以降 の法令 は'藩 財 政 の窮 乏化 により'藩 士 へ生
る。
一昔物之儀茂侍輩中 江 ハ堅無用 二俣 '若 手作物 樹木 類 ハ軽仕候 共 '其
活 緊縮を 求 め て出 さ れ たも のと思 わ れ る。 但 し津 軽 藩 最 初 の宝 暦 改 革
少之物 入茂無之様 に可仕候事 '
<傍註筆者 >
期 に整備 され た倹約令 (
後述)が出され て いる のに対 し'疑問 とされ る
次 に享和 三年 以降 の主な生活規制 に ついて見 て いき た い。
ような整 った形 で の倹約令が見 られな いのは'寛 政改革 と天保改 革 の時
右 の元禄八年 十月十九日 の条 では'衣食 住 の三 つが出揃 い' これ ら と
「日記 」享和 三年 七月十 二日 の条 に左 のよう に見 え る。
外 ハ一切仕間数候事 ' (
下略)
元禄八年 以前 には'寛文元年 六月 二十 一日 の十 一箇 条 '翌年 三月 の十
(
5
1)
七箇条中 に見 える衣食 そ の他 に ついて の規 定 '延 宝 三年 三月十 一日 の衣
(
6
1)
に ついての規 定 ' 「日記」元禄 五年 十 一月 二十 一日 の条 に見 える食 と住
と ころであ る。
(
宝暦三年 ∼八年 )期間中 に倹約令 は出 さ れ て いるも のの'元禄 八年 の
及び冠婚葬祭 の倹約 に ついての規定等 が 出 され ては いる。
冠婚葬祭 そ の他 の倹約'即ち最初 の整 った生活 の基本 的事 項 に対す る倹
1今 日大 目付触左之通 '
(
中 略)
約 の規定 であ る。 この年 は津軽藩が大 凶作 に見舞 われ た時 で'藩 士 に対
し て倹約を 求 めて出され たも のと思われ る。
但禄 五百石以上大寄合以上之儀老 是迄之 通 '乍 然 目 立候之 品 不相
一御家中衣類大身 たり共 一統鹿服着 用 可致事 '
享保九年 十月十 五日 の条 '寛延 三年 八月 四 日 の条 '安 永 六年 二月十 五日
用'綿服勝手次第 随分鹿 服可致事 '
そ の後 は 「日記 」正徳元年 八月二十 六日 の条 '同四年 十 一月 一日 の条 '
の条 (
此年 は衣 に ついて のみ) に元禄 八年 十 月十 九 日 の条 より詳 細 な規
16
1禄 三 百石以上長袴以上 之 儀 統 綿 服 '右 二準 羽織 袴 等 儀 結 構之 品 不相
候旨相聞得候 '右 虚業 二随 ひ縦 持来 候 器物 たり共無 用 '免末 成 器物
共 1汁 三菜之外 可為 無用侯 '尤 器物 茂 近年 装 二美 麗 を 好著増 長 二及
(一
脱 力)
用侯様 '桟留 川越平之 類 より宜品 不 可相 用 ' 且 又縮 羽織 奈良 嶋 之 惟
相 用 可申事 '
之輩 絹煩 不相 用木綿之類着 用 いた し侯 様 '美 麗之 衣 服相 用候 儀 決 而
1盆中 踊衣類近年 張 二美を飾 侯之儀 及 増 長 侯 旨相 聞得 侯 ' 可成 丈小袷
可為無用事 '
三 日信贈答之儀茂 明和年 中御触之 通 '親 子 兄弟 叔 伯 父 母聾 勇 師弟 之 外
子勝手次第 '妻子 たり共右 二随分 限 より美 服 堅- 可為 無 用事 '
一禄 二百石以上輿斗 目以上之儀老 1統綿 服 '下着老 郡内 絹之 外 堅無 用 '
羽織 たり共紬木綿之 外 不可相 用'袴老 残 留 小 倉 夏着 川越 平 郡内 平之
類 '惟子老 奈良 縞之 煩 より宜品 不可相 用 '尤 可成 丈 縞 羽織 着 用 可致
事'
一御家中家居之儀 '近年 在 宅御引 上 其 外 転 宅之 族役 禄 不相 応 手 広 住居
可為無用事 '
羽織老 並木綿 '夏老結縮緬之羽織御 差留 絹 羽織 '可成 丈布 羽織相 用 '
之家作之面 ま 戊有之 '自然別而勝手方難渋致侯儀 心得 達之事 二俣間 '
一右 以下御 目見以上 一統綿 服 '下着 老 絹之 外 堅無 用 '袴老 小 倉 木 綿 '
惟子老奈良嶋 地布之 類 '袴老 正徳 平 高 宮 之 類 より 宜品 不相 用右 妻 子
此末 可相成 程分 限 より手狭 二取建 日用 随 分質 素 致 '常 々不用之 費 よ
一御 用達井名 主役之老 其外 '御 目見席 江罷 出候 諸 町人 惣 而 重 立之 老 た
(
中 略)
別触書左之 通 '
(
中 略)
り別帳伺之 通 '
一町在 滑 々之老 共著 及増長侯 :付 '此 度 鹿 服 相 用 侯 様申 付 候 処 '右 よ
見 える。
「日記」同年 八月 七日 の条 に'農 民 ・町人 に出 さ れ た のが次 のよう に
とが知 られ るが '食 と住 に比較 し衣 の規 定 が 詳 細 であ る。
右 によれば '衣食 住 そ の他生活 の基 本 的事 項 に対 す る倹 約令 であ る こ
銘 々覚悟急度相 噂 '随分勤 務筋致 出情 侯 様 ' (
下 略) <傍 註筆 者 >
り内 々不取締難 渋 二及 ひ不動之筋 茂 出来 '第 1心得 達之事 二俣間 '
共準 可申事 '
一右之外御 目見 以下之老 馬乗袴 不可相 用 、妻 子 たり共 糸 入木 綿 晒 下 着
惟子井絹類 一切 可為無 用事 '
一御家中諸稽 古 不断往来之 節老 絹下 着 無 用 '袴 ハ小 倉 並嶋之 外 相 用 候
儀 堅無用之事 '
一御家中妻 子衣類別 而近年 美服及増 長 '右 之 処 より弥 増 及難 儀 :侯 旨
相聞得侯間 '以来大身 たり共上着 絹紬 綿 服 相 用 可申 侯 '下着老 郡 内
縞絹染之 類外 堅無用帯 腰帯櫛樟枝 共右 二準結 構 之 品 不可相 用事 '
一御家中 召仕之 男女共大身之 召仕 :而茂 寛 延年 中 御 触 二準 '帯之 外 絹
類相用候儀 堅無用之事 '
一御家中妻 子召連侯供 廻 り之儀老 '役禄 二随 ひ相減 Lt 召連 候 儀 老 勝
手次第之事 t
l御家中常 々出合祝儀事 たり共'軽 l汁 二葉 不 可過 候 '婚 姻 悌事 た り
1
7
小袖之儀老精細太織之頬着用御 用捨 可被仰 付 侯 '夏老 亭 主分 ハ小
但上着者木綿之外紬 たりとも着 中 間敷侯 '尤 上着 絹裏 無 用 '下着
様'銘 々不用之費を 不相厭心得達之事 二俣'是等之 儀老 町在共其向 々
守 不屈之事 二俣 '以来 町在滴 々共 地布之 外 可成丈木 綿等迄着 不申 侯
美を 餅罷越 候旨相聞待 '前 々右肺之 衣類 着 侯儀停 止中 付侯 処 '不相
1近年岩木 山参詣之節 '町在滴 々之老 共 色 々衣類を 取 括 '絹類相 用得
人急度御礼 明可被仰付候 '在 々九滴 共 同様 可被 相 心得 侯事 '
紋柄羽織御用捨 '布 羽織勝手次第 '袴 ハ高宮 地藤布 肩衣絹無 用 '
(
縮)
鍛子相用帽子老奈良縞麻椎子相用 '越 後 柏 之 類 無 用'地布 相 用侯
支配頭 より能 々申含侯様 可申付候 '若 又是 迄之 通与 相 心得 違背之 老
り共'随分鹿服相用得可申侯事 '
儀勝手次第 '冬着小倉袴木綿 羽織之外着中 間敷 侯事 、右 之 外 一統
於有之老 '急度当人老勿論'支配 頭迄越 度 可申 付事 '
一在滴 々共御 目見席 江罷出候老井垂 立之老 共著 '弘前 町 々垂 立之老 与
下着小袖老勿論 ' 一切糸 入地合之 品着 用 堅停 止中 付侯 '
一上下老 1統 五郎 丸之外相麻 たり共着 用停 止中 付 侯 '
衣類同様其外 一統股引迄木綿 可成丈 無用 ' 地布相 用 可申事 '
一町 々召仕手代共之儀者、先年 御触之 通 衣類相 守 り'冬着 上張浴 衣 '
一総而 町 々妻子共別而近年 衣類著及増 長候 旨相 聞得 '此度 急度 御 礼茂
可被仰付候得共御用捨被相加、以来 衣類著構 敷事 無之 様 '銘 々家内
夏 ハ単物地布之外堅着 不申候之様 ' 羽織老 夏冬 とも停 止中付 候 '
著 二準 '色 々美麗を 尽し侯儀粗相 聞得 侯 、急度 先年 申 付 候通 向後 相
之老 共江鹿服質素申付侯之様 '依 而向後 老御 用達 其 外身 上柄 垂 立之
事 '但 し絹類 二而茂下着無垢小袖決 而無 用'帯 腰帯種 々之 織 物相 用
守'重俳事婚姻 たり共 一汁 二葉 二不可過侯 '随分鹿 菜を 相用著 構敷
1出会等之儀老先年書付を 以申付侯得 共 '近年 装 二著 '器物 二至迄右
候之儀無用'筋子競埼紗綾之外相用申間数侯 '幼少之 男女絹帯 不苦 '
事 無之様 '町在滴 々共 一統支配頭 二而精 々制法相 立'後 々不取 戻候
妻子たり共上着老木綿精嚢無用'下着 小 袖者染 絹太織之 類相用 可申
紗綾縮緬之類相用中間敷侯 、右 二準 し櫛樟枝過美之 品無 用'随分鹿
様厳重 二可申侯事 '
二俣'急度向後持釆之諸道具 に而茂 '結 構之 品 不相 用'鹿末之 器物
相成侯旨相聞得侯 '銘 々身上之手薄 二相成侯事 茂 不相弁 以之 外之事
一家具井 酒器等近年甚以美麗之諸道 具 ' 不断 出会 二茂右 肺著之 風俗 二
末成 る品相用 可申事 、
右之外 一統下着共木綿着可申侯 '帯老 糸 入木 綿相 用候俵老 御 用捨 '
骨櫛樟枝無用'木櫛相用可申事 '
但夏帽子奈良縞麻植子相用'絹 椎 子等 堅停 止中 付 候 '
粗相聞得侯'以来木綿之外袖 口裾 廻迄 絹相 用侯儀 堅停 止'小 児 たり
茂申付侯処'近年 裳 二膏美服美好を 尽 し侯之 旨相 聞得 侯 '以後 急度
一町在滴 々共'湯治先 :而衣類諸 器物等 迄免末之 品相 用得 候様 '先年
相用得 可申事 '
共栴類相用中間敷侯 '若是 まて之 通与 相 心得 絹類着 侯老 於有之老 '
先年申付侯通免服著構敷事 無之様 '遊 山芝 居江 罷越 候儀茂 同断 '急
一盆中踊衣類近年 別而過美を筋'無 用之費 を 不厭 一統 絹類相 用得侯 旨
役筋之老名前相札申 出候様申付置 侯 間 '於相 顕著 其親 々老 勿 論 '当
1
8
度相守無益之費無之様可申付之事 '
一家居之儀茂重立之老迄茂銘 々商売方弁用之住居之外無用之住居相省'
そ の後幕末 までに出されたも のを拾 ってみると左 の通 り であ る。
「日記」文化四年十 二月十五日 の条 (
衣食 そ の他 '藩 士 ・農 民 ・町人
1町 々九滴共商売方 一統曹之風俗 二随 ひ'呉服物其外美麗之織物諸器
十月十日 の条 (
衣食 そ の他'士対象) '天保十 二年 十 二月 二十九 日 の条
政十年十 二月 二十八日 の条 (
衣食そ の他 '士 ・農 ・町対象) '天保十年
対象)'文化八年 九月 一日 の条 (
衣食 住そ の他 '士 ・農 ・町対象)'文
物'惣而下駄草履之類 1
量 るまで'過美結構之 品買下致売買侯儀粗
(
衣そ の他= 士対象'衣食住そ の他 = 農 ・町対象) '嘉永 六年 十 二月十
分限 より ハ手狭 二曹構敷住居 は堅停 止可申付候之事 '
相聞得侯'必尭著 二随 ひ高金茂 不厭結構之 品計致売買候故 '高金を
1日 の条 (
食そ の他'士対象)'同年 十 二月十七 日 の条 (
衣食 そ の他 '
か- て享和三年 '文化 四年 '同八年 に出され たも のは'天明 の大飢僅
不厭著 二随 ひ買調候者茂数多有之侯 '依而当年 之儀老最早買越 品茂
諸器物等商売 いたし侯老於有之老'取押之 上急度御礼明可被仰付候'
後 の領内復興 のために藩 士土着制を中 心とした'天明四年 から文政 八午
農 ・町対象)'同七年 一月 二十 四日 の条 (
食 そ の他 '士対象'同 六年 十
右肺結構之品他 より買下 ケ高直之商 売 :随 ひ'御 国産之諸色迄近年
にかけ て実施された津軽藩 の寛政改革 の 一環 とし ての倹約令 であ り' 漢
二月十 一日 の条とほとんど同じ) であ る。最後 の嘉永 六年 の両規定 は'
装 こ高直 こいたし商売候事相聞得 侯 '向後急度先年書付を以申付 候
た蝦夷地警備 (
警備 に対する功賞 とし て文化 五年 に十 万石 に高直 りとな
船着之事故'夫 々売買茂 可有之侯間 '当年 之処老 是迄之 通売買勝 手
二二,\
次第 '明年 より右肺之 品 商 買 方急度停 止中付侯'若当年 右肺結 構之
ヶ条之趣井 二此度改而申付侯趣共相守 り'家業 かた精 勤 いたし候之
る) に伴う費用 は藩財政を著 し-圧迫 し'それ に対す る倹約令 であ った
享和 三年 のも のと同様 一セ ットとみてよいと思 われる。
様申付侯'其向 々支配頭 二而端 々之老 まて茂 不洩様厳重可被申付侯'
と考 えられる。
品売残共明年 より商売停止中付侯 '明年 二至り過美之呉服も の其外
以上
天保十年 '同十 二年 '嘉永 六 ・七年 に出されたも のは'天保 の大飢薩
後 に於ける藩財政 の窮乏 から脱却 のた めに'天保十年 に始 まる津軽藩 の
八月
右 の史料も衣 に ついての規定が食 と住 に比較 し て詳細 であ る。
これまで指摘 したそれぞれ の年 に出され た生活規制 には'衣 ・食 ・住
天保改革 の 一環 としての倹約令 と見 てよ いと思 われる。
農民 ・町人 に対す る 「日記 」同年 八月 七日 の条 に見 える両規定 は'それ
のす べてに ついての規定が常 に揃 っては いな いが '衣が食 と住 に対 す る
以上示したよう に'藩 士に対する 「日記」享和 三年 七月十 二日 の条 '
ぞれ対象が異な る ので'そ の規定内容 も異な る のは当然 であ るがt は.
ほ
よりも詳細 であ ることは'藩士 ・農民 ・町人宛共 に共通 し て いる。
食 に ついては'具体的 に料理 の内容が時 と場所 に関係な-目 に見 える
同時期 の領内支配 のために出された 一セ ットとし て考 える ことが でき る
であ ろう。
1
9
住 は弘前城下 にお いては'侍 町 ・町屋 と分 かれ ており '身分 以上 の衣
と いうわけ には行 かず、食事 の規制 では身 分を 区別 しが た い点 があ る。
公式 勤務 の時 には半袴 と略服 として継袴 を 着用 Lt 日常家 庭 にあ った
輿斗 目鼻袴 (
長柄奉 行 以 上) '契斗 目
て整 理す ると左 のよう になり'大体 の傾向を 知 る ことが でき よう。
(
20)
○正月 一日 (
藩 主'諸神仏拝礼。藩 士登城年 賀 )
於ける登城を許された藩 士 の服装 に ついて述 べてみた い。 「日記」 によ っ
最初 に津軽藩 の正月行事 '特 に 一日 ・四 日 ・七 日 ・十 一日 ・十 五日 に
り'- つろ いだ時 の平服 には' 「
袴を ぬぐ 」と いう諺通 り に小袖 に袴 '
9
1)
(
また は小袖 の着流 しとな り、時 には羽織を 用 いたり し た 。
屋 は翌日すぐ改築など変更 できず '身 分秩 序 '藩 士間 の階層秩 序 の維 持
には衣 のように効果的 でな か った。
右 の両者 に比較 して衣 は容易 に着用 の変 更 が行 われ やす -' ま た人 の
目 にふれるも ので身 分差も不分明 になり やす か った。 そ のた め衣服を身
分ごとに統制す る ことによ って、藩 士 ・農民 ・町人 の身 分 制度 の維 持を
元禄十年 (
藩 主在 国)-
裂斗 目半袴 (目見 以上)
半袴 (
寺社奉行 ∼馬廻番頭)
享保 二年 (
藩 主在府)I
輿斗 目半袴 (目見以上)
はかると共 に'それぞれ の身分内 の階層を も秩序 づ け よう としたも ので
(
8
1)
り 'それ は封建社会 の秩序を保 つた めに効 果的 であ った と いえ よう。
以上 のことから'享和 三年 以降 に出 され た生活規制 は'藩 財政 の窮 乏
宝暦三年 (
藩主在府)-
あ
に対す る倹約 の徹底 と身 分秩序 の維持を は かる た め のも のと考 え る こと
文政十 一年 (
藩 主在国)-
あ った ことが知 られる。 な お'享保 二年 (
元年 凶作 ) と宝暦 三年 (二年
斗 目半袴 の着用が見 られ'藩主在国 の年 より不在 の年 の方が幾 分簡略 で
右 によれは '上級藩 士 に限 られるが 、元 旦 の年 賀 では輿斗 日長袴 ∼輿
目麻袴 (
番頭以上) '木綿服麻 袴 (
右 以下)
輿 斗 日長袴 (
長柄奉 行以上) '翼斗
が でき る。
二 衣に ついて
江戸時代を通 じて 一般的 に武家 の服制 とし て'礼服 には束 帯 ・衣冠 ・
とあり'年 の初 め の重要 な儀式 には'服装 に対
豊作) は 「
輿斗 目半袴
○ 正月四日 (
御 用始 め'掃除始 め)
」
直垂 ・狩衣 ・大紋 ・布衣 ・素襖等 の種類が あ り'将 軍 はじ め大名 そ の他
す る凶作 の影響 はな いようであ る。
肩衣 <袴 の上下 、
の武士まで、身分 と行事内容 に応 じて着 用 され て いた。
武士 の通常 の礼服とし ては、①長持 (
長 上 下) -
輿斗 日長袴 (
年 男 ・留 守居組 頭) '常 服半袴 (
御小
姓組 ・御中小姓 '御小姓組頭 ・御 児小姓 頭 ・御中 小姓 頭 のう ち
享保 二年-
肩衣 ・半袴 <裾を足首 ま で の長 さ にし た短 いも の>を 使
色を 異 にしたも の> ・長袴 <引 き ず る よう に長 い袴 >を 使 用 '② 半 袴
(
半上下)-
右 と ほと んど同 じ (
略)
一人'当番 の御 目付)'平服麻 袴 (
掃 除見分 の用人 ・大 目付)
宝暦 二年 (
藩 主在府)-
肩衣 と半袴 の色が 異 な るも の'以上 三種類 で
用'④継祥 (
継上下)あ る。
20、
文政十 1年-
「四日御篇初 に付 '罷 出候御 用人井 大 目付常 服麻
上下」 とあ る。
文政十 一年 は簡略すぎ る右 の記載 だけ であ るが 、享保 二年 と同 じ であ
(
七草 のお祝 い)
ろうと推定す る。 したが って藩 主 の在府 在 国 とも に同 じ よう に思 う。
○正月七日
享保 二年 - 常 服半袴 (
藩 主 の 一族 、家老 ・用人 ・大 目付) 、常
奨斗 目麻袴 (
家老 ・用人) 、常 服麻待 (
大 目付 )
右 と ほと んど同 じ (
略)
服麻袴 (
城中 の諸番人)
宝暦三年文政十 一年I
右 によれは、それぞ れ の年 によ って異な るが 、在府 の享保 二年 '宝磨
三年 が簡略 であ る。
以上'正月 の公式行事 のた めに登城 す る際 の藩 士 の服装 は、慣 例 で は
ぼ定 ま って いた こと は いうまでもな いであ ろうが 、藩 主が 江戸在住 で弘
前城が留守 にあ たる年 は、多少簡略 であ った こと は共通 し て いると いえ
よら
ノ
。
次 に日常 の勤務 に於け る服装 に ついて述 べる。藩 士 は身 分 に応 じ て い
ずれ かの役職 に つき勤 務 したが、毎 月 一日が 月次 (
並) の御 礼 目 であ っ
(
21)
た。
一月並出仕 登城之面 々、己来御 目付 以 上麻 上下着 用 、右 以下裏付 上下
「日記 」宝暦六年 十 一月十 七日 の条 に次 のよう に見 える。
(
具足開き '作事方手斧始 め)
藩 主在国 の文政十 1年 より、前 二者 の方 が簡 略 な服装 であ る。
○正月十 一日
契斗 目半袴 (
御番 頭以 上)
元禄十年常服袴 羽織 (
城中 の諸番 人)
と麻袴 のどちらを着用 しても よいことが知 られ る。
これは月並以上 は麻袴を、それ以下 は継肩衣 (
継袴 と同 じと思われる)
着 用侯様被仰付候間 '此旨向寄 可被 申 触 旨御 目付 江申 達之 '
仕之面 々者是 ま て之通麻上下着用 、右 以下 継 肩衣麻 上下勝 手次第 致
先達而御家中裏方諸 士'式 日 一統麻 上下着 用被仰 付 候得 共 、月並出
覚
(
上略)
「日記 」明和 五年 十 一月 二十九 日 の条 に よれは 、
付袴を着用す べき ことを申 し付 けられ て いる。
そ の中 でも目付以上 は麻待 (
半袴 と同 じと思 われ る)を 、 それ以 下 は裏
致着 用候様被仰付之侯 、右之通惣触 申付 之 、
(
22)
月並 は月例拝謁が でき る御中小姓以 上 の藩 士を さすが 、右 によれは 、
享保 二年-
文政十 l年 - 契斗 目半袴 (
御 番 頭 以 上) '常 服麻待 (
当番 か用
事があ って出仕す る者 )
藩主在 国 の元禄十年 、文政十 1年 は契斗 目半袴 であ り '在府 の享保 二
「
御定之通小袖木綿麻 上下勝 手次第 着之 、契斗 自著
(
月次 の御礼 目)
年 は日常着 る簡略な羽織袴 であ る。
○正月十 五日
享保 二年-
着 不申侯 」とあ る。
宝暦三年 - 常 服半袴 (
出仕 の者 )
文政十 1年- 木綿服麻待 (
月見 以上)但 し、契 斗 目麻待 (
用人
以上) 、常服麻袴 (
大 目付)
5
f
l
さら に 「日記 」文政 八年 三月四日 の条 には'
一今 日大 目付触左之通
覚
御用之儀有之候間 '明後 六日御 目見以 上之 面 々'麻 上下 二而 五半
時 己前 登城被仰付侯 '此旨可被申 触 侯 '以 上 '
三月
大目付中
とあり'目見以上 は麻袴 で登城 す べき ことが命 じられ て いる。
二 ・三 の例を 上げ た にすぎな いが ' 「日記 」 の分析 によ って文政 八午
までは登城 に際 し て麻袴 の着 用例が圧倒的 に多 い。
文政八年 以降幕末 まで の傾向を指摘 す ると次 のよう にな る。
「日記 」文政十年 十 二月 二十 八日 の条 に左 のよう に見 え る。
一今 日大 目付触左之通
覚
一今 日大 目付御 目付御側役江相渡候書 取 左之 通 '
此度御 目付以上継肩衣着用被仰 付 侯 処 '江戸表御 同様 独礼 以下朔
望継肩衣着 用被仰付候間 '演説 いたし置 侯様 '
三月
)
以 下 は 一 ・十 五 日
(24 )
と見 え'拝 謁形式 が 独礼 の老 (
長柄奉 行 以 上 の 老
(
月次御礼 日 か) には継肩衣着用を命 じられ て いる。
さら に 「日記 」天保 六年 三月十 六日 の条 に'
一御家中着服之儀 '以前之通式 日独礼 以 上麻 上下着 用 '平 日御 目付 以
上継 肩衣着用被仰付侯義'去月十 七 日御 目付 触被仰 付之 '
(
傍 点筆 者 )
とあ り' 「日記 」安政 六年 五月 二十 四 日 の条 に は左 のよう に見 え る。
一平 日肩衣着 用之儀 '大寄合以上 二俣得老 '御 家門之 面 々井禄 八 百石
以上之族 '不拘御役肩衣致着 用侯様 被仰 付 候間 '御 自分 共 より夫 々
申 通侯様御 目付江申 達之 '
今後 は御家門 (
藩 主 の 一族)及び役高 八〇〇 石以 上 の老 即 ち家老 ク ラ ス
右 によれば '日常 の勤務 では大寄合格 以上 は肩衣 の着 用 であ ったが '
一平日出仕之 面 々'是 ま て長袴以 上肩衣着 用被仰 付 罷有 候得 共 '格
も肩衣着 用 とな って いる。 したが って'日常 の勤 務 に於 いては文 政 八午
(
中略)
段御省略中此節 より大寄合格以上着用'右以下勝手次第被仰付候 '
以降 は継肩衣 (
継袴)着 用 への傾向が見 られ ると いう こと であ る。
は麻袴 (
半袴) から略装 の継肩衣 (
継袴 )着 用 へと変 化 し てき て いると
(
下略)
右 によれは ' これまで の日常 の勤務 では'長袴 以 上 (
長柄奉 行以 上 の
3
2)
(
継肩衣 のことと思 われ る)を 着 用 し て いたが '今後 は大
役 職 )が肩衣 (
は いえ よう。 それ は津軽藩 の寛 政改革 (
天明 四∼文 政 八年 ) にも かかわ
以上 のことから'対象が御 目見以上 の藩 士 と は いえ' 日常 勤務 の服装
寄合格以上 の者が肩衣を着 用 Ltそれ以 下 の者 は肩衣着 用を 強 制 せず自
らず'藩財政 は次第 に窮乏化 Lt藩 士 の生 活 困難 への傾向 が '服装 の面
にも反映 し っつあ る ことを 示すも のと考 え る。
由とな った。
「日記 」文政十 三年 三月三十 日 の条 には'
22
第 三 に凶作飢隼 の非常事態 に於け る服装 に ついて藩当 局 で はどう対 処
した か、 「日記 」元禄 八年 十月十九日 の条 に左 のよう にあ る。
(
月番家老大道寺隼人宅)
一 於 同 所 御 家 中 之 面 々相詰 、当年 就 不作 於 江戸被仰 渡 候御書 付御右 筆
読之 '右之御書付童通宛大 目付神 源大 夫相渡之 、左 二記之 、
覚
(
25)
寛文元年 六月 二十 一日 に出された十 一箇条 の第 五条 に 「一衣服之事 、
百石 より以上向後絹紬木綿 可着之 、百石 より以下 は可為木綿 、此外 堅悼
止之」 とあ り、役高 一
〇〇 石以上 の藩 士 は衣服材料 とし て絹 ・紬 ・木棉
の三種類 の使用が許 され、 l
OO 石以下 は木綿 のみに限 られ て いる。
「日記 」正徳元年 八月 二十 六日 の条 に次 のよう に見 え る。
一先年 於御 国御家中 一統 二木綿着用任 侠得 共 、其 以後 三 百 石以 上絹布
寛
一衣類之儀 ハ猶来暮迄 ハ一切仕間数侯 、若 不仕 侯 而 不叶儀 茂候 ハハ絹
着用之義勝手次第着用 可仕之 旨被仰 出之 侯 、先達 而紗綾輪 子縮緬之
(
中略)
(
傍 註筆 者 )
絹 ・紬 ・木綿以外認 めな いと いうも のであ る。
不明 であ るが'今年中 は新調 しな いこと' やむを得 な い場合 に は生 地 は
これ は元禄 八年 の凶作 の際 に出され たも ので'具体 的 な服装 の内 容 が
之以下之面 々 ハ於江戸 ニハ格別、於御 国元 二着 用仕侯之事 無 用 二被
御 国 ハ千石以上御側御 用人以上之 外者 堅停 止 '縦有来 侯与 いふ共右
事結構 二仕 、剰小身之侍茂紗綾縮 緬着 用仕侯 '向後 紗綾縮緬之 類 於
類者 、千 石以上六十以上 より着用 可仕 旨被仰 出侯 、然処近年 追 日請
紬木綿之外 ハ仕間数候事 (
下略) '
「日記 」天保 五年 九月 二十九 日 の条 には'
仰付侯 、若者用 いたし侯も の有之 侯 こおゐ ては'御倉 議之 上急度 可
第 二着用可仕侯'下着之儀浅黄を着侯義'大 目付以下 ハ堅停止之事 、
1御 側御用人以下之面 々 ハ三百石以 上 たりと いふ共 、絹紬之 類 勝手吹
被仰 付事 、
1昨年御省略 二付 、凡而御 目見以下之 者 共 '勤所 二而 無袴 勝 手次第被
仰付侯得 とも'去八月以前之 通相 心得 候之 様 被仰 付侯間 '此 旨 可被
申付之 旨、頭 々江申 達之
とあ る。
一御家中之妻子近年 別而 不応分限 に過美 二相 聞侯 、向後 羽 二重絹紬等
(
中略)
には御 目見以下 の者 が袴 を着 用 せず に勤 務 す る ことを 許 さ れ て いた。
可着之 '三百石以下之妻子老木綿着 用 可仕侯 '縦有来 侯与 いふ共 不
右の 「
昨年御省略 」 は天保 四年 の大 凶作 による倹 約を 意 味 し、 そ の時
「去八月以前之 通相心得侯 」によ って、服装 も元 に戻 した ことが知 られ
可用之事 、 (
下略)
これ は衣食住を中 心とした内容 の倹 約令 の 「衣 」 に ついて の部分 であ
るが、天保 五年 は大豊作 にな った からと思 われ る。 こ のよう に断片的 に
知り得 るだけであるが、非常事態 に対応 した藩 士 の行動を推測 でき よう。
る。先年 (い つかは不明)藩 士 一同 に対 し木 綿 の着 用を 命 じたが 、此度
は紗 綾 ・縮緬 等 の着 用 は役 高 一
〇〇〇 石及 び側 用 人 に、網 ・紬等 は三
最後 に寛文期 から幕末期 まで年 代を 追 って、生 地を中 心 に衣服統 制香
考察 す る。
2
3
以上 の事 から役高 により生地 の使用 に区別があ った こと は'藩 士間 に階
木綿 の着用とある のは'三〇〇石以下 の藩 士も木綿着用 と解釈 でき よう。
○○石以上 の者 に認 めるというも のであ る。 また三〇〇 石以下 の妻子 は
日が明確 に知 られる のは右 に示した明和 五年 が最初 であ る。
一統 二木綿着用仕候得 共 」とあ るよう に'正徳 元年 以前 であ るが '年 月
のは、す でに 「日記 」正徳元年 八月 二十 」
ハ日 の条 に 「先年 於御 国御 家中
第 二早で述 べた 「日記 」享和三年 七月十 二日 の条 では'役 高 三〇〇 石
以上'長袴以上 の者 は木綿 の衣服を着 用 Lt羽織袴 等 ほ上等 な品を 用 い
層秩序が存在 した ことを 示すも のと いえ る。
そ の他 「日記 」正徳四年 十 一月 一目 の条 '享保 九年 十 月十 五 日 の条 に
留 ・小倉 で夏 は川越平 ・郡内平など の使 用。 帽 子 は奈良 縞等 より上等 品
ず'桟留 ・川越平等 より良 いも のを使 用 しな い こと。 二〇〇 石以上 '輿
を 用 いな いこと。右以下御 目見以上 は木 綿 '下着 は絹 のみ'袴 は小倉 木
も衣食住を中 心とす る 一連 の倹約令が見 られ る のは'正徳 ∼享保期 の所
「日記」寛延三年 八月四日の条 に 「一衣服之儀 '前 々御定有之候得 共へ
綿'羽織 は並木綿、夏 はな る、べ-麻布 の使用。帽 子 は奈良嶋 等 の類を 用
斗 目以上 (
目見以上) は木綿 '下着 は郡内 絹 へ羽織 は紬 と木綿 '袴 は桟
今般別而倹約被仰出侯付 '≡百石以上之 面 々たり共 '綿 服を 用候儀 不吉
いる こと。 このような内容を中 心とす る詳 細 な規 定 であ るが 、木 綿 が奨
謂正徳 の治 '享保改革 の影響もあ った のではな いかと考 え る。
候'妻子之衣服是 又可為同然候 (
下略)」 とあ り'寛 延 二年 の凶作 に対
(
26一
Lt今年 は大豊作 とな ったが' これま で の藩財 政 の窮 乏 と去年 の凶作 の
励され て いる。
な お付記 してお-が'衣服 は季節 に合 せ て着 用 され て いた のほ いう ま
であ ろう。
るが'す べての藩 士が木綿 の衣服着用を命 じられた のは' 「八戸藩 日記 」
7
2)
(
宝暦五年 九月 二日 の条 に 見 え ' やはり藩 財政 の窮 乏 に直面 し て いた から
八戸港 (
寛文 四年 盛岡藩 より分 立) でも倹約令 はしば しば 出 され て い
統制 は藩 士間 の階層秩序を維持 するた め の対策 であ ったと考 える。
使用 に ついての詳細 な規定も みられる ことが 共通 し て いる。 木綿 の衣 服
に享和三年 七月十 二日 の条 と同 じような '役 (
禄)高等 に応 じた生 地 の
二月 二十 八日 の条等 に見 え、倹約 の徹底化 が は かられ て いる。 また同時
「日記 」文化 四年十 二月十 五日 の条 '同 八年 九月 一目 の条 '文 政十年 十
そ の後す べての藩 士が木綿 の衣服を着用す る ことを命 じられた規定 は'
影響を考慮 して'役高 三○○石以上 の藩 士 に木綿 の着 用を 奨 励 したも の
と思 われる。
「日記 」明和 五年 三月九 日 の条 によれば '
二二二
一御倹約 に 付 御 家 御書付'今 日 一役童入江御家老中御渡被成侯左之通'
覚
一此度厳敷御 倹約被仰出侯 に付 '七 ヶ年 之 間左之 通被 仰付 侯 '
(
中略)
一御家中衣類老 '大身 たりとも 一統 綿 服着 用 '羽織 袴等 茂随分 鹿 服
相用可申事 '
一御家中妻子之衣類茂 五百石以下綿 服相 用 可申 候 ' 五百石以 上茂 綿
服勝手次第 随分鹿服を相用可申事 ' (
下 略)
上級藩 士を含 めて藩 士 一同が木綿 の衣服を 着 用 す る ことを命 じられ た
2
4
(
28)
でもな いが ' 「四季衣服定井 色 々留帳 」 に左 のよう に見 え る。
津軽藩 士 (
法令 に 「
御 家中 」と表現 さ れ て おり ' こ こで は階 層 差 に こ
がな- ' ほと んど不明 と い ってよ いが ' 平 日 ・会 合 ・婚 礼 仏事 '役 人 に
だわらず に論を進 める こと にす る) の食 生 活 に つい ては' 具体 的 な 記 録
1四月朔 日 より五月 四日ま て
着 服式
1五月 五日 より八月晦 日ま て
対す る賄 の場合 に分 け て述 べる。
(
30)
平 日 の食事 では' ﹃
津軽 家御定吉﹄ 寛 文 八年 三 月 二十 二 日 の条 に 「不
袷
一九月九 日 より三月晦 日ま て 綿 入
断之振 舞 には' 一汁 かう のも の共 に三 業 た る へき事 」 とあ り ' 「日記 」
一九月朔 日 より同八 日ま て
一九月朔 日 より五月 四日ま て 夷付 袴
録 に '
える のは'最 も切 り詰 めた時 の食事 と思 わ れ るが ' 一汁 一菜∼ 一汁 三莱
い'黒米 (
玄米) に鏡汁 (
実を いれな い味 噌汁 ) だ け で済 ま し た' と見
両年 とも凶作 ではな か った。宝永期 頃 の記
享保 九年 十 月十 五日 の条 には 「
常 々食 は 1汁 1菜 」 と記 さ れ て いるが '
(
1
3)
飲食 は粗末 な も のを 用
一九月十 日 より三月 晦日 ま て 足 袋
但長袴着 用之節 ハい つ而も相用得 不吉 (
下略)
これ は幕末 に出 され た規定 と いわれ るが '季 節 に よ って着 替 え て いた
ことを 示す 一例 であ ろう。
の規定 は'右 の実 態 とそ んな隔 はな か った であ ろう。
(
32)
八戸藩 の 「八戸藩 日記 」元禄十 五年 三月 十 三 日 の条 にあ る家 中 倹 約令
全 国的 に見 ると大名 に近 い レベ ルの上 級 武 士 と は別 に'中 ・下 級 武 士
朝 は糧食 晩 ハ何 粥 にても為給 '昼食 ハ働 不仕 節 ハ為 給 中 間 敷事 」 と見 え
三 食 に ついて
は米 七分 ・麦 三分 はど の麦飯を食 べて いた。 家 計 は かな り初期 から慢 性
る。 八戸藩 では前者 は元禄十 四年 の凶作 のた め翌年 春 に出 さ れ た倹 約 令
(
34)
による'後者 は凶作年 の倹 約令 による食 事 の規 定 であ り ' 両者 の史 料 に
の中 に 「
食 物朝 ハ何様之糧食 成 とも晩 ハ何 粥 に ても為給 '飯 米延 侯 様 に
(
33J
可致事 」 とあ り'同 日記宝永 四年 十 月 十 七 日 の条 に 「凶年 付御 家 中 下 々
的 な赤字状 態 に陥 入 って いた者 が多 - '切 り詰 めら れ る殻 よ せを 受 け や
つなぐ 工夫が見 られ'後者 では働 かな い時 は昼食 を と らず に朝 夕 の二食
見 える 「
糧 (
根 )食 」と は米 と雑穀 の混食 の こと で' な る べ- 米を 食 い
そ のた め'屋敷 の裏庭を 畑 にす るな ど し て' 副食 品 の自 給 自 足を は か
す いのは食 生活 であ る。
る場合が多 -な って い った。幕末 にな る とさ ら に困窮 さを 増 し'質 入 れ
次 に会 合 ・来 客があ った時 の食事 で は' 「日記 」元禄 五年 十 一月 二十
響 し て 一日 に二食 とな って いる のであ ろう。
で我慢 さ せ て いる。両藩 の同 じ年 の史 料 に よる比較 で はな いが '津軽 領
や壬せ
に対 し'東 風 の強 い南部領 (
盛岡 ・八戸 藩 領 ) の農 業 生 産 力 の低 さが 影
や内 職を し て食 料を得 なければ な らな い者 が 多 - な った。 子 供 の多 い下
級武 士 はさら に大変 で'内 職 に精を 出 し て麦 や粟を 買 い'辛 う じ て 一日
(
29)
一日を糊す る状 態 にな った のであ る。
L
2
5
二汁 五菜不可過候 '勿論嶋台木具等之 類 堅停 止之 '其 外 之祝儀事 出
会之節料 理軽 -二汁三菜 二不可過事 '
一価事之儀分限 二応 し随分軽-可仕 侯 '是 以料 理 一汁 五菜 二不可過之
1日 の条 に 「 (
上略)不寄合 して不叶節 二 両輩 出合候 共 1汁 二葉 二不
(
35)
可過事 」とあり 一汁 二葉 であ る。 そ の他 に宝 永 三年 十 二月 ' 「日記 」正
徳元年 八月 二十 六日 の条'同 四年十 1月 1日 の条 '享保 九年 十 月十 五日
菜 と区別 し て いる。
事'
菜 は 「日記 」元禄 八年 九月 二十八日 の条 '同年 十月十 九 日 の条 '寛 延 ≡
之外為無用事」 とあり' 「日記 」享和 三年 七月十 二日 の条 '文化 四年 十
の条'享和三年 七月十 二日 の条 、文化 四年 十 二月十 五日 の条 '同 八年 九
年 八月 四日 の条 に見 え るだけ であ るが' 元禄 八年 は大 凶作 '寛延 二年 は
(
6
3)
1汁 1菜 は 「日記」天保 二年 四月十 三 日 の条 に 「平 目大
右 によれば '婚礼 の時 は二汁 五菜∼ 二汁 三菜 '仏事 に際 し ては 一汁 五
凶作 であ
月 一日 の条 '文政十年 十 二月 二十 八日 の条 に見 える。 一汁 二葉 ∼ 一汁 一
勢之出会 可為無用侯'惣而膳等差出侯 とも 一汁 一菜 二可限侯 '勿 論 酒肴
二月十 五日 の条 '文政十年 十 二月 二十 八 日 の条 にも'明和 五年 のも のと
(
38)
はば 同文 で 一汁 三菜 と見 える (
宝永三年 十 二月 にも 一汁 三菜 とあ る)0
「日記 」明和 五年 三月九日 の条 に 「 (
上略 )婚姻 仏事 たり共 一汁 三菜
多取陳侯儀老 堅-停止'軽き 一種 二不可過候」 とあ り' そ の他 には 「日
「日記」文化 八年 九月 一日 の条 では 「
御 家中 二而婚姻 仏事 始常 々出会
った 。
記」天保十年 十月十 日 の条 '同十 二年 十 二月 二十 九 日 の条 '嘉 永 六年 十
た のは'藩財政 の窮乏が藩 士 への財政を 圧迫 し て食 事 にも反映 したも の
右 のこと から 一汁 二葉 の場合が多 -'天保 以後 は 一汁 一菜 へ変 ってき
種 '右以下 一統 三種之事 」と見 え'取 肴 に ついて階 層差が あ った ことが
一汁 二葉 とあ るが'そ の次 に 「取肴之儀老 '禄 五百石御役 大 寄 合以 上 五
被仰付侯 (
下略)」 とあり' 「日記」嘉 永 六年 十 二月十 一日 の条 には'
等 迄 一汁 二葉、酒肴菓子 とも右 二準手軽 いた し'数 品取揃 差 出侯儀 無 用
であ ろう。
知 られ る。
(
39)
﹃弘藩 明治 一統 誌月令 雑 報摘要抄﹄ に'文政期 に於 け る四民 の年 越 の
二月十 一日 の条 に見 える。
第三 に婚礼 ・仏事 に際 し ての食事 で は、 ﹃
津軽 家御 定書﹄寛 文 八年 ≡
7
3)
(
饗応 ・嫁要 ・珍客之刻 は' 二汁 五菜 かう のも の共 ・
月二十 二日 の 条 に ' 「
料 理が記され て いる。 四民 とあ る ので藩 士 に限 らな いが '弘前城下 の家
皿-鱈 '鱈 の焼物或 は金頭魚
酒三献 ・肴 二種替 たる盃出候事無用'後 段停止併品 による へし」 とあり'
業 に過 へからす'他所 より之客有之'御 定之饗 応 にて難成候 ハハ'其 冒
平 -氷 豆腐 '茜蕩 '日和 貝或 は帆 立貝
庭 の祝膳 であり'整 理す ると次 のよう にな る。 上流家庭 で は
御 目付 江相断可任差図事 」 と見 え' 「日記 」寛延 三年 八月 四 日 の条 も 二
「日記」正徳四年十 一月 一日 の条 に 「 (
上略)俳事 婚礼之節老 ' 二汁 三
汁 三菜 であ る。 「日記 」正徳元年 八月 二十 六日 の条 に左 のよう にあ る0
汁-氷豆腐
(
ほや」
小 皿-飽或 は生海 鼠'保夜'簾小串
(
上略) 一近年御家中之婚礼 不応分 限結 構 二相 聞候 (
中 略)料 理之儀
2
6
右 によれは 一日 の内 でい つの食事 か不明 であ るが'宿泊 の記事 もな-'
昼食 の献 立 かと思 われ' ま た役人 は身 分 に よ って食 事 が 異 な って いた こ
中 流以下 の家庭 では
皿-大根鱈 に鮭塩引或 は紳
とが知 られ る。
4
に
1あ へ物 取合
1汁
(
下略 )
上 ・下
創文社 )
。
7習
方 香之物鮒
え物鮒
品 之 内 l方 香之物 飯
一管 内 l方 香え物鮒
右同昼
御 目見 以上朝 夕
但 夕計手軽之 林看壱種 二而 酒差 出侯 様
右 同昼
1響
山奉 行 以上朝 夕
但 夕計手軽之 林肴 弐種 二而 酒差 出侯 様
一晋 之物鮒
品 坪鮒 香え物膳之 脇 江添
右 同昼
御 用人以上朝 夕
表 ' 又 々御触 出被仰付 度左 二
歳後 在方難渋今 :立直 不申侯間 '去 ル文 政 十 一子年 御 触 出被 仰付 侯
在滴 々江罷下侯諸 役人賄方之儀 '兼 而被 仰 付 茂 御 座 候 得 共 '近年 凶
(
上略)覚
よう に記 され て いる。
幕末 にな るが' 「日記 」弘化 三年 十 二月 二十 1日 の条 に よれは '左 の
平-人参 '氷 豆腐 '午芳 '鮭塩引 或 は紳
︹
二士
ナ
め一
汁-銀杏 '大根 ' 田作 魚
(
て′
八ご
小 皿- 鱈 の子芹和合 '午薯 の田妖 ' 田作 魚 入 れ黒大 豆
であり'飯 と酒が つ-。年 越 の祝膳 と結 婚 の祝 膳 は異 な る であ ろうが '
一汁 二葉∼ 一汁 三菜 の規定 と実態 は こ の よう なも のであ ろう か。
以 上 のこと から婚礼 ・仏事 の時 に'藩 政中 期 ま で は 二汁 五菜∼ 二汁 ≡
菜 であ ったが '藩 政後半期 以降 は'宝 暦 改 革 に は じま るそ の後 の改 革 に
も かかわらず'藩 財政 の窮 迫 は藩 士 の生 活 を 圧迫 し' 一汁 三 菜∼ 一汁 二
条
葉 へと倹約が 一般化 Lt藩 士 の生活を 追 い詰 め て い った のであ る。
(
40)
八戸藩 では 「八戸藩勘定所日記 」元禄 八年 六月十 一日 の条 に 一汁 三菜 '
(
1
4)
「八戸藩 日記 」宝永 四年 十 月十 七日 の 条 に 一汁 三菜 ' 同 日記 享保 八年 六
(
2
4)
月 二十 九 日 の 条 に婚礼 ・仏事 共 に二汁 三 菜 '同 日記 享 保 九年 十 二月 十 日
(
3)
二汁 三菜 と見 え' 一汁 三菜∼ 二汁 三菜 程 度 で料 理 の具体 的内 容 は
の
盛 岡藩
不明 であ るが '津軽藩 と大差 はな か った よう に思 わ れ る。 これ は盛 岡藩
でも同様 の傾向を指摘 でき る (﹃
藩法集﹄-
最後 に役人が 用事 のた め'弘前城下 から農村 に出 かけ て行 った際 の役
1種
人 に対す る村 の賄 いを見 てみ ょう。
(
44一
寛 文 四年 九月 二十 一日 に次 のよう にあ る。
1肴物
1汁
酒 は 一切 出 し中 間敷
1下部 は塩簸 l種
2
7
候之 問 '御 目見 以 上 二而茂 酒差 出 不申 ' 随 分 手 軽 二取 扱 侯 様 '
但 夕計 膳之 上 二而酒差 出候様 '尤 宿 継 之 儀 老 ' 往来 繁 雑 之 趣 相 聞 待
は玄関 が な- '台所 から出 入す る のが 特 色 であ った。 屋 根 は避 遠 の地 の
身 分 に よる広 狭 の制 限 が あ った こと は 云 う ま でも な い。 下 級 武 士 の住 宅
御 目見以 下 一統 下 部迄 朝 昼 夕 共
晶 三内 妄 飯 香芝物
侯 分老 時 宜 二寄取 扱 候様 '以 上 '
但御 目見以下 一統 下 部迄 酒差 出 不申 侯様 ' 乍 去 其 村 御 用 柄 二而罷 越
三〇 坪
四〇 坪
五〇 坪
同 五〇 石
同1
00 石
同 一五〇 石
高 二〇〇 石
城 下 町 で は'幕 末 ま で茅 葺 ・板葺 ・藁 葺 が 多 か った と思 わ れ る。 こ の よ
(
45一
うな 景観 は程度 の差 こそあ れ ' ど この城 下 でも はば 共 通 し て いた。
(
46)
津 軽 藩 で は寛 政十年 の 「家作 建 坪御 定 」 に よ る と '
この史料 は藩当 局 へ申 請 したも ので' 許 可 さ れ た と は見 え な いが ' お
二五坪
但 皿平共 塩 肴 千着 二限
そら-申請 通 り に承認 さ れ たも のと推 定 す る。 し たが って' 上 役 は 「用
とあ り'役 (
禄) 高 に よる標準 が 示さ れ て いる。 宝 暦期 の 「御 家 中 屋 舗
(
47一
(
響
建家 図」 から作成 した 「諸 士屋敷建 家 坪数 の内 訳 」 (五 八表 ) によれば '
同右 以 下
質素 な食事 であ った ことが知 られ る。 既 述 の会 合 の際 に於 け る食 事 の規
城下 に住 む藩 士 の総屋敷 数 一
〇 六九軒 (総 屋 敷 一 一八 九 軒 よ り ' 不 明 ・
二〇 坪
定 は 一汁 二葉 ∼ 一汁 一菜 であ ったが ' そ の実 態 を 右 の史 料 はあ る程 度 示
明屋 敷 等 1二〇 軒を 除 -) のう ち'建 家 坪数 が 七 1坪 以 上 が 九 1軒 であ
人以 上」 '下 は 「御 目見 以下 一統 下 部 」 とあ る よう に' 出 張 し た役 人 の
し て いる よう に思 われ る。 一万 '農村 に出 向 いた役 人 に対 し ' 農 民 が 辛
軒 で'年 代 が 少 し後 にな るが 「衣
る のに対 し'三 1坪∼ 五〇 坪 が 三 二 1
身 分差 によ って食事 内 容が 異な って いた数 少 な い例 であ るが ' ま った-
心を 加 え ても ら う た めに必要 以 上 の御 馳 走 を し て いた ことも事 実 で' そ
〇〇 石∼ 二〇〇 石取 の者 に該 当 す る。 五 一坪∼
作 建 坪御 定」 に見 え る 一
の柱 二本 の表 示 による中 ・下 級藩 士 の屋 敷 門 はそ の形 と当 時 の格 式 と か
(
49J
ら考 え合 せる と'冠木門 形式 のも のと解 し て お- のが 妥 当 であ る。
根を 有 し て いたも のであ ろう と推察 す る こと は でき る。 し かし ' そ の他
る長屋 付 属 の門 や宅 界 から深 -後 退 し て表 示 さ れ た門 は'少 な - とも 屋
家 図」 の記 入 に お いては記 号 が定 か で はな いが ' 上 級 藩 士 の屋 敷 に見 え
門 の構 造 に ついては記録 はな- 不明 であ る か' 前 出 の 「御 家 中 屋 舗 建
七〇 坪 の 〓 l
六軒を 加 え たTTEl
l
二八軒 が お おむ ね中 級藩 士 であ ろう か。
のような行 為を 禁 じ て いる ことが 「日記 」 に散 見 す る。
以 上述 べた こと から'藩 士が食事 の規 定 通 り に実 行 し た かど う か は不
明な点 が多 - ' 又規 定 と実 際 の食事 と は異 な って いた と し ても ' 断 片 的
な規 定を 通 し て で はあ るが ' かな り質 素 であ った と いえ よう 。
四 住 に ついて
武家 屋敷 には冠木 門 が あ り' そ こが 入 口であ る。 屋 敷 の面 積 と家 屋 は
L
1
8
屋根 に ついては' 「日記 」享保九年 十 月十 五 日 の条 に見 える倹約令 の
では修理'建 て替 えは可能 な限 り我慢 せ よと記 さ れ て い
(51 )
十月十九 日 の 条
るが' おそら-板葺屋根 の上 に土を のせたも ので下 級藩 士 の家屋 であ ろ
「日記 」寛延 二年十 一月 二十 二日 の条 に'
る。 これ は元禄 の凶作 ・飢薩 の非常事 態 に対処 し て'藩 士 に倹 約を命 じ
うか。 「日記」嘉永 二年十 1月二十 四日 の条 にあ る御 目付触 に 「 (
上略)
一作事方破損所有之 '難捨置 場所有之侯 共繕 不被仰付侯 '併外 国屋根
(
大力)
太 へつい等之儀老格 別侯事 '
(
傍 註筆 者 )
中 に' 「(
上略)或 は萱 ふきを用'或 は土屋称を いたす事尤な る へき事 」
為手入高百石 二付'柾五千枚木舞百本之割合を以拝借渡被仰付候 (
下略)」
とあり'破損 し ても修 理を 我慢 せよ'但 し外 囲 いの屋根 や かまど の修 理
たも のであ る。
と見 えるが'柾五千枚 から中 級藩 士 の柾葺 屋根 の家屋を推 定 でき よう0
は認 めると いう内容 であ る。 「日記」翌年 八月 四日 の条 では家 屋 の修 理
とあり'茅 (
萱)葺屋根 のはかに土を のせた屋根 が あ った ことが知 られ
右述 のように建坪'門 の種類'屋根を葺 いた材料 に ついて見 てき たが'
い者 は家老 の指図を受 け るよう にと いう のであ る。 「日記 」同 四年 十 一
とあ り'身分以下 の家屋を建 てる のを 原 則 とす るが 'そ のよう に出来 な
御家老江相窺 可任差圃 二之事 t
と茂'面 々之分限相応 より軽-可任 侠 '御役 儀 二付 軽 -難 成 面 々 ハ
一御家中之居宅分限を越結構 二仕候 '向後 勝 手成績侯 も のたり と いふ
「日記」正徳元年 八月 二十 六日 の条 にあ る倹約令 の中 に'
影響 による倹約令 であ る。
め昨年 の凶作 の影響が まだ残 っている ことが知 られ'両史料 とも凶作 の
は軽-す ませ'目立 つ家屋 は建 てず'無駄 な費 用を かけ るな とあ る。 こ
1て飾 に心を 轟 さ
地震 による倒壊'火災 による焼失等 で修 理 や建 て替 えが行 われ'新 築 も
「
家居 は陣小屋な りと心得 るな と
れ は第 二早で述 べた衣食住を中 心とす る生 活規制 の 一つで'収穫 前 のた
録 に
あ ったはず である。
0
5)
(
宝永期 頃 の記
す丈夫 にして風雨を凌-を 以 て足れり とす るな り 」とあ り'藩 士 は質 素
であるべきだと いう心が まえが述 べられ て いる。
家屋 に ついての規定を はば年代を追 って見 て行 - と' 「日記 」元禄 五
年十 一月 二十 一日 の条 に左 のよう に見 え る。
一御領分 不作 :付被仰渡之御書付 '今 日大 目付於佐藤 源太左衛門 宅 '
夫 々相渡之御書付左 二記之 ' (
中 略)
一家作仕侯共'分限 より軽可仕事 '尤差延侯儀罷成侯 ハハ相延 可申事 '
日
右 によれば'身分 に定 められ ている以下 の家を 建 てる こと。 また今午
修理す る ことを命 じられ て いる。 「日記」 天明 二年 四月 二十九 日 の条 に
十 五日 の条 では'身分以下 の建物 とす る ことを 宗 とLt費 用を かけず に
月 一日 の条 にも身分以下 の家屋を建 て よとあ り' 「日記 」享保 九年 十 月
は不作 のため'建築延期が可能 ならば延期 せ よと いうも のであ る。
ょれは'取 り こわしや修 理 の時 '特 に取 り こわ し の場合 には役柄 不相応
(
下略)
記 」元禄 八年九月 二十 八日 の条 には'家 は建 築 しな いこと。 どう し ても
に大き- こわして いる。す べて何を 出 し指 図を受 け よとあ る。大 き-取
「
建築延期が できなければ'それぞれ の支 配 頭 の指図 によれ と見 える。同
2
9
徳元年 ・同四年 ・享保九年 は豊作 で'天明 二年 四月 は前年 の豊作 により
りこわす のはtより大き-建築する ことが見 られ た から であ ろう か。 正
不相当之願不差出侯様被仰付侯'此旨 可被申触 侯'以上' (
下略)
付候待共'近来相緩 二心待違之族有之侯間'以来支配頭 二吟味之上'
添書を以申出侯族茂有之侯'然老右 等之儀 二付 '先年 茂御触 出被仰
のような願 いを出さな いよう にと いうも のであ る。
同時 に右 のことは'藩 士 の生活困窮 の増大 と深-関連 し ており'
記」嘉永 二年十 一月二十 四日 の条 によると'
御家中之族累年難渋之 処 より'銘 々居宅手 入相成兼候趣 二付 '御暗
「
日
局 の決裁以前 に当時老同士で内談 により取 りき められ て いる。今後 は こ
の家 と町であるべきところ'不相応 でも願 いが出 され'そ の願 いが藩当
右 によれは'藩 士が家屋敷 の譲り受渡 しを行 う際 に'役 (
禄)高 相 応
凶作 の影響 はまだな い。
「日記 」明和三年 l
l
l
月十 1日 の条 に次 のよう に見 える。
一今 日惣触左之通
覚
此度之地震 二付'御家中 町在共大破之 家 々追 々作事有之侯 '此節之
儀故'諸山仙人申付木柄差支無之様被仰付 侯待 共'元来伐轟之諸 山
往 々木柄不足相成'諸人可及難儀侯 '依之 此度 より新規作事繕等応
一今 日御 目付触左之通'
ず農民 ・町人等を対象 としたも ので'木 材も 不足 の折 から'身 分相応 に
合柄 二者侯得共'為手入高 百石 二付 '柾 五千枚木舞 百本之割合を 以
覚
これまでの家屋 の半分 に縮小する気拝 で建築 や修 理を す る よう命 じたも
拝借渡被仰付候 (
下略)
分限是迄之建家半分之 心得 二両可成程手軽作事致侯様 ' (
下略)
(
52)
これは明和三年 一月 二十八日 の大地震 から復 興 のた め'藩 士 のみな ら
のである。
「日記」安政三年十月十 四日 の条 に次 のよう に見 える。
とあり'家屋 の補修すら出来な い状態 に陥 入 っている ことが わ かる。
士に対し身分 に定 められたより以下 の家屋を建 てる か修 理す る よう倹約
か- て'豊作年 ・凶作年 であれ'ま た災害 から の復 興 に際 し ても'藩
を命 じている のは'第 一章 で述 べたよう に'元禄期 からす でに藩財政 の
一作事奉行申出候'御家中家屋敷譲受譲渡之儀 '近年 格 段被仰付御 決
(
マ?)
・ ・・・・・・・
候 二付'寛政十丙年被仰付侯禄定 町割を 以取扱仕 '禄定 不相当之家
「日記 」嘉永 二年 五月二十七日 の条 に次 のよう に記 され て いる。
族茂有之趣 :付'評議之上可中上旨御 演説を 以被仰付 侯 二付 '段 々
屋敷住居不被仰付罷在候'然処差当 相応之家屋敷無之'住居難 渋之
窮乏化が進 んでいたからであ った。
一今 日御 目付触左之通
無之'不待止事当分之内'禄定 二不相叶家屋敷譲受'願出之族茂度 々
評議仕候処'小給之族家屋敷 不足 二両譲渡之節 '差 遣相応之家屋敷
御家中井諸組諸支配共'近来家屋敷譲受渡之儀 及度 々 ニ'殊 二町柄
有之 '其時 々御扱 二相成罷有侯'然 二嘉 永三成年 八月十 七日' 百石
覚
禄定 不相当之願出有之'其上願済無之内 '内談取究手配等致候段'
30
己下 :而茂代 々両組之族者 、百石之 町柄 江当 分之内 住居被仰 付候 旨
被仰付着之侯 二付、右 二随 ひ当分之 内 、禄定 町割 一等宛御 緩之 上 I
左こ
高 五拾 石
俵子 六拾俵
五 年中 行事 と生活
年 中行事 には全国的共通 の行事 と津軽 領内 独特 の行 事 があ り' また前
者 に領内 のカラーが強-加 わ った行事 も見 られ る。
当時 の社会 は士 ・農 ・工 ・商 と身分 階層 の別が あ り、衣食住を はじ め
日常生活 の様式 ・意識 とも に大 きな違 いが あ ったと し ても、城下 の行事
は階層相互 のかかわりで催 され てき た のであ る (
特別 な行事を 除 いて)。
金拾両
右 己上之月並之面 々、差遣相応之 家屋敷 無之節者 、当 分之内 百石之
これら の行事 の中 で法的規制が比較的 多 -見 られ たも のを取 りあげ '藩
士 の生活を考 え てみた い。
‖ 門松
うに見 える。
﹃弘藩 明治 一統 誌月令雑 報 摘要 抄 ﹄ に文 政期 以降 ではあ るが、次 のよ
(54 )
町柄 江住居被仰付侯様 、 (
中略) 点 羽之外申 出之 通 ' (
下略)
(
傍 点筆者 )
右 の史料 に見 える 「
寛政十丙年 被仰 付 候禄定 町割 」 の記事 は、寛 政十
年 の藩 士土着制廃止 により、藩 士が再度 城下 へ居 住す る に際 し て の規定
があ った ことを意味 し、前述 した同年 の 「家作 建 坪御 定 」も そ の規定 の
四民昔 より十 二月廿九日 の朝を 、毎 戸門前 或 は入 口に門松を 建 つる こ
年 頭松飾 の事
か- て右 の史料 から'土着制廃止後 に藩 士 は、元 のよう に城下 の身分
とを期例 とす、国主は作事方 にて城 内門 々或 ハ役 所 々 々の入 口に鳶 の
一つと考 えられる。
相応 の町 に住 めな いケ ー スが現 われ て混乱が続 いており' そ のた め藩 士
四日朝小松を引排 ふ、士族町並町 々も亦 然 り、 小松を 士族 町 は表 門 協
老 出 て松を建 て、正月 四日 の朝粉飾 の引 排 ひ跡 に小松を 建 て'正月十
以上述 べた ことから、次 のことを指 摘 した い。寛 政十年 の藩 士土着 政
賛垣 へ挟み、町方 は小店 の柱 に結付置-なり (
中略)松 は縁 り松なり、
の階層秩序が居住地域 からも崩 れ てき た ことを 示す も のであ る。
策失敗 による藩 士 の城下 への再居住 は' スムーズ に行 われず に藩 士間 の
真竿 は竹を 以 てし、譲葉を添 ふ、 ケ ン垂 は藁 に て組 み たるも の、中 間
(
傍点筆者 )
に裏白 と幣束 と黒炭 と蜜柑を赤白 の水引 に て結 び飾 る (
下略)I
階層秩序を つき崩 して い った。 そして津軽藩 に於 いて成 立 した封建社会
(
53)
の崩壊 へと連動 してい- のは、右 のような藩 士層 内 にも そ の矛盾が存 在
して いたからとも いえるであ ろう。
右 によ って、準備 から取り払うまで の大体 の様子を知 る ことが でき る。
「日記 」安永 三年十 二月 六日 の条 によれば 、左 のよう にあ る。
31
7御 日付触左之通 '
口
盆踊 り
盆行事 では七月 一目が盆 の朔 日'十 三日 は墓参 り' 二十 日 は送 り盆 と
した。盆踊 り は全 国至ると ころに見 られ るが '十 三日 から 二十 日迄 (
十
6
5)
へ
五日∼二十 一日迄 とも いわれる)満 月を はさ んで踊 っ た 。夏 の宵 宮を も
覚
も右之旨相聞候 '以来緑松決而立 不申 候様 家中 寺社方 町方 江茂申 触
含 めて述 べる こと にす る。
年 始飾松之儀 '緑松前 々より停 止之 処 ' 不得 止事 今 以線松 柏 用候 族
候之様被仰付侯 '此旨当番通用可被 申触 候 ' 己上 '
藩 士 ・町人を 対 象 に'盆踊等 の行 事 が 催 さ れ る期 間 中 の心が ま えが
こと'礼儀を かいた行動を慎 しむ こと、喧嘩 の禁 止 '木 戸を 閉 める時 刺
十 二月
右 の二 つの史料'即 ち文政期 以降 と安 永 三年 で は年 代差 はあ るが '級
等 が規定され ている。毎年 のよう に この時 期 に注意 の達 が 出 さ れ て いる
「日記 」元禄 二年 二月十 一日 の条 に見 え'踊 り の服装 が華美 にな らな い
者 に見 える 「
緑松 」は'門前 か入 口に建 てた大 きな門 松を 示すも のと忠
が 「日記 」享保十 三年 七月 六日 の条 に'
御 目付中
われる。 この触 は録松 の停止を '寺社 ・町人を も含 めて徹底 す る よう に
文化九年 十 二月 一目'同十年十 二月 二十 日'文 政十 二年 十 二月十 八 日 の
同じような内容 の触 は 「日記 」安永 八年 十月十 日'同九年十 二月三日'
茂亀甲町≡国産種 四郎前 二而子共持侯 燈寵 切落候 段相聞候 '自今 以級
納涼 なと :而男女打寄侯場所江罷越 '徒威儀 共有之 様 二相 聞候 '先 日
御家中 二男 三男 二俣哉 ' 又も の候哉 '若 者 共神事 控等有之 場所 '或 ハ
覚
各条 に見え'す べて凶作年 ではな い。逆 に緑松を建 てている のは 「日記」
左様之事致侯老有之侯 ハハ'押置致 吟味 候様 二申付 置 侯間 '人 々此旨
と いうも のであ る。
文政 四年 一月 四日 の条 には' 「
作事奉 行申 出侯 '御 城 郭 廻井其 外所 々御
急度相 心得 夫 々可申通候 ' (
下略)
らが知 られる。
とあ り'藩 士 の二 ・三男が 刀を振 りまわ し'子供 の燈寵を 切 り落 し た徒
松餌 不残 只今 引 納候 旨 達之 」とあ り ' 一月 四 日 の取 り はず し であ る。
「日記 」天保 六年 十 二月 二十 七日 の条 では' 六日 に取 り はず し て いる こ
(
55)
とが知 られ' この年 は凶作 であ った。
「日記」寛延 四年 七月十 日 の条 によれは '
〓別々申触候通 '盆中 例年之通町 々 二而 踊侯老 '大小差 候儀 堅無 用申
したが って緑松を建 てた こと はあ ったが 'そ の停 止 は' 凶作 に よる経
費節約 だけ にそ の理由を求 めるわけ に は行 かず '慢 性化 した藩 財政 の蘇
付侯 '右之適中付候上 不相用老有 之 候老 '大 小押取 詮議之 上早速申
と見 え'藩 士 に対 し刀を 腰 に差 したまま桶 に加 わ る ことを 禁 じ て いる。
出俣様 ' 町奉行 江急度申付侯 ' (
下略)
乏 により'藩 士 に対す る倹約令 の 一環 と し て出 され た規制 と考 え た い0
但 し'同 じ城下 に住 む寺社 ・町人 は'藩 士と は別 な ので緑松を 建 てて
よいと いうわけ にも行 かず'同様 に規制 され たも のであ ろう。
3
2
津軽藩 士 に対 する文武 の奨励 は'第 三代 藩 主信義 の時 に出 さ れ た寛 永
(
58)
十 一年 の法度 の第 二粂 「一文武両道 の学 問 可 心掛儀 '尤 に侯事 。附 '弓
それ は喧嘩 となり'刃傷沙汰 に及 ぶ のを 防 ぐ意 味 が あ ったと思 われ る。
「日記 」天保 二年 七月三日 の条 に左 のよう にあ る。
馬'太 刀'鎗'鉄砲 の技芸'習練之事 」 に見 え る のを 最初 とLt藩 主 の
一今 日大 目付触左之通 '
中 で 「日記」文化十年 四月 一日 の条 に次 のよう に見 え る。
また必要 に応 じ て'幕末迄 に出され て いる のは枚挙 に暇が な い。 そ の
家督相続 か初 入国 の時 に'藩 士 への法度 と し て示され て いる。
一今 日御 目付触左之通
覚
(
壮)
近年 盆踊井処 々夜宮 江荘年 之婦人 多 罷出侯 由 '以来 婦人之儀老 '商
傍註筆者)
人之外夜分参詣井盆桶等江決而罷出 不申候様 (
下略) ' (
右 によれば '女 は町人 の女以外 に盆 踊 り や宵 (
夜)宮 参 り に出 る こと
御家中之面 々武芸之儀、前以被仰付茂有之処'近来何 とな-相緩 、
\
覚
あ ろうが'幕末 に至り'解放的な踊 り の場 に於 いてさ え藩 士 と町人を 区
武芸之志薄 -、花著之風俗 二相成 ' (
中 略)当時老 松前御 固御 用等
を禁 じて いる。 それ は城下 の風紀 の乱 れ の矯 正を 一層強 -求 めたも ので
別 して身分秩序をあ- までも維持 せんとす る方法 の 一つでもあ ったと考
口達
1今 日師範家江 口達左之通'
(
上略)
さら に 「日記」文政 五年 閏正月 五日 の条 に よれは '
文武之芸術無間断修行致候 様被 仰 出之 候 ' (
下 略)
置候処'間もな-右肺遊惰 二移候儀 '甚 以 不埼之事 二俣 '依之 以来
茂被仰付候得老 '猶以武芸相励候様 先達 而師範家之 面 々江も被仰 付
日常生活
える。
六
本章 では日常生活全般 に亙 って法的 規制を 述 べる ことを 目的 と せず 、
日常生活 のい- つかの場面 に於 いて法 的規 制が 比較 的多 -見 られ たも の
を取 り上げ'藩 士 の生活 と社会 と の関 りを 考察 し て いき た い。
文武之芸術常 々致出情侯様 '先年 より度 々被 仰 出茂有 之 処 '師範 方
之内平 目教授方怠惰 に而'門弟稽 古励 合茂 無之 '既 二倍 古茂 相 止候
勤務
日常 の勤務 は藩主在国 の時 と江戸在 府 の場合 で は違 いが あ り' また香
程之族茂有之趣相聞得 '甚 以心得 違之 至 二俣 間 '以来取 締 門弟教 撹
‖
方 と役方 によ っても異な っている事 は いう ま でも な い。 勤 務時 間 は午前
致侯様被仰付候 '
とあ る。
閏 正月
十時出勤 の午後三時退出程度 で長時間勤務 ではな いが'非番 の時 に武芸 ・
学問等 の修業を怠 らな か ったとすれば '結 構何 かと忙 し い日常 であ った
(
57)
と思われる。
3
3
鍛練 に精を 出す よう にと いうも のであ る。後 者 は師範 家 の中 でさ えも忠
武 の鍛練を怠 り'華美 の風俗 に馴 み'質 実 剛健 さを 失 い つ つあ る ので'
前者 の史料 によれば '蝦夷地出兵等 の時期 にも かかわ らず '藩 士が文
六月十九 日 の条 には次 のよう に記 され て いる。
一日 の条 '弘化 三年 正月十 五日 の条等 にも見 え'特 に 「日記 」安 政 六午
寛政十 二年 七月十 日 の条 '享和 二年 十 二月 二十 三 日 の条 '文化 五年 五月
取 り縮れと いう申付 である。 「遅刻す るな 」と いう内容 のも のは 「日記 」
一今 日御 目付触左之 通'
惰 な者が見 られ る ので'弟子を 叱吃激励 し て梧 古 に励 めと いう 口達 であ
る。
惣而登城之節遅刻之族有之 二付 '例刻 より早 メ出仕之儀 度 々被仰 付
覚
御 目見以上 の登城時刻 は 「日記」文化 二年 三月 三 日 の条 に 「 (
上略)古
猶 又登城之節無故 不参之 族間 々有 之 旨相 聞待 甚 心得 違 二付 '以来右
右 と共通す る ことは'藩 士 の役方 におけ る勤番 に際 し ても見 られ る0
来之通四 ツ時以前 出仕相揃候処 に而 (
下 略)」 とあ り'午前十時 以前 で
(
59)
あ る。退出時間 は 「日記 」文政十 三年 十 二月 四日 の条 に' それぞ れ の役
肺 之儀無之様被仰付侯旨 可被申触 候 '以 上 '
六月十 七日
候待共'兎角致遅刻心得違 二付'以来御定 刻限 より早 メ致出仕候様 '
人 に対 し 「 (
上略) 三月 より九月迄九半時 致 退 出侯様 '十 月 より 二月 迄
八時致退出候様 (
下略)」 と見 え'三月∼九月 ま でほ午後 一時 '十 月∼
これ は遅刻防止を 呼 び かけ ても'依 然 とし て遅刻者 が絶 えず '無 断欠
勤す る老 さえ出 る ほど にな った ことに対 す る御 目付蝕 であ り'幕末 に及
翌年 二月 ま でほ午後 二時 であ る。退出時 間 が 一時 間 異 な る のほ'季節 に
ょる日照時間を考慮 したた めであ ろう か。 し たが って勤 務時 間 は' 一般
んでの規律 の乱 れが極度 に達 した ことを 指 摘 でき る であ ろう。
は後述す る よう に'藩財政 の窮 乏 にとも な い'藩 士 の中 で生 活 困窮 に よ
かになり'質実 剛健 さを失 い つつあ った ことを 如 実 に示 し て いる。 それ
以上 のことから'藩 士は長 い泰平 の世 が続 いた た め'武芸 の梧 古 が顔
に午前十時頃 から午後 二時頃までであ り'全 国 の藩 と同程度 と見 てよい。
勤務状況 に ついては' 「日記 」安永 三年 四月十 三 日 の条 に左 のよう に
あ る。
一勘定奉行 江申付候老 '
ろう。勤番 に際 し ても遅刻 や無断欠勤 が出 る ほど の規 律 の乱 れ は'武芸
り武具を質屋 に入れ'捨古 も出来 な い者 が 出 てき た ことと深 い関 りがあ
近年役方之老日 々出勤時刻茂不埼有之 '御用向取扱兎角 翌日江持込'
の捨古 の実態 と相侯 って藩体制 の弛緩 が '封建 軍 団 と し て社会 の秩序杏
覚
(
中略)自然与混雑 二相成'万事 間 違等 茂度 々有之 段相 聞待 不屈之
維持 できな い状態 までにな っていた ことを 示す も のの 一つと考 え る ので
あ る。
至候' (
中略)急度御締方相 立候様 ' (
下 略)
これ は出勤時刻が遅 いので'そ の日 の仕事 が滞 って翌 日 に残 され る こ
とが多-なり'事 務上 の間違 いも出 てき ており'遅 刻 しな いよう厳 重 に
3
4
凶作以後 に藩財政 の窮乏化がすす み'藩 士 に対 し て生活 緊縮 が求 められ
元禄期 には幕府 の財政窮 乏が始 まり'津軽 藩 に於 いても元禄 八年 の大
日 生活 の困難
藩 士 の救済方法 の 一端が知 られる。
を来秋 に給禄 から差 し引- と いうも のであ る。質 屋 の借金 返済 に苦 しむ
により'質 入れした品物を 本人 に返却す る。但 し'質 屋 に払 う べき代 金
L に来 る ことが できな いで いる。 そ のた め藩 士 の支 配頭 と三奉 行 の相読
「日記 」天明六年 五月十 七日 の条 に左 のよう に見 える。
た ことは第 二早で述 べたと ころであ り'藩 士 の生活 規 制 に関 す る主要 な
法令 に ついても考察 した。そ のほかにも藩 では幕 末 ま で次 々と倹 約令杏
一今 日御 目付向寄触左之 通'
覚
出して著惨 の風潮を おさえ'質実 剛健 の気 風を 失 わな いよう に つと めた
のは当然 のことであ った。 し かし'藩 士 の生活 困窮 は幕末 に近 づ- と共
にます ます甚 し-な った のであり'それを 城 下 の質 屋 と の関係 から述 べ
御家中之 面 々右質屋共呼寄無林之 申 懸専 有之 '甚 及迷惑侯 趣 粗相 聞
町 々取質之老 共'前 々より限月 より有之 質取引 致 侯所 '右 限月相防
二二・)
侯迄受返し不申'尚 又利上等も不致差置侯分 '質屋共流 :入侯待 ハ'
「日記 」元禄 八年 六月十九日 の条 に 「質座作 法御 定之事 」 が見 え'質
侯 '限月相済 流 二人侯儀 ハ'町家取 引之 事 に侯 間 '右 肺無鉢之 儀 無
てみた い。
保管 の期 限 は衣類等が八 カ月 に対 し' 刀 ・脇差 し ・諸道 具等 は十 二 カ月
之様 二此旨向寄 可被申触侯 '以上
(
上略)
また 「日記」天保 五年 六月 五日 の条 に次 のよう に記 され て いる。
め質 流れ にし ようとす る質 屋を脅 すな と いう'藩 士 に対す る蝕 であ る0
右 によれば'藩 士が質保管 の期 限が き ても取 り出 し に来 な い。 そ のた
御 目付中
五月十 七日
であ った。それが原則 であ ったと思 われ る。
藩 士が生活 の苦 しさ から質屋を利用 し'両者 間 に問題 が多 -生 じ てく
るのは天明期以後 であり'それは天明 ・天保 の大 凶作 とも関係があ ろう。
「日記 」天明三年十 一月三日 の条 に次 のよう にあ る。
一今 日大目付触左之通 '
覚
御家中 二而'当春 より質 入冬分衣 類 '此節自 分手 繰之 姿茂 相見 得 不
覚
置質流之儀 '是迄十 三 ケ月限流 し侯御 定 二俣得 共 '昨年 連作 二付 当午
申侯 二付 ' 只今支配頭 二而吟味之 上引受 '三奉 行取 扱 二而品物 相 近
シ'来秋 二至'右 品物代料元利質屋 共損 分 二不相 成 侯様 ニ'御 家中
柄 一統 不融通難渋之趣相聞待侯 二付 '質 品十 八 ケ月過侯分計 流侯様 '
通之 場合質屋共取質之手続相成兼 '小者 共食 料手 配等 :難 渋 可致趣 ニ
当 二月御触 出被仰付侯 '然処受質之 も の無之 '追 々置質 計相嵩 ' 不融
渡方 より代料引落取扱侯之様被仰付 候間 '此旨 可被申 触 侯 '以 上 '
(
下略)
右 によれは ' この春 に冬用 の衣類を 質 入れ したが ' まだそれを 取 り出
3
5
相聞得慎 二付 '当 二月中迄 二而十三 ケ月 :相 成 侯分 計 流質 二被仰 付 侯 '
持 参 金 つき の町人 の子を 養 子 に迎 え た相 続 の実 態 は'津 軽 藩 に於 い て成
藩 士が こ のよう な生 活 困窮 から脱 却 す る た め に'禁 止 さ れ て いても '
津 軽藩 士 に対 し て'第 一に主要 な生 活 規 制 は'所 謂 「藩 士 への法 度 」
し た い。
以 上 '本稿 で明 ら か にし た ことを ま と め' 若 干 の補 足 を 述 べ て結 び と
む す び
と は' ま さ に連 動 し て いる と考 え る の であ る。
6
0)
(
た。 この相続 の実 態 と'藩 士が質 屋を 利 用 せざ る得 な- な った生 活 困窮
立 し た封 建 社会 を 崩 壊 に導 -要 困 の 一つにな った と筆 者 はす で に指 摘 し
尤御 家 中 勤 務 二相 拘 侯 品 相 断侯 分老 ' 十 八 ケ月 迄 老 流 不申 侯 様 申 付 侯
間 '流侯 而難 相 成 品老 '早 速 断置 侯 様 '右 之 通質 流 被 仰 付 侯 上 老 '質
屋共 一統取 質 無差支 融 通致 侯 様被 仰 付 侯 問 ' 此 旨 可被 申 触 侯 ' 以 上 '
六月
御 目付中
質 保 管 の期 限 は これ ま で十 三 カ月 (
前 掲 元 禄 八年 六 月 で は八∼十 二 カ
月) であ ったが'昨年 の大 凶作 の影響 に より十 八 カ月 に のは し たと ころ'
質 入れす る老 ば かり で取 り出 す老 が な - '質 屋 の営 業 に支 障 が 出 る よう
にな った。 そ のた め再 び期 限を 十 三 カ月 に戻 す こと にす る。 但 し藩 士 の
勤 務 にかかわ る品 (
武 具 '衣 服等 か) は十 八 カ月 の期 限 とす る と いう も
す る規 制 は'藩 財 政 の窮 乏 に よる藩 士 に対 す る倹 約 令 ' ま た藩 政 改 革 の
と し て'藩 主 の家 督 相続 か初 入国 の時 に出 さ れ た。 特 に衣 食 住 を 中 心 と
「日記 」天保 七年 六月 二 目 の条 で は'期 限 はさ ら に のび ' こ の年 ま で
一環 と し て の倹 約 令 と し て出 さ れ たも の であ る。 同 時 に身 分 秩 序 の維 持
のであ る。
二十 カ月 にな って いた ことが知 られるが ' ま た十 三 カ月 に戻 す こと とな っ
の徹底 を は か ったも のであ った。
第 三 の食 に ついて の規 制 は'倹 約令 と し ても っと も 切 り詰 め やす いも
士間 の階 層 秩序を 維 持 す る こと と'倹 約 の観 点 から のも のであ った。
第 二以 下 は第 一の各 説 にあ た るが '第 二 の衣 服 に つい て の規 制 は'港
た。但 し藩 士 の勤 務 に か かわ る品物 は'質 屋 に届 出 て手 続 を す る と流 れ
な いよう に取 り扱 う と いう御 目付 触 が 出 て おり ' 二十 カ月 の期 限 は ま だ
有効 であ った のであ ろう。
以上 のこと から'藩 で は藩 士 の生 活 困 窮 を 救 う べ- ' い ろ いろ対 策 を
ち武 具等 の質 流 れを 防 ぐ こと は万全 で はな か った のであ る。 流 れ ず とも
よう両者を 立 てる方 策 はな かな か困難 で' 藩 士 の勤 務 に か かわ る品 ' 那
政改 革 の藩 士土着 政策失 敗後 '藩 士が 元 の よう に城 下 の身 分 相 応 のと こ
であ った のは' これも倹 約 の観 点 から であ る。 特 に指 摘 し た い のは'寛
第 四 に住 の規 制 は'身 分 に よ って定 めら れ た 以 下 の家 屋 の建 築 が 原 則
のであ ったと いえ よう。
質 入れ の状 態 では武芸 の稽 古 に差 し っかえ ' 自 ら質 実 剛 健 の気 風 は失 わ
ろ へ住 めな いケ ー スが現 わ れ '藩 士間 の階 層 秩 序 が 侍 屋 敷 からも 崩 れ て
考 え努力 した のであ った。 藩 士 の救 済 と質 屋 の営 業 に支 障 を 来 た さ な い
れ て行 - のは やむを 得 な か った であ ろう 。
3
6
(
-)八木橋文庫蔵。筆写本 全 〓 一
冊。永 禄 元年 ∼天明 七年 迄 の津
註
第 五 の年中行事 に於 け る門松 (
緑松 ) に対 す る規制 は倹約 の観 点 から
軽 の出来事を編年 式 に書き綴 ったも の。 「弘前藩 庁 日記」 (
国日
い った ことであ る。
であり'盆踊 りに ついて の規制 は風紀 と治安 の乱 れを 防 ぐ た めであ ると
記) にな い記事 も見 え'また国 日記 より詳 し い記事 もあ る。編者
と思 われ る。
は津軽藩 士三橋氏 と推測されるが藩 の日記役 とも関 係 が あ った か
同時 に'身分秩序維持 のた めでもあ った。
第 六 に日常生活 に対す る規制 は'第 五ま で の規制 と性格を 異 にし て い
る。即ち文武 の鍛練 の怠 りを防ぐ た め の規制 '遅 刻 ・無断 欠勤 に対 す る
(
-)市立弘前図書館蔵。筆写本
一冊。楠美 大素 の文 政 九年 ∼弘化
一冊。文化 元年 ∼文政 四年 。
規制 '生活困窮 で武具等を質 入れ せざ るを得 な か った藩 士救済 のた め の
(
-)市立弘前 図書館蔵。筆写本 六冊。享保 二〇年∼元文 五年 。
(
-)市立弘前図書館蔵。筆写本
法令 であ る。
か- て藩 士 に対 し て出された生活規 制 は'階 級社会 に於 いて藩 士 の身
(
-)藩政初期 の史料が欠如 し ており'藩 の公式 の日記 が書 かれ る の
五年 迄 の自分留。
階層秩序を まも る ことと'倹約を求 めて出 され た 二点 に大 別 でき よう0
は寛文 元年 以降 である。 したが って本稿 では寛 文期 以後を 対 象 と
分秩序を維持す るた めのも のであ る こと は いう ま でも な いが '藩 士間 の
し かし'幕末 に近づ- と共 に藩 士 の勤 務 の規律 も大 き-乱 れ '藩体 制
(
-) ﹃津軽歴代記類﹄ 上 八四頁。拙 稿 「津軽信義 制定 の寛 永十 一
す る。
られるのであ る。 また生活困窮 に陥入 る者 が多 -な り'持参金 つき の町
年法度 ﹃五箇粂﹄ に ついて」 (「弘前大学国史研究 」第 六十 言方)
を維持す る支配階級 の組織 とし ての官 僚制 が崩壊 に瀕 し て いる ことが知
人 の養子を迎えると いう相続 の実態 とも連動 して'藩体制 の弛緩が進 み'
を参照
一九八 一年 )
(
-)蝦名庸 一 「津軽信政時代 におけ る法令 の整備 」 (「弘前大学 国
学出版会
(
-)・(
-) 国立史料館蔵 「津軽家 文書」。 ﹃津軽家御定吉 ﹄ (東衷大
藩 士が封建 軍団として社会 の秩序を維 持 できな い状 態 にま でな って いた
ことを認 めざ るを得 な いのであ る。
最後 に'藩 士 の生活 は農民 ・町人 の生活 と異 な ると し ても比較 す る必
要がある。特 に同 じ城下 に住む町人 と は年 中 行事 や日常 生活 に於 いて杏
(10) 「弘前藩庁 日記 」 (市立弘前 図書 館蔵 )。 な お' これ には 「国
史研究」第 二十 三号)
令 より見 たる津軽藩 の町人 の生活 」 で述 べた方 が より効 果的 であ ると考
日記 」と 「江戸 日記 」 の二種類 あ り'本稿 では前 者を さす も のと
接な関 わりをも っている ことであ る。 それ に ついては'別稿 予定 の 「法
え、敢 え て割愛 したと ころもあ り'参 照 し て いただけ れば幸 いであ る0
し'以後 の引用 に際 し ては 「日記 一と表現 す る。 この正徳元年 八
3
7
「津軽編 覧
月 二十 六日 の条 に ついては、第 二 ・三 ・四章 に引 用 し てあ る。
「要 記秘鑑 」第 十 二
「
御定法編年 録」 「御 定 法古格 」上 (
以上 、市 立 弘
(‖) 「
御用格」 (
寛政本)第 五
日記 」巻 五
前 図書館蔵)
(12)・(13)・(14)詳細 に ついては拙稿 「津軽 信 義制定 の寛 永十 一年
一九八二年 )
1九 八 1年 ) 1三 六 - 1
法度 ﹃五箇粂﹄ に ついて」 (「弘前 大学 国史 研究 」第 六十 三号)
を参照
(15)註 (
-)
・(
-)参照
(16) ﹃
津軽家御定吉﹄ (
東京大学 出版会
三七頁
(
17)弘前大学国史研究会編 ﹃
津軽史事 典﹄ (
名著出版
一五〇∼ 一五三頁。安永 六年 の分 は ﹃弘前 市 史﹄ 藩 政編 (
弘前市
一九 六三年 ) の年表 によ った。
一九 八
(18)藤 川澄子 「久留米藩 の衣服規 制」 (「大 阪大 学 経済学 」第 三 五
巻第 四号)
(19)武士生活研究全編 ﹃
絵できぐる武 士 の生活Ⅰ﹄ (
柏書 房
一九八〇年 ) 一三頁
は
1九 六六年 ) 1六 l- 1六三頁。進 士慶 幹編 ﹃江戸時代武
鹿島 研究所 出
二年) 三八∼四九頁。河鰭 実英 ﹃き も の文化 史﹄ (
版会
士 の生活﹄ (
雄山閣
)
一九 六三年 ) 六八 六頁 の年 中行事
(20)正月 一日 ・四日 ・七日 ・十 一日 ・十 五日 の下 に つ- (
﹃弘前市史﹄藩政編 (
弘前市
表 による。
(21)前掲 ﹃弘前市史﹄ 六八六∼六八九 頁 の年 中行事 表 による。
右
近世-
(八戸市
写本 市立弘前図書館 ・国立史料館蔵 )
(
22)工藤主善 ﹃
旧藩官制﹄ (
同
(23)同 右
( 24 )
(25)註 (
-)参照
(26)註 (17) ﹃
津軽 史事 典﹄ 1五三頁
(27) 八戸市史編 さ ん委員全編 ﹃
八戸市 史﹄ 史料編
1九七七年 ) 五四四頁
(28)市立弘前 図書館蔵。 この史料 には年 代 が 記 され て いな いが 、
﹃日本食生活史﹄ (
吉川 弘文館
一九 六四年 ) 二四 一∼
「弘前図書館郷土資料 目録」 には嘉 永 元年 と見 え る。
(29 )渡 辺実
一八九 八年 ) 二九 八
二四二頁。武 士生活研究会 ﹃絵図でき-る武 士 の生活Ⅱ﹄ (
柏書 房
一九八二年 ) 五六∼五七頁
(
30)註 (16) に同じ。七五頁
(31)菊池元衛編 ﹃
津軽信政公事績﹄ (
非売 品
近世-
近世-
四五頁
三 五七頁
頁。 この書 は津軽 四代藩 主信政 の時 代 の史 料集 と いう べき も ので
あ る。
前掲 ﹃八戸市史﹄ (一九七〇年 )史 料編
( 32 )
(33)同右 ﹃八戸市史﹄ (一九七 二年 ) 史料編
(34) 凶作年 に ついては盛 田稔 ﹃
農 民 の生 活 史﹄ (
青森 県 図書館 協会
一九七二年 ) 一四三∼ 一四五頁 の凶作年 表 による。
(35)前掲 ﹃津軽信政公事績﹄ 四八頁
(36)註 (34) の凶作年表 '前掲 ﹃
津軽 史事 典﹄ 一五〇∼ 一五三頁 に
よ った。
3
8
(37)註 (30) に同 じ。
(38)註 (35) に同 じ。
二
ハ頁
(52) ﹃
津軽歴代記類﹄上 (戴ち の- 双書
一五∼二
第 七集
一九 五九年 ) 二
月 にわたる年 中行事 の主なも のの記 録を中 心 と し て'文 政度 から
藩 士内藤官 八郎。現存 す る唯 一の写本を復 刻 し たも ので'十 二 カ
た相続 の実態 は'津軽藩 に於 いて成 立 し た封建社会 を崩 壊 に導 -
は身分制を つき崩 す発端 とな り'藩 士が農 民 や町人 の養 子を 迎 え
地域史 の研究﹄名著出版
(53)拙稿 「津軽藩 士 の相続 に ついて の考察 」 (
長 谷 川成 一編 ﹃
北奥
明治維新前後 に及 ぶさまざ まな事 物 の変遷 '新 し い事物 の起 源 '
要因 の 一つにな った。 と指摘 した こと と同 じ方 向 への動 き と考 え
(39)青森県 立図書館郷 土双書第 七集 (一九 七五年 ) 。著者 は旧津軽
世相 の移 り変 り等 に ついて'多少 の批判を交 え つ つ記述 したも の
る。
一九 八八年 ) に於 いて'藩 士土着 政策
であ る。
の凶作年 表 '前掲 ﹃
津軽 史事 典﹄ 一五 六頁 に よる。
(54)註 (39) に同 じ。
註
( 45 )
二 二五頁
よると いう。
-) に同 じ。
(60)註 (
(
青 森 県 立弘前 中央高 等 学校教 諭)
(59)前掲 ﹃
津軽史事典﹄ 三四六∼三 四 七頁 。 日常生 活 は不定時 法 に
-) に同 じ。
(58) 註 (
( 57 )
(56)前掲 ﹃弘前市史﹄ 六九 五∼六九 八頁
( 34 )
(40)註 (32)九 六頁
二九 九頁
(55)註
近 世-
一九 六五年 )
(41)註 (33) 四五頁
四三四頁
山川 出 版 社
(42)前掲 ﹃八戸市史﹄ (一九七四年 ) 史料編
(43)同右
﹃
生活史﹄- (
体系 日本史叢書 16
前掲 ﹃
津軽信政公事績﹄ 六頁
)
(44 )
( 45
〇∼ 一三三頁
二二
前掲 ﹃
弘前市史﹄ 七 一
〇∼七 二 頁
( 46 )
(47)市 立弘前図書館蔵。全十 二冊
一九 七九年 ) 四 二二頁
一九 七 七年 ) 四六頁 <草 野和 夫 氏
伝統的建造物群保存地区保存調査報告書﹄
(48)佐藤 巧 ﹃
近世武士住宅﹄ (
叢 文社
(49 ) ﹃
弘前 の町並 (
武家屋敷)-
(
弘前市 ・弘前市教育委員会
執筆 >
(50)註 (31) に同 じ。
(51)前掲第 一章参照
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9