東和苑 6-4(〒 81143) 第 131号 TEL(o93)293-4244 1989年 7月 10日 発行 福 岡 423260 振替 男 正 野 奥 古代文化研究会会報 福 岡県遠 賀郡遠 賀町浅本 発行先 日 会 演 講 ︶ 七月例会 ︵ 講演会︶ 時 七 月 二十 三 日 ︵日曜 日︶ 場 福 岡市 博 多 区駅 前 四 丁 目 博多駅地区土地区画整理記念会館 ︵ 密〇九 二︱ 四七 四︱〇 一〇 二番︶ ︿︻ 午 後 一時 半 開会 ∼午 後 四時 半 閉会 師 奥 野 正男 題 ﹁ よ み が え る女 王 の都 ・吉 野 ケ 里遺 跡 ﹂ 場 案内 図 会 場案 内 図 ﹁博多 駅 地 区 土 地 区画 整 理記 念会 館 ﹂ ヽ 八 月例 会 ︵ バ ス︶ 装飾古墳を訪ねる 史 民俗資 料館 ︱ 月 の岡古墳︱ 日 の 岡古 墳︱ 塚堂 古 墳 ︱ 珍敷 塚古 墳 ︱ 鳥船 塚古墳 ︱古 畑古 墳 ︱浮 羽 町立 歴史 民俗資 料 館︱楠 名古 墳︱ 重定 古墳︱法正寺古墳︱屋次郎丸古墳︱ 塚花 塚古墳 お申 込みは電話 ︵ 〇九 二︱ 二九 二︱ 参加費 エ バ ス代 、 入場 料、 ハ千 円 ︵ 日 時 八 月 二十 七 日 ︵日曜 日︶ R博 多 駅 筑 紫 口、 午 前 八時 集合地 I 半 出発 四 二四四番︶ で八月十 五 日ま でに 現金 封筒 か振替 で御 送金 くださ い。 そ の他弁 当 持参 、軽装 有 料道路 料金 、資 料代 な ど︶ 見 学 地 吉 井 ・浮 羽 町 ∧ コー ス∨ 博 多 駅 筑 紫 ロー ー ニ 日市 C 高 I= ︵ CI 吉 井 町 立 歴 速 道 路 ︶= 久 留 米 I 古 墳 時 代 の浮 羽地 方 月 の 岡 古 墳 の年 代 浮 羽地方 の古 墳 は、 現在 のと ころ 地 し てお り、 この 二 つの河 川 の治水 にはさ ま れた 一 扇状 地と沖積 平 野 に立 奥 四世紀代 のも のは未発見と いわれる。 を軸 にし て五世紀代 に入 ってから 平 両古墳 群 の年 代 は、 後述 す る よう 五世紀ご ろ に入 って、筑 後 川 の南岸 楠 名 ・重定 。法 正寺 山 ・屋次 郎 丸 。 に全 体 と し て若宮 群 が古 く、朝 田群 野部 の水 田開発 が進 展 し、 この豪 族 塚花 塚な ど を中 心と した朝 田古 墳群 群 と も、 九州北 部 を代 表す る装飾 古 が これ に後続 し ていると みられ 、両 この両古 墳群 は、 巨勢 川と 隈上 川 があ ら われ る。 の平 野部 に、月 の岡 。日 の岡 ・塚 堂 男 が成 立 した こと を う かがわ せる。 正 の三古墳を中 心にした若宮古墳群と、 野 第131号 紫 筑 筑紫古代文化研 究会 岡 古 墳 な ど が あ り 、 九 州 の中 期 古 墳 付 冑 類 ・馬 具 類 を 副 葬 し て いた 月 の 墳 が 含 ま れ て いる ほか 、 金 銅 製 眉 庇 ろと し、最古 におく年代 観 に異論 が 体部 にも つ月 の岡古墳 を 五世紀 中ご ると、 竪穴式 石室 に長持 形 石棺 を主 内 容 不明 の法 正寺 山古 墳 を除 外す 式 石室︶ のほか に、墳 丘くびれ部 と り、 現在 、露 出 し て いる 石棺 ︵ 竪穴 一九 八五年度 の調査 によ そ の後 、 4 二重 県飯 南 郡朝 見村 ・佐 久米 3 奈良 県五条市 ・猫 塚古墳 三 口 古 墳 一口 月 の岡古 墳 は、全 長約 九 二屑 の前 前方部 にも未掘 の石室 が存 在す る こ でも 、畿内 の大古 墳 と 匹敵す るも の 5 千葉 県君津 郡清 川村 祇 園 一口 古 墳 一口 浮 羽 地 方 の古 墳 の成 立 時 期 に つい 方 後 円墳 で、 周濠 の跡を 残 し、墳 丘 であ る。 付 鉄製 品 。鉄鎌 。鉄 斧 2 大 阪府泉 南 郡淡輪 村 。西小 山 文 化 を 考 え る う え でも っと も 注 目さ な いよう であ る。 鏡 一・珠文鏡 一。金銅 条線 装飾 れ る 地 域 であ る 。 ては 、 森 貞 次 郎 氏 、 佐 田茂 氏 、 福 尾 周 辺 には葺 石と多 量 の埴 輪 が散布 し とがわ か った。 ︵ 図 1︶ 周濠 は、北側 と東側 のト レ ンチ調 法 正 寺 山 古 墳 ︱ 月 の岡 古 墳 ︱ 塚堂 録を と ど め て いるが、近年 、若宮 八 野 一貞 が ﹃ 筑 後将 士 軍談 ﹄ にそ の記 江 戸時代 に遺 物 が取 り出さ れ 、矢 二屑 ∼ 三 ・八肝 とな って いる。 中濠 の幅 は四 ・四屑、 外濠 の幅 は 二 ・ と がわ か つた。 内 濠 の幅 は約 一三屑 、 月 の岡 古 墳 ︱ 塚堂 古 墳 ︱ 日 の岡 古 棺を収 めた 竪穴式 石室 があ り、次 の 主体 部 は後 円部 の上位 に長持 形 石 在 不明 のも のも多 いが 、末永 雅 雄博 月 の岡古 墳 の副葬 品 は、す でに所 肩 甲 八具 革製 衝角 付冑 一 口 一 一 短 甲 一一領 2 大 阪 。野中古墳 口 眉庇 付冑 一〓一 衝角 付冑 一 一口 短 甲 一一 四領 1 大 阪 ・黒姫 山古 墳 のような も のがあ る。 甲冑 類 を大 量 埋納 した古 墳 には次 また 、 甲冑 類 の大 量 埋納 と いう点 正彦 氏 ら の論 考 が あ り 、 お よ そ 次 の 査 によ り 二重 にめぐらさ れ て いる こ 古 墳 ︱ 日 の岡 古 墳 ︱ 塚 花 塚古 墳 ︱ 幡宮 所蔵 の冑 が復 元さ れ 町立資 料館 墳︱ ︵ ︶ ︱ 重定 古 墳 ︱ 楠 名 ・ ような豊富な遺物が副葬され ていた。 森 編年 楠 名 古墳 ︱重定 古墳 に展示さ れ る こと にな つた 。 塚 花 塚古 墳 三角 板鋲留 短 甲 ・横 矧 板鋲 留短 図 2︶や 、点 庇 償 撃 ど 名 付け た冑 ︵ 線 波状 文透 彫 勢帯金 具な ど は、 そ の 頸 甲 七具 甲冑 類 小札 鋲留 眉庇 付冑 八領 、 月 の岡 古 墳 ︱ 塚堂 古 墳 ︱ 日 の岡 古 甲な ど合 計 八個 、 頸甲 ・肩 甲 。 製 作技術 や 文様な ど か ら朝鮮 半島 と 八日 眉庇 付冑 一 墳 ︱ 塚 花 塚古 墳 ︱ 重 定 古 墳 ︱ 楠 名 嬬当 一式 器類 この種 の金銅製 眉庇 付冑 の出土例 短 甲 エ ハ領 草摺 一具 馬 具類 金銅 鞍 金 具 ・鞍橋 ・木 心 は、全 国 でもき わめ て少な く 、他 に 衝角 付冑 七 日 の つな が りが 深 いも のと みられ る。 る 法 正 寺 山古 域 は 、 推 定 全 長 一〇 〇 鉄板張輪 鐙 二 ・馬鐸 二 ・轡 。金 七例を みるだ け であ る。 武 器類 刀 ・剣 ・鏃 。金銅 胡録 屑 で こ の地 域 最 大 の前 方 後 円墳 であ 銅 馬 面 ・帯 金 具 。点線 波状 文透 短 甲 七領 4 同 。大 塚 山古墳 3 大 阪 。堺 ・七観 古墳 る が 、 現在 墳 丘 上 が 墓 地 と な ってお 古墳 ︶ 一口 1 大 阪府 堺 。大 山古墳 ︵ 仁 徳陵 彫 鍔帯金 具 。三環鈴 。餃 具 も 採 取 さ れ て いな いと いう 。 ︶ そ の他 変 形 獣 形鏡 二 ・二神 三獣 り 、 主 体 部 は 不 明 であ る 。 ま た 埴 輪 森 編 年 で最 古 に位 置 づ け ら れ て い 古墳 福 尾編年 士 が ﹃日本 上代 の甲冑 ﹄ のな か で、 ﹁ 四方白鉄地金装 鋲 留 蒙 古鉢 形眉 朝 鮮 系 甲冑 の大 量 副 葬 佐 田編 年 よ う な 編 年 案 が 示さ れ て いる 。 て いる。 (2) 紫 筑 第131号 ︶ 付冑 と 同型 のも のが 、大 山古 墳 の前 まず 月 の岡古 墳 出 土 の金銅 装 眉庇 れ て いる。 百済 ・伽 耶 の各領 域 の出土例 が知 ら 葉 形杏葉など、 朝鮮 三国時代 の新 羅 。 邸市 飛 山 洞 三四号第 一石榔 出土 の心 図 41 1︶、 ︵ 伽 那領域 の慶尚 北道 大 土 の鞍 金 具 には、竜 文を透 彫 り した あ る誉 田山古墳 の陪 塚 ・丸 山古 墳 出 ゆる応 神 天皇陵 に比定 さ れ る こと の に竜 文 の透 彫が施 さ れ て いる。 いわ また単 独 で鞍金 具 ・帯 金 具 ・冠な ど 文透 彫 と組合 せられ る こと が多 く、 ︶ 短甲 一 ハ領 方部 竪穴式 石室 よ り出土 し て いる こ 日本 の古墳 出 土 の遺 物 では、 この 金鋼 板 が 張 ってあ る。 この竜 文を 国 格を も つた被 葬者 と いえ よう 。 桂 甲 一領 とが 注 目さ れ る。 また 、 この種 の金 波状列点をも つ金銅鋳帯金具が大阪 ・ 内 出土 の馬 具や 鞍金 具 、中 国 。朝鮮 衝 角付 冑 一 一 一 日以上 衝角 付冑 一一日 銅装 眉庇付冑 の文様 にみられ る点線 七観古 墳 ︵ 図31 2︶、奈良 。新 沢 一 の同系遺 物 と 比較検 討 した 千賀 久氏 5 奈 良 。円照寺墓 山 1号墳 眉庇 付冑 四 口 波状 文 に ついては末永 博 士 が次 のよ 二六号墳 、和歌 山市 。大 谷古墳 、岡 短 甲 五領 衝角 付冑 一一口 このほか 甲冑 類 一 。二領 を 副葬 し 頸 甲 一一 具 短 甲 四領 眉庇 付 冑 四 口 衝角 付 冑 一一口 籠 手 一一 具 頸 鎧 四具 桂 甲 一 二領 以上 眉庇 付 冑 三 日以上 短 甲 一一 領 以上 衝角付 冑 四 口 短 甲 五領 百済 領 域 の忠 清南道 公州 ・栄 山 里 二 鮮 半島 では慶 州地域 だけ ではな く、 この波状 列点 文を も つ遺 物 は、朝 上代 の甲冑 し 。 金 属 に局限 せら れ て いる﹂ ﹁日本 し て金 、銀 及び金銅製 品 のような り広 汎な 種類 に及ん で材 料 は主 と 刀装 具、 馬具な ど にわた り、 かな 彫 に点線 文 を伴 う金 具 は服飾 具、 於 いてみる ことが でき る。此 等透 そ の附近 の古 墳 出土 の透 彫金 具 に 遺 物 と し ては慶 州金 冠 塚を は じめ も って いる。 これ が最 も代 表的 な をな し、また 常 に透彫 と の関係を 時代 に営造 さ れ た古 墳遺 物 の特色 この波 状 列点 文 は、大 阪 ・七観古 半島 南部 に求 め る こと が でき よう 。 た波状 列点 文 の系譜 か ら み て、朝鮮 の遺物 の直接 的 つな が りは、 こう し 金 。銀製 品や 金 銅 ・鉄 地金銅装 な ど てから 日本 の古 墳 文化 にあ らわ れ る でもな いが、とりわけ五世紀代 に入 っ 流 が大陸 にあ る こと は改 め て いうま こう した 情帯 ・馬 具 ・甲冑 類 の原 ら れ る。 銅 装 眉庇付冑な ど にも 同じ文様 が み 奈 良 ・猫 塚古墳 な ど から出土 した金 図 31 4︶、大 阪 。西小 山古墳 、 板 ︵ 3︶、 滋賀 ・新 開 1号墳 出 土 の竜 文鏡 山県 八束村 。四 つ塚 一三号墳 から 出 土 し て いる。また 、奈良 県 ,石光 山 8号墳 出土 の杏葉 や鞍 金 具 ︵ 図 31 月 の岡古墳 出 土 の金銅装 眉庇 付冑 代史 し の流 入経路 でもあ る﹂ ﹁誉 田丸 山 古墳 の馬 具 に ついてL 考古 学 と古 から 日本 への文物 及び渡来者 集 団 は そ のまま 、 五世紀 代 の朝鮮 半島 持ち 運ば れた と想定 でき る。 これ ︱ 日本 と いう ような ルー トを 経 て 本 、 そし て高 句 麗︱ 百済 ︵ 伽 耶︶ 済 ︱ 日本な いしは 百済 ︱ 伽 耶︱ 日 ﹁ 丸 山古墳 の馬 具と帯金 具 は、 百 を 次 のよう に想 定 し て いる。 うけ て いると い い、 そ の伝播 ルー ト は、一号鞍 の文様 は高句 麗 ・北 方系 、 た古 墳 は数多 いが 、九州 で甲冑類 を 号墳 出 上 の獣 面文 錆帯 金 具、全 羅北 墳 例や 滋賀 。新 開古 墳 例 のよう に竜 7 兵庫 。雲部 車 塚古墳 月 の岡古墳 のよう に多数 埋納 した 例 道 井 邑 郡雲鶴 里 C号墳 出 土 の帯 金 具 8 奈良 ・五条 猫 塚古墳 9 滋 賀 。新 開 1号墳 やす でに実物 はな く 記録 にだ け みえ 金銅 馬 面﹂ な ども また 、渡来集 る ﹁ 団 がもた ら し、あ る いは渡来 二 人が 二号鞍 の竜 文 は中 国 。晋 代 の流 れを はな く 、 そ の点 、きわ め て特 異な 性 法 は主と し て南鮮 におけ る古新 羅 う に のべ ている。 ﹁ 点 線 を も つて文様 を 表 現す る手 6 京都 。久津 川車 塚古 墳 第 131号 紫 筑 居 現 九 州 で製 作 し た も のではな か ろ う か。 こう した 見解 の底 流 に は 、 五 世 紀 勲 ︶ と いう 説 も あ る ﹁ 長 持形 石棺 は畿内 にか っては 天 の岡古 墳 の壁 画あ る いは胴張 りを も っ 後 述 ︶、日 二 つの竪 穴 系 横 口式 石室 ︵ 埋葬 主 体 の中 心 を な す 塚堂 古 墳 の を 見 出 せ る であ ろ う か 。 に 、 は た し てど れ だ け の畿 内 的 要素 と 、 月 の岡 に後 続 す る 塚堂 、 日 の岡 的 諸 要 素 か ら 墳 形 の前 方 後 円 を 除 く だ が 、 こ の 三古 墳 を 構 成 す る考 古 学 政 権 の滲 誘 の姿 と 理解 し ておら れ る、 間 に 塚堂 古 墳 を 介 在 さ せ つ つ、 畿 内 と ころ で、 筑 後 地 方 最 古 に位 置 づ 導 のも と にす す め ら れ 、 九 州 を ふく 皇陵 、あ る いは これ に近 い大古 墳 け ら れ る 日 の岡 古 墳 か ら 月 の岡 古 墳 日本 の考 古 学 界 で は 、 こ の時 期 の 渡 海 軍﹂ と む 西 日本 の地 方 豪 族 が ﹁ 北部 九 州 では、 に用 いられ てお り、 次郎 氏 は、 月 の岡古墳 の実年代 を 王 甲冑 類 に つい て、 畿 内 政 権 が 製 作 し し て動 員 さ れ た と いう 文 献 上 の史 観 ほか に唐 津湾 に臨 む谷 口古 墳 が知 世紀中ご ろと し、 そ の被葬 者 の性格 配 布 ﹂ し た も のと い て地 方 一 豪族 に ﹁ が う か が え る 。 こう した 説 が 成 り 立 られ て いるだ け であ る。 この月 の への過 程 は 、 森 、 佐 田両 氏 と も そ の 北 野耕 平 、 小 林 謙 一︶ や 、 渡 う説 ︵ つた め には 、 五 世 紀 初 頭 ∼ 中 葉 の九 岡古 墳 は大和 政権 と密接な 関係を 月 の岡古 墳 の孤立 性 来 工 人 によ る 鋲 留 甲冑 の製 作 を 否 定 州 北 部 の首 長 層 が す べ て畿 内 政 権 に も つ有 力な豪 族 の墓 であ り、大 和 を次 のよう に指摘 し て いる。 し 、 朝 鮮 半 島 出 土 の短 甲 を も ﹁日本 完 全 に 服 属 し て いる と いう 状 態 でな 政権 から みれば 、 九州 の内 陸 の奥 代 の いわ ゆ る 朝 鮮 出 兵 が 畿 内 政 権 主 の畿 内 で製 作 さ れ 、 朝 鮮 半 島 に将 来 け れ ば 、 九 州 の豪 族 層 を 出 兵 に動 員 深く、広 闊な 筑紫 平 野 に打 ち 込ん く 、 これ と 共 伴 甲冑 だ け では な 定 し な い。 ま た な ど が あ って 一 説 ︵ 小 野 山節 ︶ 棺 を組合 せた墓 葬 から 、初 期 の横 穴 月 の岡古墳 の堅穴式 石室 に長持 形 石 ング ・リ ンクを想定 す る佐 田氏 も、 の岡古 墳 と重定 古墳 と の間 にミ ッシ また 、 この地方 の古 墳編 年 で、 日 の古代 文 化し , あ つた にち が いな い﹂ 翁北部 九州 竪 穴 系 横 口式 石室 が 出 現 し てく る と いう 問 題 は 、﹁ 畿 内 的 前 方 後 円墳 が 地 内 墓 葬 と は 異 質 の追 葬 を 前 提 と した 一墳 多 次 葬 と いう 畿 る 塚堂 古 墳 に、 と も いう べき で 、 こ の古 墳 に後 続 す だ布 石と も いう べき重 要な 拠 点 で す る こと は 不 可能 であ ろ う 。 す る九 州 出 土 の 式 室 と幾何 文様 の装飾 壁画を組合 石 畿内 的 せた 日 の岡古墳 への過程を ﹁ 方 にと け こん で いく 有 様 ﹂ と は 正 反 こ の地 方 の古 墳 編 年 を さ れ た 森 貞 穴 沢 晰光 ・ さ れ た も の﹂ と す る 説 ︵ 馬 目順 一︶、さ ら に 甲冑 の原 流 を 朝 鮮 朝 環鈴な ど も ﹁ 前 方 後 円墳 が地 方 にと け こん で いく 。 九州北部 の墓制は月の岡古墳が成 墓 制 上 の大 変 革 と追葬 の基 盤 対 の状 況 を 示す も の ではな か ろ う か。 月 の岡 古 墳 は き わ め て孤 立 した 存 在 と は でき な い。 そ う し た 意 味 で は 、 であ り 、 畿 内 に そ の祖 型 を 見 出 す こ 文 化 と ま った く 断 絶 し た 異 質 の要素 の 一隊 を 率 いる 図 5︶ な ど は、 畿 内 た 横 穴 式 石室 ︵ 将 に対 し て、 中 有 様 を如実 に示 し て いる﹂ ﹁筑 後地 鮮 への︶ 渡 海 軍 央 政権 から 、 そ 方 におけ る古墳 の動向 L鏡 山猛先生 20 古稀 記念 古 文化 論攻 L ととら え て い の地 位 の証 、 象 徴 と し て与 え ら れ た も の災 石 山 第 1 図 月 の岡 古 墳 墳 丘 測 量 図 南 部 では な く 直 接 中 国 の影 響 と み る 紫 第 131号 立す る段階 に、竪穴式 から横 穴式 ︵ あ ︶ F I I I I 第 2図 月 の岡 古 墳 出 土 の胃 電 I 上 ろう か。 ︶ をあ る程度 映 し出 し て いる し、 同時 に、 それ が数少な い舶 載 品と いう よ ︱ それを端的 に 示す も のが 、月 の岡 ︱ りも、 この地方 でも製 作さ れ 、補 給 革 が訪れ ており 、 これま で、前 代 以 ︱ 古墳 の朝鮮 系 の武 具、馬 具、金 銅製 可能な製 品 であ つた 可能 性を も 示唆 ︱ 品 であ る。 ン ﹂ う した朝鮮 半島 で祖型 し いると いえ よう 。 て 一九 七九年 から 、発掘 が お こな わ ︱ を求め る ことが でき、 渡来 工人 によ つ れた 塚堂 古墳 周 辺 の調査 は、 五世紀 ︱ 来 の地域首 長権 の象徴 と し て単 次葬 の前方 後円墳を築造 し てきた社会 に、 て製 作さ れた と みら れ る個有 の文様 前 半代 のかま ど付住 居跡 群や 陶質 土 ■ 同 じ血縁 の首 長家 族 が 一つの前 方 後 や鋲留 技法 によ る最新 の甲冑 、 馬 具 0 円墳を 二代 、 三代 にわた つて使 用す 類 が 地域首 長 に数多 く所有さ れ ると 器が 出土 した 。 陶質 土 器を 渡来集 団 ■ る ことを前 提 と した新 し い基制 上 の いう状 況 は、 この地域 で の普 及状態 が この地域 に入 世紀代 に大和 政権 の規 制 のもと に築 7 思想 が滲 透 し てきた と いえ る の であ O。 z り定 住 しは じめ る いは竪穴 系横 口式︶ へと いう 大変 仮 り に前 方 後 円 墳 と いう 墳 形 を 、 た 年代 上 の標識 造さ れ たとす るな らばな おさ ら の こ ■ 通 説 のと お り 大 和 政 権 の象 徴 と す れ にす るな らば 、 ん だ 布 石 と も いう べき 重 要な 拠 点 ﹂ 西 日本 よ り 半 世 紀 前 後 先 行 す る 。 追 な ど 、 五 世紀 初 頭 に出 現 し、畿 内 、 古 例 は、 福 岡 、老 司古 墳 、 鋤 崎 古 墳 九 州 北 部 の竪 穴 系 横 口式 石室 墳 の最 九 州北部 の前方 後 円墳 は ﹁ 畿内 政権 の規 制﹂ と はか かわ りな い、単な る 伝統 上 の首 長墓 のかた ち と し て引 き 継がれ て い った も のと思 われ る。 この新 し い墓 制 の出現を 画期 と し て 認な く し てな りた た ぬ こと であ り、 使 うと いう状 況 は、 世襲 的 地位 の容 いう こと は 、 竪 穴 系 様 口式 石室 が 九 約 ○ ・七キロの平 月 の岡古墳 の東、 塚堂 古墳 は、 思われ る。 能 性 が つよ いと 地 区 に入 った 可 き る朝 田、 若宮 川 の水を利 用 で 隈 上 川から 巨勢 渡 来系 の集 団が 紀前 半代 に、渡 る前 段階 の五世 古墳 群 が成 立す この若宮 地 区 の ば 、大和 政権 が ﹁ 筑 紫 平 野 に打 ち 込 に、 大 和 政 権 の伝 統 と は 異質 の墓 制 州 北 部 に出 現す る 時 点 を 画 期 に 、 地 さ て この竪穴系横 口式 石室 に みら と、 一氏族 の首 長家 族 が何 代 か にわ た って 一つの前 方 後 円墳 を墓 と し て 域 首 長 権 に は 世 襲 的 性 格 が つよ ま っ れ る追 葬 の思想 的 基盤 は、ど のよう 4.新 開 1号 墳 3.石 光 山 8号 墳 を 受 け いれ て いく 思 想 的 基 盤 が と と の い つ つあ った 、と いえ る の であ る 。 た 、と 理解 す る事 が でき る であ ろ う 。 にし て九州北部 に ひろが った のであ 葬 の思 想 的 基 盤 が と と の ってき た の ま た 、 同 時 に前 方 後 円墳 が か って 四 朝鮮系波状列点文 の遺物 第 3図 2.七 観 古墳 1.任 実 ・ 金城 里 第 131号 紫 筑 円墳 であ る。す でに前方部 の 一部 が 地 に築 かれ た全 長約 七 八肝 の前 方 後 し いも のであ る。 装 巴形金 具な ど も類例 を みな い珍ら また、 短 甲に ついて いた と いう 金銅 、 、 ︲︲︲︲J副 墳 原 古 墳 古 畑古墳などが大 字 富永 の 一カ所 にかた ま つてあ り、 いず れ も 六 世紀 後半 から終 末 の時期 と みら れ て いる。 図文 から みる と 、珍敷 塚古 墳 には、周心 円文 や 靭、船な ど の ほか に、船 の舶 に鳥 、 月を あ ら わす 蜂蛤 ︵ がま が え る︶ が描 か れ ており、中 国 部奈 率 ・歌非﹂ な ど いわ ゆる 日系韓 人 の名 が みえ る。 また 、的 臣た ち も 複合 した形 をと る可能 性 が つよ いと の石室 ︵ 竪穴 系横 口式 石室 な ど︶が 後 円と いう 日本 在 来 のも のと韓 国系 本 を ふ くめた 九 州 の内 陸部 に展開さ また ど の壁 画 にも多 いのは、 ゴ ン ド ラ状 の船 の図や 馬な ど であ る。熊 いる ことを 示し て いる。 の思想 が 入 って 鉄鏃 当時 、百済 を離 れ て新 羅側 に ついて、 思われ る。 臣 のな か にも、﹁ 許勢奈 率 ・歌麻 L物 明 五年 条な ど によ ると、 百済 側 の使 渉 に当 って いた 人物 とさ れ るが 、欽 ば しば 伽 耶地方 に行き 、 百済 と の交 文献 によれば 、的 臣は六世紀代 し あ る。 人物 であ った こと が推 測 でき る ので が朝鮮 半島南 部 地域 と か かわ り 深 い 製 品を 一括 し て着 用 し て いた被葬 者 作 られ た ことを 示唆 し てお り、 この これ ら の金銅 装 品が 同 一二人 の手 で 列点状 文が 認められ る。この こと は、 当な ど の破 片 のな か には 、共 通 し て 土 の金 銅装 馬 具 ・胡録 。鞍 金 具 ・嬬 現在 展 示さ れ て いる月 の岡古 墳 出 削 られ、 後 円部 も大 半 が破壊 さ れ、 上半 を失 った 石室 の基部 と、 そ の床 面 に、朱 塗 りを した組合 式 石棺 の棺 材 が残さ れ て いた 。昭和 三十 一年森 貞 次郎 氏、金 子文雄 氏ら によ って調 査 さ れ 、後 円部 石室 は羨 道部 が 未 発 達 の竪穴 系横 口式 石室 で、 入 口部 分 の状 況 は 不明 であ るが 、 石室 長 六 ・ 七肝 、幅 一・八∼ 二 ・ 一屑 と狭 長 で あ る。 後 円部 石室 は昭和 三十 七年 にも 調 査 さ れ 、多 数 の遺 物 が 出土 した 。 後 円部 石室遺 物 鏡 四、剣菱 形杏葉 二、鞍橋 。木 心鉄板 張輪 鐙 、轡 、雲 珠 、 尾錠 数 前 方部 石室遺 物 倭政権 の意 図と ことな る行 動を し て 森貞次郎 ﹃ 装飾古墳﹄教育 た にあ った ことを 示 し て いると いえ 卜すり。 れた装 飾 古墳 文 化 の原流 が海 のかな いる ことが知 ら れ る。 この種 の倭 人 吉井 町内 の珍敷塚古墳、鳥船 塚古 地から山麓 に移 っている。 現にし て、 この地方 の装飾古墳 は平 日の岡古墳 ︵ 六世紀中ごろ︶を初 装 飾 古 墳 の ひ ろが り 横 矧板 革 綴短 甲 二 ・三角 板 鋲留 短 甲 一、横矧 板鋲留 衝角 付冑 一、桂 し、韓 人 の妻 を めと り、 そ の間 に生 まれた 子が ﹁ 奈 率 ﹂だ とさ れ る。彼 ら は 父を倭 人 に、 母を韓 人 にも った たち は、 長期 にわた つて韓 地 で生 活 十 三環鈴 、金銅 胡録 、ガ ラ ス小 玉、 ) 石人石馬研 究 会 (小 田富 士 雄 。原 図 ) 図 5。 日の 岡古墳実測 図 (福 岡 県吉 井町 甲、肩 甲、直 刀九、 刀子、 矛 二、 二世 であ り、 そ の墓 もお そら く前方 図 書 鉄鏃 一〇〇 の陪 塚から は、蓋 形 ・盾 。人物 ・朝 最 近 発掘 調査さ れた 塚堂古 墳 付 近 顔 形な ど各種 の埴輪が出土 し て いる。 ︶ 社 千 ͡ 円 参 V考 紫 筑 第131号 ″‘ 徐 福 、 佐賀 上陸 説 の背 景 o石塚 古 墳 出 現 また 、学 界 でも大陸 から の有 明 ルー トはあ り得な いと の見方 が強 か つた 上げ 得な か つた 。 だ が 、 石塚古墳 の出 現 で事態 は 一 変 し、徐福 の上陸 が史 実 に近 づ いた と し て、色 めき 立 つのは当然 であ ろ 。 ﹁ ” い ノ この こと は、単 に考古 学 上 の常 識 を 覆す だ け でな く 、郷土 史 の書 かえ 童 女 三千 人と 五穀 の種 子や 、百 工 ︵ 技 と ころ で、﹁ 方 士 徐福 ﹂は、秦 の始 皇帝 ︵ 前 二百 二十年ご ろ︶ の命 を う け 、 不老 不死 の薬 を求 め て、童 男、 o文 献 上 の 徐 福 や 、佐賀 市 を含 めた 、 周 辺 一帯 に新 船 出 したと いう のであ る。 しか し、 これ は、 圧政 に堪 え かね 術者 ︶を伴 つて、東方 の海 に向 け て 町は、今 から 二千 三百年 前 、中 国か た 徐福 が始皇 帝 を だ ま し、東 の国 に ユト ト ピ アを求 め て亡命 した と いう つま り、幻 の古墳 が出 現 した 諸 冨 ら ﹁ 徐福 ﹂ な る 人物 が、多 く の男女 を連れ て上陸 したとす る伝説 の地 で、 たな波紋 を投げ かけた。 海 原 から古墳 が出 た﹂ と の表 言う ﹁ 言 は、間違 つて いな いのであ る。 弥 生時代 の海 面 は、今 よ り約 五屑高 いとされ て いた から 、地 元 の人達 が と いう のは、考古 学 の常 識 では、 出土 し、学 界を驚 か せた 。 打 込んだ金銅製 装身 具 、 馬具な ど が 鉄 のよろ いや 、 日本 最古 の蓮華 文を 隣 の佐 賀市 には、古 く から徐福 を 祠 る ﹁ 金 立神社 ﹂ があ る。 しか し、 これ ま では、海 であ る筈 の諸 冨 町には、上陸 できな いと し、 春 昭和 六十 二年 二月、筑 後 川 の河 口 に近 い、佐賀 県諸 冨 町 石塚 の、 ほ場 光 だ け に、 この伝説 を郷 土史家 がと り 尻 整備 の現 場、標高 三屑 の低地 から古 墳 ︵ 石塚 一号墳 ︶ が 発 見さ れた 。 そ し て石室 から 千 三百年前 の中 国製 の 第 131号 紫 筑 のが真 実 のよう であ る。 ︶ 注 ︶方 士と は、神 仙 思想 によ る ︵ 医学 、薬学 、占 術 、練 金術 に長 じた 賢者 を い い、同行 三千 人と いう のは、 別 に五百人説 もあ る。 この こと は、中 国 の正史 であ る、 o中 国 で の 徐 福 研 究 一方 、徐福 に関す る中 国側 の動き と、 一九 八 二年 六月、 江蘇 省 輸 楡 県 に徐福 の故郷 があ る ことがわ か った。 を 記す と、中 国 の文化学 術紙 ﹁ 光明 日報 ﹂が 、徐福 の ことを報 じた のは、 一九 八 四年 四月 の こと で、 歴史 学者 、 羅基湘 、沌 承泰 、 両氏 の論 文 によ る に記さ れ て いるから 、信頼 でき ると つま り、 両氏 は、宋 代 以降 の地方 の書 いた ﹃ 史 記 ﹄ 百 三十巻 の四ケ所 いう のが 、中 国 の学者 の説 であ る。 前漢 の司馬 遷 ︵ 前 一四五∼前 八六︶ そ し て徐福 の船 団 は、 日本 に向 った o佐 賀 市 の 動 き 学者 、専 問家 が参 加 した 。 浴び る こと にな つた。 そ の後、 地 元 の連 雲港市 には、﹁ 徐福 研究会 ﹂が 発 足、 八六年 二月 には、学 術討論会 が 開 かれ 、北京や全 土 から 四十 人余 の 機 に徐福 研究 が 、歴史 学者 の注 目を 誌や 民間 に伝 わ る家 譜 な ど から 、金 キロにあ る徐阜 村を 、 徐福 山郷 の南 一 の歴史遺 跡 と位 置づけた が、 これを と 言われ 、 この裏 づけ と し て日本 に は 二十 ケ所ば か り上陸 した とす る伝 説地が 残さ れ て いる。 中 でも、和歌 山 の新 宮 は初 代 紀 州 藩主 徳 川頼 宜 が ﹁ 徐福 の墓 ﹂を 建 て た こと から有名 であ る。 そ の他 近 県 では、 八女 、 延岡 、串 木 野、坊津な ど があ り、 三千 人な ら 二十 そう 以上 の船だ から途 中 分散 し複 数 の地 へ上 陸 した ことも想 像 でき る。 いず れ にし ても、 これ だ け の先 進 このような 、中 国側 の態勢 に呼応 し、佐賀 市 では、 西 日本新 聞、 サガ テ レビが合 同 で、昨年 二月 から 、徐 福 に関す る 日中 合 同 シ ンポ の開催 に 文 化を も つた集 団が上陸 した とす れ ば 、 それな り に こん跡 が 残 るはず で あ る。 向 け て、地 元 の佐賀市 を含 め、 本格 的な 活動 を開始 した。 そ の中 で、徐 福 の故郷訪 問 団 ︵ 団長佐賀市 議会 議 佐賀 の場合 、若 し、弥 生前期 に大 陸 ∼有 明 ルー ト が 開け て いた とす れ ば 、立 地的 に最有 力さ れ 、 石塚古墳 出 現 の意 義 は大 き い。 長︶ 一行 二十 二名 が 現地 を訪 問 した のが昨 年 十月 であ った 。 団員 の語 ると ころ によ ると 、 人 口 八百人 の徐福村 には、徐福 祠があ り、 と の関 連 が あ る 。 o今 度 の徐 福 論 争 考 研所 長︶福 永光 司 ︵ 哲学道 教 学者 ︶ 以上が、各講師 の主な論旨であ つ 古代研通信 ○ ⋮吉 野ケ 里遺 跡 の大 フ イバー は、 邪馬台 国 フ アンのパ ワーを 天 下 にし 茂在 寅 男 ︵ 海 洋 学者 ︶陳 舜 臣 ︵ 作家 ︶ 佐 金関怒 ︵ 天理大教授 ︶森 醇 一郎 ︵ た。 墳 丘墓 や南 側 の環濠 の確 認調査 が つ 賀大講 師︶内 藤 芳 篤 ︵ 長崎 大 人類学 者︶ 以 上 の強カ メ ンバ ー で各 々自 説 ともあれ 、﹁ 徐福 は平原広 沢を得 て、 王とな り、一一 度 と帰 つて こな か つた﹂ と、 中 国 の漢 書 に記さ れ て いるから 、 づけら れ て いる。 九 月 に墳 丘墓 に覆 屋 工事 を し て再公開 の予定 と いう の 福 は、う ち の祖先 であ ると家 譜 に記 載 があ る。父 の話 では、″不老 不 死 の を 批歴 したが 、 問題点 と し て、 司馬 史 記﹂ の信頼度 、 ▼稲 遷が書 いた ﹁ 作 渡来 の直 接 ルー ト の可能 性 、 ▼縄 佐賀 平 野を 開拓 し ″邪 馬台 国を つく 士口野ケ里 の墳 丘墓 の主 にな つた 。 り、 現、 死ん でも生 き 返る思想 であ る ▼ ▼カ メ棺 は始 皇 帝 が地 下 に現世 を 再 と北部 九州だ け に出土す る。 ▼カ メ棺 は中 国や 朝鮮 のも のは小さ いから 二次葬 また は子供 用 で、大型 の当時 の遺物 が 大 量 に出土 す る こと ケ所 の弥生遺跡 の中 から 、大陸直 伝 それ には、佐 賀 県市 にあ る、 二五 ほど強力な 実績 を も つ ﹁ 新 宮市 ﹂ だ から 一筋 縄 では いかな いだ ろう 。 つま り、今 回 のライバ ルは、紀 州 、 徳 川家 のお墨付 により墓 碑 を建 てた みが え る女 王 の都︱ ﹄毎 日新 聞社 。 謎︱ よ みがえ る邪馬 台 国︱ ﹄ PH P ○ ⋮ 八 、九 中 に奥 野 の新著 が 二 月 月 吉 野ケ 里遺 跡 の 冊出版さ れ る 予定 。﹃ 木曜 ︵ 小倉 井筒 屋パー ク ビ ル︶ の午 ○ ⋮朝 日カ ルチ ャー の古 代史講 座 で は、奥 野が ﹁ 邪 馬台 国 の時代﹂ と い う テー マで、吉 野ケ 里遺 跡 を生 みだ した 九州北部 の弥 生 文化 の講座 を つ めす こと にな った。 六月末 、現 地 ヘ 行 ってみた が 、 埋めも ど し の作業 と な か つた 。 始 皇帝 は怒 つて、 残 つ 文晩期 に 日中直 接 交 通 は否定 的 であ 画文帯神 獣鏡 は北部 九州 にはな く 、 が決 め手とな るだ ろう。 乞 うご 期 待︱ o吉野ケ里との関係については のも のは、 日本 独 特 しか も佐賀 平 野 し だが 、 このような 一方的 で調 子 の よ い仮説を認める ほど敵 は甘くな い、 何 れ にし ても 、今 年中 に、東 京 に、 研究 所 、﹃ 邪馬台 国 は こ こだ った ︱ よ 後 一時 ∼ 三時 。途 中参 加観 迎。 づけ て いる。火 曜 ︵ 福 岡市 朝 日ビ ル︶、 で、す でに各地 から数 百件 の見学申 し 込みや 問 い合 わ せがあ ると の こと 佐 賀 にあ るから 、 河南 から 入 つた 可 徐福 研究会 ︵ 会 長茂在 寅 男、 発起 人 そ し て何代 目か後 に卑 弥 呼が女 王 に 姓 の人は、王や張 、草 と改名 した り、 逃げ た り した。 私 の先 祖 は、 昆 山、 暫 日、江 西 に逃げ 、そ のう ち 戻 つた″ さ ら に、よく話 し て いた こと は″徐 福 は 日本 に行 つた。 日本 には私た ち と 同 じ家 族 の人が大勢 いる″ と 、 日 本 から こんな にた くさ ん の人が 来 て 能 性あ り ▼吉 野ケ里 の墳 丘墓 は江南 のも のに似 て いる。だ が本 物 のはん 壱 岐 一郎︶が 設立さ れ るよう だ から 、 ○ ⋮吉 野ケ 里を め ぐ つて多 く のシ ン つた が 、船 の構 造 ︵ 双胴 で筏 式︶ な ど から 黒潮 に乗 れば 、 日本 へ漂着 で くれ てうれ し い⋮ ⋮﹂ 一行 ︵ 佐賀 県徐福会 ︶ と連 な お、 ち く と はちがう ようだ ▼墳 丘墓 が 八 上陸 地を めぐ つて、古豪 の新 宮 と、 であ る。 雲港 徐福 研究会 が、徐福 の故郷 確 認 者 、 江承泰 氏を 交え熱 心な 、交 流 研 角な ら漢 の武帝 のも のに通 じる ▼西 新 鋭佐 賀 の、東 京論争 の日は近 い。 ポ ジ ウ ムや講演会 があ った。七月 は、 室内 例会 で、諸 説 の全 面的検 討 を し な つた とす れば 、す べ て の論争 は解 究会 を行 つた 。 南 から 入る墓道 と カ メ棺 墓 の人骨 は 渡来型 だが 、 三津遺跡 は在 来型 と渡 た いと考 え て いる ︵ 奥 野︶。 決 す る。 そ し て、本年 四月 の、日中合 同 ﹁ 徐 来型 、渡来型 は半島 か中 国か ▼有 明 き るし、 満 潮時なら 有 明海 に入れ る。 福 をさ ぐ る﹂ 佐賀 シ ンポ ジ ユウ ム の 開催 とな つた 。講 師 のメ ンバー は、 中 国側 から 、 江向 栄 ︵ 日中 関係 史第 一人者 ︶他 に安志敏 、 江 承泰 、 千錦 海 門 戸説 は、装 飾古墳 、 絹 の ルート ○ 日 中 合 同 シ ンポ の 内 容 鴻 、各 氏 で何 れ も徐福 関係 学者 、 日 本側 、梅 厚 猛 ︵ 哲学者 ︶桶 口隆 康 ︵ 橿 薬を探 し に行 く と言 つて徐福 は 戻ら た 子供を 殺 そう と した。 それ で徐 、 七〇︶ は七 十 一代 館 長 の徐 広法 氏 ︵ 徐 目 の子孫 にあた ると いう 。氏 は、﹁ (8) 紫 筑 第 131号
© Copyright 2024 ExpyDoc