会報 筑紫 第147号

薙
(093)293-4244
卒
TEL・ FAX
福 岡 4-23260
振替
1993年 10月 15日
男
正
奥 野
十 月 例 会
十月 二十 四日 ︵日曜 日︶
小郡市 の遺跡
西鉄大牟 田線 ・津古駅前午
前十時出発
見学 コー ス 津古 ・内畑遺跡︱津古
1∼ 3号古墳︱生掛古墳 ・三
国 の鼻︱ 号墳 ︵
消滅跡 地 ︶︱
種畜場内古増T青通ぜゼ ンター
= 三沢 ・大保間電車利 用=大
保、御勢大霊石神社︱大埼 ・
媛社神社 .
ツせ が いれいtき
,
十 一月 例 会
日 時 十 一月 二十 一日 ︵日曜 日︶
集合地 西鉄久留米 駅 バ スセ ンター
午前十時西鉄 バ ス利 用 ︵
草
野経由 ・三明寺下車 ︶
見学 コー ス
富本古墳群︱善院古墳群︱寺
徳古墳︱益生 田古墳群︱大塚
古墳︱石垣観音寺
演
︶
︵カ
△〓 場 博多駅土地区画整 理記念会
館 ・三階会議室
奥野正男
講
神奈備
野
正
男
﹁
神奈備山祭 祀と古墳 の選地﹂
参加費 会員 五〇〇 円
会員外 千 円
奥
ると いうかたち で語 られ ている。ま
た、神話伝承だ け ではなく、東北 ア
ジ アの諸民族 の宗教的 風俗 にいまも
実例
広 く残 され ているも のである。
∧ モ ンゴ ルのオポ、東北 ツング ー
ており、地上界 で生活し ている人間
人間界を支配する神は天上界 に宿 っ
本 の弥生時代 の鳥 形木製品、 ツン
姓 ︵チ ャンス ン ・ソ ツテ ィ︶、 日
図 1︶朝鮮 の長
ス系種族 の天柱 ︵
集団 の先祖霊 や死 んだ人間 の霊魂も
の活躍や天界 から地上界 に降 り てく
世界 にも伝 えられ、高天原 での神 々
﹃
古事記﹄﹃日本書 記﹄ の伝 え る神話
に運ばれ ると いう死後 の世界観 は、
を つとめ る。霊魂が鳥 によ って天界
マンは鳥 の姿を し て霊界 と の媒介役
のため神と人間 の精神 にかかわるシャ
のは鳥 であ ると考 えられ ていた。 そ
き女 、東北地方 の現代 の葬式 ︵N
の数方庭 、韓 国 o日本 の葬式と泣
つける鳥 、山 口県 ・忌宮神社祭礼
鳥 、韓国 ・江華島 の民家 の屋根 に
対馬 の葬 屋 ︵モガ リ ヤ︶ に つけ る
酸 の天道信 仰 の ﹁
キ土 ︵そと と、
馬韓条 の蘇塗 ︵そと ︶、 対 馬 ・豆
﹃
古事記﹄ の天若 日子 ︵ア メ ノ ヮ
カ ヒ コ︶ の葬儀 、野警Ё ・韓伝 ・
の神 の世界と地上 の人間界とを結 ぶ
天界 にいくと考 えられ ていた。天上
グ ー ス系¨
アメリカイ ンデ ィア ン酋
長 の鳥 の毛 で飾 った衣 装 な ど 、
し ている。
なか に生 じた最も古 い宇宙観 に根ざ
日本だけ でなく東北 アジ ア諸民族 の
神霊が天界 に宿 ると いう観念 は、
、神霊͡
一
祖霊︶の宿る場所。天界
山信仰 と
祖霊祭 祀
ン
ナ
ビ」
一^
︱ ハ■ ↓ ´
.
1. ^
十 二月 例 会 ・講 演 会
れな め
一 ︶ ﹄
11-
マ
霊曼量
日 時 十 二月十九 日 ︵日曜 日︶
午後 一時∼ 三時半
ら
じ tク 端 ち
(1
口
万
ヨ
筑紫古代文化研究会
第 147
摯
譲
福岡県遠賀郡遠賀町浅木
東和苑 6-4(〒 811-43)
発行先
レ11■ 11
,1 ■1「 たち
第 147号
紫
筑
古代文化研究会会報
9″
一
t ﹁一
i一
HK 軍ヨの墓標﹂ で紹介 された葬
儀︶など∨
山
祖霊︶の宿る場所・
二、神霊 ︵
天上から垂下 ・降臨 し て
神霊が ︵
き て︶山 に宿 ると いう考 えに基づき、
´ ′
一 ゝ 一
.
起 源 ・宗教的意義 に ついては異
仏 ︶ の間
音 ︵
音楽 ︶は、人間と神 ︵
を と り むす ぶ媒 介 物 であ った 。 音
︵
音楽 ︶は人が神 ︵仏 ︶ に奉 上 す る
も のとし て古墳時代 に継 承され た。
現代 の神社 o寺院 など で鐘 ・鈴など
を鳴 らす のも そ のような宗教的儀礼
が継 承 され ているから にほかならな
い。目 にみえな い金属音 が神 と人 の
古学 はど のような意義を み いだし て
重要な こと は弥生社会 が 三∼ 四百
論 も多 い。分布上、複数 の祭 器
を 用 いる地域 、矛ある いは鐸 だ
の 人 けを用 いる地域 など複数 の祭 祀
D
、
ゝ
っ
り
ヵ
ぉ 押 開蒻 けぁ¨ バ 糠 ¨﹄げ 馘 嘲
銅
祭
て o
ズ
、
っ
立 い ニ から 祭祀の仕方 にも違 いがあ
世界 の媒介を果 たし ている この慣習
は疑 いな く弥生時代 にでき ていたも
、
節﹄ノ
。な金属音によって神を呼び迎え
て”る力を持つ
と信じられていたの
樹つ
岬瞳<ではないか。
いるかと いう こと であ ろう。結論だ
のであ る。 しかし弥生時代 の祭 祀用
。
ヵ審 断 ﹃は健 [跡熱議は、 協 ﹄
の し
”帥 時代 の葬送儀礼 でも棺 の内 外 に
ド魂 武
器を副葬す る。現代 の葬 儀 で
も棺 に刃物を そえる。 これ は武
けを述 べると、 この宗教的営為 には
証なrたという論議もあるが、わたし
シ
ら
の
、
F
ぇ
ヵ
棒
︼
輌
い
み
ァ
一
考
一
軽
一
]
¨
け
一
南
酵
ヴ
住
と
レ
の
ヽ
ノ
う考 えが継 承され ているも のであ ろ
器類が悪霊を打ち払 う力があ ると い
しまうと いうえ営為 にた いし て、考
の終 わり のあ る時期 に地下を埋め て
年間 にわた って多大 な労力を費 やし
て青銅 による祭 器 の制作を続 け、 そ
具とし て両者 に基本的 な性格 の違 い
はなか ったも のと思 われ る。
ど のような関 係をも っている のだ ろ
そ の形態上 の分 類 、起源、分布など
した農耕的 な祭 祀 用具 であ るとし、
な金 属音 が神霊を人間界 に呼び寄せ、
出す道具 であり、銅鐸が発す る清澄
銅鐸 に ついては これが本来 、音を
冶 ・冶金 にま つわ る伝承がともなう
のは このため であ る。
ば ならな い。始祖的 な王 の伝承 に鍛
マニズ ムが存在 し ていたと見なけれ
畏怖を根底 にした、鍛冶 ・冶金 シ ャ
世界的 に共通す る金 属器 にた いす る
が研究 され て来 ている。 これらは朝
神 と人間界を媒介す る力があ ると信
じられ ていた のではな いだ ろうか。
。
︶
いノ
うか。考古学 では これから の青銅製
あ
鮮半島 に起源を もち、九州北部 ︵
祭器を弥生時代 の農耕社会を基盤と
弥生時代 の銅剣 ・銅矛 ・銅鐸など
また これ ら の青 銅製祭 器 は、神を
︶
原始 ・未開社会 の宗教的儀礼 では、
の青銅製祭器 は、以上述 べてきた古
代 の字宙観 、神観念 、他界観 などと
︶
る いは近畿 ︶ で祭器化 し、列島各地
へ広が ったと理解され ている。分類 ・
三、銅鐸・
銅剣o銅矛などの
埋納の宗教的意義
各地 に多 い神体山 の伝 承∨
九州 の高千穂 ・大和 の三輪山 など
の壇君神話、 日本 2A孫隆臨神話、
図 2︶朝鮮
島 の摩尼山 ・望城檀 ︵
、 チ ベ ット ・サ ニ族 の西
きざん︶
山、高句麓 の長白山 、韓 国 ・江華
∧中国 の神仙思想 、歴代皇帝 によ
る泰山 での封禅 、鮮卑 の赤山 ︵せ
実例
日本だけではなく アジ ア全体 に広が っ
ている。
そ のような山を聖地 ・霊山 と し、そ
こに神霊 ・祖霊を祀る宗教的風俗も、
紫
筑
第 147号
し ろ︶とされ た。すな わち青銅製祭
自体が物神性を与 えられ、銅鏡が そ
う であるよう に、神 霊 の依代 ︵より
共同体成員 にた いする軍事的動員権 ・
に属し ていた土地 ・生産物を はじめ
した新 たな首長が、か つては共同体
で戦乱を戦 い抜 いて、支配地 を拡大
後 の新 し い社会 の支 配者が古 い社会
の祭 祀を必要としなくな った のであ
る。青銅製祭器 の埋納 は、列島各地
そ の場所 に葬 られた ︵
隠 された︶ の
を参加 させた丁重な祀りを行 った後、
集められ、古 い神 々を祀 ってきた人々
古 い神 々は、新 し い支配者 のもと に
て政治的 ・宗教的 な死を宣告 された
意味 し ている。新 し い支配者 によ っ
う宗教的営為と は、古 い神 々 の死を
天童地 に付随す る ﹁シゲ地 ﹂ ︵
多く
いたと考 える ことが でき る。対馬 の
の茂 った森 なども神奈備と呼ばれ て
呼子鳥﹂ ︵
万葉 8 11419︶
と いう歌 から考 え ると、平地 の木
︶
器 は、共同体 の神 そ のも のと し て取
り扱われ た のではな いだ ろうか。
懲罰権 ・租税徴収権 などあらゆる権
が社 の森 であ る︶がその好例 である。
銅鐸 や武器形祭 器 が、あ る場合 は
︶
畿
また銅鐸 の埋納 は、 はたし て ﹁
利 や人的組織を自 ら の手中 に収め、
であ った。
とく にこれを否定 す る根拠 はな い。
内勢力を守 る シ ンボ ルとな って、敵
これを独占す ると いう事態 が各地 で
はな いだろうか。
対す る勢力 と の境界付 近 で相手を呪
始 ま った こと に起因す るとわたし は
祀 る道具 であ るが、同時 にこの祭器
い倒す のに用 いる﹂ ︵春 成 秀 爾 ︶ と
考 える。
山 の斜面 に、またあ る場合 には平地
﹁神奈備 の伊波瀬 の社 ︵
も り︶ の
す わけ でもな い。
またそ の場所が地 形上 、山 だけをさ
いうような性格 があ ったのかどうか、
とから考 えると、農耕 を主 な生業と
移動 ︶し ている こ
広 い地域 に分散 ︵
が各地 の拠点集落 で行 われ、製品が
青銅製祭器 の制作 ︵
鋳型出土地 ︶
数が古墳造営 に駆 り立 てられ る祖霊
体 の祭 りは終 わりを告げ 、 そ の大多
時代 のムラムラで行われ て来 た共同
墳時代 が開始 された。かくし て弥生
なか で弥生時代 は終 わりを告げ 、古
このような首長が各地 に出現す る
宿 る山を さすも のと考 える人が多 い。
氏 の祖霊 ︶が
奈備山 は、ふ つう神 ︵
G広辞苑︶ と解 釈 され て いる。 神
や森② 神 が なば る ︵隠 れ る ︶ 山 ﹂
①神が天から降 り てく る山
学的 に ﹁
神奈備 ︵カ ンナビ︶山 と は、国 語
に考 える視点 が考古学 にな いため で
岩座 ︵いわくら︶だ ったと いうよう
とか、あ る いは神 の依 り代 とし ての
時木 々 の茂 った森 ︵
神域 ︶ であ った
器自体が神 であ り、埋 め た場所が当
せな いでいる。 そ の理由 は、 この祭
に埋め られ ていて、考 古学 ではなぜ
す る小地域共同体 の祭 器 であ ると い
祭祀 の時代 が始 ま った。 そ の時 、弥
あ ろう。
域 に適合す るも のでなければならな
い。
武器形および銅鐸を含 め た全分布地
ある。おそらく大地域 の政治支 配を
確立した 〃
ヤ マト政権 の祭器〃 など
と いうも のではなか った であ ろう。
この青銅製祭器が埋められた理由は、
二度と地上 に姿を現さなか った のは、
段とし て丁重 な儀礼ととも に埋収 さ
れた のであ る。 それ以後 、 この神 が
の規制 のもと に、人心を収攪す る手
取 って代 わられ 、か つての小共同体
の神 全目銅製祭 器 ︶は、新 し い首長
祭器を祀 った場所と考 えたとしても、
神奈備と いわれ る場所を 、青 鋼製
う証拠 があ るわけ でもな い。
生時代 には使われ ていな か ったと い
人 は少な い。しかし神奈備 ︵
カ ンナ
ビ︶ の語義 はやまと言葉 であ り、弥
などと呼 んだ のではな いだ ろうか。
れば ﹁
神丘 ︵カ ミオカと ﹁
神山 ︵カ
ミヤ マと ﹁
神奈備 ︵カ ンナビ︶山﹂
神を葬 った ︵
隠 した ︶場所が山 であ
・神奈備 ︵
カ ンナビ︶などと呼び、
た場所を ﹁
神庭 ︵カ ニハ oカ ンバと
弥生時代 そ のよう にし て神を祀 っ
埋められた理由 は弥生時代後期 の
埋納行為 そ のも のが新し い支 配者 で
あ る首長 によ って執 行されたため で
の神祭 り にま で湖 らせる考 えをす る
倭国 の大乱を ひと つの危機 とし てい
る。戦乱 による隠匿 ではなく、大乱
そ こに埋め たかと いう理由を見 いだ
う ことを改め て強 調し ておく必要が
生的な小共同体 の祭 祀 は祖霊祭 祀 に
同時 に、とく に理由 はなく弥生時代
四、カンナビ山は青銅製祭器の
埋納地に関係がないか
青銅製祭器を地下 に埋納す ると い
わたし には疑間 であ る。
第 147号
紫
筑
0)
以下 にあげ る銅鐸 の出 土地 は、上
︱´
︱
一ヽ一
´
︱
④島 根県簸 川 郡簸 川
があり、 そ の延長上 に式内 ・鏡
の日の出 ︶上 に巻向 ・石塚 古 墳
0度線 ︵
烈﹁
至
そ の頂上から北 西 3
① 三輪山 の頂上 に式内 ・日向神社、
の日の出 であ り、 この ﹁免木 ﹂
が淡路島 にさす のは、夏至 の日
とあ る。高安山 から の朝 日 の影
に当 たれば、高安山 を越 えき﹂
に当 たれば淡路島 に及び、夕 日
町 神 庭 ・荒 神 谷
︵銅 鐸 6個 、 中 細
作坐天照御魂神社 があ る。 頂 上
線 ・南北線も重視 され た。
銅矛 2 ●中広銅矛
0度線 ︵
から西南 3
夏 全の日の出︶
上 に式内 ・大神神社 があ る。
式 内 社 の佐 太 神 社
あ り。
4本、中細銅剣 3
︲
5 8本 ︶ ﹃出 雲 国
そ の頂上から真西 に式内 ・多
神社があ る。 ︵大 和 岩 雄 ﹃天 照
に上 る冬至 の日 の日 の出線 は山
0度 の線 で、 そ の
頂から西北 に3
延長線 は難波宮 のなかにあ った。
鎮座地 ﹁
摂津 国 ・克餓野﹂ に行
き当 たる。 この社 の巫女 は ﹃延
式内 ・坐摩 ︵いかす り︶神 社 の
︵ぬ て︶ 比 古 ・鐸 比 売 神社 は江
喜式﹄ に ﹁大和 の都下 ︵つげ ︶
② 大 阪 府 柏 原 市 大 県 の式 内 ・鐸
戸時代 ま で高 尾山 ︵277 m︶
地を ﹁
高神 さ ん﹂ ﹁奥 の院 ﹂ と
山 頂 に鎮座 し ていた。山頂 の社
大神と前方後円墳 の謎し
と いう地名が太 陽祭 祀 にか かわ
りがあ る ことがわか る。高 安山
風土記﹄甘南備山
北東。
⑤兵庫県豊 岡市気比
︵
け ひ ・銅鐸 4個︶
近 く に式内 ・気比
神社あり。
⑥ 愛知県渥 美 郡 田原
③大 阪府高石市取石 の式内 ・等 乃
られ る巨石 があ る。現在 の社 地
は、山頂から西南 0度 の線 ︵夏
3
至 の日の出 ︶上 にあ る。 ︵
同︶
トガ ノ ・ッゲなどと呼ばれ て い
付 けた﹂と書かれ、トキ ・トガ ・
所を ﹁
迎 日県 または都祈野 と名
延烏郎伝承 では、天を祀 った場
町神戸
國造 の童女を出す﹂ ことが 決 め
卜は闘鶏 ・
られ ている。大´
和の都一
都祁 ・都祈 とも書 かれ太 陽祭 祀
に関 わ る地 名 で あ る 。 朝 鮮 の
木 ︵
と のき ︶神社 は、中臣 系 の
る土地 は太陽祭 祀 の場所だ った
呼ば れ、岩座 ︵いわくら ︶ と 見
殿来氏 の祖神 を祀 る。現在 の地
④古 墳と の関係 は、等 乃木神社 か
︵
銅鐸 3個 ︶
名 の コ昌木 ︵と のき と や社 名
ら真南 の延長線上 に この地 域 最
4
︶
甘
南
備山 の三
銅鐸 2
個
岩山 ︵
卜面あ 北麓、山頂 の宣︵
山に式内 ・
三上神社あり。
⑦愛知県額 田郡額 田町宮崎
五、神体山と前期古墳の選地
免木 ︵と
の等 乃来 は、古 くは ﹁
き ︶だ った 。 ﹃古 事 記 ﹄ 仁 徳 天
︵
銅鐸 2個 ︶
③愛知県春 日井市神領
古 の和泉 ・黄金塚古墳 があり、
︶
き樹あ りき。 そ の樹 の影 、 朝 日
︶
一
れ、そ の最初 の祭 祀地 や古墳 の東西
ことが分 かる のであ る。︵
同︶
﹃三国遺 事 ﹄ の太 陽 祭 祀を す る
② 共庫県神戸市桜 ケ丘 ・神丘 ︵銅
古墳 ︵
祖霊︶と古杜 ︵
祭 祀場 ︶ の
皇条 に ﹁
免木 河 の西 に 一つの高
朝 日山 ︶ の山麓 、山 頂 の真東 に
︵
銅鐸 2個 ︶
鐸4
1個︶
③島根県 八東郡鹿島 町志 谷奥 ︵銅
至 の日の出 ・日 の入 り線上 に求 めら
立地 は神体山を起点 にした冬至と夏
①滋賀県野洲郡野洲 町小篠 原 ・大
現
国風上 記﹄秋鹿郡 の神名火 ︵
記 のような推測を喚起 す る地名 では
韓 国 。江 華 島 の 摩 尼 山 山 頂 に あ る望 城 壇
壇 君 が 天 を 祭 つた 祭 壇 と伝 え られ て い る 。
下 方 が 円形 で 、上 方 が 方 形 で あ る 。
鐸2個、中細 形 銅 剣 6 ︶ ﹃出 雲
な いだろうか。
第 147号
第 147号
紫
筑
(5)
この古墳と式内 ・大鳥神社 を 結
0
ぶ線を基準 にし て、右 回り に3
0度 の角度 で信太 丘陵 の古
度 、9
墳が立地 し ている。
⑤滋賀県最古 の古富波山前方後 古
墳と周辺 の前期古墳 は三上 山 北
方 の山頂上 から の冬 至 の日 の出
線上 にあ る。
⑥岐阜県 ・眉山頂上 にあ る鎧塚 古
墳 は百 々ケ峯頂上から の冬 至 日
神籠 石
壬ュ ニ L
︵
系山城
Zつ。
攻 に備えて急速、築造したも のであ
﹃日本書紀﹄ に記載 の山城も、唐 ・
新 羅連合 軍 の進入 コー スに沿 って、
対 馬 ・太宰府周辺 ・瀬戸内沿岸 ・大
比す ると、山城 とし て前者 の軍事的
天智政権が想定 した唐 ・新羅連合軍
系 山城 の有 明海を中心とする分布は、
一方、神籠石
和 に配置 され ている。
優位性 は明白 であ る。後者 の軍事的
の進 入 コー スと全 く重 ならな い。当
時 の戦略 とし て唐 ・新 羅連合 軍が有
この山城 は い つ、だれが、何 のた
価値 は無 に等 し い。同 一時期 で同 一
の戦略 ・軍事目的 から造 られた山城
る場合 、戦略的 な選地条件 が満 たさ
め に築造 した のか。
築造年代 に ついては近年 、遺構 か
ら出上 した須恵器などを根拠 に七世
にこのような構造上 ・立地上 の差異
がうまれ る こと はあ り得な いこと で
坂尻 1号墳と龍門寺 1号墳 ︵と
れれば、古 い山城遺構 に補修を加え
器が残 され る ことも考慮 しなければ
再利 用す る可能性 もあり、後代 の土
系山 城 に見 られ る低丘陵上 の立地 、
新 し い時期 のも のと言 える。神籠石
朝鮮 半島 の山城 の場合 でも明らか に
わたしは、六世紀前半代 に大和 の
それ では神籠石系山城 は い つ、だ
れが造 った のか。
︵
尾関章ほか ﹃
美濃 の前期古墳5。
ならな い。 そ の意味 で神籠石系山城
持 し た い。また、神籠石系山城 の源
勢力 と対峙 した筑紫君 ・磐井 の築城
と された森貞次郎 ・坪井清足説を支
⑦福 岡県小郡市 ・朝倉郡 の境 界 上
の上器 はまだ未 発見と言 う べき であ
ス7つ。
で確実 に造時時期を決定 しう る状態
出線上 に、 この地方 最古 の津 古
生掛古墳 ・津古 l o2号墳 ・三
のうえ で大 きな違 いがあ る ことも、
の山城 は、神籠石系山城と そ の構造
智期 の山城 は、朝鮮 三国 の百済 と緊
海 を中心 に分布 し ている こと は見過
ごす こと のでき な い問題 であ る。天
にも深くかかわ っていると言えよう。
国家 の成立時期が い つかと いう問題
てく る。また これ は、わが国 の統 一
す る李進 熙 ・金達寿説 とも関連が出
流 が百済 ・伽耶地域 にあ る ことを考
両者を同時期 と見な せな い理由 の 一
つである。大 野城 ・基難城 など のよ
密 な政治的 関係を も っていた当時 の
全 国的 な統 一国家出 現 の前段階 であ
また、大 野城 ・基難城など天智期
③福岡県行橋市 ・豊津 町 の境 界 上
う に高 い山 の頂部 に鉢巻状 の土塁 ・
大和政権 が、百済 の滅亡後も百済残
国 の鼻 1号墳 が並 ぶ。
にあ る。八景山 ︵
磐座 ︶ への冬
石塁を廻らせた山城 の立地と佐賀県 ・
存勢力を 国内 に受 け入れ、白村江 で
る五∼六世紀、九 州北部 や吉備など
⑨福岡県苅田町 の石塚山古墳 は東
方海上 にあ る神 ノ島 ︵こう のし
ま︶南方 の海上 から昇 る夏 至 の
日の出線上 にあ る。
慮 す ると 、 渡 来 系 集 団 の ﹁逃 げ 城
︵
戦時 に住民ぐ るみ で籠 もる城 こ と
至 日の出線上 に惣社古墳 、 惣 社
お つぼ山神籠石 のよう に低丘陵上 に
の大敗 の後 は、唐 ・新羅連合 軍 の進
神社が並 ぶ。
造 られた神籠石系山 城 の立地 とを対
さら に山城を築 く戦略的意義を考
慮す るな らば 、神籠石系山城 が有 明
にあ る城山頂上から の冬至 日 の
れ る長大 な石垣 を築造す る技術 は、
あ る。大 野城 の百間石垣 など に見ら
紀代 に大和政権 による築造説が有力
であ る。しかし巨大 な山城 を構築す
も に三角縁神獣鏡を出す前 期 古
の出線上 にあ る。ま た、付 近 の
男
明海 からだけ進入し てくるも のとし
て、 この地域 だけ に古式構造 の山城
を造 ったと いう可能性は極めて薄 い、
とわ たし は考 え ている。
正
一列だけ の列石 、 そ の 一個ず つに丁
寧 な加 工を加 え る築城法 は前者 に比
し て古式 で非実戦的と いえよう。
墳 ︶も冬至 日の出線上 にあ る。
に
奥 つ
野 い
て
俗)
の地域王権 が朝鮮式 の山城を構築 し
ていたとす るわ たし の考 えは、 この
時期 、九州 はまだ大和と異質 の文化
をも っていたと いう認識 に基 づ いて
いる。九州北部 では五世紀代 から首
長墓 に百済 ・伽耶地域 の渡来集団が
も たらした横穴式石室墓 が採 用され
て中小古墳 にま で普及すると同時 に、
六世紀代 からは九州北部∼中部 に石
室内を壁画 で飾 る装飾古墳が普及し、
さら に古墳 の外表 に阿蘇凝灰岩製 の
言えな いし、今後 の調査 に待 つと こ
一
ろが多 いと は言 え、横 穴式石室 や神
源流を見極 め る こと はまだ十分と は
形成 し ている。 こうし た古墳文化 の
石人 o石馬を飾 るなど、近畿地方と
はかなり異質 な、独自 の古墳文化を
紫
た のではな いだ ろうか。
戦時 の際 に用 いる山城 が造 られ てい
うな地域王権 の支配領域 にそれぞれ
受 けた九 州北部 の場合 も、磐井 のよ
かりとな っている。 そ の影響を強 く
ト的存在が地域王権を裏付 ける手掛
耶地域 では三宮 ・王墓 ・山城 のセ ッ
ろ であ る。 五∼ 六世紀代 の百済 ・伽
籠石系山城 の源流が百済 ・伽耶地域
にあ る こと はす でに異論 のな いと こ
筑
第 147号
代と規定す る縄文時代 とす る こと は
適切 ではな く、水稲農耕を表徴す る
弥生時代と し、 そ の時期を弥生時代
早期 ︵
弥生早期 ︶とす べき であ ると
の説が現 れ てきました。
現在 、弥生時代 の始期を い つから
とす るか、縄文 と弥生 の時代区分を
分け る指標 は何 かなどと 、各先生方
のなか で論争 が続 いています。
別表 に掲げ た ﹁
時代区分一
市の蒟諷﹂
は、福 岡大学助教授武末 純 一氏が 一
九九 〇年 に発表 され た ﹁近年 の時代
区分論 議∼特 に弥生時代 の開始を中
心 に∼﹂ の論説 ︵
注① ︶ に引 用され
た、各先生方 の意見を集約 したも の
です。
夜 臼式期を弥生時代 とす る説 に疑
間を持 たれ る方 の意見 は、夜臼式期
の各遺跡 から の遺構 や遺物 の出土状
況が 、弥生時代 のも のと比較す ると
部分的 で欠 け るも のもあり、か つま
生方 が正式 に発表 され るとき は、従
来 通 り、夜臼式期 は縄文時代晩期と
た普遍的 でな く、経済基盤 や社会構
造 の変化 ま で至 っていな いと のよう
です。
更 に、 日本考古学会 では、 これら
に ついて統 一見解がな いため、各先
具が つぎ つぎと発見 され、 この地方
では、夜 臼式期 に水稲農耕が行われ
ていた ことが証明 されました。
いう こと にな っている のではな いか
と思 います。
︶
これ ら の経緯 から、考古学者 の中
では、夜 臼式 の時代を狩猟採集 の時
多 目など の遺跡 で、水 田や炭化米或
いは籾痕土器と共 に、水稲農耕 に伴
うと され る大陸系磨製石器類や農耕
晩期後 半 ま で遡 ることが判りました。
そ の後 、北部九 州 の玄海灘沿岸部
では、唐津市 の宇木汲 田、糸島郡 二
丈 町 の曲 り田、福 岡市内 の板付 、野
集を主とす る時代 、弥生時代 は水稲
農耕を生 活基盤 とした時代 であ ると
考 え てき ました。
昭和 五十 五︶唐津市
一九 八〇年 ︵
菜畑遺跡 の夜臼式土器層 から水 田が
検出 され 、水稲農耕時代が縄文時代
従来 、私達 は、縄文時代 は狩猟採
二、水稲農耕遺跡の発見
︵
本 稿 では、山 ノ寺式 と夜臼式を
合 わ せ て夜臼式 とし ています︶
太 田
夜 臼式 期︶ の 使 用 を /
弥生 早期 ︵
、 夜 臼式期 の時代 は
一
最近、那珂、雀 居 ︵さ さ い︶、 江
辻 の遺跡 から、夜 臼式期 の遺構 や遺
物 の発見が新聞紙上 に報ざれたおり、
そ の時代 に ついては、考古学 の先生
方 の言とし て、縄 文晩期 、縄文晩期
紀元
末 、縄文晩期終末 ︵いづれも ﹁
前 四世紀﹂と注 入 り︶と説 明され て
います。
また、 このほか に考古学 の論説な
ど では、刻 目突帯 文期 、初期弥生文
弥
化形成期 、或 いは弥生時代 早期 ︵
一体 ど
生 早期 ︶など の表現 もあ り、
れが本当 のも のな のか混乱 させられ
ます。
更 に、夜臼式土 器 は、縄文晩期後
半 の時期と され ている のですが 、山
ノ寺式上器 の後 に続 く説 と、山 ノ寺
式土器と は地域差 によ るも ので同 一
時期 であ り、縄文 晩期中頃 の黒川式
土器 に続き 、晩期 後半初頭から現れ
る土器 であ ると の説 があ ります。
︶
︵
新
第 147号
三、新しい遺跡の発掘
今年 の二月福岡市内外 の二箇所 か
ら、夜臼式期 の注目す べき遺跡 が発
見され、か つまた、昨年福 岡市博多
区 の那珂遺跡 から夜臼式期 の二重 環
濠が発見され、狩猟採集 の縄文 と水
稲農耕 の弥生 の時代区分 に ついて、
新 たな論争を巻き起 こそうとし てい
ます。
︿
雀居遺跡﹀
そ の 一つは、福 岡市博多区 にあ る
福岡空港内 の西側 に位 置す る雀 居遺
跡 です。初期水 田 で有名な板付遺跡
の北方 一、八キ ロと、板付遺跡 と同
じ生活圏と考 えられ る場所 にあ りま
す。
この雀居遺跡 の夜 臼式単 純期 の大
溝から、刻目突帯文 ︵
夜臼式︶土器、
黒色磨 研土器、丹塗磨研土器と共 に、
大陸系 の磨製石器 ︵
柱状片 刃石斧 、
偏平片 刃石斧 、大型蛤 刃石斧 、磨製
、ほぼ完 形 の木 製 農 耕 具
石鏃など︶
︵
平鍬、鋤、諸手鍬 、 エブ リな ど ︶
や脱穀 用 の竪杵などが出土 し ていま
す。また、今回 の調査 は空港内 の3
0002
πと いう限られ た範囲 の調査
であ り、 この東側 にも遺構が、西側
には水 田が予想 され る地形 であ ると
いう。
この雀居遺跡が重要視 され ている
紫
筑
(7)
︶
のは、今 ま で夜臼式期 の遺跡 では見
当 たらなか った弥生 初期 の平鍬や鋤
及び竪杵など の農 具 が セ ットで出土
した こと で、弥生時代 と同様 な水稲
農耕 が行われ ていた ことを裏付 ける
も のであ ると言 われ ています。
︿江辻遺跡﹀
更 にもう 一つは、粕 屋 町 の九 州縦
貫自動車道福 岡 イ ンター の南側 で発
見 された江辻遺跡 です。ここからは、
朝鮮中西部 の農耕集落 で有名 な松菊
里遺跡と同様 の、円形竪穴住居跡七
戸が中央 の広場を取 り囲む よう に配
置され、そ の広場 には円形竪穴住居
跡 二戸と高床式倉庫跡 と みられ る柱
穴 五棟分があ り、夜 臼式期 では初め
てであ り、我 が国 で最古 の典型的な
農耕集落と言 われ て います。
なお、 こ の江辻遺 跡 から は水 田は
発見 されま せん でし たが、籾痕土器
や大陸系磨製 石器 ︵
石包 丁、快入片
刃石斧、磨製石 鏃 ︶が出土し、最下
層からはイネ のプ ラ ントオパー ルも
検出 され、稲 作が確認されています。
以上 の那珂 、雀居 、江辻遺跡 の夜
臼式期 の遺構 や遺物 は、弥生時代初
期 の遺構 、遺物 と同 じも のであり、
今 ま で調査発掘 した菜 畑始 め各地 の
夜 臼式遺跡 では未発 見 のも のを補う
も のであ ると言われ ています。
昨今 のような広範 囲 の調査が困難
な現状 では、完全な遺構遺物 が揃う
︶
ような遺跡 はなかなか発 見す る こと
は難し いと思われ ます。従 って各遺
跡を総合 し て判 断す る こと になりま
す が、 この時代確実 に水稲農耕を経
済基盤と した社会構造が醸成 され つ
つあ ったと考 えられます。
四、縄文と弥生の時代区分に
ついての考察
前述 のよう に、最近北部九州 では
夜臼式期 に水稲農耕 が行われ た こと
を 示す遺跡 が各地 で発見 され ていま
す が、他 の地方 では未発見 であり、
全 国的 から見れば単 に弥生時代と称
す るには時 期尚 早かとも思 います。
しかしなが ら、水稲農耕社会が存在
した こと も争 えません。
社会構造 面 から時代区分を考 えま
すと、縄文 時代 のあ る時期 から 一挙
に弥生時代 に変 わ ると いう こと では
なく、あ る 一定期 間 に徐 々に変化し
たと考 えられます。
唐津市教育委員会 の中島直幸氏は、
菜畑遺跡 から出土 した土器 の変化を
調査 され 、次 のよう に述 べられ てい
ます。
﹁
新来 の稲作文化 と伝統的縄文文化
︵
狩猟 ・採集中 心 ︶ と の相 互補 完 関
係 は、大 きく い って弥生時代中期 ま
で及ぶ。 これを土器文化と の対応 で
考 えると、①伝統的縄文文化と伝統
的縄文土器、②不安定な水稲文化 +
畑作と凸帯文土器、③安定的な水稲
文化と弥生式土器 の二 つに分けられ
よう。
縄文時代晩期 の中頃ま では① の縄
文土器 のみ。まだ稲作は始ま ってい
な い。
晩期後半 にな ると① が 四に対 し②
の凸帯文土器が 一とな り、不安定 な
稲作が始まり、生活 の 一定部分 五分
の 一を占め ていたと推定 がき る。
晩期終末 では① が 一に対 し② が 四
で不安定 な稲作文化 が完全 に主流 と
な っている。
弥生時代前期 初頭 には② が五 に対
し③ の弥生土器 が五 で、安定的な水
稲文化 が大きく広が ったことを示す。
最後 に、前期後半 にな ると③ の弥
生式土器が ほと んど で、完全 に水稲
文化 が安定 した ことが、土器文化 の
面 から考 える ことが でき よう。﹂
︵
注② ︶
即ち 、夜臼式期 は縄文時代 から弥
生時代 に移行す る期間 の時期 であ る
と言 えます。縄文 と弥生 の時代区分
に ついて、 そ の定義 の確率も必要 か
と い
が、視点を変 え て、森貞
思
す
ま
初期弥生
次郎先生も言 われ ている ﹁
文化形成期﹂ の夜自式期 の時期を 、
一般的
縄文時代晩期後 半 に変 え て、
にも判 りやす い ﹁
弥生時代早期 ︵
弥
、
定型化 された土器・ 大陸系磨製石器 を含
む農工具・ 米・ 紡錘車・ 金属器・ 支石墓
森 ,60
単 独
水 田・ 大陸系磨製石器・ 木 器・ 大 型 壺・
コメ等
画 期
板
普
、 泉 ,86
田村,85
数
刺
山崎,80
寺沢 ,86
出
Lロ
及 着
上記 の指標 十環溝集落 0移 住域 と墓域 の
分離 (水 田耕作 に直接係 る指標 +社 会組
織 の変化 を示す指標 )
(水 圏耕作 に直接係 る指標 )
C
普 定
亥1
(学 史準拠 )
板付 I式 土器
生早期 と に統 一し て使 用す る こと
を提起 します。
弥生 早期を称す る こと により、夜
が始Tち
踊代にk
バ
早塾期の﹂
白
7籍盤蜃材社ハ
た ことが表徴 され る のではな いかと
も います。
思
また、弥生時代 から古墳時代 へ移
行す る時期も、同様 のことが言 える
のではな いでし ょうか。墳丘墓と古
墳 の名称 の使用 に ついても論争 があ
り、
一応 、弥生時代 のも のは墳丘墓、
古墳時代 のも のは古墳 とす る こと に
な っているよう ですが。
紀元後 〓
、
一九九 一年 の日本考古学会 で、
紀元後 二五〇年とす る統 一見解 が出
されました。
そうしますと、 そ の五〇年間 はな
んと称す る のでし ょうか。古墳時代
初期と称す る説 もあ ります。
私 は、 この時期も前述同様 、古墳
時代 早期 ︵
古墳 早期 ︶ の名称 に統 一
し て使 用す る こと にし ては如何 かと
思 います。
注① ﹃日本 におけ る初期弥生文化 の
成立﹄横山浩 一先生 退官 記念論
,
文集 Ⅱ 一九九 一年
②中 島直幸 ﹁菜畑遺跡 L 弥 生 の王
国 ・東 アジ アの海 から﹄東 アジ
ア文化交流史 研究会 一九九 二年
以 上
小林 ,85
後藤,86
B
及
橋 口,85
近藤,85
石野,86
複
高倉 ,84
現
紅村 ,84
現
出
着
定
板
山本,82
A
板
弥生式文化 を構成す る幾 かの要素 が
積 み重ね られて い き,そ れ らが緊密
に組 み合 されて完全な形を備えた時
D
亥J
佐原 ,83086
田
水
献
文
指標 のあり方
}
{暑
(考古資料 )
標
状 態
説
数
の
い
で
る
れ
て
る
か
し
た
あ
さ
も
示
。
分
塁
雑
優
層
IF暑 肯
キ
塁
ニ
塁
藤尾氏 の整理 による指標 のあ り方から見 た弥生時代区分論 の諸説
表
(8)
紫
筑
第 147号
古代 研通信
古 代 研 の存 続 と 発 展 の た め に
○ ⋮ 去 る 五 月 九 日福 岡 サ ンパ レ ス
で 、 当 筑 紫 古 代 研 の内 輪 の 主 催
で 、 当 会 の主 宰 者 であ る 奥 野 先
生 の、 宮 崎 公 立 大 学 教 授 就 任 の
お 祝 い会 が 開 か れ ま し た 。
そ の席 上 、 十 月 か ら 先 生 が 宮
崎 に行 か れ た 後 、 当 筑 紫 古 代 研
は ど う な る か と の 質 問 に対 し 、
奥 野 先 生 は ﹁私 が 今 日 あ る の は 、
こ の 筑 紫 古 代 研 究 会 の皆 さ ん 方
の お 陰 に よ る も の です 。 宮 崎 へ
は単 身 赴 任 で、 週 末 に は出 来 る
か ぎ り 自 宅 へ帰 り 、 か つま た 毎
月 の例 会 を 必 ず 開 き 、 今 後 も 皆
さ ん と 共 に 本 水く 歩 ん で い き た
い ピ と の 主 旨 の力 強 い メ ッセ ー
ジ が あ りま し た。
○ ⋮私 達 は 、 十 月 以 降 は 、 小 倉 と
福 岡 で の朝 日 カ ル チ ャ ー の 講 義
も 月 一回 程 度 に な ると の こと で 、
先 生 に お 合 いす る機 会 が 少 な く
な り ます が 、今 後 は毎 月 の例 会
に は 出 来 る か ぎ り出 席 し 、 先 生
の ご 指 導 と お 互 い の情 報 交 換 を
図 り な が ら 、 私 達 の筑 紫 古 代 研
を 発 展 さ せ た ら と 思 って いま す 。
○ ⋮ な お 、 最 近 は 古 い方 が 老 齢 に
な ら れ 、 会 員 も 減 少 化 の傾 向 に
あ り 、 ま た 先 生 のご 性 格 か ら 催
促 が な い た め 会 費 の納 入 が 少 な
く な り 、 会 報 の発 行 も ま ま な ら
ぬ と 聞 い て いま す 。 筑 紫 古 代 研
の 今 後 の存 続 と 発 展 の た め に は 、
新 し い会 員 を 増 や す こ と と 、 会
費 ︵月 額 千 円 ︶ の納 入 に 、 会 員
一同 が 努 力 す る 必 要 が あ る と 思
いま す
一
人〓日貝し
︵
よお
り´
︶