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【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】
【Historiographical Institute, Okinawa Perfectual board of Education 】
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日本古代史料にみえる南島
山里, 純一
史料編集室紀要(23): 167-208
1998-03-27
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7481
沖縄県教育委員会
日 本 古 代 史 料 に み え る 南 島
はじめに
山 里 純
朴
井
一
と いうと
えの い
ころに安置せしめ てお いたと ころ、旅玖人は帰還す ることが でき
を
日本 の古代 は沖縄 の考古 学 の時期区分 によれば ほぼ貝塚時代後
な いまま全口
月が死亡したとあ る。朴井と いうと ころは、現在 の奈
十人 '都合三十人 の液玖人が来朝 した ので、これ
期 に相当す るが、こ の時期 の南島 に関す る古代史料 および沖縄 。
良市あ る いは大阪府岸和田市付近 ではな いかと みられ て いる。
① と③ では液玖 '② では夜句 の字を 用 いて いるが 、両者をわざ
奄美 の考古資料 は乏し い。そ のため、当該期 の南島 の実相はなか
なか把瞳 し難く 、研究が立ち後 れ て いる のが現状 であ る。そこで
がほとんど であ ることから、夜旬 の記載はむし ろ例外と みるべき
三月 '披玖人三 口帰化。
すなわち 、「
未だ還 るに及ばず 、皆 死す」 と 記 さ れ て いる こと
しかし上掲 の扱玖 (
または夜旬 )の場合 、これらと同 一に扱う
ことはできな いであ ろう。
場合 、統率者 による集団移住 や、王族 。貴族 の亡命 であ る。
みえ る事 例 のほと んどが、朝鮮三国から の 「
帰化」 であり 、そ の
「
化外」 の民が王化を慕 い帰投す ること であ るが、﹃日本書紀﹄ に
表記 であ るがへ﹃
日本書紀﹄ にはしば しば みられる。「
帰化」とは'
①に 「
帰化」とあり、③ に 「
安置」とあ る のは、対応す る概念
であ ろう 。したが って、 いずれも ヤクと いう 同 l地域を指す こと
は間違 いな い。
わざ使 い分けたとは考え難く、また こ の後 の史料 でも液玖 の用例
これま で発表 した拙稿をもと に、日本古代史料 にみえ る南島 に つ
(
-)
いてあらため て論 じ てみた い。
なお、 ここで用 いる南島と いう語 は、日本古代国家 (
律令国家)
の版 図外 にあ る南 の島 々の総称 であ る。
一 績玖と流求
- ﹃日本書紀﹄扱玖関係記事 の検討
﹃日本書紀﹄推古 天皇 二十 四年 (
六 1六)には、次 のような記
①
夏 五月 '夜句人七 口来之 。
事 がみえ る。
②
秋七月 、亦液玖人甘 口来之。先後押入。皆安コ
置於朴井 J
。 からすれば、旅玖人は いず れ帰還す ること にな っていたと思われ'
したが って、彼等 は帰化を目的とした来朝 ではな- 、何 らか の事
朴井 に安置した のはあ-ま で 一時的な措置 であ ったことがわかる。
③
未レ及レ還皆 死駕。
すなわち 、これによれば 、三月 に三人、五月 に七人、七月 に二
一
i
1
整え たき ら いがあ る。恐ら-鈴木靖民氏が推定 す るよう に、 ﹃日
掲げ て いる のも 不自然 で、先後 三十人と いう のも意識的 に人数を
場所 が記 され て いな いことと、また 二カ月おき に漂着したよう に
情 で大 和政権 下 の列島内 のど こかに漂着したも のであ ろう 。漂着
た のか。﹃日本書紀﹄ には 「
名を開-」とあ るが ' 恐 ら - 原史 料
それにし ても 、漂着民から聞 いた こと以外 に全く情報 のな い未知
るが'そ の目的が液玖 の実態調査 にあ った ことは言うまでもな い。
で'彼 1人 ではなく、複数 の人間を伴 って出かけた ことが知られ
年半後 に戻 ってきたこと が記され て いる。⑤ に田都連等とあ る の
の世界を ' 1年半かけ て調査した田部連某とはどう いう人物だ っ
本書紀﹄編纂段階 にお いて、断片的な原記録 や伝承なりを整理し
(
2)
て述作 されたも のであ ろう 。
それから四年後 、﹃日本書紀﹄推古 天皇 二十 八年 (
六 二〇)に、
など多様な姓を有し ていた。そ のうち連姓を有す る者 で、他 に史
に名前 の部分が周け て いた のであ ろう 。 田部 氏 は ' 屯倉 の屯 田
(
御 田)の耕作 に従事 した田部 の伴造氏族 で' 臣 ・連 ・直 ・忌 寸
とあり、伊豆島 に二人 の液玖 人が 「
流来」すなわち漂着した こと
料 にみえ る人物とし ては'天武十年 (
六八 二 十月 に小錦 下 の冠
秋 八月 '技玖人 二口'流コ来於伊豆鳥 山
。
が知られるが'この記事 は具体的 で、推古期 の旅玖人漂着 の実体
位を有 した田部連国忍が いる。液玖 へ派遣された時期と 五十 二年
から選んだ特別な理由 があ ったかどう かは不明 であ るが、彼自身
た可能性も十分考えられる。ただ 、そう した使をわざ わざ 田部氏
の開きがあ る ので'そ の人かどう かはわからな いが' 一族 であ っ
を よ-伝え ている。
こ の液玖人がそ の後 、ど のよう に処遇されたかはわからな いが'
たと いう 記事 がな いので、そ の間、 いろ いろ事情聴取がなされた
都からさほど遠-な い場所 に安住せしめられた であ ろう。死亡し
しかし、彼等 からあ る程度 、液玖 の様子は聞き出せた であ ろう 。
明らかに④ の田部連某 の派遣 の成果とし て記され ており、「
帰化」
ここで注目す べきは⑥ であ る。こ の時 の擁玖人 の 「
帰化」 は 、
であ ろう が、言葉を解す る のにかなり苦労したことが想像される。 は少な-とも勇敢 で実務 に長けた人物 であ った であ ろう 。
そ の結果、技玖 に対 し てきわめ て探 い関心を抱 いた当時 の為政者
の語も① にみえ るも のとは事情 が異な って、額面通-解す れば 、
しかし、当時 の技玖人が果たし て'そう した 「
帰化」 の意識を
意思 で王化 に帰附し てき たと いう こと になる。
扱玖人が田部連某と の接触 の中 で、ヤ マ- のことを知- 、自 ら の
は、技玖 への遣使を決 める。
三年 (
六三 1)春 二月庚 子、技玖人帰化。
技玖 一
。
は、奈良時代貴族 の中華意識を背景 にした ﹃
日本書紀﹄編碁者 に
で交易を目的としたも のであ ったと思われる。 「帰 化 」 と あ る の
液玖人が意図的 にヤ マトに出かけた ことは事実 であ るが'あくま
二年 (六 三〇) 九 月 、 (是 月 )' 田部 連 等 、 至レ自二 持ち得たかはきわめ て疑問 であ る。ただ① のような漂着 ではな-、
玖㌦
元年 (
六 二九 )夏 四月辛末朔、遣二田部連 (
開レ
名 )於液
﹃
日本書紀﹄鮮明天皇 の条 には次 のよう な記事 がみえ る。
④
⑤
⑥
すなわち '田部連某と いう人物が初 め て液玖 に派遣され、約 一
1
6
8
現地 の人 l人を虜 にし て引き返 した 。翌年 、流求を 慰撫す るた め
にあ った朱寛 に命 じ て流求を 「
求訪」 せしめたが、言語が通ぜず'
それ では披玖と は 一体 ど こか 。これを ヤクと読む こと は言うま
に再び宋寛を遣 わしたが、流求 は これ に従 わず 、結 局宋寛 はそ の
よ る文 飾 であ ろう 。
でも な いが、それからす るとまず 思 い浮 か ぶ のは、現在 の鹿児島
を み て 「これは夷邪久国 の人が用 いるも のだ」と言 った 、と いう
のであ る。
布 甲を取 って帰 還した。そ の時 、入貢中 の倭 国倍 が 、流求 の布 甲
も っとも ﹃
惰書﹄ には 「
倭国」と はな- 「
倭 国」とあ ること か
県熊毛 郡 の屋久島 であ ろう 。
の人 が住 め るよう なと ころではな い。屋久島 よ-も 居住環境 がよ
ら、倭国すなわち 日本と は別 の国 であ るとす る説もあ るが' ここ
しか し、屋久島 はそれ ほど大き な島 でも なく 、地形的 にも多 い種 子島 や奄美大島 など は全- みえず 、どう し て屋久島 の人だけ
古 天皇十 五年 〓ハ
〇七 )秋 七月庚成条 にみえ る道幅使 小 野妹 子 一
が漂着 したり '屋久島 に のみ調査 のため の億 が派遣 された のか、
後 掲 の史料 にみえ るよう に、後 に技玖 が他 の島と併記 されるよ
行 であ ったと考える。宋寛 が流求 の布 甲を 取 って帰 還した のは大
では通説 に従 い'隅 に入貢 中 の棲 (
倭)
国債と は 、 ﹃日本 書 紀 ﹄ 推
う な場 合 は 1つの島と し て のヤク (
すなわち屋久島 )と みる他は
業 四年とあり 、妹 子等 はそ の年 の四月 に嚢世清を伴 って帰 国し て
いささか肺 に落 ちな い。
な いが 、推古 ・静明紀 のよう に単独 で出 てく る液玖 は'屋久島 に
いる ので、妹 子等 が流求 の布 甲を みた のは、大業 四年 正月から 四
流求 の布甲 に ついて'甲野勇氏 は繊維製 の陣 羽織 風 の衣服を想
(
3)
定 し、東恩納寛惇氏 は アイ ヌの用 いる 「
あ っし」 の類 のも のであ
(
4)
ろうと し て いる。 ﹃
精書 ﹄流求伝 には 「
編 貯為 甲 、戎 用 熊 ・豹
月 の間と いう こと にな ろう 。
限定 されず 、屋久島を含 む大隅半島 以南 の島 々を漠然と指 した用
語 であ っただ ろう 。そう 解す ると納得 が いく 。
2 ﹃日本書紀 ﹄ の披玖と ﹃
晴書 ﹄ の夷邪久 国
た甲 であ る。 日本古 代 の文献 には布 甲 に類似す るも のと し て 「
綿
あ さぬ の) を 編 ん で仕 上 げ
大業 元年 、海師何蛮等 '毎 l
l
春秋 二
時天清風静 ∴ 東望依希 似レ 皮 」とあ ることから、主と し て貯 (
と こ ろで ﹃
障害 ﹄流求伝 には次 のよう な下り があ る。
有二
煙霧 之気 1
、亦 不レ
知二
蔑千里 ㌦ 三年 '揚帝令下羽騎尉宋寛
言 不二
相通 山
。掠 二一人 J
而返 。明年 、帝 復 令三寛 慰コ撫 之 1
.流
套 のよう なも のと考え られ て いる ので'流求 の布 甲も恐 ら-布 を
装偶 や ﹃
蒙古襲来絵 詞﹄ に措 かれた元軍兵士 が身 に つけ て いる外
人レ
海求琳訪 異俗㌔ 何蛮言レ之 、遂与レ
蛮倶往 '因到二
流求 国 1
0 甲」また は 「
絹襖」と称す るも のが みえ る。それは武装土偶 ・武
求 不レ
従 。寛 取二
共布 甲 l
而 還。時任 国便来朝 、見レ
之 日、此夷
用 いて外套 の形状 に仕 上げ たも のであ ろう 。ただ しそれ に甲板 が
さ て、倭 国億 の言葉 にあ る夷 邪久国 は、イ ヤクと いう音 が ヤ ク
綴 じ っけられ て いたかどう かは不明 であ る。
邪久 国人所 レ用也 。
すなわち これ によれば 、晴 の場帝 は、東方 に陸地が望見 でき る
と いう何蛮 の言葉を 信 じ、大業 三年 (
六〇七 )に'羽騎尉 の地位
1
6
9
頗 戦皆 敗 。焚 二
其官室 ∴ 虜 一
恵ハ
男女 数 千 人 T
、戟 二軍実 一
而還 0
す なわち '足 幅 人を 通訳 に立 てて流求を 慰 諭 せ し め た が ' これ
稜率 レ
衆 登レ
岸 '遣 二
鎮周 山
為二
先鋒 ]
. 其 王 歓 斯 渇 刺 兜 遣 レ兵 拒
に通 ず るか ら 、 これが ﹃日本書 紀 ﹄ に みえ る技 玖と 同 じ であ るこ
(
5)
と は ほと んど 疑 いな い。
知 識を 得 た かと いう こと が問 題と な る。造指使 一行 の誰 かが個 人
戦 '鎮 周頻撃破 レ之 。稜 進 至二
低 没檀 洞 ∴ 其 小 王歓 斯老 模 率 レ
を拒 み逆 ら ったた め、陳稜等 は戦 闘を 開始 し流求 人を 撃 退 L t そ
的 に早 い時期 に披 玖 に行 って いた か 、実 際 には推古 天皇 二十 四年
兵拒 戦 。稜撃敗 レ之 '斬 二
老模 1
0(
中略 ) 分 為 二五 軍 1
、 趣l
I
其
し か し ﹃日本書 紀 ﹄ に披 玖 人 のこと が現 れ る のは推古 天皇 二十
以前 か ら液 玖 人 が ヤ マー へ漂着 し て いたと考え るか ' いず れか で
都 邑 二。渇刺 兜率 二
衆数千 1
逆 拒 .稜 遣 二鎮 周 又 先 鋒 1
撃走 之 。
の都を攻 め 、宮 室を焼き 、捕 虜 数 千人を 連 れ て凱 旋 したと いう 。
あ ろう が '前 者 は無 理だ と し ても '後者 は 、 ﹃日 本 書 紀 ﹄ の推 古
稜 乗 レ勝逐レ北 、至 二
其柵 J
。渇 刺兜背 レ
柵 而障 。稜 尽 レ鋭 撃 レ之 、
同陳 稜伝 には '当 時 の戦闘 の様 子 がよ- 詳 細 に記 さ れ て いる。
二十 四年 の記事 が前 述 のよう に'編者 が それま で の史料 や伝 承を
従 レ辰至レ
未 。 苦 闘 不レ息 。 渇 刺 兜 自 以 二軍 疲 一
引 入レ珊 ' 稜 遂
四年 以 降 であ るが '遣惰 使 が派遣 された のはそ れ よ-九年前 の推
整 理 し て述作 したと考 え ら れ るた め'あ-え な いこと ではな い。
.. 獲 二
其 子島 槌 一
虜 二男 女 数 千 一
填 レ塗攻 破 二
其柵 T
、新 二
渇 刺兜 o
古 天皇 十 五年 であ - '小 野妹 子等 が い つどう や って流求 の布 甲 の
ただ そ の場合 でも '漂着 した液 玖 人 が布 甲を所 持 し て いた ことを
ここ では 、まず鎮 周 (
州 )が先 鋒と な- 流求 の王 渇 刺兜 の兵を
而帰 。
宋 寛 の流求 派 遣 が 、楊帝 によ る周 辺諸 国 の入貢促 進 政策 の 一環
撃破 し 、ま た陳稜 は低 没檀 洞 に進 軍し 、小 王 の老 槙 の兵 を 破 -老
推 測 す る必 要 があ ろう 。
であ った こと は 、 ほぼ同時 期 に、屯 田主事 常 駿 と虞部主事 王君政
模 を斬 殺 した こと 'さら に都 にお いて王 は数 千 人 の民衆 を 率 いて
こ のよう な流求 の晴 に対す る強硬 な態 度 を みた時 '後 述 す るよ
を赤 土 国 に、侍 御 史 章 節 と 司隷 従事 杜 行満 を 西春諸 国 にそれぞ れ
う な` 静 明 三年 (
六 三 二 の旅 玖 人 の 「
帰 化 」' 天 武 八 年 (六 七
抵 抗 した が '陳稜 の軍 は王を柵 に追 い つめ これを斬 殺 した こと な
通 ぜず に引き 上げざ るをえ な か ったと し ても 、 二度 目 は明確 に流
九 ) の多 硝島 調査 および 同十年 の多 稽 人 の来朝 'ま た 天武 十 一年
遣 わ し て いる こと か らも知 ら れ る。 そ のこと は ま た 「求 訪 」 「
慰
求 側 に拒 否 され '目的を 果 た せず 帰 還 した 。 そ こ で揚帝 は ついに
の多 硝人 ・披玖 人 ・阿麻 弥 人 の来朝 、そ し て文 武 三年 (
大九 九 )
ど が記 され て いる。 これら の記事 により 、流求 が 一貫 し て晴 への
実力行使 に出 ること にな る。揚帝は陳稜 。張鎮 州等 を 遣 わ し '兵を
の多 観 ・夜 久 ・奄美 。反感 人 、和銅 七年 (
七 一四 ) の奄 美 ・信覚
撫 」 の語 にも表 れ てお- 、少 な-とも 当初 はあ -ま で入貢勧告 程
率 いて流求を征討 せしめた。﹃
惰書﹄流求伝 には次 のよう にみえ る。
(
石垣島 ) ・球美 (
久米島 )等 の人 の来朝 は 、夷 邪 久 =旅 玖 =流
入貢 を拒 み、激 しく抵抗 した こと が知 ら れ る のであ る。
初 稜将 二
南方 諸 国人 一
従 レ軍。有 二
尾輪人 J
、頗 解 ,
T
其語 1
0遣 レ
人
度 のおだ やか なも のであ ったと思 わ れ る。 しか し 一度 目は言葉 が
慰コ
諭之 一
㌧流求 不レ
従 、拒 コ
逆官 軍 ㌦ 稜撃走 レ
之 '進至 二
其都 ㌔
1
7
0
され て いたが、 ここでは 「
饗」と な って いる こと 、ま た それが飛
のか、朝貢物を持参 し て いた のか 'あ る いは推古朝 の時と 同じよ
前者 は沖縄 本島 で、後者 は奄美諸島 および久米島 ・石垣島等 であ
鳥寺 の西 の概 の下 でな され て いること が重要 であ る。税 は ツキ ノ
う に遭難 し て列島 の海岸 に漂着 し飛鳥 に転送 され てき た のか '具
る。従来 から入貢 した南島 の中 に最も大き い島 であ る沖縄本島 が
求 の立場 からす ると意外 であ る。 こ のことから私は、隅 の入貢を
含ま れ て いな いのは不審 であ ると指摘 され てきたが 、それは沖縄
キと訓 み、ケヤキ の古名 であ るが 、 そ の巨 木 は ﹃万葉 集 ﹄ に は
い
は
よ ま
「
斎 ひ槻」と詠ま れ、神 の慮り坐す神 の木 と さ れ た 。 こ のよう な
体的な記述 はみられな い。しかし旅玖 人 の場合 は 「
安 置」と表 記
本島 が律令 国家 の朝貢催促 に応じなか ったため で、む し ろ沖縄本
ことから飛鳥寺 の西 の椀 の下は神 聖な場所と し て、そ こでは重 要
-と受 け入 れた地域 は別 であ ると考え て いる。具体的 に言うと 、
島 には他 国から の朝 貢勧告 には 一切応 じな いと いう流求以来 の伝
な こと がしば しば行われ て いる。たとえば 、大化改 新 の首謀者 の
拒 み征討 された流求と大和政権 および律令 国家 への入貢をあ っさ
統 が、少 なくとも 和銅期 の頃ま で残存 し て いた ことを示すも ので
二人すなわち中大 兄皇 子と中臣鎌 足が打球を し て親交 を結 んだと
須
し
弥
山
像
も造 られた。それは園池 に設 けら
れた噴水施設 であ ったと考え ら れ て いるが、明治時代 には須弥山
あまかし
石も出土 し て いる。 これと は別 に、斉 明紀 には 甘 構 丘 の東 の川上
なお飛鳥寺 の西 には
彼 はそ こで斬殺 され る。
ゅ み せん
近江朝方 の使者 の穂積 臣百足が軍営と したと ころでも あり 、後 に
を集 め て、天神地紙 への誓盟を行 って いる。さらに壬申 の乱 の際、
るクーデター の後 、天皇 。皇祖 母尊 ・皇太 子は大槻樹 の下 に群臣
ころが法 興寺 (
飛鳥寺 ) の機構 の下 であ った 。ま た大化 の いわ ゆ
はなか ろう か。
二 南島発 露健 の派遣 と南島 人 の来朝
- 天武 。持続期 の遣多 硝島便
推古 。静明期 以降 しば ら-南島 人 の来朝 は途絶 し てしまう 。そ
の原因 に ついては、大化改新 や壬串 の内乱など大和政権内部 の問
と こ ろが壬申 の乱 に勝利した大海 人皇 子が即位 し て天武天皇 に
よると 、仏教世界 の中心 にあ る高山 であ る。 こ のよう に仏教 の上
と石上池 辺 に須弥山を作 ったとあ るが、須弥山 は仏教 の宇宙観 に
題 で、南島 への関心 が失 わ れ て いた ことが考え られよう 。
(
六七七 )二月条 には 、
な ると '久 し ぶり に南島人 が や ってきた。 ﹃日本 書 紀 ﹄ 天武 六年
からも 、そ こは特 別な場所 に位置づけられ て いた のであ る。斉 明
朝 では須弥山 で陸奥 。越 の蝦夷 や粛懐 が響 され、持続朝 では蝦夷
是月 、撃 1
多 爾鳥 人等 於飛鳥寺 西槻 下 l
。
とあり '多 欄島 の人を 飛鳥寺 の西 の税 の下 で、ごち そうを与えも
多 硝人 は こ のよう な神 聖な場所 で響 された のであ るが'そう し
男女 二 一三人が饗 され て いる。
るが' ここで の多 硝島 は種 子島を指すと み てよ いであ ろう 。種 子
た場所 で饗宴を受 け ること は、神 に対 し て天皇 への服属を誓約 す
てな し て いる。それま で の旅玖 に代わ って多 硝島 が初 め て登場す
島 の人 が、何 人程 で'また いかな る目的 で飛鳥 の地 にや ってきた
17 1
ら にと っては 「
朝 貢物」と いう意識 は毛頭 な-、あ-ま で対外的
かの 「
朝貢物」を持 って来朝 した ことも推察 され る。も っとも彼
の遣使 の帰朝 の際 に同行 し てき た ことも考え られ る。そ の時何 ら
た後 の例を参 照す れば 、 これよ-先 に多 硝島 への遣使 があり 'そ
の来朝 は遣使 が随伴 す ること によ って実 現す る のが 一般的 であ っ
たと解す る のも 不自 然 であ る。全- の憶測 に過ぎな いが'南島 人
あ る。しかし多 硝人が こ の時期 に、突然自 ら の意 思 で朝貢 し てき
以上 のこと から 、 こ の時 の多 硝人 は単 な る漂着 ではな さそう で
あ る。遣多 禰島傍 の任命 にあた って、そう した氏族 の伝統 や特性
氏鼠 であ る。小便 の上寸主 (
上村主 )氏 は いわ ゆる渡来系 氏族 で
遣多 硝島億 の天使 の倭馬飼 郡民 は、倭 (
大和 )に居住 し て馬 の
飼養 や従駕 (
行幸 に従 って行- こと )に従事 す る馬飼 部 の伴造系
新羅 二鳥旬 麓 に比 べて歴史 が浅 いことと 関係 があ ろう 。
スを充 てて いる。 これは大和政権 への関わ- が '多 欄島 の場合 、
位階 の五位相当 であ るから、朝 鮮半島 への使者 の場合 は高官 ク ラ
成 は朝鮮半島 への使者派遣 の場 合と 同様 であ った 。ただ小錦 下は
田臣麻呂を小便とし て高句 麗 に派遣 し て いるよう に'こう した構
し て新羅 へ派遣 し、ま た同 日 に、小錦 下佐 伯連贋足を大便 、小墾
儀礼と し ての贈-物 な いしは交 易物 の つもり であ っただ ろう が'
は史料 にみえ な い。彼等 は約 一年 十 カ月後 に帰朝 し た が 、 ﹃日本
を重 んじたかどう かはわからな いが、 いず れ の人物も これ以外 に
(
6)
ることを意味 したと考え ら れ て いる。
であ る。
書紀﹄ 天武 天皇十年 (
六 八 一)八月丙戊条 には次 のよう に記 され
大和政権 側 では多 爾人を化外 から の朝貢者 に見立 てて対応した の
そ の二年後 、そ の多 相島 に億 が派遣 された。 ﹃日本 書 紀 ﹄ 天武
遣二
多 硝島 1
倍人等 '貢 二
多 硝国図 ㌦ 英 国去 レ京 ' 五 千余 里 。
て いる。
大 乙 下倭馬飼部造連為 二
大使 l
、小 乙下上寸主光欠為 二
小便 一
、
居二
筑紫南海中 ㌦ 切レ
髪草裳 。梓稲常豊 。 一殖 両 収 。 土 毛 支
八年 (
六七九 )十 一月己亥条 には、
遣二
多 硝島 l
。偽賜二
爵 1級 一
。
もあ る)を多 硝島 に派遣す るに際し て、爵 j級を賜 った こと が み
た多 硝島 調査結果 の 一部 が紹介 され て いる。多 欄 国図そ のも のは
ここでは彼等 が帰朝 の際 に多 硝国図を提出 した こと が みえ 、ま
子 ・葉子及種 々海物等多 。
え て いる。大 乙 下 ・小 乙下は天智 天皇 三年 に定 められた冠位 であ
もち ろん残 って いな いので、それが具体的 にどう いうも のであ っ
と 、倭馬飼部道連 と上寸主光欠 (
欠 の字を 父または文と した写本
るが'大宝令 の位階 で言えば 、前者 が八位 、後者 が初位相当 であ
たかは不明 であ るが、そ の名 称 からし て地 図 であ った こと は間違
い な い。
て いるわけ であ る。
るから 、位 と し ては低 く 、 いわば 下級宮 人 クラスの者 が充 てられ
「
信濃 国之 図」を進 上し て いる。ただ こ の場 合 は 、
ま た 二人は大使と小便 に任命 され て いること から 、遣多 硝島使
は小規模 な がら組織編成 がな され て いた こと がわか る。天武十年
め信濃 国 の地形を 調査す ること が目的 であ った し、滞在 日数も多
天 武 天皇十 三年 にも 、 二月 に信濃 国 に派遣 された健 が閏 四月 に
あんぐう、
行 宮 造 営 のた
(
六 八 1)七月 に、小錦 下宋女 臣竹 羅を大便 、 首 摩 公 楯 を 小 便 と
172
ても 不思議 ではな い。渡来系氏族 の上寸主光欠を小便 に任命 した
から ' こ の時期 、倭馬飼部造連 が多 頑固図を作成 ・進上したと し
え ' こ の時も 恐 ら-境 界を 示す何らか の地図が作成 され であ ろう
同年十 月辛 巳条 には伊勢 王等 を派遣 し て諸 国 の堺を定 めしむと み
し ており 、多 爾鳥 人 のよう に頭髪を短 - し て いる のは珍 しか った
よう であ る。したが って、 いず れ の場合も 、髪 はむ し ろ長く伸ば
従二
頂後 l
盤繰至レ
額」とあ- 、男女 とも髪 を 束 ね てしぼ り ' そ れ
を頭 の中央後 ろ のあたり から額 の方 へ持 って い って固定 し て いた
一万 ㌧ ﹃惰 書 ﹄ 流 求 伝 に よ れ ば 、 「男 女 皆 以二日 貯 縄 1纏 レ髪 '
被髪屈紛」す なわち髪を まげ結 ん で いるとあ る。
硝島 の時と比 べて大幅 に短 いから必ず しも同 一に論じられな いが、 倭人伝」 には、「
のは、彼 のそう した知 識 。技術を重視 したため であ ろう か。
のかも知 れな い。
余 里離 れたと こ ろにあ ると いう のはどう か。当時 の 一里が現在 の
いう のはそ の通り であ る。しかし '都すなわち 飛鳥 の地から五千
まず多 硝島 の位置 に ついてであ るが、筑紫 の南 の海中 にあ ると
け の簡単 な衣服 であ った。また ﹃
惰書﹄流求伝 には '「
織二
間鎮皮
き つけ 、婦人 の場合は、布 の中央 に穴をあけ てそ こに首を通すだ
衣レ之」とあ る。すなわち 、男子 は幅 の広 い布 を そ のま ま 体 にま
略無レ
縫」とあ- 、婦 人 は 「
作 表 如!
.
単被 1
' 穿二其 中央 一
、 貫 レ頭
衣服 に ついて 「
魂志倭人伝」 には、男 子は 「
横幅 、但結束相連、
次 に、遣多 稽島 債 が報告 した島 の状況 に ついて逐 1検討 し てお
こゝ
つ。
何 メート ルにあ た る のか判断す べき材料 がな いのでそ の正否 は置
「がじ ゅま る」 「
-ば」とす る諸説 があ るが 、そ の皮 や いろ いろな
弁雑色貯 及雑毛 J
以為 レ
衣」とあ り 、闘鎮樹 に ついては 「やら ぶ」
よりも 、﹃
楕書 ﹄倭 国伝 には 「
夷 人不レ
知 二里数 ∴ 但 計 以レ日」 と
-と し て'果た し て本当 に実測 した数値 な のか疑 問 であ る。それ
あ- '倭 国 の人 は里数 に ついて の正確 な知識 は持ち合わせ て いな
あ るが'やはり倭人 や流求人 の衣服と は異な って いる。
多 稽島 では草を編 んだも のを 腰から下 にまき ついて いた よう で
符 や毛などを身 にまと い、衣服と し て いたと いう 。
には いかな い。たとえ ば 「
魂志倭人伝」 のよう な '何 らか の資料
か った よう であ るから 、五千余 里と いう のを そ のまま信 じ るわけ
をも と に漠然と 示したも のであ ろう 。
て いると記 し て いる。 ここでは男女 の区別 はな いが'参考ま でに
人 々の風俗 に ついては、頭髪を短 - し て いること '草 の裳を着
次 に稲作 に ついて 「
梗稲 は常 に豊 かなり」とあ る。 ﹃
日本書 紀﹄
・
つ
る
ち
の写本 では梗稲 にイネ と訓を ふ って いるが 、 棟 は言うま でもな-、
もちごめ
炊 いた時 稿 米 のよう に粘-け がな い普 通 の米 のこと で、そう した
う
ふ
た
校 の稲が毎年豊 か に稔 ると いう のであ る。ま た 「一たび 殖え て 両
倭 人 および流求人 の風俗と比較 し てみよう 。
意味 であ る。ただ し これは 二期作 ではな- 、 一度収 穫 した後 に ヒ
び収む」と いう のは、 一年 に 一度殖え て二度収穫 でき ると いう
伝 には 「
垂二
髪 於 両耳上 一
」とあ るが、 これは男 子埴輪 にみられ る
コバ エが成長 し、 二度収穫 でき る ことを 述 べたも のと解 され る。
た
よう な '髪を 中央 より分け て耳 のあた- で束 ね て結う 、 いわ ゆる
中村明蔵氏 によれば 、種 子島 では今 でも行 わ れ て いるよう で' 二
「
魂志倭 人伝 」 には 、男 子は皆 「
露紛」とあ り 、 ﹃
障害﹄ 倭国
「みず ら」 のこと であ ろうと考え られ て いる。 ま た 婦 人 は 「魂志
173
度目 の収穫を 「ヒ ッツ」とか 「ヒ ッハエ」と呼 ぶ言葉も残 ってい
(
7)
ると いう 。このよう に、多 稽島 は気候も温暖 で稲作 には適し てい
続 いて天武紀十 一年 (
六八 二)七月丙辰条 には次 のよう にある。
多爾人 ・液玖人 。阿麻弥人賜レ
禄 、各有レ
差。
土毛耳」とあ るよう に、地方 の産物 のこと であ るが、多爾島 の土
土毛とは、賦役令集解土毛条所引 の古記 に 「
当 国所レ生 '皆 是
う。多欄人が種 子島 の人、摂玖人が屋久島 の人、阿麻弥人が奄美
麻弥人が併記され、南島が明確 に分化 され て いる のが注目されよ
多浦島 (
人 )が単独 で出 てきたが、ここでは多 爾人 。液玖人 ・阿
これま での ﹃日本書紀﹄ の南島記事 には、液玖 (
人 )な いしは
毛とし て、 ここでは支子と莞 子が挙げ られ ている。支子は枝子ま
た こと が言え る。
たは梅 子 にも つ- るが 、 ﹃
倭 名 類 宋抄 ﹄ お よ び ﹃
本 草 和名 ﹄ に
大島 の人 であ ることは異論がな い。特 に叛玖は推古紀 の披玖 の記
載とは異な- 、これ以降 、屋久島 一島を指すよう にな った のであ
る。奄美 のこと は実は ﹃
日本書紀﹄斉明天皇 三年 (
六五七 )七月
己丑条 に、親貨遠国 の人が梅見島 に漂着 したとあ る のが初見 で、
「席 皆
生す るガ マ科 の多年草 であ る。「
延書経式」 諸 国釈 莫条 に
す でにこれ以前 から知られ ては いたが、史料上、そ の鳥 人 の来朝
「
和名 、久知奈 子」と みえ 、 アカネ科常緑 低木 と し てよ-知 られ
(
8)
が
ま
て いる 「
-ちなし」 のこと であ る。莞子は蒲 のこと で、湿地 に自
むしろ
以レ
莞」とあり 、そ の実 でむし ろを編 み利用 した 。 ま た種 々海産
は今回が初 め てであ る。
同行した者 であ るかどう か であ る。も しそうだとす れば 、前年九
は天武八年 に派遣され、同十年 八月 に帰朝 した倭馬飼部道連等 に
人 の来朝が実現した契機 であ る。具体的 に言うと、 これら南島人
そこで若干問題 にな る のは、この時 の多 爾人 。技玖人 ・阿麻弥
物 が多 いとあ るが'周囲が海 に囲まれ ており 'それは今も変わら
な い。
と ころで天武紀十年九月庚成条 には次 のような記事 がみえ る。
饗二
多 爾鳥人等 干飛鳥寺西河辺 一
。奏二
種種楽 ㌦
こ の時 、飛鳥寺 西河辺 で饗 せられた多爾鳥人は'恐らく過多 欄
島債 の帰朝 に際し同行し てきたも のであ ろう。「
種種 の楽を奏す」 月 に飛鳥寺西河辺 で響せられた多爾鳥人と の関係はどう な のか。
天武天皇 の支配力を誇示す るきわめ て政治色 の濃 い儀式 であ った
(
六八三)三月戊子朔丙午条 に'
島 へ億が派遣された のではな いかと推測し て いる。天武紀十 二年
とあ る のは、大平聡氏が詳細 に検討し て いるよう に、服属儀礼と また遣多 爾島億は、多 爾島を拠点とし て実際 には屋久島 や奄美大
し ての多 硝鳥人 による風俗歌舞 の奏上 ではな-、多硝鳥人 の前 で 島 にも行 った こと にな るが、そ の点をどう解す るか、と いう こと
(
9)
諸 国 の風俗歌舞者 が多種多様 な歌舞を演奏 したと いう意味である。 が問題となる。私は、倭馬飼部造連 1E行が帰朝 した後 、さら に南
だ ろう 。大平氏は、こ のよう に風俗歌舞 の奏上 の有無と いう観点
と みえ る多稽島 から帰朝した侵入も 、これと は別 に派遣された可
遣二
多硝 T
侵入等 返之。
「
夷秋」と見なされ て いたと指摘し て いるが 、 き わ め て説得力 の
能性もあ る。
から、南島人は蝦夷同様 '王化 に属しな い 「
化外 人」、 す なわち
あ る見解と言え よう 。
174
持続朝 にも多 硝島 に使者 が派遣 され て いる。 ﹃日本 書 紀 ﹄ 持 統
て、 こ の時派遣 された文忌寸博勢 が帰朝後 '文武朝 の寛 国債 に任
れば '持続九年 の派遣 は'来た るべき寛 国債派遣 に備え て、情報
命 され再 び南島 へ渡 った ことも考え ら れる。も しそう であ るとす
遣下l
T
務広弐文忌寸博勢 ・進広参 下訳語諸 田等 於多 稽 一
、求中蛋
収集 および予備的調査 の意味 が込 めら れ て いたと みなす ことも で
天皇 九年 〓ハ九 五)三月戊申朔庚午条 には'
所 居上。
た のは、あ る いはこ の時 の復命 がき っか け であ った のかも 知 れな
き よう 。寛 国便派遣 にあた って彼等 に戎 器を持 た せ るよう にな っ
い。そう した文武朝 に派遣 された南島寛 国債 に ついては ﹃
続 日本
とあ るが' ここで多 硝島を蛮 の居所と し て いることが注 目されよ
紀﹄ に登場す る。
う 。これ は中華 の周 囲 に北欧 ・東夷 ・南蛮 ・西戎と いう未 開 の諸
いう意味 で用 いられ て いる こと は言うま でも な い。多 硝島 など南
地域を 置-華 夷 (
中華 )思想 の世界観 のうち '南方 の野蛮 な国と
2 文武期 の南島寛 国債
島を 「
化外」と みなし て いた こと は これ によ って明らか であ る。
天武朝 に数度も債を派遣 し '国図ま で作成 され '島 の状況があ る
﹃
続 日本紀﹄ には、大宝律令 が完成 し施行 され る直前 の文 武期
文武 二年 (
六九 八 )夏 四月壬寅条
に'次 のよう な南島 に関す る記事 がみえ る。
程度把握 され て いた多 硝島 へ'持統 天皇 があらため て遣使 し て蛮
の居所を求 めさせた意 図 は奈 辺 にあ ったか。
①
遣下二
務広弐文忌寸博 士等 八人 干南島 一
寛上レ国 。因給 l
I
衣
天武期 に派遣 され てから十年 以上経 って いたため'そ の間 の情
勢 の変 化を みるためだ った のか 、あ る いは こ の年 が隼人 の定期朝
文武三年 (
大九九 )秋 七月辛未条
器㌦
②
多観 。夜久 ・奄美 。度感等 人従 l
!
朝宰 山
而 来貢 二
万物 1
0
いろ いろ推察 でき よう が 、私は 、こ の時 の遣使 の文忌寸博勢 が文
貢 の年 にあ た って いるため、それと何 らか の関係 があ った のか'
武朝 に南島 へ派遣 され る寛 国債と同 一人物 であ ること に注意を払
文忌寸博士 '刑部真木等日 南鳥 山
至 。進 レ
位各有 レ
差。
文武 三年 (
大九九 )十 一月甲寅条
授レ
位賜レ
物各有 レ
差 。其 度感島 通二
中国 一
於是始奏 。
③
う 必要 があ ると考え て いる。
ただ こ のこと に関 し て ﹃
鹿児島県史﹄ は、持続九年 の遣使 に都
合 が生 じ実 際 に出発 した のが文武 二年 であ ったと 解 し ' ﹃
上屋久
薩末 比売 。久売 ・波豆 ・衣評督 衣君県 ・助督 衣君亘自
文武 四年 (
七〇〇)六月庚辰条
遣 の企 てにとどま ったと解 し て いる。しかし三年 間も都合 によ っ
美 、又肝衝難波 '従 二肥人等 ∴ 持 レ兵剰コ
劫寛 国債刑部
④
て出発 が遅 れたと いう のも 不自 然 で、 これだ け の年数 があ れば多
町郷土誌 ﹄は ' こ の時 の遣使 の帰朝 記事 がみえ な いこと から、派
欄島 に行 って帰 って- ることも十 分可能 であ- 'また史料的 に遣
真木等 山
。於レ
是 '勅 二
竺志惣領 J
、准 レ
犯決静 .
もと
(
10)
① の史料 によれば 、億を南島 に遣 わし 「
国を覚 めしめた」 とあ
使 の出発 ・帰朝記事 が必ずしも残 っているとは限らな い。したが っ
175
るが'それ
債 と呼 称 された こと は④ の史料 でわ か る。 こ の
く にまぎ し
が 覚 国
こ のよう にみ てく ると文 武 二年発 道 の寛 国債 は '文 忌寸博 士と
刑部真木 のグ ループ に分かれ て行動 したと思わ れ る。少な-とも
ク ラ スを充 てる のが慣 例 であ った 。刑部真木 に ついては① の派遣
ての遣多 禰島使 同様 、南島 への遣使 はおおむね こう した 下級官 人
文 忌寸博士 の冠位 は令 制 下 の位階 では正七位 下 に相当す る。か つ
わ れ る。そ のう ち文 忌寸博 士 の名と刑部真木 の名 が知 られ るが'
あ ろう から '実際 にはもう 少 し多 - の人が南島 に渡 ったも のと思
にな って いるが、 こ の人数 には恐ら-水手等 は含まれ て いな いで
まず寛 国債 の人数 であ るが'① によれば 八人 が派遣 された こと
け ての調査 が目的 であ ることを察知 した在 地 の豪族 が、 これを妨
(
13
)
害 しようと起 こした のがか の劉劫事件 であ ると解 し て いる。また
国利施行と寛国使 の派遣と は密接 に関わ っており 、国利施行 に向
行動を考え る上 で避 け て通れな い問題 であ る。 これ に ついては中
村明蔵氏が詳細 に検 討を加え て いる。氏 によれば 、南部九州 への
た寛国債 が何故 こう した事件 に巻き込まれた のか、寛国億 の性格 ・
豪族 におぴ やかされた ことを伝え たも のであ る。南島 に派遣 され
と ころで⑤ の史料 は'寛国債 の刑部真木 一行 が南九 州 で在 地 の
帰路 に関し てはそ のこと が言え よう 。
記事 には みえず '③④ にみえ るが'そ こでは冠位 は記 され て いな
⑤ では瓢劫事件 の起 こ った場所と そ の様相 が時間的 順序 で記載 さ
用例 からす れば '従来 の遣接玖健 や遣多 硝島使等も広義 の寛国使
「
〓
」
と言 ってよ いであ ろう 。
い。しかし③ では文忌寸博 士 の冠位も省略 され て いるから、刑部
れ て いると み て'寛国傍 の刑部真木 一行 は、南島 へ渡 る前 にまず
入り 、さら に大隅半島 の東南部 へ向 か ったが、妨害 によ って調査
川内 川下流域を 調査 し'そ こから阿多 に寄港 した後 、衣 の地域 に
真木 が無 冠 であ ったと は限らな い。したが って中村 明蔵氏が推定
す るよう に、 こ の時 の寛 国債 が文忌寸博士を大便格 であ ったとす
(
12
)
ると '刑部真木 は小便格 の人物 であ った可能性 もあ る。なお 二人
とも帰化系氏族 であ るが、遣使 の任命 にあた ってそう した氏族が
かし文 武 三年 七月 に寛 国債全員 が帰朝 したとす ると '④ にみえ る
した 「
朝 宰」 が寛 国債 であ った こと は否定 でき な いであ ろう 。し
次 に帰朝 時期 に ついて、② の多観 人以 下 の南島 人を率 いて帰朝
以上、寛 国債派遣 の目的 はそ こ に求 め る べき で、たとえ 国利施 行
解す る。また① に'南島 の国を覚 めるため に債を派遣す るとあ る
前 述 の通- '帰朝時期 の関係 から剰劫事件 が発生 した のは帰 路と
こう した見解を 一概 に否定す ること は でき な いが 'ただ私見 は
を断念 し多 禰島 へ向 か い'そ こ で文忌寸博士 1行と合流 したと推
(
14
)
定 し て いる。
よう に、それから四 カ月後 に復命 し叙位 されたと いう のも 不自然
を前提とした南部九州も含 めた南島 の調査 が行われたとし ても 、
考慮 されたかは明確 に でき な い。
であ る。した が って② の 「
朝 宰」 は寛国債 の T部 で'残 り の覚国
それはあくま で二次的 。副次的と みるべき であ ろう 。
これま で披玖 や多 稽島 に派遣 された健と文武期 の寛 国傍と の相
債 の帰朝を待 って全月 で復命 した のが④ と解 され る のであ る。⑤
の寛 国債剰劫事件 に巻 き込ま れた人物 に文忌寸博士 の名 が みえ な
いので、彼 が② の 「
朝宰」 に含ま れ て いた ことは十分考えられる。 違と し て戎 器 の携行 の有無 があ る。寛 国債 に支 給 された戎 器 に つ
1
7
6
るため の武 器と みた い。そう した武器を携行 しなければならな い
いては 、 のち遣唐 使 の大使 や蝦夷征 討軍 の将軍 に授与 され る節刀
(
LI1
・
]
の役割 があ ったとす る考え もあ るが、 ここでは不測 の事態 に備え
を授けら れること の現実的な有効性 は ほと んどな いと言 ってよ い。
南島人 に対す る授位 は これ以後慣 例とな るが 、南島 人 にと って位
みえ るよう に献 上物 が伊勢大神宮 や諸社 に奉 られた こと であ る。
と異な る のは、彼等 に対 し て授位 ・賜物 がなされた ことと '③ に
と ころで'寛 国債 によ って実 現した南島 人 の朝貢 に関し て従 来
たと推測 され る。② に多観 ・夜久 。奄美 。度感等 の人 の来朝 記事
むし ろこれは授 け る側 に大き な意味 があり 、官 僚制 と は別 の秩序
任務と は、恐 ら-未 開地を開拓し'朝貢圏 の拡大を図ること であ っ
が みえ るが、 これは明らか に寛 国債 の成果 の 一部 であ る。ただ し
形成を 目的と したも のであ ること が指摘 され て い
者 国 や夷
度感す なわち徳之島 以外 はす でにこれ以前 からす でに交渉 のあ っ
秋 への授位 は、支配者 にと って の対外的政治 関係 の指標 であ り '
聖
た地域 であ る。したが って結果的 には徳之島を新た に開拓 した に
中華意識を充足 せしめるも のであ った。
伊勢大神宮 や諸社 への南島献 上物 の奉 納 に ついては'中村 明蔵
最初 のう ち はそう した珍品 は個 人 の所有物と し て重 宝 された ので
あ ろう 。
も な いが' こう した こと は度重 な る経験 の後 に生じるも のであ- '
ただ 賜物 に ついては、持ち帰 ってから の再配分も考え ら れな-
る
すぎ な いが 'それ でも徳之島 が初 め て朝貢 した こと は'寛国債 の
(
16
)
最大 の成 果と し て特筆 す べき こと であ った のだ ろう 。
一方 '寛 国債 の派遣 が遣唐 使派遣 の三年前 であ る点 にも注意を
払う 必要 があ る。大宝 の遣唐使 が新律令 の制定を唐 に示す ことを
武 二年 の時点 で'遣唐使 の派遣 は当然 政治 日程 に のぼ って いたと
氏 は伊勢神宮 の斎王 や式年 遷宮 の制度 が天武 ・持続朝 に整えられ'
一つの目的と し て派遣 された こと は つと に指摘 され て いる蛸 ,文
思われ 'それ に備え た新航路 の開拓 が寛 国債 の使命 の 一つであ っ
また神格化 された天皇 の祖神 を祭 紀す る聖所と し て固定 化 され つ
十 二月 に新羅 の調を伊勢 ・住吉 ・紀伊 ・大倭 ・菟名足 の五社 に奉 っ
た可能性 は高 い。 これま で の北路を捨 て新航路 の開拓 に着手 した
を介 せず主体的 に唐 と直結 した外交 あ る いは文化輸 入 ルート の確
(
18
)
保を 目指 した 、律令 政府 の気概 の表 れと みられ る。か つて蝦夷を
(
19
)
帯通 し '蝦夷 の歳毎 の入貢を唐 に誇示 したよう に、南 の朝貢地域
た のを はじめ'文武 二年 (
六九 八)正月 には新 羅 の貢物 が諸社 お
のはう後 述す るよう に、新 羅と の関係悪化 が原因 ではなく '新 羅
であ る南島 を経由 し て入唐 す る ことも '唐 に対 し て大 いに誇示 で
つあ ったと し て、そう した行為 の政治 的 ・宗 教的意義を指摘 し て
(
21
)
いる。
き ること であ っただ ろう 。
。
h
I
)
こ のよう に、億を遣 わし て国を覚 めさせた主 た る目的は'南島
知られるから'③も そう した中央政府 の国家意 識 (
対外意 識 )す
月 には伊勢大神宮 および七道諸社 へ新羅 の調が奉献 された こと が
なわち華夷思想 に立脚 した朝貢物扱 いの具体 的な行為を 示すも の
よび 天武 天皇山陵 にそれぞれ供献 され、慶雲 三年 (
七 〇六 )閏正
しかし蕃 国 ・夷秋 の奉献 例と し ては他 に、持続 六年 (
六九 二)
の朝 貢圏 の拡大を 図 ることと遣唐使 の新航路 の開拓 にあ ったと考
え られ る。
177
と解 した方 がより明確 であ る。
蝦夷 及南島 七十七人 、授 レ
位有 レ
差。
とあ る。
列させられ て万物を貢 じ、また正月 の節宴 にお いて授位 され て い
これ によれば '和銅七年 (
七 1四 )十 二月 五日 に太朝 臣遠建治
3 和銅期 の 「
寛 国債」
和銅期 にも南島 へ健 が派遣 され て いる。派遣記事 はみえな いが、 等 に率 いられ て来朝 した南島人 は蝦夷ととも に元 日朝賀 の儀 に参
﹃
続 日本紀 ﹄和銅 七年 (
七 1四)十 二月戊 午 条 には次 のよう な帰
る。今泉隆雄氏 によれば 、七世紀 には個別 に行 わ れた蝦夷 の朝 貢
組 みこま れると い う
梢
人 の朝 貢 には特別 の意味 があ った。 それ
は 首 皇
, こ の霊亀 元年 の朝賀 におけ る蝦夷と南島
おひ
と
子立太 子後 最初 の
行事 が、八世紀 にな ると朝廷全体 の行事 であ る朝賀 。節宴 の中 に
朝 記事 を載 せ て いる。
少初位 下太朝 臣遠建治等 率二
南島奄美 ・信 覚 及珠 美 等 鳥 人 五
十 二人 l
、至レ
自二
南島 t
。
(
22
)
信覚を 石垣島 、球美を久米島だ とす ると '今 回初 め て奄美以南
朝賀 の儀 であ ったと いう こと であ る。 ﹃
続 日本 紀 ﹄ 霊 亀 元年 正 月
発巳条 によれば 、「
今年 元 日'皇太 子始拝 レ
朝 、瑞雲 顕見」と し て
の島 々の人 が来朝 した こと にな る。
南島 へ派遣 された太朝 臣遠建治 の性格 に つ いて' ﹃日本古 代 人
子 の存在を強くピ ー アー ルす るも のであ った こと がう かがえ る。
を多 観嶋 司 の 1貞 (
位 階 からは史生 ク ラス)か南島を管轄す る大
(
23
)
事府 の官 人 の いず れか であ っただ ろうと推定 し て いる。 これ に対
のは不自 然 であ ることなどを 理由 にこれを否定 し、大朝 臣遠建治
遣 の寛 国債 であ ったとす ると 、十数年も任務を継続 したと考え る
朝貢圏 の拡大を 目的と した中央 派遣 の寛 国債的性格を有 し て いた
正月 の儀式を念 頭 にお いて大朝 臣遠建治等 を南島 に派遣 した 可能
らしめるも のであ った 。
南島人 の参列 は、 そう した特別な意味をも った朝貢 の儀を盛大 な
天下 に大赦を命 じ る詔を出 し ており 'こ の年 の朝賀 の儀 が首皇太
名 辞典﹄ には 「
南島寛 国債」とあ るが'永 山修 7氏は'文武 二年
以降寛 国債派遣 の記事 は みえ な いこと 'も しも これを文武 二年派
し て鈴 木靖 民氏 は、中央 ・大事府 ・多観嶋 の いず れ の宮 人 であ ろ
う とも '文武 二年 の寛 国債と 同様 な目的をも って'和銅七年 に程
(
24
)
逮 -な いそれ以前 の時点 で南島 へ派遣された傍と解し た 。
と ころで ﹃
続 日本紀﹄霊亀 元年 (
七 1五)春正月甲申朔条 には'
天皇御 二
大極 殿 i
受レ
朝 。皇太 子始加 二
礼服 1
拝レ
朝 。陸奥出 羽蝦
夷井南島奄美 。夜久 ・度感 ・信覚 。球美等来朝 、各貢二
万物 1
。
(
後略 )
こと はほと んど否定 でき な い。
こ のよう にみ てく ると 、大朝 臣遠建治 を文 武期 の遣使と 同様 '
分な効果をあげた であ ろう 。
彼等の朝賀 への参 列 は律令 国家 におけ る中華意識を誇負 す る に十
いう意味 では、これま でで最大 の成果を 得 た こと にな る。そし て
信覚 (
石垣島 )から の朝貢を実 現 でき た こと は、朝 貢圏 の拡大 と
性 は十分考え られ る。そ の結果 、はるか南方 の球美 (
久米島 )や
したが って首皇 子 の立太 子は和銅七年 六月 であ るか ら、翌年 の
とあ-、同月戊成条 には、
1
7
8
さら にこ の三年後 の霊亀 三年 に遣唐使 が出発 し て いること から
す れば 、南島 路 の保全 に関す る任 務を帯 び て いた ことも推 測され
よ、
つ。
とあ- 'す でにそう した前例 が みえ るから であ る。
﹃
続 日本紀﹄ には事前 に南島 へ倭 が派遣 された ことも 、ま た遣
使 に引率 された こと も みえ な いの で、 これ は南 島 人 の主 体 的 な
「
朝貢」と みなす他 はな い。 こ のよう に'大 勢 の南 島 人 が自 ら の
ろであ る。しかも これが慶雲 四年 (
七〇七 )、和銅七年 (
七 l四)
'
意思 で 「
朝貢」を行う よう にな った こと は大 いに注 目され ると こ
る のはそ のことを明瞭 に示 し て いる。
の朝貢と みなした のであ る。位を授 け 「
達 人を懐 -」と記 し て い
なか った であ ろう が 、華夷思想 に基 づき律令 政府 は これを南蛮 人
も っとも彼等 に朝貢観念 はな- 、あ-ま で交 易 の意 識 しか持 た
∼七年 の間隔であり、そこに定期性がうかがえ るのも みのがせな い。
霊亀元年 (
七 一五)
'養老四年 (
七 二〇)
、神亀四年 (七 二七 )と 、六
4 南島社会 の階層化
。
﹃
続 日本紀﹄ にはこ の他 、次 のような南島 人 に対す る授位記事
が みえ る。
・養老 四年 (
七 二〇)十 1月丙辰条
南島 人 二百珊 二人 '授 レ
位各有 レ
差 。懐 1
1
遠人 山
也
・神 亀 四年 (
七 二七 )十 1月 乙巳条
南島 人百粁 二人来朝 。叙 レ
位有レ
差。
鈴木靖 民氏 は 'これら の南島 人はそれぞれ翌年 の朝賀 に列席 し
と ころで、日本古 代国家と の朝 貢 によ る関係を外 的な 一契機 と
し て、南島社会 に 「
身 分階層」 が発生 したと の問題提起を行 った
のは鈴木靖民氏 であ る呼
た可能性 があり 、﹃
続 日本紀﹄ の十 1月 の日付 は来 朝 (入京 ) の
時を指 し '授位 のこと は翌年 であ った可能性も存 す ると述 べて い
(
粥
)
る。確 か に十 1月と いう寒 い時期 にわざ わざ南島人が来朝 し て い
ら の記事 に着 目し、「
代表 の島 民を送り出 す こと の でき る よう な
これ以前 、す でに国分直 一氏 は、 これ
る のは、朝賀参 列を前提 にしたも のであ ったことを想定せしめる。
確 か に上述 のよう に南 島 人 が主 体 的 に、 し か も ほ ぼ定 期 的 に
しか し和銅七年十 二月 の来朝 '翌正月 の朝賀参列 の例と比 べれば、 政治的社会 の形成 のあ った こと が推定 され る」と 述 べ、当時 の南
(
28)
島社会 が原始社会を脱 し て いた 可能性を指摘 し て いる。
やや早すぎ る入京 のよう にも 思われ る。また史料を忠実 に解す る
限り十 一月 の授位 は否定 し難- '﹃
続 日本紀 ﹄ は南 島 人 の来 朝 と
めたり 、船 や水手 の差配と い った ことを行う 人 の存 在 な し には無
「
朝貢」を行 って いたとすれば 、代表者を 選定 し、「
朝 貢物」を集
私見 によれば 、 こ の時 の南島 人 への授位 は太極殿 ・朝生 におけ
理 であり 、そう した島内 の実力 者な いしは指導 者的 人物を生 み出
授位を まと め て記 したと考え るには無 理があ ろう 。
る朝 賀参 列 に伴うも のではな- 、大事府 へ入貢 し てきた南島 人 に
す社会 が八世紀 の南島 には形成 され つつあ ったと みなけ れば なら
な いであ ろう 。
もち ろん今 のと ころ、南島 の先史時代 の遺跡 から階層社会を裏
対 し て京 から億 を派遣 し て位を授 けたも のと解 される。と いう の
遣二
便於大 事府 一
、授 二
南島 人位 ㌦ 賜レ
物各有レ差 。
は '﹃
続 日本紀 ﹄慶 雲 四年 (
七〇七 )七月辛 丑条 に、
179
付け るよう なも のは何 1つ出土 し て いな いので、これはあくま で
理論的仮説 にとどま るが、そ の蓋然性 は高 いと考え て いる。
三 律令 国家 と南島 の関係
- 南島支 配 の拠点
これま で天武朝 から聖武朝 の神亀年 間ま での南島 への遣使 およ
び南島 人 の来朝 に関す る記事を検 討 し てき たが、大和政権な いし
それ では律令 国家 の南島支 配 の拠点 に位置づけら れた奄美 の役
割 は何 であ ったか。和銅 七年 に大朝 臣遠建治 が南島 に派遣 され 、
は るか南方 の信覚 や球美 の人が朝 貢 に応 じ て いるが 、中央 から の
遣使が水先案内 人なし に果たし ては るか南 の地域ま で行けた のか'
しかも 遣使 の話す大和 の言葉 によ ってそ の意 図を南島 人 に伝え 、
短期間 に説得し朝 貢 の準備を整え させ ること がなぜ でき た のか。
こう した こと は媒介者 の存在 な し には到底考え難 い。そう した媒
介者 に奄美 人があ てられた可能性 があ る。
二人、神亀 四年 (
七 二七 )十 一月 に百 三十 二人 の南島 人 が来朝 し
また ﹃
続 日本紀﹄ には、養老 四年 (
七 二〇)十 1月 に二百 三十
と ころで海 に浮か ぶ複数 の島 々を支配す るため には、そ の拠点
位を叙 された こと が みえ るが、 これは前 述 のよう に'それま で の
は律令 国家 の南島支 配 の経緯 があ る程度 把握 でき た であ ろう 。
とな る べき島 が当然存在 したはず であ るが、天武期 に最も重視 さ
来朝と異な- 、南島 人 の主体的 な朝貢 であ る可能性 が高 い。 こ の
な のかは不明 であ るが、も しも後者だとす れば 、南島 間 で何 らか
れた のが多 硝島 であ った こと から、そ こが大和政権 の南島支配 の
多 踊島 は多 勧嶋 と いう 一つの律令行政区 に編成 され、南島 の対象
の示しあわせや調整と い った こと が行 われたことも考えられよう 。
大量 の南島人 が、特定 の島 の人 のみであ った のか '複数 の島 の人
は奄美 以南 の島 々にな る。そ こで多 蘭島 に代わ るあらたな南島支
そ の場合 、当然 のことながらまと め役 が存 在 した はず で、それ に
拠点 であ った こと は十分考え られ る。しかし大宝令施行を契機 に
配 の拠点と し て注 目された のは奄美 であ った 。
に並 べたも のでな いこと は 、夜 久 が奄美 の後 に記され、信覚 (
石
され て いるが、島名 の記載 順が版 図 に近 い島 から遠 い島 へと単純
亀 元年 (
七 一五)正月甲申朔条 によれば 、奄美 が南島 の筆頭 に記
当時 の船 がど のよう なも のであ った のか知 るす べも な いが 、百人
向 か った ことも考え られ る。南島 閏な いしは南島と大事府を結 ぶ
ではな- 、 い った ん奄美 に集合 L tそ こから船 に便乗 し大事府 に
そし て朝貢 に際 し ては、個 々の島 が別 々に大事府 に出発す る の
奄美 の首長 クラ スの人があ た ったと推測 され る のであ る。
垣島 )よ-球美 (
久米島 )が後 にな って いることからも推察 され
から 二百人 の来朝 とな ると数隻 の船 団を組 ん で出 かけた のかも知
前掲 の ﹃
続 日本紀 ﹄和銅 七年 (
七 一四)十 二月戊午条 および霊
る。奄美を最初 にも ってき て いること は、律令 政府 が南島 の中 で
れな い。
家 の南島支配 の拠点と し て重 要な役割 を果たしたも のと思われる。
こ のよう に'今 日 の種 子島と奄美大島 は大和政権 および律令 国
奄美を重視 したあ らわれ であ ろう 。 これは天武妃十 1年 七月丙辰
条 の多 硝人を先 に記 し、阿麻弥 (
奄美 )人を最後 に記 し て いるこ
とと比 べると より 明らかとな る。
1
8
0
- 華夷思想と南島人
周知 の通り、律令国家 の対外意識は中国 の政治思想 である華夷
(
29
)
想 をもと に形成 された。すなわち石母田正氏 によれば、天皇ま
思
たは国家 の統治権 の及ぶ範囲を 「
化内」とLtそ の外部 の領域 で
-
'
天皇 の徳 (
「
王化」「
徳化」)の直接及ばな いと ころを 「
化外 」 と
し て区別し、「
化外」はさらに 「
隣国」 =唐 、「
蕃国」 -新羅 ・勃
(
30
)
化外」 のこう した区別
海など の朝鮮諸国に区別されると い う 。「
は'公式令集解詔書式条 の古記 に基づ-が、あくま でも国と国 の
お
関係 に ついて言え ること で、国 (
日本 )と人 (
外国人)の関係に
(
31
)
お いては、唐人も朝鮮諸国 の人もす べて 「
化外人」 であ った。ま
た令文および ﹃
続 日本紀﹄をみる限り'唐も 「
蕃国」 の 1つに位
(
32
)
置づけられ て
前掲 の古記 のよう に、「
蕃国」 と 「
隣国」 を
(
33
)
対立させる解釈は誤- であ ろう。
「
化外人」 にはこの他 、日本列島内 にあ-ながら国を形成しな
夷人雑類'謂二
毛人 。肥人 ・阿麻弥人等類 J
0
とあり、「
夷人雑類」として毛人 。肥人 。阿麻 弥人を 例示 し て い
るが、毛人は蝦夷、肥人は肥後南部 の球磨地方 の居住人で、隼人
と同様 の性格 の集団と見なされるのに対して、阿麻弥人は奄美 の
人 のみではなく、奄美以南 のいわゆる南島人 の代表としてそれぞ
れ解されるからである。
ただし、これら の古記には明確 に隼人が挙げられていな いこと、
蝦夷と隼人に ついては必ずしも同質 に扱う ことはできな いことな
どから、隼人は爽秋 ではな いとする見解もあ るSA)
,﹃
続 日本紀 ﹄
新羅 )の傍が、和銅三
によれば、大宝元年 (
七〇 1)には蕃国 (
年 (
七 一〇)には隼人と蝦夷が、霊亀元年 (
七 一五)には陸奥出
羽蝦夷と南島人 (
奄美 。夜久 。度感 ・信覚 ・球美等鳥人)が'さ
らに宝亀三年 (
七七 二)には蕃国 (
潮海 )便と陸奥出羽蝦夷が、
元日の朝嚢 の儀に陣列してお- 、日本的中華国家を現出す る上 で
重要な儀式 に、隼人が蕃国債 や蝦夷 。南島人ととも に 一定 の役割
を演じていることから、夷秋として扱われ ていたことは否定 でき
な いであ ろう。
である。南島人が 「
夷秋」とされたこと に ついては全く疑問はも
たれな いが、南島人と蝦夷を対比す ると、隼人以上 の隔た-があ
る。
蝦夷と同 1に扱えな いのは隼人に限らず南島人 の場合 でもそう
在京夷秋、謂︼
]
堕羅 。舎衛 。蝦夷等 l
。又説、除二
朝碑 ,
外、在
討 の歴史がな いと いう こと であ る。確かに多爾島 の場合は、大宝
い蝦夷 。隼人 ・南島人等と い った、未だ 「
王化」 「
徳化」 に服さ
な い集団も いるが、それら の集団は 「
蕃国」と区別され 「
夷狭」
と称された。彼等は人種的 に日本人と同人種 で異民族 ではな-、
(
34
)
あ-ま で政治的要請 に基づ いて設定された疑似民族集団である。
京唐国人等 、皆入二
夷秋之例 一
。
(
35
)
とあ-'在京 の爽秋として堕羅 。舎衛と いった日本 に漂着した外
二年 に 「
隔レ
化逆レ
命」として兵を発し て征討されることがあ った
蝦夷 ・隼人 ・南島人を 「
夷秋」とするのは古記 の解釈 に依拠し
て いる。すなわち、職員令集解玄蕃寮条所引 の古記に'
国人 の他 に'蝦夷を引き合 いに出し ていること、また賦役令集解
が、それは 「
校レ
戸置レ
吏」とあるよう に、多硝島 の国郡制施行 に
最大 の相違点は'律令国家と南島 の間に抵抗な いしは反乱 ・征
辺遠国条所引 の古記 に、
18 1
文化 。社会的 に大きな隔た-があ るため であ る。現在考古学 の分
それは単 に地理的 に距離が離れ ていると いう ことだけではな い。
薩摩 国 におけ る隼人 の反乱 のような事件 は、少な-とも記録上は
伴うも ので、行政区とし ての多勧嶋 が設置され てからは'大隅 ・
生じ て いな い。それは奄美 以南 の南島 に関し ても言え ること で、
北部圏は、弥生式文化 に伴う稲作 が確認され、九州地域と ほと ん
(
39)
ど同 一の文化的要素をも つ。それ に続く古墳時代 の遺跡はな いが、
野 では、土器を基準 にし て、南島を大 隅諸島 の北部圏、奄美諸島
(
38)
および沖縄諸島 の中部圏、先島諸島 の南部圏に三区分しているが、
和銅七年 に大朝臣遠建治が南島に派遣された際に地元の抵抗にあ っ
たよう な形跡はな-、奄美 の他 、はるか遠方 の信覚 (
石虚島 ) ・
球美 (
久莱島 )から の朝貢が実現し て いる。ただし南島最大 の沖
六年 に修復 せしめ て いるが'そ の際 にも島 々で抵抗 に遭 った形跡
(
37
)
は な い 。
また天平七年 に南島 に牌を建 て'それから十九年後 の天平勝宝
調唐 の民」 に編 戸す る
普及が遅れ た地域 に班 田を行 い、住人を 「
す る のは十 ∼十 二世紀 のことと され て いる。 このよう に、稲作 の
今 のと ころほと んど認められず 、稲作農耕 が これら の地域 に定着
て いるが、弥生文化 の定着 が疑問視 され る程 、稲作普 及 の形跡 は
縄本島 のこと がみえ な いので、そこでは朝貢を拒否された のかも 須恵器が出土し、そ の流入は大和政権 の南島経営 に伴うも のと推
(
40
)
知 れな い。しかし衝突す るような事態 には至らなか ったであろう。 測され て いる。これに対し て中部圏は、縄文文化は確実 に浸透し
こ のよう に南島 人 の朝貢 は、服属 の証と し て強要される蝦夷や
蝦夷 や隼人 の反乱は、 いずれも内国化を押し進 め てい-律令国
内国化す ることはあきらめ、専ら化外 の 「
朝貢国」とし て位置づ
したが って、早 い段階から律令政府とし ては奄美以南 の島 々を
ことは所詮無 理 であ った のであ る。
家と独自 の生活 ・文化を碓持 した いとす る蝦夷 ・隼人と のせめぎ
隼人 のも のとは性格を異 にす るも のであ った。
あ いによ って生じ て いるが、奄美以南 の南島人 の反乱が特 に認め
が華夷思想 に基づ いて設定したあくま で疑似民族集 団 に他 ならな
け ていた のではな いかと思われる のであ る。 「
夷 秋 」 は律 令 国 家
いのであ るから、蝦夷 や隼人 。南島人等 、質 の異な るさまざまな
られな いと いう のは'律令 国家が例えば 「
南島国」な いしは 「
奄
美国」 のような行政区を強引に設定しようとしなか ったから であ
律令国家が 「
蕃 国」 「
夷秋」を設定 した のは 、自 らを 「東 夷 の
集団が いてもそれ程不思議 ではな いのではなか ろう か。
ながら現実的に困難であることを悟 って断念したのかはわからな い。
小帝国」とし て大唐帝国と対等 の外交 関係を結 ぶため であ ると し
ろう。律令政府 が当初からそ の意思をもたなか った のか、計画し
佐渡 ・隠岐 ・壱岐 ・対馬等 の離島 に国 (
良 )郡制が施行され て
徐 々に形成 され'八世紀初め の大宝律令 の制定によ って成立する。
(
43
)
唐 の制度 であ る外交形式 の 「
賓犯」 や外交文書 の慰労 翌 日
式も 採
,そ の 「
小帝 国」 は、七世紀後半 から
いたから、南九州と種 子島 ・屋久島 の両島と の距離を考えた場合、 た のは石母田正氏 であ るtAj
さら に南方 の奄美以南 の島 々を 「
南島国」な いしは 「
奄美国」 の
用され'また 「
蕃 国」 の新羅や 「
夷秋」 の蝦夷 。隼人 ・南島 から
多勧嶋 のような行政区が設けられたとし ても不思議 ではな いが、
ような行政区 にく- ることは現実的 に不可能 であ った。
1
8
2
紀前半 の律令国家は名実とも に日本的中華国家として存立していた。
の朝貢および元日朝薯 の儀 における蕃夷 の陣列が実現す る等 、八世
る。すなわち往路 で説明す ると次 のよう にな る。
いるが、それ によれば 'おおむね 三 つの航路 の存 在 が示 され て い
① 九州 北部から壱岐 。対馬を経 て朝 鮮半島 を西海岸 沿 いに北
上し'嚢津半島付近から西 に折 れ、黄海を横断 し て山東半島
しか し八世紀後半 から九世紀初頭 にかけ て日本版華夷 思想 は変
質 L t「
小帝 国」 の構造 の実態 が失なわれ て いく 。 す な わ ち 隼 人
。
て楊 子江 口地域 の蘇州 ・揚州 ・明州等 に入港 し、洛 陽 ・長安
長崎県 の五島列島 で順風を待 って l気 に東 シナ海を横断 し
の登州な いしは英州 に着岸 し、陸路洛 陽 ・長安 に至 る。
る
に至 る。
筑紫大津浦 から肥前 国松浦 郡庇良島 (
平 戸島 )を 迂 回し'
天草島 ・薩摩 国 の沿岸を南 下し、そし て種 子島 を経 て奄美大
島な いしは沖縄本島 から東 シナ海を横断 し て楊 子江 口地域 の
③
②
や蝦夷 の内 民化 によ って 「
夷秋」 が消滅 し、また新羅 が 「
蕃 国」
な
から離脱 し てからは'潮海 の来貢 によ ってのみ 「
小帝 国」と し て
[
=
]
の威儀 が存 続 され ると いう 状態 に
以上 のよう に、日本古代 にお いて南島 (
人 ) への関心 が生 じ、
大和政権 と の交渉 が始ま る のは 日本版華夷 思想 の形成と密接 な関
朝貢 圏 の拡大 が図られ る l方 ' 定 期 的朝 貢 が要 求 さ れ るな ど 、
港 に着岸 し、洛陽 ・長安 に至 る。
係 があ る。律令 国家 にな ると奄美 人は 「
夷狭」 に位置づけられ、
「
小帝 国」存 立 の基盤 の 一角を担う こと にな った。﹃
続 日本紀﹄ に
南島路と記 し て いる。も っとも 教科書 によ っては '② と③ をあ わ
こ のよう な航路を線 で示 し ており '① を 北路 、② を南路 、③ を
そ の後 の動静 は史料 に現わ れな い。しかし神亀 以後も律令 国家と
せ て南路と記 し て いるも のも あ る。
は養老 四年 と神亀 四年 に南島 人が多 数来朝 した こと が みえ るが'
南島 と の間 には赤木を介 した朝貢関係 が持続 され て いた。また遣
和三十 lL年 に出版 された ﹃日華文 化交 流史 ﹄ (
冨 山 房 ) の中 で 、
南島路 は存在 しなか ったとす る根拠 の 一つに ﹃
万葉集 ﹄ の歌 が
2 南島路否定 説 の根拠 と疑問
それは南島路を正式な航路とは認めな い見解が存在するから である。
よう にな ったが、す べてがそ のよう にな って いるわ け ではな い。
南島路 の名称 は定着 し'辞典 や概説書 や教科書等 でも採 用され る
南路 の 一部と し て南島を経由す る航路 が存 在 した ことを述 べて い
(
46)
る。それ に南島路と いう名称を与え た のは森克己氏 であ る。以来、
③ の航路 の存在を初 め て指摘 した のは木宮春彦 氏 であ るが '昭
唐使 の南島 路 の関係 でも南島 の重要性 は 1層高ま って い ったも の
と思わ れ る。
と ころが九世紀 以降 '南島 のこと が正史等 の公的記録 から姿 を
消す が 、 これは古代 国家 が 「
小帝 国」意 識を放棄 した こと によ(
45
)
南島 の政治的存 在意義 がなくな ってしま ったから であ ろう 。
四 遣唐使 と 「
南島 路」
- 遣唐使 の航路
高等 学校 の日本史 の教科書 には遣唐使 の航路 の図が掲載 され て
1
8
3
あ るが、国文学者 の市村宏 氏は' ﹃
万葉集﹄ 巻 1- 六 二番 の次 の
次 同様 '朝鮮半島 西南部 から東 シナ海を横断す る ルーーを採 った
唐記事 と みなす。そし て副使 の船 が遅 れた のは 、執節傍等 が第 四
したためとす る、きわ め て説得力 に富 む見解を 述 べて いる。した
のに対 し て'新航路と し ての南島路 開発 の使命を帯 びな がら入唐
歌を挙 げ る。
三野連 (
名 を開- )唐 に入 る時 '春 日蔵首老 の作 る歌
あり ね よし対馬 の渡- わた中 に幣 とり向 け て早帰り来ね
もう Tつの根拠と され る ﹃
万葉集 ﹄ の歌 は巻 五- 八九 四番 の山
が って美努連岡麻呂 が対馬を経由 し て入唐 したと し ても 、それと
に際 し て 「
対馬 の渡り」と 、対馬を経由す る北路を想定 した歌 が
宅対面 、献 三日。山上憶良 '謹上 二
大唐大 便卿 記室 l
」とあ るよう
ここにみえ る三野連と は美努連岡麻呂 で、彼 が第 七次遣唐使 の
詠ま れ て いる以上、大宝 の遣唐使 が南島路を採 って入唐 したとす
(
47
)
る考え は成 り立 たな いと市村氏 は指摘 す る。
に'第 七次遣唐使と し て入唐 した経験も あ る山上憶良 が'彼 の宅
一
て いる。
しか し これ に対 し ては森 克 己氏 が、第 1に'都 の人 々には第 七
で第九次遣唐使と対面L tそ の二日後 に記室を通 じ て、大唐大 便
は別 に南島路 で入唐 した遣唐使 のグ ループ が いた可能性も 残 され
次 遣唐使 が南島 路 によ って入唐す ること は知 られ て いなか っただ
184
l
一行 に加 わ って いた こと は墓誌銘 に 「
大宝 元年歳次辛 丑五月 、使
ろう L tも し仮 に知 って いたと し ても '新航路 に ついての知 識も
すなわち多 治比真 人広成 に献 上 したも のであ るが、勅旨 を奉 じ て
大唐 に遣わ され ることを誇- に思 い、無事務 めをすま せ早-帰 っ
乎唐 国」とあ ること から明らか であ る。そ の美努連岡麻呂 の入唐
な いので歌 に詠 めなか った であ ろう こと 、第 二に'歌人と いうも
関係 で指摘 され て いる のが次 の 〓即であ る。
還らむ 日には また さら に 大御神 たち
船軸 に御
手うち懸 け て 墨縄を
事 了り
てき て欲 し いと の思 いが託され て いる。そ の中 で遣唐 使航路と の
上憶良 の 「
好去好来歌」 であ る。 それは 「
天平 五年 三月 一日、良
のは先 人 の歌 詞を受 け継ぎ 、現実 から遊離 しがち であり 'こ の 7
(
48
)
首 では決 め手 にならな いことを挙げ反論し て いる。私も これに賛
こ のことをも って第 七次遣唐使 が南島路を 用 いなか ったと断定す
岬よ- 大伴 の 御津 の浜 辺 に 直泊 てに 御 船 は泊 てむ
成 であ るが、百歩 譲 って美努連 岡麻呂 が北路 で入唐したとしても、
ること は でき な い。なぜなら山尾幸 久氏 が推定す るよう に、大宝
事を終え て帰 ってく る際 には 、神 たち が船軸を手 にかけ て船を
志無 く 幸-坐し て 早帰りま せ
あちを かし 値 嘉 の
二年 に出発 した第 七次遣唐使 は 二手 に分かれ て行動 した ことも十
(
49
)
分考え られ るから であ る。
引 いて-ださ- 、墨縄を張 った よう に'値嘉 の岬 から難波 の浜 辺
延 へた る如 -
山尾氏 は 、遣唐執節便栗 田朝 臣真人 の入唐年次 に ついて大宝 二
国文学者 の山崎馨氏 によれば 、借着 の岬 は 五島 列島福 江島 の三
に到着す る でし ょうと詠 ん で いる。
六 ) 二月 に 「日本 国遣使来朝」と記され て いること に注 目し、こ
井楽湾を か こむ岬 で、そ こは南路 の発着地 であ ったか ら、山上憶
午 (
七〇 二)十月を妥当 と しながらも 、﹃
元亀 ﹄ 神 龍 二年 (
七〇
れを 三年 遅れ で帰朝 した こと が知 られ る副使 の巨勢朝臣邑治 の入
。
を 示す こと にしよう 。
第 一は '実 際 に南 島を 経由 した遣唐 使船 の事 例 が確 認 され ると
いう点 であ る。たとえ ば 天平 四年 (
七 三 二) に任命 され '翌年 入
る
良 は少 なく とも 第 九次 遣唐 使 の復 路と し て南 路を想定 し て いたと
(
50)
しか し南 島 路 の場合 でも 値 嘉 の岬 を経由 した 可能性 があ - 、 こ
悪風 が起 こ って諸船 が漂蕩 し 、彼 此相失 したと いう 。 そ のう ち 大
唐 した第 九次 遣唐 使 の場 合 、天平 六年 十 月 に蘇 州を 解 蔑 した が 、
す
こ では 、たとえ ば 「
延喜 陰 陽寮式 」 の健祭条 に 、 「四方 之 堺 、 東
便多 治 比真 人広成 が乗 った第 一船 は越 州 の界 に漂着 した が '十 1
方 陸奥 '西方 遠億 嘉 、南 方 土佐 '北方 佐渡 」と あり 、遠値 嘉 が 日
本 の西 の境 界と考え ら れ て いた よう に'「
隣 国 」 唐 に接 す る 日本
久 之埼 か ら遣唐 使 が 「
指 レ西度 レ
之」 と みえ 、そ の地 が遣唐 使船 の
確かに ﹃
肥前 国風 土記﹄ 松浦 郡値 嘉 郷条 には '値嘉 島 の美 弥良
書」 の天平 八年度 薩摩 国正税帳 には 、
唐 した後 、天平 八年 八月 二十 七 日 に拝朝 し て いる が ' 「正 倉 院 文
る。ま た副使 中臣朝 臣名 代 の第 二船 は漂 流 し て南 海 に入 - 、再 入
国土 の果 てと いう感覚 で 「
値嘉 の岬より」と詠 んだ のかも知れな い。 月 二十 日 には多 硝島 に着 き 、天平 七年 三月 十 日 に節 刀を 進 め て い
発 着 地点 であ った こと が知 ら れ る。ただ九 州 の風 土記 には甲類と
酒伍 斜参 斗
遣唐使第 二船 供給頴 稲 漆拾 伍 束 陸把
と みえ る こと か ら '第 二船 が薩 摩 国を 通過 した こと は明 ら か であ
る。した が って第 九次 遣唐使 の第 一船 と第 二船 はと も に南島 経 由
乙類 の二種 の型 が存 在 し ,上 記 のこと は甲類 にみえ て いる蛸 、そ
(
52)
の甲類 成 立 の絶 対 年 代 に ついては議論 があり 、 田中卓 氏 は、延長
三年 (
九 二五 )十 二月 十 四 日 の風 土記勘進 以後 、天慶 六年 (
九四
(
53
)
≡ )以 前 と し て いる。 こ のよう に ﹃
肥前 国風 土記﹄ の成 立 が遣唐
続 - 天平 勝宝 四年 に入唐 した第 十次 遣唐 使 は 、同 六年 に鑑真 を
で帰朝 したと みられ る。
航 路 であ った南 路 を念 頭 に書 かれ る のは当 然 であ る。した が って
伴 って帰 国 の途 に ついた が '鑑真 の伝 記 であ る ﹃
唐大和上東征伝﹄
使 の停 止 か らか なり後 のこと であ ったと す ると 、最後 の遣唐 使 の
こう し た こと を 南島 路 の存 在 を 否定 す る根 拠 とす る には不十 分と
と ﹃
続 日本紀 ﹄ によ れば 、遣唐 使 1行 は同年 十 一月十 六 日蘇 州 の
。
こ
と第 三船 は益敷 島 (
屋久島 ) に着 いた が 、第 一船 は途 中座 礁 し 、
ず れた よう であ るが '第 三船 は 二十 日 の夜 に'第 一船 と第 二船 は
(
55
)
翌 日、阿児奈 渡 島 に到着 し て いる。 そ し て十 二月 七 日 には第 二船
黄 潤浦を 出 発 し、第 四船 は海 上 で船 尾部 分 か ら失 火 し船 団 か ら は
言 わざ るをえ な い。
い る
な お最近 '漂着 し て南島 を 経 由 した例 はあ るが 、計 画的 な南島
(
54
)
路 の存 在 を 立 証す る こと は 困難 と す る見解 が提出 さ れ て
れ に ついては次 節 の中 で触 れ る こと にした い。
り '結 局 '唐 国南 辺健 州 に漂着 し て いる。第 二船 と 第 三船 は 'そ
どう にか脱 出 し て奄 美島 を 目指 したも のの、そ の後 行方 不明 にな
私 は南 島 路 は正式 な航 路と し て存 在 し 'あ る時期 の遣唐 使 は計
の後 十九 日 に益放鳥 を 出発 した が 、翌 日 の風 雨 で海 上を 漂 い'第
3 南島 路 の根拠
画的 にそ の航路 によ って入唐 ・帰朝 したと考 え て いる。そ の根拠
185
第 十 次遣唐 使船 が沖 縄本島 から薩 南 諸島 ・九 州 本島 を 目指 しな が
確 か に第 九次 および第 十次 遣唐 使 の帰途 の場 合も 遭 難 した こと
ら 三船とも 予定 通 り に目的 地 に到着 し て いな い当 時 の航 海 技 術を
二船 は薩 摩 国 阿多 郡秋妻 屋浦 に'第 三船 は紀 伊 国牟漏 崎 にそれ ぞ
遣唐 使船 の南島 経由 が史 料 的 に裏 づ けら れ るも のは上記 の二例
考え た場合 、中 国本 土 から東 シ ナ海を 越え て特 定 の島 を 目指 す こ
は記 され て いるが 、それ が 五島 列島 を 直接 目指 し て遭難した のか、
のみ であ る。南島 路 否定 説 の論 者 は 、 こう した 二例 がとも に'帰
れ漂着 した 。 こ のよう に第 十 次 遣唐 使 の場合 は 、帰 路 に南島 を経
途 にお いて漂着 した ケ ー スと し て記 録 さ れ 、実 際 に南島 路 によ っ
と は不可能 で、九州 本島 を 目指 しな が ら、九州 本島 の いず れ の地
奄 美 ・沖 縄 地方を 目指 し て遭難 した のか決 めがた い。杉山宏氏は、
て入唐 した ことを 示す記事 は みえ な いことを指 摘 す る。しか し こ
由 した こと が最も 明瞭 であ る。
れ は史 料 の残存 状 況 に起 因す る ことも 考え な け れば な らな い。た
か 、そ の付近 の何処 か に到着 でき れば よ いと いう 程 度 のも のでは
(
60
)
な か った かと 述 べて いる。ま た第 十 次 遣唐 使 の帰 国 の場 合 、季節
計 ㌦ 五人之 中 、門部 金採 レ
竹為 レ筏 '泊 ,
手 神島 ㌔ 凡此 五人 '
合レ
船 没 死。 唯有 二五人 一
、繋 1
1
胸 一板 1
涜 コ遇 竹 島 J
t 不レ知 二所
被レ
遣二
大庸 一
侵 入 高 田根 麻 呂 等 、 於 二薩 麻 之 曲 ・竹 島 之 間 ∴
風向 。風 力 。海 流 など 同じ条 件 下 であ れば 、自 力 航 行 でな- ても
お こりう ると いう 。
日違 いで阿児奈 渡島 に着 いて いるが 、 こ のよう な 到着 の仕方 は 、
はず れ て漂流 し て いるが、 そ れ にし ても 四船 のう ち 三船ま でが 1
風 の関係 か らし ては条 件 は悪- 、そ のた め 1船 は途 中 コー スか ら
186
一
一
とえ ば ﹃日本書 紀 ﹄自 推 四年 七 月条 には 、
経 二六 日六夜 ]
'而全 不二
食飯 l
。於 レ是 、 褒 コ美 金 1
' 進 レ位 給レ
摩 の曲 と竹 島 の間 で遭 難 し た ことを 伝え て いる。 これ に つ いて谷
と あ- '日 経 四年 に遣 唐 使 と し て進 発 した高 田根麻 呂 一行 が 、薩
的地 に到着 したと みた方 が よ いのではな か ろう か 。
載 がな いのは気 にか か る。 やは- 予定 通- 三船 とも無 事 目指 す 目
的 よく 記 され て いるが、阿児奈 渡島 到着 に関 し て全 - そう し た記
しかし ﹃
唐 大 和 上東征 伝 ﹄ には遭 難 な いし は苦 難 のこと は比 較
禄。
森 鏡 男 氏 は 、北路 を採 -遭 難 したも のと 述 べ て いる(鱒 ,木 宮春彦
(
E
=
)
(
58
)
氏 や森 克 己 氏 は南 島 経 由 で入唐 を 企 てた先 駆 と 解 し て いる。
の存 在 であ る。
ま たま往 路 にお いて遭 難 した た め に史料 に残 ったと 思わ れ る。し
ろう 。 こ の時期 に南 島 路 を採 ろう と した 理由 は 不明 であ るが 'た
修 樹 、毎 レ
牌 顕 著 乙島 名 井 泊 レ船 処 、 有 レ水 処 、 及 去 コ就 国 山
行
高橋 連牛養 於南島 ︼
樹レ
牌 。而其 牌 経 レ年 今 既 朽 壊 。 宜 下依 レ旧
勅二
太宰府 .
日 '去 天平 七年 、散 大弐 従 四位 下 小 野 朝 臣 老 遣 二
第 二は 、 ﹃
続 日本紀 ﹄ 天平 勝宝 六年 二月 丙 戊 条 に みえ る 南 島 牌
ま
た岸 俊 男 氏 は百済 南端 か ら東 シナ海 を横 断 した事 例と し て い
㌔
.7
∵
るが 、遭 難 地点 から し て木 宮 ・森 両氏 の如- 解す る のが穏当 であ
た が って往 路 の場 合 でも 、遭 難 など '何 ら か の ハプ ニングがあ っ
程甲遠 見 二
島名 ∴ 令中漂 着 之船 知上レ
所二
帰向 l
。
す なわち これ によれば '天平 七年 に大 事 府 の宮 人を 南島 に派 遣
た場合 には史 料 に残 る可能 性 は大き いが 、逆 に、無事 入唐を 果 た
した場 合 は特 に正史 には記録 しな か った であ ろう 。
したが って今 のと ころ 「
延喜 大蔵式」 の条文 は、北路 および南島
と ころで奄美 訳語とな った人物 に ついても 興味 がも たれ るが、
し て、島 の名称 。碇泊地 ・水 のありか '航程等を記 した牌を建 て
天平勝宝 六年 二月 に'大事府 に対 し てそ の修復を命 じ て いる。天
史料上 これ に任 ぜられた人は みあ たらな い。鈴木靖 民氏 は奄美 の
路を採 用した時 の実状を反映 したも のと考え て いる。
平七年 の牌 の設置 、天平勝宝 六年 の牌 の修復 が 、それぞれ悪風 に
させた が、朽壊 し て いてほと んど役 にたたなく な って いるため、
遭 って苦難 の末 に帰朝 した第 七次 、第十次 の遣唐使 によ って提言
言語を解す る人が本土 に いた ことを想定 し ており '彼等 を本 土 の
(
61
)
人 であ った可能性を示唆 し て いる。確 か に、多 爾 ・扱玖 人ととも
されたも のであ ること は十 分推 測 でき る。 こう した牌 の設置およ
第 三 に、「
奄美 訳語」 の存在 であ る。 「
延喜大蔵式」 では入唐傍
南島路 におけ る道 し る べ的 なも のと し て建 てられた のであ ろう 。
性 はあ るから、南島 の牌 が南路 によ る漂着 のた めだ け ではなく 、
り 理解 しやす い。すなわち島伝 いに航行す る場合 でも遭難 の危険
たも のと いう よ- 、南島 路 の存在を前提と したも のと みた方 がよ
訳語は奄美 地方 の言葉 に限らず '沖縄諸島 の方 言 にも 通 じた人物
帰路 のよう に阿児奈 波島 に寄港 す る場合も想定 され るから '奄美
能性も否定 できな いと考え る。 いず れ にし ても 、第 十次遣唐使 の
す ることもあ った のではな いか。少 なくとも 地 元 の人をあ てた可
来朝 した奄美 人 の中から入唐倍 のメンバーと し て訳語を 選び養成
に阿麻弥 (
奄美 )人 の度重 な る来朝 によ って奄美 諸島 の言語を解
(
62)
す る人があ る程度出 てきたと し ても 不思議 ではな い。しかし逆 に'
び修復 が、南 路を採 って遭難 し南島 に漂着 した時 のことを想定 し
の役職 に応 じた支給法を定 め て いるが'そ の中 に 「
新羅 ・奄美等
条 によ れば 「
右京 人正 六位 上長倉 王配二
多勧嶋 ,
。以二
言語不詳 一
也」
おり 'また ﹃
類 宋国史﹄巻 八七 (
配流 ) の延暦 二十 二年 八月辛卯
あり 、諸蕃異域 では訳語な し では交渉 できな いこと が述 べられ て
辛亥条 には 「
諸蕃異域 '風俗 不レ同。若無 二
訳語 一
難二
以通 山
レ
事」と
が乗-込 ん で いた ことを 示 し て いる。 ﹃
続 日本 紀 ﹄ 天平 二年 三月
あ ったはず であ る。そ こでまず は島伝 いに南 下し て少 し でも 東 シ
が大き い東 シナ海を いき なり横断す ると いう のはかなり の抵抗 が
島 の西海岸沿 いに北上す る安全 な航路をと ってきただけ に、危 険
拓を 目的 の 一つと し て いた こと は十分考え られ る。従来 '朝 鮮半
述したよう に'それが来た る べき遣唐使 の派遣 に備え新航 路 の開
第 四は、文武期 に寛 国債を南島 に派遣 し て いる こと であ る。前
でなければならなか った であ ろう 。
と 、多 観嶋 では言葉 が通じなか ったと いうから'奄美等南島 の島 々
ナ海 が狭ま ったと ころから横断するのが心理的 にも抵抗が少なか っ
訳語」 が みえ る。 これは遣唐使船 に新羅語 の通訳と奄美 語 の通訳
にお いても 同様 な ことを想定 し てよ いであ ろう 。
以上、南島路が正式 な航路と し て存在 したとす る私見 の根 拠を
た であ ろう 。
地域 の人 々と の交渉 のた め であ る。問題 は これがなぜ必要だ った
述 べた。意 図的 に南島を経由 した場合と 、遭難 し偶然 に漂着 した
こ のよう に'「
新 羅 ・奄美等 訳語」を乗 船 さ せた のは これ ら の
のかと いう こと であ るが、南路 によ る遭難 ・漂着を想定 し て設置
したと す れば 、「
新羅訳語」 の存在 が説明 できず '無 理があ ろう 。 場合と では、遣唐使 l行と南島 の人 々と の接触 の回数 な いしは度
1
8
7
島路が存在 したとす ると 、遣唐使船 の寄港 が外的契機とな って南
合 いが異な- 、南島社会 に及ぼす影響 にも当然差が出 て- る。南
線 の如-まさに絶え んとし、式 に載 せる万物も僅か に赤木 のみと
し て赤木を買上し ているが、孝謙朝 以来 1七〇年も の間 '朝貢 は
すなわち ﹃
延書式﹄時代 に南島 は大事府 に隷し ており 、万物と
ずあ った。そこで、どう せ危険を伴う なら最短 の コー スをと いう
村捨三 ﹃
南島紀事外篇﹄、または田山花袋編 ﹃
琉 球名 勝 地 誌 ﹄ が
明治時代以降 の文献 でも 、たとえば伊地知貞馨 ﹃
沖縄志﹄ や西
な っていると言う のであ る。
こと にな- 、南路が採用されるよう になる。こう し て南島路は廃
しかしこ の南島路も決 し て安全とは いえず '遭難 の危険は絶え
島社会 に変化 が生じた可能性は 1段と高-な る。
止 され、そ のこと に伴 い遣唐使 に関わる南島 の記事も、以後史料
料別貢雑物とし て畿内を除-諸国 の貢進品目と数量が規定 され て
﹃
沖縄 1千年史﹄ (
初版 一九 二三年 )
、東恩納 寛 惇 ﹃
黍 明期 の海 外
誌﹄八ノ 二 、 一八九 七年 ) が最も 早 いが '次 いで異 境名 安 興
ては、中馬庚 ・隈本繁吉 「
台湾と琉球と の混同 に付 て」 (
﹃
史学雑
また研究論文 の中 で南島赤木 の貢上 に ついて言及したも のとし
とあ る。
此地 二産 スル良木 ナル ヘシ。
琉球地方此木多 シ。延書式南島赤木を献 スー アレ ハ古昔 ヨリ
﹃
南島志﹄ や ﹃
清聴紀考﹄を参照しながら こ のことを 取 り 上げ て
いるが、そ の他 、河原田盛美 ﹃
琉球備忘録﹄ にも 、
に全く みえ なくな る。
五 南島 の赤木
- 赤木 の買約過程
いるが、大事府 の箇所 に 「
赤木 、南島所レ
進。其 数 随レ得 。」 とあ
交通史﹄ (
初版 1九 四 1年 )
'神 田精輝 ﹃
沖縄 郷土 歴史 読 本 ﹄ (
疏
十世紀前半 、延長 五年 に成立した ﹃
延書式﹄ の民部下には、年
り、大事府を経由し て南島 の赤木 が中央 へ貢進 され て いた ことが
球文教図書 、 1九六八年 )がこれに ついて触 れ て いる。また角 田
一九 三七年 )
知 られる。
文衛氏も 「
上代 の種子島」 (
﹃
歴史地理﹄六九 ノ 二
の中 で、南島 の特産物とし て赤木 が存在 した ことを述 べて いる。
このことを最初 に指摘 した のは新井白 石であ る。すなわち ﹃
南
島志﹄ によれば '沖縄 の赤木 に ついて前述 のような説明を加えた
以上 のよう に、新井白 石以来 、﹃
延書式﹄ の南 島 赤 木 の買 上 に
事実 の指摘 。確認 にとどま ってお- うそ の具体的な こと に ついて
関す る記事 は知られ て いるが、 いずれ の文献 にお いても そう した
後'「
本朝式所レ
謂、南島所レ
出赤木即此。(
俗日二
加之木 l
)
」とあ る.
醍醐帝延長 五年 '勅忠平等定本朝式 '乃延書式也。時南島偽
また、天保初年 の伊地知季安 ﹃
南碍紀考﹄には次 のようにみえる。
す る記事 があ-、それによ って南島赤木 の貢納過程 および用途 が
と ころが'﹃
延書式﹄ には上記 の 「
民部式 」 以外 にも 赤 木 に関
旧隷 二
大宰府 ∴ 而其方物 、則貢二
赤木 1
'其数随レ
得云。蓋自l
I は、赤木と いう木 の説明以外 ほと んど述 べられ ていな い。
孝謙帝時 1
至レ
是 歴載 、剰百七十 、南島朝貢 '如レ
線 将レ
絶。式
戟二
万物 i
'亦惟僅 々貢二
赤木 山
耳。可三以知二
其稽疎 1
也。
18 8
あ る程度判明す る のであ る。
ら内蔵寮 へ送ら れ る二十村 に ついて 「
増減有-」と注記 し て いる
のも これと関係があるが、このように数量を定 めなか った のは '大
牢府が南島 の赤木を恒常的に獲得 できなか ったことを意味して いる。
まず ﹃
延書式 ﹄内蔵寮 の 「
諸国年料供進」 には'「
太宰府所 レ
進」
とし て 「
赤木甘柑 (
有二
増減 1
)
」と みえ る。 これ は大 事 府 の年 料
府 で製品化 し京進 す ること にな って いたSA)
,大事府 の管 轄外 にあ
軸 、親 王位記 は赤木軸 、三位 以上 は黄楊軸 、五位以上は厚 朴軸と
あ ろう か。 こ のこと は次節 の太 宰府出土 の南島名 の記 された付 礼
れ る赤 木 は租税と し て課 されたも のでなか った こと は言う ま でも
(
鵜)
な い。
太宰府 の年 料別貢雑物 は、管内諸 国から貢進 され る材料を大事
別貢雑物とし て南島 の赤 木 の貢進を義 務づけた 「
民部式 」 の規定
(
63)
さ れ 、民
- 、律令体 制 に組 み込ま れ て いな い南島 の場合 、大牢府 へ搬 入 さ
と対応す るも ので'南島 の赤 木 は太宰府 から中央 へ貢進
部省 で勘会を受 けた後 、内 蔵寮 へ保管 された ことがわ か る。
な っており '「
赤 木 。黄楊 。厚朴等 軸 、受 二
内 匠寮 L と あ る 。 同
内匠寮 にも 、
の際 に朝 貢物と し ても たらされたも のではな いかと推察し て いる。
状木簡 の解釈とも 関わ ってく るが、私は、南島 人 の主体的な来朝
また同内記 の 「
装束位記式」 によれば '神位記三位 以上 は黄楊
凡内 記局所 レ
請 位記料 '赤木軸 七枚 、黄 楊 軸 甘枚 '厚 朴 軸 百
後 は入京 は認 めず '大事府 にお いて来朝を受 け入 れ、中央 から派
おけ る元 日 の儀 に蝦夷ととも に参 列 せしめられ て いるが'そ れ以
﹃
続 日本紀 ﹄ によれば 、霊亀 元年 に来朝 した南島 人は平城宮 に
それ では太宰府 はど のよう な方法 で南島 の赤木を確保 した ので
枚 。毎年十 二月充行之 。
れ
と これ に対応す る条 文 があり ' これら のこと から、内蔵寮 へ納 入
(
64
)
た 赤 木 は 、 そ の後 、内 匠寮 にお いて軸 に加 工され 、内 記局 に
さ
送 られ てそ こで親王 の位記軸 とし て使 用された こと がわ か る。
なお年料別貢雑物 に ついては'そ の調達 ・運送 が経絡 によ って
遣 された傍 によ って授位 が行 わ れ るよう にな る。南島 人は来朝 の
(
69
)
際 に万物 を持参 し てき たはず であ- 、それが アカギ であ ったと考
牢府 の年料 別貢雑物と し て買 上 せしめること にした のが ﹃
延書式﹄
え る。そし てそ の朝貢物 のアカギは い った ん府庫 に収納 され '大
には奈良時代ま で遡 るも のがあ ること がす でに明らか にされ てお
(
65
)
(
66
)
り 、そ の源流 は調副物 に求 めら れ ると す る見解 も あ る 。 しか し '
にみえ る赤木 の規定 ではなか ったかと 思う のであ る。
な された こと '﹃
延書式 ﹄ に規定 された諸 国 の年 料 別貢 雑 物 の中
大事府 の年利 別貢雑物 に指定 された南島赤木 は 'こう した年 料 別
国 の牧牛皮 のよう に書き落 と した例 はとも か-と し て、す べて貢
と いう のは、 ﹃
延書 式 ﹄ の年料 別貢雑物 の規 定 によ れば 、 相 模
島支 配を維持 しようとす る律令 国家 の論理 であ る。言う な らば赤
たと みなけ れば な らな い。す なわち それは太 宰府を媒介 と した南
ては いるも のの、そ こには律令租税体系 と は別 の論理 が働 いて い
以上 のよう に、南島 の赤木 は太宰府 の年料 別貢雑物 に指定 され
上品 目 の数量 が記 され て いる のに対 し て'南島赤木 の場合 は 「
其
木 の貢進 が律令 国家 によ る南島 支配 の 1つの証 であ った のである。
貢雑物制 の中 にあ ってやや特異な存在 であ ったと思われ る。
数随レ得」と し てそ の数量を定 め て いな いか ら であ る 。 大 事 府 か
1
8
9
- 大事府出土 の南島木簡
sD 二三四〇
最近 '福 岡県太宰府市大字観 世音寺字 不丁地区 。
の遺構 から次 の二点 の付札状木簡 が出 土した 。
Ⅰ 掩美嶋 ×
Ⅱ 伊藍嶋 □□ ×
島名 の下 には こ の木簡を取-付け た物 品 の名称 など が記 され て
いたと推定 でき るが、わず か にⅡ の四宇 目 の木編 が判読 でき るく
ら いで、 いず れも 下半部 は折損し てお- 、肝心 の物品名 が不明な
のは残念 であ る。
南島産 で大事府 から京 への貢 上物と いえば 、文献 に現われ るも
のでは前 述 のよう に赤木 が唯 一であ る。した が って史料 に裏 づけ
年 )によれば 、 こ の地 区 の遺構 ・遺物 は土器 や年紀木簡等 の出土
え る赤木 は'材質 が赤褐色を 口
重す る モ ッコクすなわち 、奄美 の方
ではな- '近代 以降 に植え られた外来種 であり 、 ﹃延書 式 ﹄ に み
しかし植物 に詳 し い地 元 の田畑満大氏 によれば 、赤木 は自 生種
られ る最も有力 な物品と し ては赤木を想定 するのが穏当 であ ろう 。
品 から 、和銅 な いし養老期 から天平年 間 の前半代 頃と推定 され て
﹃
大宰府史跡出土木簡 概報 (二)
﹄(
九州歴史 資 料 館 、 一九 八 五
いる。したが って右 に掲げ た木簡 は奈良時代前半 のも のと考え ら
言 で ア- モモ ・アカ ムム 。アカ モモ等 と呼ば れ る木 であ ると みな
(
71
)
され ると いう 。確 か に奄美 には、沖 縄 のよう に近世 。近代 の記録
﹃
南島雅語﹄ には赤 木 の記載 はな- '堅く て住 居 の建 築 材 と し て
れ る。ま たそ の遺構 は、年 紀を欠 いたも のが多 いこと '郡名と物
形式 のも ので墨痕 が認 めら れな いも ののうち には 、成 形 されな が
利用されたと いう赤 桃 の記事 が みえ る。した が って田畑 氏 の意見
品名 および数量 のみが記 され て いるも のが多 いこと 、そし てこ の
らも使 用されなか ったと みられ るも のが含 まれ て いること など か
は、従来 の研究 が南島 の赤木を沖縄 のアカギ に限定 し て考え られ
も少 な- 、唯 一の幕 末 の奄 美 の民 俗 誌 であ る名 越 左 源 太 時 行 の
ら 、付札類 は貢進物など に付 け られ る荷札的なも のではな- 、大
ただ モ ッコク の分布 は本州中西部 から九州 。済川島 ・台湾 。中
てき た こと に対 し て再考を促 すも ので'傾聴 に値 す る。
う 。 これ に従う 限- 、 この木簡 は 「
掩美嶋」 や 「
伊藍嶋」 から大
のを 、わざ わざ南島 に求 めた理由 が十 分説明 できな いよう に思う 。
国 。東 イ ンドと 言われ るが '本州 中西部から九州 にも存 在す るも
宰府 にお いて整理保管 のた め に付 け られた付札 と考え られると い
された物品を府庫 に収納 し 、京進ま で の間 、整 理保管す る必要 か
事府 へ進上 された物品 に付 けられたも のではな- 、大事府 に進 上
奄美 の モ ッコクがよ-良質 であ ったと いう こと であ ろう か。
あ-ま で奄美 側 の 一つの見方 であ って、三島格氏 によれば 、沖縄
奄美 のアカギは近代以降 に植栽 された外来種 であ ると いう のは、
木簡 に記 された島名 に ついては 、 Ⅰ の 「
掩美嶋 」と みえ る島名
ら取-付 けられ て いたも のが、京進 に際し不要と な-廃棄 された
(
70)
と推定 せざ るをえ な い。
伊藍
が奄美大島 に比定 され ること はほと んど異論 がな い。Ⅱ の 「
の植物学者 であ る多 和 田其淳 は、奄美 以南 の赤木 は自 生 と みなし
(
72
)
て いたと いう から'そう な ると奄美 に八世紀 頃、赤木 が存 在 した
嶋 」 はイ ラ フと称 せられた沖永良部島 に比定する説が有力 である。
1
9
0
要から付 けられたも のであ る ことを推定 した 。
ただ断 っておきた いのは、﹃
南島志﹄以 下 の文 献 のほ ぼす べ て
可能性も十分考え られ る。
した が って今 のと ころ、木簡 に付 けられた物品と し ては、トウ
年科別貢雑物 の赤木を供給 した地域 は主と し て奄美諸島 で'沖縄
最後 に問題 にした いのはそ のアカギ の歴史的性格 であ る。
え て いる。
諸島 が含 まれ て いたかは必ず しも明 らか ではな いと今 のと ころ考
が、赤木を貢 上した南島を沖縄 のことと し て扱 って いるが '私 は
ダイ グサ科 のアカギ であ ると いう推定を否定す ること は できな い
(
73)
よう に思う 。
鈴木 靖 民氏 は'天平年 間 に 「
掩美嶋 」 や 「
伊藍嶋」 から大事府
へ朝貢 L へ赤 木を進 めた のは、天平 五年 に出発 し同六年 に南島を
3 赤木 の諸 用途
赤木 の貢進 から親王位記軸 に充 てられるま での経緯が史料 によ っ
経 て帰 国した遣唐使第 一船 か第 二船 か に率 いられ てき たか 'そう
でなければ 、 こ の使節 の帰路 の実状報告を機 に天平七年 に太宰府
みえ る赤木 の用例を抽出 し、親 王位記軸 以外 の用途を検討した い。
① 経典等 の軸
て跡づけられる のはき わめ てま れな例 であ るが、 ここ では史料 に
から南島 に遣 わされた高橋連年養等 に同道 し てきたか'どちらか
(
74
)
の南島 人 であ ろうと解 し て いる。
しか し、そ の木簡 が養老 期 から天平年 間 の前半代頃 のも のと い
正倉 院書 の写経 関係文書 には '軸 の材質 、染色 ・絵 画 ・飾-付
こ の時 の南島 人も 入京 した のではな- '大事府 にお いて中央 から
際 し'傍を大宰府 に派遣 しそ こで授位を行 っていることからして、
単 に材質 が赤 いと いう こと ではな- 、 いわ ゆる アカギを 用 いた軸
言う赤木軸と は'紫檀軸 。赤檀軸 ・蘇芳軸 の例も みえ ることから'
赤木軸 はそ の他 の軸 に比 べて決 し て多 い方 ではな いが、 ここで
け によ って名づけられたさまざ まな経典等 の軸 が みえ るが、そ の
う時期 に該当す る養老 四年 十 l月 に二三 二人 '神亀 四年十 1月 に
派遣 された債 によ って授位 がな されたも のと み てよ いであ ろう 。
の意味 であ る可能性 が高 い。 これら の経典類 に特 に赤 木軸を 用 い
一つに赤木軸と いうも のがあ る。
しかも南鳥 人 は来朝 に際 し て何 らか の万物を持参 したと考え る の
た理由 は不明だ が、材質 が堅く軸 に適 し て いると いう こと で利用
二二〇人 の南島 人が来朝 し '律令 政府 は彼等 に対 し て位を授け て
が至当 であ るから 、 こ の時 の万物 の 一つが アカギ であり 、大事府
されたも のであ ろう 。
いることも注意す る必要があ ろう 。慶雲 四年 には南島 人 の来朝 に
木簡 に付 け られた物品 は こ の時 のアカギ であ った可能性 が高 い。
以上 、本節 では、南島産 の赤木 が大事府を経 て中央 へ貢上され、 ② 和琴 の脚
枕脚並着赤木 、上面着標紙記 五言詩 、並納腸線袋 緑裏 )
」とあ り '
「
正倉 院文書」東大寺献物帳 によれば 、 「
桧 木 倭 琴 二張 (
頭尾
嶋」 ・ 「
伊藍嶋 」 の木簡 は、南島 人が来朝 の際 に朝貢物とし て持
倭琴 の頭尾 の枕脚 に赤木 が用 いられ て いる。正倉 院 に現存 す る桧
親 王 の位 記軸と し て使用 された こと 'そし て太宰府出土 の 「
掩美
参 したと思わ れ る アカギ に対 し て、大事府 にお いて整 理保管 の必
1
9
1
和琴はそ のうち の 1張と推定されているが、五言詩を記した標紙
と袋は失われ ている。槽と裏板それに頭と尾部 の小 口板は桧材 で
あるが、献物帳 に赤木とあ る脚 について、木村法光氏は唐木製と
るが、福永酔剣氏によればそ の大刀 の柄 や鞘 はもと紫檀製 であ っ
(
79
)
たと いう。
たとえば伊勢神宮 の神宝 の 一つにも赤木 の柄 の大刀があ る。す
このよう に、「
赤木柄」 の赤木は いわゆる アカギ ではな いと す
る見方が 7般的のようであるが、すべてがそうであるとは限らな い。
なわち ﹃
延書式﹄神祇四 (
伊勢太神宮 )の神宝 にも みえ る 「
須我
(
80
)
流横刀」 であるが、﹃
武家名目抄﹄ によれば、長暦 の官符 に 「
柄
長六寸用赤木、身長三尺、鞘長三尺 l寸」とあ-、柄 に赤木を用
いる'
ことが定められている。また ﹃
刀剣図考﹄ によれば '寛正 の
官符 で法量が増し、柄 の長さが六寸五分、身 の長さが三尺五寸 '
鞘 の長さが三尺六寸 二分 にな って いるが、 そ の太 刀 の図 の側 に
記し ているtA)
,烏合巳三郎氏によれば 「
イ スノキに近 い散孔材」
(
76
)
と のこと であ る。このよう に実物を検証され ている方 でも材質を
特定す るに至 っていな い。したが って、これが南島 のいわゆるア
カギであ るとす る余地も残されて いる。
③大刀 のツカ
東大寺献物帳 には、「
御大刀壱伯 口」 の中に大 口 の 「
赤木把」
の金漆鋼作大刀が含まれ ている。この赤木 に ついて、末永雅雄氏
は国産資材と述 べて いる(a)
,関根真隆氏は,前述 の和琴 の脚を調
「
柄赤木」と いう記載がみえ る。伊勢神宮 の大 刀 の柄 に使 用 され
た赤木がどう いうも のかは不明 であ るが、文武三年 に来朝した多
観 ・夜久 。奄美 ・度感等 の人が貢じた万物を伊勢大神宮および諸
1
別=
社 に奉献した例もあり、この時 の万物 の 一つにアカギが含まれ て
査した島倉巳三郎氏 の見解 に基づきイ スノキ の可能性を考え てい
(
78
)
る。しかし私見 では南島産 のアカギ の線も捨 て難 いと思う。
と ころで ﹃
武器考証﹄ ・ ﹃
武家名目抄﹄ ・ ﹃
類衆名物考﹄ によ
れば、「
赤木 の柄 の刀」 の用例は ﹃
源平盛衰記﹄ ・﹃
判官物語﹄ ・
よう であるが'真境名安興氏 の備忘録 によれば'昭和四年 に第 五
﹃
曽我物語﹄ ・ ﹃
承久記﹄ ・ ﹃
古事談﹄ ・ ﹃
義経記﹄等 にみえ る。 いたとすると、こうした奉献を契機し て南島 のアカギが伝統的 に
この赤木 の柄 に ついて ﹃
武家名目抄﹄は、「
投 '蘇芳木 なと の類 使用されたこともあ-う る。近世 の遷宮 の際 に作られた神宝 の目
録等 によると'式年遷宮 の度 に赤木 の柄 の大刀も作製され ている
にて木地 のま ゝなる柄を赤木柄と いふな-」とあ- ' ﹃
類 宋名物
考﹄も 「
赤木 ハ蘇芳木をも いふ事あり。また塗もせぬ素木をもあ
また箱根神社所蔵 の大刀は、﹃
曽我物語﹄ にみえ る、箱王 (
曽
刀 の柄 に南島 のアカギが使用されたことが濃厚な事例が中尊寺
十八回 の式年遷宮 の際には、首里城下 のアカギを伐採製材し奉献
(
82
)
したと記され ている。その事実 の確認はとれな いが'参考ま でに
記しておく。
かきと云ふ事あ-」と記すよう に、 いずれも赤木 の柄は蘇芳木ま
我五郎時致 )が親 の敵 である工藤左衛門尉からもら い、それで祐
たは漆等を塗らな い木地 のまま の柄と解し ている。
経 にとどめを刺す こと にな った 「
赤木 の柄 に胴金入たる刀」を'
に伝わる 「
赤木柄螺細横刀」と 「
赤木柄短刀」 であ る。これは中
尊寺 の開基 であ る藤原清衡 の遺品 の 一つで'前者は赤木を用 いた
彼が処刑された後 に頼朝 によ って奉納されたも のと伝えられてい
192
る錯 (こじり )も やは-赤木 で造 られ'表面 に四匹 の蜂 が象軟 さ
も 、例えば螺細 の書案 1㌧螺細 の書 凡 1'螺細 の鞍 轡 l副等 、喋
られ て いた こと が注 目される。また琉泊 。青紅白 の水 晶 ・紅黒木
そ こで ﹃
宋史﹄ 日本伝 によ ると 「
赤木杭」 が螺細 の硫 函 に納 め
や モ ッコク以外 の可能性も考え てみる必要 があ る。
れ て いる。また後者 は現在 では柄と刀身を 五セ ンチ余り残すだけ
細を施 したも のがかな-あ る。 こ の螺細 が中尊寺 にみられ るよう
柄 の片 側 に夜光 貝 で ススキと蜂 が象験 され ており 、片側 のみ存 す
であ るが'赤 木 の柄 の部分 には両面 に螺細 で探鳥文を象軟 が施 さ
(
83
)
れ て いたよう であ る。夜光 貝は奄美諸島以南 の熱帯海域 に生息 す
に南海 の夜光貝を用 いた可能性も否定 できず 、も しそう であ ると
る 。
(87)
で
術
用
科 のイ スノキ、 ソバキ科 のモ ッコクおよび ヒメシ ャラ' シ ャクナ
が山伏 の言と し て見え るが 、山伏 が呪法を行う際 に用 いる茄高 の
とあ- '狂言 ﹃
- さび ら﹄ にも 「
行者」 から 「
茄高 」ま で の同文
こそ祈 ったれ。
赤木 の数珠 の茄高を 'さら- さら-と押 し操 ん で、ひと祈-
を分け、七宝 の露を払 ひし篠懸 に、不浄を隔 つる忍辱 の袈裟、
行者 は加持 に参 ら んと 、役 の行者 の跡を継ぎ 、胎金 両部 の峰
こと は赤 色 の呪
それ では何故赤木 が重宝 された のであ ろう か。まず考え られ る
(
89
)
性
であ ろう 。謡曲 ﹃
葵 上﹄ には '
上された アカギを用 いた可能性 があ ることを推定 した。
以上 、文献 にみえ る赤木 の
たも のと推定す ることも でき よう 。
(
88)
例 を検 討 し' いず れも南島 から貢
桂子 の念珠 一連を納 めたも のも 螺細花形平画 で、そ の他 の贈物 に
る大 形巻 貝 で、中尊寺金 堂 の内陣 の喋細 が琉球 列島産 の夜光貝 で
す るならば '「
赤木枕」 の赤木も南島産 の アカギ を 用 いて作 ら れ
い 。
あ った ことも判明 し てお- '夜光 貝 の螺細を施された柄 の赤木も、
よ
夜光 貝と赤 木と いう組 み合 わ せからし て南島産 の赤木 であ った こ
V
矧E
と は十 分想定 され て
④櫛
﹃
宋史 ﹄ 日本伝 には 、東大寺 の学僧育然 がそ の弟 子嘉 因を遣わ
し宋朝 に 「
赤 木枕 二百七十」等 を贈 った こと が みえ る。満久崇麿
す
の 書
は'通称赤木 の代表 格 はト ウダイグサ
氏 のよ れば 、藤 原宮 跡 の白 鳳時代 の層からイ スノキ で作 った横櫛
(
防
)
が出土 し て いること から 、ここで言う赤木 はイ スノキ のこと であ
(
郎)
ろうと推定
しかし満久氏 は別
ゲ科 のネ ジ キ、 バラ科 のカリ ン'カ ツラ科 のカ ツラ等 、心称 が赤
数珠 が赤木 であ る のは'それが必ず しも南島 のアカギ ではなく '
科 アカギ属 のカタ ンであ るが、 アカ テ ツ科 のアカ テ ツ、 マンサ ク
味 がか った褐色系 のも のはす べて赤木と称 され ると述 べ'そ こで
は 「
赤 木枕」 の赤 木 はイ スノキか モ ッコク のどちらかであ ろうと' たとえ赤 い色 の材と いう こと で梅 や紫檀 であ ったと し ても 、赤 木
木 の用例 に ついては 「
赤 木杭」 の他 に全 く言 及し て いな いLt南
明確 な根拠 があ るわけ ではな い。また氏 の場合 、文献 にみえ る赤
途 からし て、あ-ま でも紫檀等 高級木材 の模 擬材 な いしは代 用材
しかし赤木 にそう した側面 はあ った にし ても 、上記 のよう な用
に特別 の呪術性 があ った こと の現われと みること は でき な いであ
ろう か。
モ ッコク の可能性も示唆 し て いるよう に'そ の比定 には必ず しも
島赤木 の貢 上 に ついても 不問 のまま であ る。したが ってイ スノキ
1 9 3
紫檀 はイ ンド 、セイ ロンが原産 地 であ るが '蘇木 のよう に恐ら
(
90
)
-遣唐使 や唐便 ・唐 の商 人 か 、また は遣新 羅億 や新羅便 ・新 羅商
(
91)
人 によ って舶載 されたも のと思われ るが'貴重 な木材 で入手 が困
と し て重宝 され たも のであ ろうと考え て いる。
るが、そ の交 易物 の唐物 には'白 檀 ・紫檀等 ととも に赤木 が みえ
彼 は'東 は蝦夷地から西は九州南端 の喜 界島ま で の広域をま た
真 人 であ ろう 。
い った商 人 の交易活動を通じ て中央貴族 層 へ供給 され続 けら れた
る。夜久 貝が本朝物と し て掲げ られ て いる のに対 し て'赤木 は唐
にかけ て交易活動を行 な ってお- 、扱 った交 易品も多種多様 であ
と考え られ る。そう した商 人 の典 型が ﹃
新 猿楽 記﹄ にみえ る八郎
難 であ ったた め'南島 に生育す る材質 の類似す る アカギが注 目さ
れた のであ る。
﹃
梁塵秘抄﹄ には、
物 に含 まれ て いるため、それが南島産 のアカギ ではな い印象 を受
﹃
延書式﹄ の年料別貢雑物 にそれぞれ相模 国 の 「
青木香八十斤」 ・
小磯 の浜 にこそ 、紫檀赤木 は寄 らず し て'流れ采 で'胡竹 の
とあり 、﹃
玉葉﹄承安 二年 (二 七 二年 )七 月九 日条 には ' 伊 豆
伊 予国 の 「
積榔 二百枚」と みえ '本朝 物 ・唐物 に分類 された品 目
け る。しかし'例えば唐物と し て挙げ られ ている青木 ・楕榔子は、
の出島 で鳥 人を殺傷 したあげ- 、畠を焼き払 って南海 に逃げ た鬼
には混同も 想定 されよう 。した が って彼 の交 易物 の中 に南島産 の
竹 のみ吹 か れ来 て、た んなた- や の波 ぞ立 つ
形 の者 五六人 が乗 って いた船 がやはり紫檀 ・赤木 など で造 られ て
アカギが含ま れ て いた可能性も 否定 でき な い。
に赴 いて得 たと いう よりも 、南島方 面 へも 出かけ商業 活動を し て
積榔 三〇〇把 、夜 久貝 五〇 口が みえ るが 、 これらは彼 が直接南島
大 隅国 の住人 の藤原良孝 から藤 原実資 への進物 の中 に赤木 二切 、
﹃
小右 記﹄長元 二年 (一〇 二九年 )八月 二日戊 子条 によれば '
いたと あ るよう に、とも に南方産 の紫檀と赤木 が同類別種と し て
(
92
)
併称 され て いることも こう した意 識 の表 れ であ ろう 。
4 赤木 の交易
九世紀 になり 、律令 国家 の支配体制 が弛緩 し て い-中 で、年料
赤木 二切と いう のは、赤木 の原木を 小 さ-適当 な長 さ に切断 し
いる商 人を介 し て入手 したも のと考え た方 がよ い。
側 の自主 的 な貢進 に依存 し て いた アカギは、南島路 の不採用 や律
たも ののよう であ るが、積榔 ・夜久 貝 の数 量 に比 べて少な いのは、
別貢雑 物制も次第 に衰退 し て い ったと思われ るが、特 に専 ら南島
令 国家 の 「
帝 国主義 」 の放棄等 により律令 国家と南島と の関係 が
せ いぜ い軸 か大 刀 の柄 に使用 されるにし ても 1度 に大 量 に用 いる
夜 久貝 の需要 が多 か った こと は否 めな い。特 に夜久貝は ﹃
枕草子﹄
従来 のよう に密接 でな-な ることともあ いま って、大事府 の年料
しか し律令 国家 の租税体系 の枠 から外 れたと は いえ 、そ のこと
や ﹃
う つほ物語﹄ にも 「や- 貝」と し てみえ '王朝 貴族 にと って
も のではなか ったから であ ろう 。それ にし ても アカギより櫓郷 や
によ って中央 におけ る紫檀 の代用材と し ての需要がなくな ったと
南島産 の物品 の中 では特 に珍重 され て いた こと が知 られ る。
別貢雑物 から脱落 し て い った こと が推察 され る。
はまず考え られな い。恐らく南島 のアカギは'当時活発 にな って
194
れた交易によ って'南島 の赤木が依然として都 へ供給され紫檀 の
代用材として用 いられたことが想察されるが、南島 の交易物とし
赤木 の交易を明確 に示す史料はこれ以外 に存在しな いが'古代
国家 の朝貢体制解体後は、このよう に商人や国司層によ って担わ
(
5) この指摘はすでに新井白石 ﹃
南島志﹄や伊地知季安 ﹃
南稗
(
4) 東恩納寛惇 ﹃
琉球 の歴史﹄ (
﹃
東恩納寛惇全集﹄1、第 一書
房、 1九七八年 )
おわりに
で いたよう に倭人には聞 こえたためこのよう に表記したと推
紀考﹄にみえ る。
ては次第 に赤木から夜光月 の方 へ比重が移 っていったようである。
なお幣原坦氏は'夷邪久と いう のはイ ユク ニ (
魚国)の対
音 で、当時 の流求人は自国を ユークーまたはヤークーと呼 ん
以上'日本古代 の史料 に散見される南島関係 の記事を' いく つ
もしこれを 「夷 の邪久」と読む べきだとしたら'中国では
倭国を東夷としていた ので、小野妹子は中国 の人 に理解しや
す いよう にそう言 った のであ ろう (
中村明蔵 ﹃ハヤト ・南島
)
堂、 一九五七年 。
基づ-も のではな い」と批判している (﹃
琉球 の歴史﹄ 至文
な-'幣原氏 の見解は 「
単なる思 いつき であ って深 い考証 に
考している (
「
琉球台湾混同論争 の批判」 ( ﹃
南方 土俗 ﹄ 一
ノ三) )
。これに対して東恩納寛惇氏は、夷 邪久 の夷 の字 は
R昔 に近 い韻を表す発語 であ るからそれほど気 にす る必要は
か のグループにわけ て'それぞれ の問題点とこれま での議論を紹
介す るととも に若干 の私見を提示した。今後はこうした史料 の検
討 によ って得られる知見と考古学 の成果と突き合わせながら南島
の実相 の解明 にあたる必要があ ろう。
注
「
寛珠玉便」が挙げられる。
(
9) 大平聡 「
古代国家と南島」 (
﹃
沖縄研究 ノーー﹄六)
(
0
1) 「
寛」 の用例としてはこの他'天平十年 度駿 河国正税帳 の
一七)
(
7) 中村前掲注(
5)
普
(
8) 岡田利文 「
古代 の支子に ついて」 (
﹃ソーシァル 。リサーチ﹄
)
共和国﹄春苑堂出版' 一九九六年 。
(
-) これま で同様な研究論文として、小島環椎 「上代典籍 にた
ど る琉球諸島」 (
﹃
琉球学 の視角﹄所収'柏葦 居' 1九八三年) (
6) 今泉隆雄 「
蝦夷 の朝貢と響給」 高
( 橋富 雄 編 ﹃
東 北古 代史
の研究﹄吉川弘文館' l九八六年 )
と井上秀雄 「
古文献 にあらわれる沖縄」 (
﹃
日中文化研究﹄五、
勉誠社 )があ る。
先生古稀記念会編 ﹃
東 アジ アと日本﹄歴史編、吉川弘文館、
(
-) 鈴木靖民 「
南島人 の来朝をめぐる基礎的考察」 (
田村 囲澄
一九八七年 )
(
3) 甲野勇 「楕書 ﹃流求 国伝 ﹄ の古 民族学的研究 (予報 )
」
(
﹃
民族学研究﹄三ノ四)
19 5
(11) 土橋誠氏は'蝦夷征討に派遣された億も寛国債 の範噂 に含
「
大宝 の遣唐使派遣 の背景」 へ﹃
続日本紀研究﹄ 二九三) 、河
皇帝 の 「
蝦夷幾程」と いう質問 に対し て、 「
類有二三種 1
。達
め ている (
「
覚国億 に ついて」 (
上田正昭編 ﹃
古代 の日本と
内春人 「
大宝律令 の成立と遣唐使派遣」 ( ﹃
続 日本紀 研究 ﹄
渡来 の文化﹄学生社、 一九九七年) )
。
、ここでは通説 に従 ってお-0
三〇五) )
2)
論文
(12) 中村明蔵 「
古代多観嶋 の成立とそ の性格」 (
﹃
隼人文化﹄ 二 (18) 鈴木前掲注(
三、後 に ﹃
隼人と律令国家﹄所収、名著出版、 一九九三年 。
)
(19) ﹃
日本書紀﹄斉明五年七月戊寅条所引 の伊吉連博徳書 によ
れば'蝦夷男女 二人を帯遺した遣唐使坂合部連石布らが唐 の
なお拙稿 「
南島寛国債 に ついて」 (
﹃
日本歴史﹄五二三)で は '
刑部真木 には冠位が記され ていな いので無冠 の可能性を推測
者名二
都加留 ∴ 次著名二
亀蝦夷 ∴ 近者名二
熟蝦夷 一
。今此熟蝦
に ﹃
隼人と律令国家﹄(
前掲)所収 )
(21) 中村明蔵 「
南島と律令国家 の成立」 (
﹃
隼人文化﹄ 一九 ㌧後
2、東京大学出版会、 一九八四年 )
夷、毎レ
歳入コ
貢本国之朝 山
」と答えたことがみえ ている。
(20) 吉村武彦 「
古代 の社会構成と奴隷制」 (
﹃
講座 日本歴史﹄
したが'﹃
続 日本紀﹄ の省略とみた方がよ いであ ろう。
(13) 中村前掲 (12)
論文
1) 中村明蔵 「
南島寛 国債と南島 人 の朝 貢を めぐ る諸問題」
(4
(
鹿児島経済大学 ﹃
地域総合研究﹄二三ノ二、後 に ﹃
古 代隼
人社会 の構造と展開﹄所収'岩田書院、 7九九八年)
(15) 鈴木前掲注(
-)
論文
刻、国書刊行会、 一九七 一年)、東恩納寛惇 ﹃
南島 風土記﹄
(22) このよう に比定した のは新井白石であ- (﹃
南島志﹄)'以
下これが通説とな っている (
村尾元融 ﹃
続 日本紀考 誇﹄ (
復
2)
夷思想 にもとづ-日本本土 の国家 のこと で (
鈴木前掲注(
(16) 「
度感島 の中国に通ずるは是に於 いて始まる」とわざわざ
記しているのはそ のためである。なおここでいう中国とは華
論文 )
、この中国 の用例は管見 では他 に'﹃
類琴 二代格﹄巻六
へ
﹃
東恩納寛惇全集﹄7、第 一書房、 1九 八〇年) 、喜舎 場
永殉 ﹃
新訂増補 八重山歴史﹄へ
国書刊行会' 一九七五年V t
(17) 石母田正 「
天皇と ﹃
諸蕃﹄
」(
﹃
日本古代 国家論﹄第 一部所
収 、岩波書店 ' 1九七三年 )
、鈴木前掲注(
2)
論 文 。 最近 '
鮮人 の漂流記に現れた十五世紀末 の南島」 (
﹃
伊波普猷全集﹄
して'信覚を石垣島以外 に求めるのが安全 であ ると し (
「
朝
牧野活 「
信覚考」 へ
﹃
南島研究﹄ 二九)など )。
これに対して、伊波普猷氏は、石垣島は 八重山諸島 の中 で
古代日本における
これに対す る反論も みられるが (
森公章 「
第 五巻'平凡社、 一九七四年) )
、宮城栄昌 氏 は 「信覚 と球
所収 の大同五年 五月十 7日付太政官符 に 「辺要之事頗異二中
国 L とあ- 、 また ﹃
令義解 ﹄ 賦 課役令 辺遠 国条 に華 夏 を
「
謂、中国也」とした注釈 にみられる。
対唐観 の研究」 へ﹃
国史研究﹄八四、後 に ﹃
古代 日本 の対外
美は徳之島とされる度感 に近接した島 々であ ったかも知れな
遅-開けた島 で、石垣を地元でイシャナグと発音し ていると
認識と通交﹄所収'吉 川弘文館 、 一九九 八年) 、新蔵 正道
19 6
が存在しな い以上、宮城氏 の見解 には従えな い。
い」と述 べている (
﹃
琉球 の歴史﹄吉川弘文館、 一九七七年)
。
しかし、徳之島 の周辺には信覚や球美 に比定 できそうな島名
島を起点 に西表島と久米島 の方角と里程を近世期 の海上交通
における海路 で計算すると'久米島は石垣島 の北方三六八里
さらには伝承などから姑弥 (
古見 )島 こそが本来 の呼称 で、
西表島は後世 の別称とみられる。以上 のことから'球美を久
国 の史料や日本 ・琉球 の史料 によれば、姑弥 (
古見 )島と西
表島 は併称されているが、八重山側 の史料および人 口動態 、
の位置にあ るのに対して西表島は石垣島 の西南方わずか人里
のと ころに位置する。第三は文献記録等 であ る。近世期 の中
また角田文衛氏は ﹃
大日本史﹄が信覚を信貴 に作 ることを
指摘し ているが (
「
上代 の種子島」(
﹃
歴史地理﹄六九ノ 1))
∼
﹃
続日本紀﹄ の各写本および ﹃
日本紀略﹄ には信覚 とあり 、
特 に問題とはならな い。
1万柳 田国男氏は、日本稲作南島経由北上説 の 1視点から、
しかしながら第 一の論拠 に ついては、 ﹃
続 日本紀 ﹄ の記載
次南 の島 へと書 いているよう であるが、後述するよう に'和
銅七年十 二月戊午条 や霊亀元年正月朔条 では南島 の筆頭 にわ
法 の理解 の仕方 に問題があ る。確かに ﹃
続 日本紀﹄ の南島 の
米島 に比定するには無理があり、西表島 の古称 であ る古見 に
比定す べきと主張している。
西表島 の古見が コメ (
栄 )に関連し、そこがか つての稲作 の
根拠 地 であ った ことを説 き 、 球 美 を 古 見 に比定 し て いる
(
﹃
海上 の道﹄へ
﹃
定本柳 田国男集﹄第 1巻、筑摩書房、 l九六
島 々の記載は、 一見地理的 に北に位置する島から書き初 め順
な-な ってしま った。ところ が最近喜舎場 一隆氏は'新たな
三年) )
。しかしこの柳田氏 の稲作 の起 源 に関す る仮説 は現
在 では否定され てお- 、珠美 -古見説はそ のままでは成立し
論拠を提示しこの説を復活して いる (
「﹃
続 日本紀﹄和銅七年
ざわざ奄美をも ってき ていることから、そ の配列は単なる地
えば ﹃
続 日本紀﹄ には南島人授位 の際、「
授位各有レ
差」とあ
-'南島人 によ って差を設け ているが、それはたとえば朝貢
十 二月戊午条 の ﹃
信覚及球美等﹄ のいわ ゆる球美 に ついて」
(﹃
歴史手帖﹄ 二五 ノ二) )。氏 が提示 した論拠 は、第 一に
﹃
続 日本紀﹄ の記載法 である。すなわち① ﹃
続 日本紀﹄ では
南島 の島 々を記載する場合、本土側 に近 い方から順次南下し
て い-方法がとられ てお-'これからすると、珠美は信覚 の
時期 や実績や重要度と いった基準 によ って島単位 に差を設け
理的な順序 ではなさそう であ る。そこには律令国家 の側から
みて何らかの論理が働 いて いるよう に思え てならな い。たと
南または西方 の位置 になければならな い。また② 「
信覚及球
論理 にしたが って記載がなされたとすれば、球美が地理的 に
侶覚 の南方 に位置しなければならな いと いう必然性は乏しなる。また② は、たとえば ﹃
続 日本紀﹄天平宝字 二年十 二月
たことも考えられ、こうした律令国家 の南島 に対す る 1定 の
美等」 の 「
及」接続詞は 「
ならびに」または 「
か つ」 の意味
で、信覚と球美を繋 いで 一括し て言及しようとしたも ので'
両島は隣接し ているか若し-は比較的近 い位置にあ ったこと
を示す。第 二は地理的位置および里程 である。すなわち石垣
1
9
7
城小勝柵 .
.五道倶入、並就二
功役 .
Jとあ る 「及」 の用例を
みれば 一目瞭然 であ ろう。桃生城と小勝柵造営 のために徴発
丙午条 に 「
徴二
発坂東騎兵 ・鎮兵 ・役夫 及夷伴等 l
'準 ,
桃生
村 で'﹃
李朝実録﹄ の編第時 に編纂官 が漂流民 ら の報告 した
この滞在地を島と誤認して記録した のではな いかと推測する。
しかし周知 の通り漂流記に記された八重山 の島 々は、閏伊島
那国島から護送されてきた時 に 1時滞在し て いた船着き場 の
古見とみなす ことができな いことを説 いた のであるが'喜舎
(
与那国島 )・所乃島 (
祖納島 )・捕月老麻伊島 (
波照間島 )。
場氏はこの東恩納氏 の見解 に疑問をロ
重し、所乃は漂流民が与
された坂束 の騎兵 ・鎮兵 ・役夫は いわばもともと王民である
のに対し て'夷伴は帰順した蝦夷 であり' 「及」 の接続 詞が
こう した性格 の異なる前者と後者を つなぐ 「
と」または 「
や」
の意味 であ ることは言うま でもな いであ ろう。こうした 「
及」
の用例は他 にもあり'﹃
続日本紀﹄天平勝宝 六年 二月己卯条
に、南島牌 に ついて 「
島名井泊レ
船処'有レ
水処'及去コ
就国 T
捕刺伊島 (
新城島 )・伊島 (
黒鳥 )。他羅馬島 (
多 良 間島 )・
伊羅夫島 (
伊良部島 )。寛高島 (
宮古島 ) で、 いず れ にお い
ても周囲 の日程を記し ているので、 一つの島全体 の見聞記 で
の解釈は成り立たな い。
弥 (
古見 )村が島 の中心的村落として繁栄し'西表島を総称
していたことは動かし難 いとしても、それ以前 、少な-とも
であり、こうした滞在期間からし ても西表島 の報告を船着き
あることは確実 で、所乃島 のみ例外と みることは できな い。
漂流民 のそれぞれ の島 での滞在期間は、最初 の漂着地 の閏伊
第 二の論拠は'石垣島を起点 にして西表島と久米島 の方角
と里程を示し第 一の論拠 の傍証しようと いうも のだが'地図
で位置関係を確認すればすむこと であり、特に重要な論拠と
はならな い。
中世 の十五世紀末 には所乃 (
祖納 )島 であ った可能性は否定
行程」とみえ 、また同大宝 二年 二月丙辰条 に 「
諸国大租 。駅
起稲及義倉井兵器数文、始送二
千弁官 L とみえ る 「
及」 の用
例も 'そ の前 の並記された語す べてを受けたも ので、そ の前
第三 の論拠は'﹃
李朝実録﹄成宗十年 (一四七七 )六月 乙
が生まれ ては又消え て居る」と想定する他はな いが、果たし
てそうした議論が成-立 つかどうか。
島が六ケ月と最も長く'次 いで所乃島が五ケ月'他は 一ケ月
未条 の朝鮮済州島民 の漂流記に西表島が 「
所乃島」と記され
ていること の解釈と密接 に関わる。所乃は朝鮮音 でソナイで
西表島 の祖約 に比定 でき ると した のは伊 波普 猷氏 であ るが
新井白石 の球美 -久米島説が現在もなお有効とされ ている
後 の語 のみを結 ぶも のではな い。したが って 「
信覚及珠美等」
(
前掲論文 )
へここで所乃 (
祖納 )島とみえる点が注目される。
束恩納寛惇氏はこれをも って西表島は姑弥と称される以前は
のは、球美が久米 島 の久米 の方昔 クミに通ず ることもさるこ
以上'最近出された喜舎場氏 の論文 の問題点を述べてお-。
できな い。そうなると柳田国男氏 のよう に、 「
幾 つか の古 見
場 の小村 にとどめたとは考えられな い。
したが って'西表島は近世 のあ る時期 に'西表島東部 の姑
所乃 (
祖納 )島と称されていたとし、﹃
続 日本紀 ﹄ の球美を
198
孤米」と それぞれみえ 、ま
(
張学礼著 、 一八〇〇年 )には 「
た 一四七 l年 に朝鮮議政府領議政 の申叔舟が著した ﹃
海東諸
れば 、﹃
使琉球録﹄ (
陳侃著、 l五三四年 )には 「
古米」、﹃
使
琉球雑録﹄ (
江棉著、 1六八三年 )には 「
姑米」、﹃
便琉球記﹄
- 、しかも 三月し ているからである。すなわち冊封便録によ
とながら、史料的 にもそ の島名は少なくとも古見島よりは遡
(32) 石井正敏 「
外交関係」 (
池田温編 ﹃
古 代 を 考え る 唐 と 日
(30) 石母田正 「
天皇と ﹃
諸蕃﹄
」(
﹃
日本古代 国家 論﹄ 第 二部 、
岩波書店' 一九七三年 )
岩
版会 、 一九九三年 )
、堀敏 1 ﹃
中国と古代東アジ ア世界﹄ (
波書店' 1九九三年 )等を参照。
「
華夷思想 の諸相」 (
﹃アジ アの中 の日本史﹄ Vt東京大学出
古代政治 思想史研究﹄ 青木書店 、 一九 七〇年 )、 酒寄 雅 志
″
〟
外蕃 ″の概念」 (﹃
大 化 前 代 政治 過程 の
吉川 弘文館、 1九八五年 )
章 、
中流地帯 にあるイ ンド のU 。P州 にあ った舎衛城 のこと であ
井上光貞氏 によれば、吐火羅 (
堕羅)は今 のタイ国'メナム
河下流 のモン族 の王国ド ア-ラァティで'舎衛はガ ンジ ス河
(35) ﹃
日本書紀﹄自推五年 (
六五四)夏 四月条および斉明天皇
三年七月条 に吐火羅 (
堕羅)人と舎衛 の漂着記事がみえるが'
本」 (
﹃
日本社会史﹄第 一巻、岩波書店、 一九八七年 )
(
a;
) 石上昇 一 「
古代国家と対外関係」 (
﹃
講座 日本歴史﹄-'
東京大学出版会、 一九八四年 )
、同 「
古 代東 アジ ア地域と 日
研究﹄第 五編第三
(
33) 平野邦雄 「〟
帰化
本﹄吉川弘文館、 一九九 二年 )
(31) 早川庄八 「
東 アジ アの外交と日本律令制 の推移」 (
﹃
日本 の
古代﹄⑮、中央公論社、 1九八八年 )
国紀﹄ の 「
琉球国之図」 では 「
九米島」と みえ 、 「
去琉球 lL
百五十里」と注記され ている。さらに前掲 の ﹃
李朝実録﹄ の
世祖恵荘大王実録 には、 一四五六年 に船軍 の梁成等が済川島
を出発して 「
仇弥島」漂到したことが記されている。も っと
も古 い ﹃
李朝実録﹄ の 「
仇弥島」と ﹃
続日本紀﹄ の球美と の
間 でも七四二年 の間隔はあ るが、それでも西表島 の古見説よ
りははるかに説得性はあ ろう。
(23) 永山修 一 「
天長元年 の多軸嶋停廃をめぐ って」(
﹃
史学論叢﹄
〓 )
2)
論文
(24) 鈴木前掲注(
6)
論文
(25) 今泉前掲注(
(26) 鈴木前掲注(
2)
論文
(27) 鈴木前掲注(
2)
論文、同 「﹃
朝貢﹄と ﹃
身分階層﹄
」(
﹃
国学
院雑誌﹄八八ノ三)
、同 「
古代辺境 への視線- 南島と王権 ・
ると いう (
「
吐火薙 。舎衛考」(
﹃
井上光貞著作集﹄第十 l巻 、
(
36) 伊藤循 「
蝦夷と隼人はどこが違うか」 (
﹃
争点 日本 の歴史﹄
NHK学園日本歴史講座 ﹃れきし﹄二八)
国家と の関係-」 (
(2) 国分直 一 「
日本祖語諸島 の形成期をめぐ って」 (
﹃
南島先史
時代 の研究﹄慶友社、 1九七 二年 )
3 古代Ⅱ、新人物往来社、 一九九 一年 )'中村明蔵 「
律令国
家 の夷秋観」 (﹃
鹿児島女子短期大学紀要﹄ 二七、後 に ﹃
隼人
岩波書店、 l九八六年 )
。
(29) 華夷思想 に ついては、中嶋隆蔵 ﹃
六朝 思想 の研究﹄ (
平楽
寺書店 、 一九 八五年 )
'小倉芳彦 「
華夷思想 の形成」 (﹃
中国
19 9
と律令国家﹄ へ
前掲) )所収
(37) 中村明蔵 「
南島と律令国家 の成立」 (
前掲注 (21)
)
(38) 国分直 一 ﹃
南島先史時代 の研究﹄ (
慶友社' 一九七 二年 )
(
39) 白木原和美 「
種子島 の先史時代」 (
﹃
南日本文化﹄ 二)
'﹃
上
屋久町郷土誌﹄ 二 五頁。
「
南西諸島 における古代稲作資料」 (
﹃
貝をめぐる考
古学﹄学生社 ' 1九七七年 )
(
40) 三島格
(41) 石母田前掲注 (30)
論文
(42) 田島公 「日本律令国家 の ﹃
残礼﹄
」(
﹃
史林﹄六八ノ三)
(43) 中野高行 「
慰労詔書 に関する基礎的考察」 (
﹃
古文書研究﹄
二三)
(44) 石上英 一 「
古代東 アジ ア地域と日本」 (
前掲注 (
34)
)
(45) 大平聡 「
歴史研究と南島」 (
﹃
沖縄研究 ノーー﹄-)
遣唐使﹄ (
至文堂、 7九六六年 )
(46) 森克己 ﹃
第七次遣唐船 の航路- 山上憶良 研究 ノーーー 」
(47) 市村宏 「
(
﹃
続万葉集新論﹄所収 、桜楓社' 一九七 二年 )
「
遣唐使」 (
﹃
東 アジ ア世界 における日本古代史講
(48) 森克己 「
遣唐使と新羅と の関係
」
-鈴木靖民氏の批判に答う⊥
(
﹃
続 日宋貿易 の研究﹄所収、国
書刊行会、 1九七五年)
(
49) 山尾幸久
(52) 坂本太郎 「日本書紀と九州地方 の風土記」 (
﹃
古典と歴史﹄
所収、吉川弘文館、 一九七 二年 )
甲類 )撰述 の 1
(53) 田中卓 「
肥前風土記 の成立-九州風土記 (
考察-」 (
﹃
日本古典 の研究﹄所収 '皇学館大学出版部、 1九
七三年 )
(54) 杉山宏 「
遣唐使船 の航路 に ついて」 (
石井謙治先生喜 寿 記
念論文集刊行会 ﹃
日本海事史 の諸問題﹄対外関係編'文献出
版、 一九九五年 )
(55) 阿児奈渡島は沖縄本島を指すと いう のが今 日 の通説 であ る
(
たとえば安藤更生 ﹃
蟹最大和上博之研究﹄(
平凡社 、 一九六
〇年)、束恩納寛惇 ﹃
南島風土記﹄ へ
注 (
22)
)など )
。と こ
ろが平田嗣全氏はこれに異論を唱え ている。
すなわち氏は'①阿児奈波は中国音 でアルナプまたは アイ
ナプ でこれは エラブに通ず る。②阿児奈波は当時著名な島 で
はなく、そ の位置も単 に多 滴 の西南と指示され ている、③屋
久島ま で 1昼夜 の航程 である、④ そ の後 の記録 でも中国船 の
漂着は種子島 ・屋久島付近が多 い、等 の理由から'阿児奈波
は 口永良部に比定す べき であ るとし ている (﹃
阿児奈渡島 ﹄
。しかし
は沖縄 ではな い」 (
﹃
古代文化﹄ 二三ノ九 二 〇) )
④ は、この時 の遣唐使が計画的に南島路を採 ったとしたら問
題にはならな い。また② に ついては、著名な島 でな いことは
座﹄6、学生社 、 1九 八二年 )
第九次遣唐使 の周辺」 (
五味智 英先生追悼 ﹃
上代
(50) 山崎馨 「
氏説 の口永良部島も同様 で'特 に論拠とす るにたえな い。①
の阿児奈波が中国音 で表記されたとする前提も確証を得たも
のではな い。しかし③ は確かに傾聴 に値 す るが、 「
十 二月 六
日南風起、第 一舟着レ石不レ動 。第 二舟 発向二
多欄 山
、去七 日
文学論叢﹄笠間書院、 一九八四年 )
(51) 井上通泰 「
肥前国風土記について」(
﹃
歴史地理﹄五八ノ三)
、
坂本太郎 「
九州地方風土記補考」 (
﹃
大化改新 の研究﹄至文堂'
1九三八年 )
2
0
0
至l
義 政島 L とある ﹃
唐大和上東征伝﹄ の文章 による限-、
十 二月六日は南風が吹 いて第 1船が座礁した日であり'必ず
しも第 二船 の出港 に係わるも のではな い。第 二船が十 二月六
日以前 に出港した可能性もなか ったとは言えな い。 いずれに
し ても ﹃
続 日本紀﹄天平勝宝六年三月発丑条 に、第 1船が帆
を挙げ奄美島を指して発 ったとあることは、阿児奈波が奄美
大島 の南 に位置したことを示しており平田説にと って大きな
のであ ろう。
律令財政 の構造と変質」 (
﹃
日本経済史大系﹄(65) 早川庄八 「
古代、 一九六五年 )
年料別貢雑物制 に ついて」 (
﹃
ヒスーリア﹄五三)
(66) 塩田陽 l 「
太宰府 の徴税機構」 (
竹内 理 三博士 還暦記念会
(67) 平野邦雄 「
編 ﹃
律令国家と貴族社会﹄、吉川弘文館、 一九六九年 )
延書式﹄民部下 の交易雑物条 には、陸奥国と出羽国 の品
(
68) ﹃
目として挙げられ て いる葦鹿皮 ・独干皮 には赤木 同様 「
数
随レ
得」とあり'これは奈良 。平安時代 の北海道 -渡島 蝦夷
の産物を陸奥 ・出羽国を媒介 にし て中央 に買上せしめたも の
と考えられる。これは太宰府と南島赤木 の関係と全-同じで
障害とな ろう。したが って阿児奈波が沖縄本島だとする通説
は動かし難 い。
(56) 谷森鏡男 「日唐 の交通路 に就 いて」 (
﹃
史学雑誌﹄二六ノ五)
(57) 木宮春彦 ﹃
日華文化交流史﹄九 1頁
ある。したが って貢上品目に数量を定めず 「
得 るに随う」と
した のは'それらが租税体系とは別 の形 で調達されるも ので
あ ったことを明確 に示し ている。
(58) 森克己前掲注 (46)
著 四八頁
(59) 岸俊男 「﹃
呉 ・唐﹄ へ渡 った人 々」(
﹃
日本 の古代﹄③ 、中
央公論社' 一九八六年 )
ポリネ シアに分布する。
aj
a
v
a
ni
c
a B lume
.
である。
和名 がアカギで、学名はBi
s
c
hof
i
台湾、南中国 ∼イ ンド、 マレーシア、オース ー ラリア北部、
(
69) アカギはトウダイグサ科 に属す る熱帯性 の半落葉高木 で'
2)
論文
(6) 鈴木前掲注 (
(62) 酒寄雅志 「
潮海通事 の研究」 (
﹃
栃木史学﹄ 二)
(
60) 杉山前掲注 (54)論文
1
(63) ﹃
類宋三代格﹄所収弘仁十三年十 二月十 日付太政官符によ
れば'大事府 の年料別貢雑物は五月以前に進上することにな っ
大和と南島」 (﹃
南島考古学 ﹄ 所収 '第 一書 房 '
7
2) 三島格 「
(
1九八九年 )
(73) 但し'史料 にはみえな いが南島産 の物品とし て赤木ととも
に需要があ ったも のに'喋細に使用される夜光貝、種 々の装
(70) 鈴木前掲注 (
2)論文
(71) 鈴木靖民氏 のご教示 による。
(
﹃
類衆三代格﹄所収大同四年正月 二十六日付太政官符 )
。
(64) 職員令 によれば'内蔵寮 の長官 の職掌 の中に'諸春から貢
献される寄韓物を つかさど ることが含まれている。寄韓とは
珍し い玉 の意味 であるから赤木とは無関係 ではあるが、諸蕃
飾品とな った羅殻がある。したが って赤木 の他 にこうした物
ている。また大事府 には別貢傍 が存在 した ことも知 られる
貢献物を扱うと いう こと で内蔵寮 に保管されること にな った
201
一
一
(88) 西村捨三 の ﹃
南島紀事外篇﹄ (一八八六年 ) によれば ' ア
カギは沖縄 では、本島北部 の袖山 で仕立敦 の周囲に植栽し防
品 に付けられ ていた可能性ま で否定するも のではな い。
なお三島格氏は、赤木 の可能性を考えながらも、沖縄 ・奄
風樹としている他、菜種油圧搾器 ・製糖車台 。揺春 ・到盤等
に使用され ている。
吾妻鏡﹄文治 五年 九月十七 日甲戊条
(92) 中世史科 であ るが'﹃
にも 、毛越寺 の金堂は金銀を鎮め、紫檀赤木など で継 いで い
たと みえ る。
午 )参照。
研究」 (
﹃
正倉院文書と木簡 の研究﹄所収'塙書房' 一九七七
買新羅物解」 には、新羅
(
91) 鳥毛立女犀風下貼 に使用された 「
から の舶載品が数多くみえ、そ の中に蘇芳が含まれて いる。
したが って蘇芳は新羅 ルー-でも舶載 されたことが知られる。
鳥毛立女犀風下貼文書 の
なおこの点 に ついては、東野治之 「
日中貿易史上 の蘇木」 (
﹃
中国社会経済史 の研
(90) 曾我部静雄 「
究﹄所収 、吉川弘文館 ' 1九七六年 )
き刺すと、そ の汁は赤-な-、あたかも人間 の体から出血し
たか のような印象を受ける。
前掲)所収)
なお、 アカギ の心材は暗紫紅色 であ るが、外部から幹を突
呪力」 (
﹃
俗信 の民俗﹄ 岩崎美 術社 、 1九 七 三年 )中村 明蔵
「
隼人と赤色」 (
門脇禎 二編 ﹃
日本古代国家 の展開﹄上巻 '思
文閣出版、一九九 五年、後 に ﹃
古代隼人社会 の構造と展開﹄(
(89) 長田須磨 「
奄美方言と赤色 に ついて」 (
島 尾敏 雄編 ﹃
奄美
の文化﹄法政大学出版局、 一九七五年 )
、桂 井和雄 「
赤色 の
美 における布痕土器 の存在や庶民 の衣服 の研究等から芭蕉布
等 の布類が南島から貢進され ていたことを指摘し、布類も候
)
補として挙げ ている (
前掲注 (27 )0
(74) 鈴木前掲注(
2)
論文
(75) ﹃
特別展 正倉院宝物﹄ (
東京国立博物館 ' 一九八 一年 )
(76) 関根真隆 「
正倉院刀剣史料考」 (
﹃
天平美術 への招待﹄所収'
吉川弘文館 ' 一九八九年 )
(77) 末永雅雄 ﹃
正倉院 の大刀外装﹄ (
小学館、 一九七七年 )
(78) 関根前掲注 (76)
論文
(79) 福永酔剣 ﹃
日本刀よも やま話﹄ (
雄山間' 一八八九年 )
(80) 伊勢神宮 の太刀に ついては、菅谷文則 「
太刀」 (
﹃
伊勢神宮
と日本 の神 々﹄朝 日新聞社' 7九九三年 )を参照。
(81) ﹃
続 日本紀﹄文武三年八月己丑条
(82) ﹃
真境名安興全集﹄第三巻 (
琉球新報社、 一九九三年)
(83) ﹃
中尊寺﹄ (
河出書房新社' 1九七 1年 )
(84) 小島埋蔵 「
赤木 の柄 の刀」 (
﹃
琉球大学教育学部国語科昭和
五十九年度卒業記念文集﹄)
(85) 嶋倉巳三郎 「
樹木と古代 の人 々」 (
﹃
橿原考古学研究所論集﹄
第七、吉川弘文館、 一九八四年 )によれば、布留 ・巻向 ・藤
原宮跡 ・難波宮跡 ・御山千軒 の各遺跡から出土した櫛はイ ス
ノキ の心材 で造られていると いう。
満久崇麿 ﹃
木 のはなし﹄ (
思文閣出版、 一九八三年 )
満久崇麿 ﹃
同名異木 のはなし﹄ (
思文閣出版' 1九八七年 )
202
付
「
漂到流球 国記」 の涜球 に関す る記録
中 世史料 にみえ る流球
-
宮内 庁書陵部 には、寛 元 々年 (〓 1
四三 )九 月 に肥前 国松浦を
命を
おのおの
。 各 身
て'即ち
す
弄
陸地 に至 る.海渚 の辺を見 るに、浅香寄り 宋ま る。 叉 一つの境 野
実否を知 ら んが為 に、尤も岸 に上が る可 し
の 奈
あ な た
を過ぐ る に'四速と天と連 な る。唯草葉有 り て、人煙を見ず 。
同十九 日。遅天明け て鎗方を 見 る に、白 雲
見 ゆ。人脚 の及 ぶ可き こと無 し。徒 ら に眼を送り て而
出港 した渡宋者 一行 が翌年 六月 一日に帰 国す るま で の出来事を記
した史料 が所蔵 され て いる。内容 は猛風 に遭 って漂着 した流球 国
鉢 ・木 の形惣 て両国 に似ず 。其 の木 '或 いは葉 の長 さ 二尺許 、廉
辺 に遥 か に人煙
た
た
ず
む
山の
で の見聞 が大半を占 め て いるため 「
漂到流球 国記」と いう表 題が
さ七八寸なり。其 の枝或 いは地 に入り て、剰え て亦 天 に趣- 。
直接体験 した こと ではなく 、渡宋 した船頭 や僧侶 から聞き取りを
柱 は赤木 なり。屋 の高 さ六七尺。其 の内 に炭櫨有り て、其 の中 に
弥木 の類歎 。又 一つの仮屋を見 るに'草を以 って之を茸- 。其 の
此- の如き こと重 々なり。凡そ形鉢常と異 な る。若 し- は是 れ
も 卜 。
ついて いる。筆者 は慶 政と いう僧侶と みられ て いるが'彼自身 が
流球 に漂着 し脱出す るま で の間 の流球 で のでき ごとを記 した部分
行 な い、それを記録 したも のであ る。原文 は和風漢文 であ るが、
人骨有り 。諸 人魂を失う 。此 れ に従り 、長- 既 に流球 国 に来た る
船裏 の上 下必死 の思 いを成す 。又僧侶井 び に有 心之輩 '暫 ら-敦
いず '手 に鉾を持 つ。即ち巌 上 に登 る。其 れ急ぐ こと鳥 の如 し。
形也 。赤色 の衣服を著 し、赤 き巾を 以 って頭 に絹- 。足 に履を 用
の跡を見 る。即ち急 に之を食 む るに' l人を見 るを 得 。其 の鉢童
と 二里ば かりなり 。山中 に於 いて犬 の声を 聞き '泥上 に於 いて人
同 二十 日' 一船相議 し て'三十余 人余方 に趣き向 かう 。行 - こ
ことを知 る。即ち船裏 に還り て此 の凶事を告ぐ 。
の読 み下し文と そ の大意を掲げ よう 。
同 (
九 月 )十七 日'流球 国 の東南 の方 に漂到す 。船裏 の諸 人衆
きかい
口討論 す 。或 いは貴賓 国と 云 いう或 いは南蕃 国と云 い'或 いは流
つ
い
球 国と 云う 。終 に即ち皆謂う '是れ流球 国也と 。命朝碁 に在-0
い
かゝ
せん
たちま
はや
き
た
とい
奈 何 、 々 々'片 浪 忽 ち に曳 き て、 猶 駿 河 の如 し 。 設 千 の梶を 下す
い
か
り
も波 さえ 当 た る可からず 。中路 に留ま んと欲 す る に'碇留 む る
と
に能 わず 。只天を仰ぎ て涙 を拭き '声を挙げ て念仏 す。漸 やく近
者甚
同 二十 一日、未 の時 に海上を見 る に、船 両三浮び来 た る。其 の
心を為す 。寄木を拾 い究め'仮 に宿を綴り成す。其 の中 に住 みて、
。 順 う
したが
づき て之を見 るに、大 河 の流 れ有 り 。悦 び て以 て之を服す 。其 の
すこ かわ
き
味甚だ美 なり 。 1船 競 いて服す 。 頗 ぶ る 渇 を 除- ことを得 。
んと要とす
最後 の思 いを成 し て、念仏読経す 。
に 上 ら
あが
叉水 辺 に於 いて馬 の頭 の骨を見 る。
同十 八日。地貴を見 んが為 、陸地
だ少 な し。壮年 之輩 二十余 人相議 し て云わく '流球為りと錐ども、 船 両国 の船 に似ず 。其 の中将 軍有- 。赤色 の衣服を着 し、赤 き巾
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0
3
猶 雨脚 の如 し 。其 の箭 急 に飛び て遠 く 走り
十余 人許 也 。各 々鉾楯 を持 し 、弓箭 を帯 す 。同時 に夫 を放 つこと
つ
よ あた
て 健 く 中 る。又楯を持
を 以 って頭 に緒く 。暫 時 之 間 に'船 十余 膿競 い来 た る. 7船 別 に
是 れ此 の国 の物を 取り船内 に置 - 。偽 て神 凶を成 す 哉 。偽 って先
維ども 、未だ 国 の境 を離 ぬ る こと能 わず 。船裏 皆 謂 へら- 、若 し
稀 に以 って此 の所 を 出ず 。是 の時船 三十余 般 '気を吐き魂を馳せ'
同 二十 四 ・五 月。猶風 不快 なり 。面 々立 願す 。
日取 る所 の赤 木等 皆 以 て海 中 に投 げ 了 ぬ。
勇 猛 の心 を発 し て、大 いに以 て静 い戦う 。挽 か に本 所 を 出ず ると
ち水 に浮- こと猶水 鳥 の如 し。其矢小々拾い取-持ち来たる。其の羽六
筋。其の尻鉾の如し。
同 二十 二日。 日中 に弦 を嬢 へ、鉾を弄 て'手 を 挙 げ '和 平 の恩
同 二十 六 日、好風忽 ち来 り て、長 く 此 の難所 を 出 で了 ぬ 。船火
門
大意︼
を 示す 。 日本 人 弓箭 を 納 め 、甲宵 を 解 - 。爾 の時 '彼船 漸 -近
つ
らつ
ら
たけ
づ き 来 た る。 信 之を 看 る に'其 の人 の長本朝 の人 より高 し。面 の
色 甚 だ 果 し 。耳 長- し て鈎有 - 。眼 円- し て皆 黒 し 。髪短 か- し
えほ
うし
て肩 に垂 れたり 。 頭 巾 を 用 いず '赤 き 巾を 以 って頭 に緒- 。腰 に
かん
銀 の帯 を 用 い'賀 頚 に金 の 丸 を懸 たり 。或る書に云わ-、豊は垂れた
十七 日'流球 国 の東南 の方 に漂到 した 。乗組 員 は こ の国 (
島)
き こと 飛 ぶが如 し。
る玉也。美しき金也。雀は毛穫也。 着 す る所 の衣服 '或 いは赤 或 いは
黒 。言 語 両国 に異 な る。又文字 を知 る こと無 し。又衣服を乞う に、 がど こか議論 したが 、あ る人 は貴賀 国と 言 い、あ る人 は南 蕃 国と
か
た
ひ
ら
の 杉 等 を 与う 。面 々之を 悦 ぶ。又飲食 を乞う に、八木 (
栄 ) 言 い'あ る人 は流球 国と 言 った 。結 局 、流韓 国 で 一致 し '皆 明 日
いは小児 を負 え - 。髪 を 結 いて頂 に安 んず 。頗 る唐古 の女 に似 た
送 る。其 の味 本朝 に同じ 。 又女 人有 - て'或 いは兵 具を帯 し、或
等 を与 う 。各 々之 に輿ず 。 又流球 船従 り煮 た る芋弄 び に紫 の苔 を
あ った 。皆悦 ん でそ の水を飲 んだ。大変 お いし いので船 ごと に競 っ
唱え る他 はな か った 。船 が陸 に近 づ いた ので、見 ると 大 き な河 が
ょう とも碇 も効 き 目は な か った 。 ただ 天を仰ぎ て涙 を 拭 き念 仏を
の命 がな いと狼狽 した 。波 が速 - て梶も 役 に立 たず 、途 中係留 し
即 ち紺
- 。壮 年 の男 子等 '或 いは 刀を 以 って屠 ふる肉 の相 を 示 し 、或 い
を み つけた 。
の絶薬
議 した結 果 、流球 かどう か確 認 す るた めも 岸 に上 が る べき と いう
に同調す る者 は非 常 に少 な か った 。 しか し壮年 の輩 二十余 人 が協
十 八 日'島 の地景を みるた め に上陸す る必 要 があ った が ' これ
てこれを 飲 み'喉 の渇きを 潤 す こと が でき た 。ま た水 辺 で馬 の骨
は 口を 開 け て食 肉 の頁 を 表 わす 。此 の如き 面 々 の所 行 、怖 畏す る
あ
かぞ
こと 勝げ て 計 う べか らず 。毎 日三時 に必 らず来 り て静 い戦う 。所
閑 伽
あ か
謂 '早朝 、 日中 '晴 時 也 。只 三宝 を念 じ '観 音 を 唱う 。
同 二十 三 日。夜 好 風 俄 か に来 た る。猶 千年 の病 席 に
を 得 るが如 し。 即ち 心を 励 ま し力 を勧 め て、帆を上げ碇を踏 みて、
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0
4
人家 は全 - みえ なか った 。
四方 の果 てが天 に連 な るよう であ った。そこには草葉 のみが生え '
(
天然 の香料 の l種 )があ った 。 lつの広大 な 野 原を 見 渡 す と '
こと になり '決 死 の覚 悟 で上 陸 し た 。 海 辺 には寄 物 と し て浅 香
しば ら- し て、 一船 に十余 人-ら い乗 った船十余膿 で攻めてきた。
に将 軍が いて、彼 は赤色 の服を着 、赤 い巾 で鉢巻きを し て いた 。
や ってき た。船 の形 は 日本 や中 国 のも のと は似 て いな い。そ の中
二十 1日、未 の時 (
午後 二時 頃 )
、海上 を み ると 船 が 二 ・三膿
す るにとど めた。山 のか っこう や木 の形 は 日本 および中国とは似
ころに人家 が みえ たが '人 が行 け るよう なと ころではなく '遠望
十九 日'翌朝 、他 の方向 に目を やると 、白 雲 のむ こう遥 かなと
た。)
拾 い持ち帰 ったが'羽は六筋 に分かれ'尻 の部分は鉾 のよう であ っ
を持 って水 に浮か ぶ様 は水鳥 のよう であ った 。(
なおそ の矢を少 々
雨 の如-降 ってき たが、それは非常 に速く威力も あ った。ま た楯
彼 らは鉾 や楯を手 に持ち 、弓箭を帯び て いた 。同時 に放 った矢 は
て いな い。そ の木 はたとえ ば '葉 が長 さ 二尺ぐら い'広 さは七 ・
他と は異 な った珍木 の類 であ った。 1つの仮屋を みると 、草 で屋
きた船上 の流球 人を よ-よく観察 す ると 、彼 らは 日本 人より背 が
二十 二日、日中 、和平 の意志を表 し て交戟を やめた。接近 し て
八寸 で、枝 は地 に下り ては上 へ伸 び 、それが幾 つも重な っており、
根を葺 いており 、柱 には赤木を使用 し て いた。屋 の高 さは六 ・七
丸 -黒 い。髪 は短-肩 に垂 らし て いる。烏帽 子を被 らず赤 い巾を
高- 、顔 の色 ははな はだ黒 い。耳 が長-耳飾りを し て いる。目は
度 肝を ぬかし'あらため て流球 国 に来た ことを知 った。船 に戻 っ
頭 にかけ て いる。腰 に銀 の帯を巻 いてお- '首 には金 の環を かけ
尺 で'屋室 に炭炉 があ- 'そ の中 に人骨 があ った。それを み て皆
てこ の不吉 な できごとを伝え た。
て いる。 (
或書 によれば '豊は垂 れた玉 、美 し い金 の こと で、 塩
た 。乗組員 は生き た心地 がしなか った。僧侶 や信仰心 のあ る人は
いた。裸 足 で手 に鉾を持ち'崖上を駈け登る速さは鳥 のよう であ っ
た 。子供 のよう な体格 で、赤色 の衣服を着 て赤 い巾を頭 にかけ て
跡を みた。そ こでそ の人を さがし て いると 、 一人 の人間を み つけ
と にな った。 二里 ほど行 って山中 で犬 の声を聞き '泥上 に人 の足
り 、唐古 (
タ ングすなわち蒙古 人 のこと か ) の女性 に似 て いる。
いたり 、あ る いは小児を負 ぶ って いた。髪を 頭 の頂 上 で結う てお
同じ であ った。女 子も乗船 し ており 、彼女等 は武器を身 に つけ て
球 の人 々は煮 た芋と紫 の海苔を く れたが、そ の味 は 日本 のも のと
ら喜 んだ 。また飲食を要求 し てき た ので米を与え た ら興じた 。流
文字も知 らな い。衣服を要求 し てきた ので紺 のカタピ ラを与え た
は毛種 のこと であ る。)赤 か黒 の衣服を着 て いる。言語 は通ぜず '
しば ら-祈り に没頭す るた め'寄木を拾 い集 め て仮 の宿を造り 、
二十 日' 一船 では協議 の末 '三十 四人が他 の方角 へと向 かう こ
そ の中 で必死 に念 仏を唱え読経 した。
した ので非常 に恐怖感を覚え た。流球 人 は毎 日三度 、朝 と昼と夕
壮年 の男子は'刀 で屠 る真似を Lt 口を 開け て肉 を食 べる仕草を
205
人を喫う地な-」と記している。また ﹃
今昔物語﹄ には 「
琉球国
に漂着す。其 の国は海中に有-人を食う国也」と記されており、
方にや ってき て戦を挑んだ。その度に三宝を念じ、観音経を唱えた。 たが、そ の流球国に ついて延喜 二年 (
九〇二)に三善清行が撰走
した智証大師円珍 の伝記 ﹃
智証大師伝﹄は' 「いわ ゆる流球 国は
二十三日'夜 にな って俄 に好風が吹 いた。これは長 い間病床 に
あ った者が関伽 (
仏 に供え る水 )のような絶薬を得たような気持
流求伝 に 「
取二
闘死者 ,
、共架而食レ
之」または 「
人有レ死者、邑里
﹃
晴書﹄ の流求がどこであ るかと いう問題は現在もまだ決着を
共食レ
之」と、戦闘 で殺された者 の屍骸を共 に祭 って食 し 、あ る
いは 言巴に死人が出ると呂 の者 で共食す るとみえ ること に基づも のであ ろう。
﹃
元事釈書﹄にも同様な記事がみられる。こうした観念は ﹃
帽書﹄
ち であ った。お互 い励まし合 い帆を上げ碇を踏んで流球を脱出し
た。この時、三十余娘 の乗組員は気力をふりしぼ って戦 った。し
かし脱出はしたも のの、なかなか流球 の国境 の外 にでることがで
きなか った。そこで船上 の皆が言う には、先日流球 の赤木を取 っ
て船内 に持ち込んだ ことが神凶とな っていると。そこで船内 の赤
木をす べて海 に投棄した。
着しているから約五日半を要し ている。
しかし 「
漂到流球国記」 の場合'二十三日の夜 に流球 の地を離
れたも のの'好風に恵まれず 二十五日ま で流球国 の海上にあり'
二十六日に好風が吹 いて船は飛ぶよう に走-、二十九日大唐嶺南
道 (
﹃
新唐音﹄地理誌 によれば江南道が正し い)福川龍盤 晩 に到
から所要日数は約 1、五日であ る。したが ってこの日数 からすれ
(
)
ば、加藤繁氏や佐伯有清氏が説くよう に、円珍等 の漂着した流抹
国は台湾とみた方がよ い。
漂着Lt翌十五日の正午前後 に福州連江県 の海岸 に到着し ている
﹃
智証大師伝﹄ によれば、八月十四日の午前七時ご ろ流抹国 に
これら の史料 では、﹃
隔書﹄涜求伝 の食入国洗求 と いう こと が強
調されて いて'当時 の知識層がリ ユウキ ユウの位置をど の程度認
識していたかは明らかでな い。
みな いが、平安時代 の史料 にみえ る流球 (
流球 )' そし て鎌倉 時
二十 四 。五日、風 がなお思 ったよう に吹かな いので'立願した。 代 の 「
漂到流球国記」 にみえ る流球 に ついても同様な問題がある。
二十六日、好風がたちまち吹き、船は難所を抜け'飛ぶよう に
走 った。
2 流球国 の比定
さて渡宋船があ る島 に漂着した時、乗船した人 々は当初そこが
何処だかわからず、貴賀島か南啓か流球か意見が分かれたよう で
ある。しかし結局'仮屋 の炭櫨 の中に人骨があるのをみて流球と
判断した。すなわち炭櫨 の中 の人骨1食入-流球と いう連想 であ
る。流球が食入国 であ るとする観念はす でに平安時代 の大和 の知
識層にみられる。
求法修学 のため渡唐を決意した円珍は'仁寿三年 (
八五三)八
月九日に値嘉島鳴浦を解撹した後漂流し、十四日に流抹国に若 い
≠
206
r
こ の日数 の違 いからす れば 、両者 のリ ユウキ ユウは必ず しも 同
lではな い。
そう した赤木 の生育 し て いる地域と し て大 和 の人 々が認識 し て い
た のは南島 であ った 。沖縄本島 のアカギがここにみえ る赤木 であ っ
なお恵良宏氏 が指摘す るよう に、「1つの暖 野 を 過 ぐ る に、 四
た可能性 は高 い。
は五日を要 したと いい、後 世 の冊封傍 の記録 の中 には最短 で三日
速と天と連 な る」とあ- 、広大 な土地を 示唆 す る文 言 が みえ るこ
﹃
帽書 ﹄流求伝 によれば建安 郡 (
今 の福建 北部 )から流求ま で
な いしは七 日 で沖縄 に到着 した例もあ ると いう か ら ' 「漂 到 流球
国記」 の流球を 沖縄本島 に比定す る ことも決して不可能 ではな い。 とも 、単 な る小離島 ではな- '沖縄本島 であ った こと の傍 証と な
ろう 。
の骨を みたとあ るが、 こ のこと は流球 に馬 が いた ことを示し て い
貴重な史料と な ろう 。実 は こ の史料 には巻末 に絵が措かれてお- 、
こ のよう に、「
漂到流球 国記」 の流球を 沖 縄 本 島 に比 定 でき る
文 中 の記載 にはむ し ろこ の傍 証とな るも のが多 い。たとえば馬
る。馬 は台湾 には いな いが 、沖縄 ではグ スク時代 に本格的 な飼育
が始ま っており 、良馬 が明 国 に貫進 され て いる。したが って馬 の
当時 の流球人 の風俗を考え る上 でも有益 であ る。
その巻末 の絵 は 'おおむね 二十 一日 の記事 に対 応す るも のと み
3 絵 に見 る流球 国 の風俗
とす れば 、こ の時期 の南島 関係史料 が極端 に乏 し い中 にあ って、
存 在 は沖縄説 に有 利 であ る。
また赤 い巾を 頭 にかけたとあ る のも 、たとえば ﹃
李朝実録﹄ の
清川島 民 の漂流記 に、琉球 (
沖縄本島 ) の人 々は 「
男女頂辺 に椎
馨 し 、吊 を 以 て之を蒸 む」とあ- 、布を頭 にま いて いた こと が知
られ る。 これが後 に八巻 冠 にな った こと は僧袋中 の ﹃
琉球神道記﹄
にみえ る通り であ る。
し て来た よう に措かれ て いる。そ の船 の特徴 と し て船首 の形 が方
度乗 って いたとあ るが'絵 では 二膿 の船 に、四ま た は五人 が分乗
られ る。但 し'本文 には十余 膿 の船 が来 たと か 、船 別 に十余 人程
さら に米を知 らな いと いう のも '沖縄 におけ る稲作 がグ スク時
き さからす れば沖縄 の 「
さば に」を連想 せしめ る。
し て いるよう に、船首 の円 は邪眼を表 わ し て いる。 しかし船 の大
代 に入 ってよう や-定着 したと いう 通説からしても矛盾しな いLt 形 で'二 つの円が措 かれ て いる点 が挙げ られ るが 、恵良 氏も指摘
そ の味 が 日本 のも のと 同じ であ ったと いう煮 た芋 に ついても 'こ
(
2)
(
3)
れを 「
さ つま いも」と みるか 、里芋系と みるか '見解 は分かれ る
が用 いられ て いた ことを史料等 で証明す ること は でき な いが'赤
そし て最も注 目され る のが赤木 の記載 であ る。仮屋 の柱 に赤木
分想像 され る。しかし本文 には特 に額あ てに関する記述はな いが'
が異な ること から、他と は区別 され る べき人物 であ った こと は十
他 の人物 には みえ な い額あ てを つけ ており '他と は明 らか に様相
手前 の船 の中央 に槍を持 って立 って いる赤 い衣服を着た人物は、
木を 取 って船 に積 み込 んだ のは'それを貴重なも のと考え たから
「
其 の中 に将 軍有り 。赤 色 の衣服を着 Lt赤 き 巾 を 以 って頭 に鐸
が '沖縄 で栽 培 された芋と解 し て問題 はな い。
に他な らな い。結局 、神 凶があ ると いう ので海中 に投棄 したが、
20 7
-」と '将軍 の特徴とし ては赤 い衣服を着 ていることが記され て
いるので、恐らく将軍であ ろう。そうなると、向 こう側 の船 で弓
を引 いている人物も将軍であ った可能性もあるが'手前 の将軍と
船 の前方 の二人 の人物 のうち 7番先頭に いる盾を持 った人物は、
は対照的な行動をと っている。
槍 に赤色 の飾-を つけ ていることからし て'これは実際に武器
とし て使用す るも のではな-' 一種 のシンボルであ っただ ろう。
本文中 の 「
又楯を持ち水 に浮 ぶこと猶水鳥 の如し」とあ る部分を
描写したも のと言え る。
ここに措かれた流球人は、袖と裾 の短 い着流し風 のも のを着 て
帯をし ている。帯 の巻き方 は'手前 の船 の将軍およびそ の前 の弓
を持 った人、そし て向 こう の船 の将軍とも共通してお-' 1巻き
した端 の部分を帯 の後方 に差し込んでいる様子がみえ る。こうし
た服装が日常 の生活 で着 ているも のかどうかはわからな い。
もち ろんこうした流球人 の姿は、慶政が実際に自分 の目でみた
わけ ではな-'あ-ま で船日
月 ・僧侶から聞 いた上で描 いたも ので
あ るが'おおむね当時 の流球 (
沖縄本島 )人 の姿を伝えたも ので
あ ろう。
注
(
-) 加藤繁 「
入唐留学僧囲戦に就 いて」(
﹃
史学雑誌﹄四 1ノ七)
'
佐伯有清 ﹃
智証大師伝 の研究﹄ 二二五頁'吉川弘文館 ' 1九
八九年 )
(
2) 「﹃漂到流球国記﹄解題」 (
宮内庁書陵部 )
(
3) 恵良宏 「漂到流球国記に ついて」 (﹃
南島研究﹄四、以下の
恵良氏 の見解はこの論文 に拠 る)
門
付記如
本稿はこれま で発表した次 の論文をもと に構成したも のであ る。
① 「
南島寛国債に ついて」 (
﹃
日本歴史﹄五二三㌧平成 三年十二月)
② 「
遣唐使航路 ﹃
南島路﹄ の存否をめぐ って」 ( ﹃
立 正史学﹄ 七
二 平成四年三月 )
③ 「
流求 の ﹃
布甲﹄をめぐ って」 (
﹃
日本古代史叢考﹄雄山闇、平
成六月三月 )
⑤ 「
律令国家 の南島支配」 (
﹃
史正﹄ 二五、平成八年十月 )
208
一
一
④ 「
南島赤木 の貢進 ⊥父易」 (
﹃
西海と南島 の生活 ・文化﹄名著出
版'平成七年十月)
構成 にあた って、旧稿 の 一部を割愛したり、
・また史料 や文献を
補うととも に記述内容 の補訂を行 った。「
付 中世史料 にみえ る
流球」は未発表 である。
なお開通す るも のに、拙稿 「﹃
惰書﹄流求伝について-研究史 ・
学説 の整理を中心 にー」 (
﹃
琉球大学法文学部紀要 へ
史学 。地理学
篇)﹄三六、平成 五年三月)
、同 「
古代 の多軸嶋」 (﹃日本古 代 の
国家と祭儀﹄雄山間、平成八年七月)
、近 々発表 予定 の拙稿 「
古
代 の南島 -交易物を中心にー」がある。併せて参 照された い。
太宰府市大字観 世音寺字不丁地 区 ・SD2
3
40遺構 出土木 簡
9
0頁
九州歴史資料館蔵 、本文 1
『
漂到流球 国記」 に描 かれ た琉球 人
07頁
宮 内庁書 陵部蔵 、本文 2