失われた ことが窺え る。また、巻 二十 二にも 「 蓋し唐 の盛時、禦曲 北宋 期 におけ る唐 代音 襲 像 - ﹃新唐書﹄ 「薩柴志」を中心にして- 唐代音饗は'西域 と の交流がもたらした楽曲 の豊穣 さと、教坊 や の停う る所 、そ の末年 に至-、往徒 にし て亡映す」と、唐代 の楽曲 千 梨 園 における洗練 された奨人 の技'禦譜 による書 の侍泉様式 の定着 もそ の侍泉が途絶え た ことが記 され て いる。唐代膏薬 の賛 像は、宋 純 など さまざまな鮎 で、それ以後 の音楽文 化 の発展 に影響をもたらし 中 た。それらに開し てこれま で多く の研究 がなされ てきたが、そ のな 代 にお いてはす でに探りあ てる のが相昏困難とな って いた。元柘 の ( e q ) ころに記 された沈括 の ﹃ 夢渓筆 談﹄巻 五にも次 のよう に いう 。 か で用 いられる末代 の資料は、量的 に多 いことと、整 理されて いて ではあるが唐代音柴 の賓態とは いえ な い、宋人 の音楽 に封す る認識 た。しかしながら'宋代 の資料 にあ らわれた唐代音楽像 には、営然 砕き、極 め て衆楽と異なる」と 。唐 の掲鼓曲、今 唯だ邪 の 一 吾 れ聞-、 ﹃ 掲 鼓銀﹄ に掲 鼓 の学 を序 し て云う 「 空 を透り遠を 扱 いやす い鮎 で、唐代 のも のと同等また はそれ以上 に重 視され てき が反映 し て いる。 そ の 一例と し て、唐代音柴 の重要な資料 であ る、 北朱 の欧陽情 が編纂 した ﹃ 新居書﹄ のな か の 「 穐奨志」 にみえ る書 邪 に至り、而 し てそ の人己 に死せり。掲鼓 の 禦部中 に有 す る所、但だ名 の存する のみ。 「 空を透-速を砕-」 は了 に僚跡無し。 遣音速 に絶えり。今 ん旨有 り、元孫 父老 の之を能-す る有 るのみにし て、大合蝉、滴滴泉 の曲有-。 な 予 鄭延 に在り し時、鈴 おそ の草を聞く。樫原承受公事 の楊元 か え 孫 は、奏事 に困り て回りしおり、此 の人を召して閑 に赴 かしめ 架 の記載を中心 に'末代 にお いて唐代書架が いかに博泉 され、 認識 ( ) され、整 理され て い ったかを考察 し て いきた い。 「 楽 人 の侍 柔す る書 架 沈 括 は、「 空 を透り速を砕 く」 と晩 唐 の南卓 ﹃ 掲鼓録﹄ に記 され 唐末 の黄巣 の乱 では唐代音楽文化もかなり破壊 されたと いう 認識 が、宋 人 にはあ った。 ﹃ 新唐音﹄巻 二十 一 「 建築志」 には、 「 そ の後 て いる唐 の音は、それを演奏 でき る 「 郡 の 7父老」なる架 人 の死に ・ 黄集 の乱 、奨 工逃散 し、金奏皆な亡 ぶ」 と'楽人も逃避 し、禦器も 北末期における唐代音楽像 し。-律法 既 に亡び'金 石も 又た侍む に足らざ れば、別ち啓流 も唐代資料 よ-も前 に掲げられ て いると ころからも看取される。さ におけ る重税 のほど は'例えば宋末 の王鷹鱗 ﹃ 玉海﹄ の青紫 の候 で ・F 大柴固義﹄ 二巻 が できあが った。また、皇 柘年 間 (1〇四九∼ ﹃ 景柘廉饗記」 八卜巻 ・ ﹃ 景柘大柴圃﹄ 二「巻 ・ ﹃ 景拓柴髄新経﹄ 景砧年 間 二 〇 三 四∼ 一〇 三 八) に は' ﹃ 景拓禦 府 奏 議﹄ 一巻 ・ ﹃ 直密書 録解題﹄ や ﹃ 宋志﹄巷 丁百 二十六 「 柴志」など によると ' だけ ではなか った。 ﹃ 新居書﹄ 「 砥禦志」 の 「 禦」に関す る部倉 の冒 の基を考え よう ともし て いた のであり'純粋 に唐代書架を整理した 態度 である。北采 に唐代書架を整理し て い った人 々は'宋代 の雅楽 ﹃ 新唐書﹄ にお いて欧陽修 の槍首した 「 志 」 の部分 に共通す る著述 ここで 「 常 世」とし て'編纂者 の時代 が現われて いる。 これは' ( ﹃ 新 唐音﹄巻 二十 一 「 頑饗志」第 十 一) 世 に用 いら るる者 のごとき は'以 て考う べきなり。 う る所 は'楽章舞曲な り。 昭宗 に至- '始めて ( 股)盈孫を得 もと まれ たり' 故 よりそ の議論 費明す る所 は 竿 なり。そ の奨歌廟舞 の常 唐 園 を 為 し作 饗 の制 尤 も 簡 な り'高租、太 宗 即 ち 精 巣 と カ ( 租)孝孫 ・ ( 張 )文収 の定む る所を 用う るのみ。其れ後世吏 まとめられ て いる。 て、 こ の 「 鰻柴志 」 には、唐代 の雅饗 に ついて以下 のよう に端的に れざ るを得ざ るは、亦た自然 の理なり。 数坊 の老奨人は'そ の準稼す る方響 が磨滅 し て薄く なり音 が牽 わ ってしま って'音高 の基準 さえ襲化し て い-と 述懐 し て いる。 この よう に賓 際 に音楽 に摘 わるも のは'膏 薬 の復 元がそ の音 の高 さ にお いてすらす でに困難 である ことを賛感 し て いた。 二、 仁 宗 期 に編暮 さ れ た ﹃ 新唐 書 ﹄ 「 建 築志」 奮音を わずかに俸え る宋初 の教坊音楽と は別 に'太常寺 の掌管す る雅饗 に ついては特 にそ の音律を中心と し て'仁宗皇帝期 に括聾な 一〇五 四) には' ﹃ 皇 拓楽 府奏 議﹄ l巻 ・ ﹃ 皇砧新 築固 記﹄ 三巻 ・ 頭 にあたる巻 二十 一は'次 のような言葉 で始ま って いる。 議論 が起 こ った。それは多 - の輿論 が著わされた ことからも窺え る。 ﹃ 大柴演義﹄ 三巻などが作 られた。 ここにみえ る ﹃ 大柴固義﹄ 二巻 音﹄編纂と 重な って いる。 ﹃ 新 唐書﹄ は慶暦五年 二 〇 四五) にそ ﹃ 新居書﹄ の編 纂 を 行 った 人物 でも あ る。ま た 時期的 にも ﹃ 新唐 て聾蓬 に亡 ぶを憤 るるなり '乃ち多 く之 が法を鵠 し以 て之を著 有 り て'聾 の言を 以 て侍う るべからざ るを知り'夫 の器失われ 菅 に形無- して柴 に器有り'古 の柴を作す者'夫 の器 の必ず弊 は、宋 郁 によ って著 わ さ れ たも のであ-'宋 祁は欧 陽 傭 と と も に の編纂 の詔 が下り '嘉 柘五年 二 〇六〇) に成 立したOそ の 「 砥襲 わす。故 に始め て聾を求む る者は律 を以 てLt律を造る者は黍 三 志」は唐代舌柴を知 るため の第 一級資料と され るも のであ る。後 世 北宋期における唐代昔襲像 ( ﹃ 新唐音﹄巻 二十 二 「 頑禦志」) は' 二十有 人調'正宮 ・高宮 ・中呂宮 ・道 調宮 ・南呂宮 ・仙 呂 部を分 つ'唐に至り て更 に 「 部首」と 円う 。凡そ所謂俗禦な る 周 ・除目- 以上'雅鄭緒難 して別無し、惰文帝始 めて雅 ・俗 二 音が'「 金」 ・ 「 石」 ・ 「土」 ・ 「 革」 ・ 「 練」 ・ 「 木」 ・ 「 鞄」 「 石」 と いう順 にな っている。それは'巻 二十 lの推奨 の部分 の八 「 練」 ・ 「 竹」 ・ 「 鞄 」 ・ 「革 」 ・ 「 土」 ・ 「 木 」 ・ 「金」 ・ 禦器群 に ついて意識的 に述 べたも のと考えら れる。そ の楽器構成 も' 宮 ・黄鐘宮を七宮 と為 し- ・「 竹」と し て' ﹃ 周 薩﹄ の 「 春宮 ・大師」 に引かれた も のと 一致 き出 しからは、雅楽とは異質 の俗楽 に ついて巻を分け て記述し よう そ雅柴 に ついて、巻 二十 二はそれ以外 の音柴 に ついて書 かれ て いる。 る。そし てこの柴 に関す る部分 に ついてみると 、巻 二十 一はおおよ る部 分と 、巻 二十 一と巻 ニト 二の 「 柴」 に関す る部分と に分けら れ の ﹃ 歴 代 禦 儀﹄ は、 一 「 律 呂 相 生」、 二 「 撃 音成 禦」'三 「 五音旋 代 の徐景安 の ﹃ 禁書﹄ に引- ﹃ 古今楽纂﹄ に 「 俗柴 の調 に七宮七商 ( . o ) 七角 七 羽 の合せ て二十八調有- て徴調無し」 とみえる。こ の徐景安 ヽ Iの書 は ﹃ 歴代禦儀﹄ と呼ばれるも のと同 一の書 かと推測される。 そ れた のは いつな のだ ろう かO王鷹麟 ﹃ 玉海﹄巻 1〇五に引かれた唐 では 「 俗輿」 と いう 言葉 が、は っきりと音楽 の枠組 みとし て使 わ し て いる のと は' は っきりと異な って いる。 と いう意 思が謹 み取 れる。なぜなら' このよう に俗禦 二十八調を列 宮」' 四 「 歴代楽名」' 五 「 雅俗 二部」'六 「 八部襲 器」'七 「 歌舞服 ﹃ 新居書﹄ 「 建築志」 は'巻 十 一から巻 二十 ま で の 「 頑」 に関 す 記したすぐ次 に、以下 のよう に俗柴 で便われる禦器群 があげら れ て 飾」' 八 「四解設 禦」 -と し て三十巻 から な る。そ の第 五巻 にみえ 笠有り、草 に杖鼓 ・第 二鼓 ・第 三鼓 ・腰鼓 ・大鼓有-、土 は則 練 に琵琶 ・五絃 ・撃侯 ・筆有り、竹 に常葉 ・第 ・笛有り'鞄 に われな い.わず か にみえ る のは白 居易 の 「 祭桂相 公文」 ( 朱 金城葺 も と 校 ﹃ 自居易集葺校﹄巻七十) に 「 或 いは雅言を徴め'酎詠陶陶たり、 しかし、唐代 の詩文 には不思議な ことに 「 俗楽」と いう文字が使 そ の巻 二十 二 の冒頭 にみえ る のがここにあげたも のであ る。 こ の書 いるから であ る。 ち草 に附し て牡を為 し、木 に拍板有- '方響 は金を髄 とし て石 或 いは俗 楽 に命 じ、細管 噌噌た り」と 「 雅 言」 に封 にす る よう に る 「 雅俗 二部」 は明らかに昔饗 の分類 な のであ る。 に鹿ず るを 以 て人音備う 。 「 俗禦」を 用 いたも のに過ぎな いO唐代資料 のなかで 「 俗奨」 の言 葉を 残 し て いる のは'唐代 宮 廷書架 制 度 を 記録した晩唐 の段安 節 { 川 ) ﹃ 楽 府雑録﹄ であ る。そ の ( 孟 吹 部) の説明 に'「 己 上架 人骨 な 騎 禦器 の分類 ( 人音) に ついては' ﹃ 新居書﹄巻 二十 一の推奨 の部 分 です でに述 べられ て いる。 にも関 わらず巻 二十 二でこのよう に再 馬Lt柴即ち之を騎吹と謂う。俗柴 も亦た騎吹有 るなり」と みえ' 五 度取りあげ て いると ころからし ても、明らかに雅饗と異な る俗饗 の 北宋期における唐代書架像 類 のよう に扱われ て い ったと いう こと ではなか ろう か。 された宮廷 書架 の分類が'後 世 では古来から存在す る中闘音楽 の分 いう '唐代 中期 に現 われ'宋 代 の ﹃ 新唐書﹄ 「 鰻 禦志 」 により明示 と は誤-と言わざ るを得 な い。 つま-' こ の 「 雅柴」封 「 俗契」と られる。 こりは'次 にあげ る中庸 の元積、白居易 の 「 新禦府」にあると考え の撃質 はす でに定 説とな って いるが、 こう した意識 のそもそも の起 合奏 」 にあ るとし て いる。ここに いう 玄宗期 における唐代宮 廷青紫 け るも のと し て 「 胡 禦」 の存 在 が あげ られ る。 「 雅 」「 胡」「 俗」と 「 雅禦」を凌駕す る 「 俗禦」 の隆盛ととも に'唐代音饗を特徴 づ して難奏 せしめず 。天賓十 三載 '始 めて詔し て道調法曲と胡部 法曲 は雅書を失う に似 たると雛も、蓋し諸夏 の孝なり、故 に歴 は な かつ 朝行 わる。玄宗雅 はだ度曲を好むと難も、然も未だ嘗 て蕃漢 を 四 、 胡 崇 と 法 曲 の融 合 の史 貴 化 併科される のは、それが音柴 の分類と して認められたからとも考え 五 「 紫通 四」 にも 「 絶論」 にお いて 「 古 の楽を論ず るは' 一に古 雅 開音楽分類 の典型とな って い-。たとえば明代 の ﹃ 唐音 突放﹄巻 十 発府 」 の中 の詩篇 は'融合 に封する批判と いう性格が色濃く、 これ 中王 の奮説 であ る ことも明記され て いる。しかしながら' この 「 新 ( e ) 元積 「 立部伎」 の自 注 には'加え てそれが太常丞宋晩が侍えた漢 白居易 「 法曲歌 」自注 ( 朱金城董校 ﹃ 白居易集美校﹄巻三) 山 反 く 新聾を合作 せしむ'識者深-之を異とす 。明年冬 '`佃し て安緑 そ む なり。 られよう 。 これをは っきりと形 に表わした のは'北宋末 の陣場 ﹃ 築 書﹄ 二百巻 で'そ こ では柴器 ・歌 ・舞 に関 し てそ れ ぞ れ 「 雅部」 柴と 日 い' 二に俗部柴と 日 い'三に胡部柴と日う」と'そも そも古 あ る こと は明 らか であ る。安緑 山 の乱が起 こる前兆と して玄宗 の宮 「 胡部」 「 俗部」 に分け て説明がなさ れ て いる。 これは後 世 には中 代 の中国青葉を 明確 に画分し て、そ の流れを解説したあと、 さら に ょ い た づ 線括 して' 「 是 に蘇り て之を観 る に'湊 世 徒 ら に俗 楽を 以 て雅楽 を 廷音楽 の壁化を捉 えた のであ るO 「 俗禦」が 「 雅饗」 の基 となり'帽代 からは 「 胡奨」が 「 雅楽」 の 上 に進め、-古柴 の復す べからざ るなり」とあ るC ここでは漢代 に 至り て'始 め て法曲を以 て胡部と合奏 せしめ'夷音 ・夷舞 之を堂 制度 の奨蓮が記された ﹃ 通典﹄ にも全く記載 がなく'先に見た白居 宗期 が終 わ-を告げた時期 に作 られた ﹃ 教坊 記﹄ や'天賓ま での諸 れたも のだ った のだ ろう か。そ れは盛唐 以前 の詩人 の詩篇 にも '玄 そもそも法曲は、唐代 にお いて中華 の侍祝 的音楽として生 み出さ は青紫 の襲化が社食 の撃化を招くとす る儒家 的絶賛観 に立 った言 で 定 め'帽氏以来'則ち復 た悉-胡柴を以 て推奨を定 む。唐は玄宗 に 基とな ったと いう 。そ のあと唐代 は玄宗期 に音柴 の混乱を招き'古 易 二九積 の 「 新楽府」 に記述があ るも のの'そ の昔柴 に ついては、 ヒ 奨復興 の僚地を失わせたとし、そ の理由を玄宗期 の 「 法曲と胡部 の 北宋期における唐代青紫像 開元 二十 四年 '胡部を堂 上 に升す 。而 して天質 禦曲、皆 な遠地 な か で'た と え ば 「 減 字 木 蘭 花」 ( ﹃ 欧 陽 備 全 集﹄ 「 近 膿 禦 府」巻 は禦曲 の構成部分を いう ことは了解 し て いた であ ろう 。彼 の作品 の 「 頑禦志」 には次 のよう に明示 され て いる。 を以 て名 づ- ること'涼州 ・伊州 ・甘州 の類 の若 し。後 又た詔 一) には、 「 翠幕風徴 にし て'宛特 た る梁州 大破 の時」と作 って め て演奏 されたわけ ではな いこと や、 「 破」を 「 破裂」とす る のは ( 17 ) 荒唐無 稽な訣であ ると いわれ て いる。 しか し欧 陽情自身 、 「 大破」 し て造調法曲と胡部新聾を合作 せしむ。明年'安緑 山反き'涼 いる。「 五行志」 で敢え て 「 破」を 「 破 裂」と解 し て いると ころに かろう か。 は、欧陽俺 の天資以後 の音柴 に野す る考え が反映して いる のではな 州 ・伊州 ・甘州皆 な吐春 に陥 る。 賓 際 の唐代音楽 は常 に外来音柴 の刺激を受け つづけ て、そ れを自 裁然 と分けられ るも のではなか った し'外来青紫が宮廷吾柴を席巻 ( 1 ) した のは唐代 に限られた こと でもなか った。しかし ﹃ 新暦書﹄ では' こと であ る。宋代人 は胡饗 の中国音饗 への影響を大智 以前 と以後と 知識人 によ って'唐代音楽 の大きな轄換鮎 とし て認識され て い った さら に中国青紫 の歴史を考え る上 で重要な こと は' こう した開元 こ のよう にー開元 ・天賓 の胡禦流行 が'杜骨 の混乱を招 いたと いう に分け て捉え て い-。たとえば'沈括 ﹃ 夢渓筆談﹄巻 五には次 のよ ら の血肉 とし て い ったも のであり、開元以前 にお いても外来書饗と ことを特 に取り上げ て強調した のは'そ の編纂 者 であ る欧陽傭自身 う に記され て いる。 外国 の聾、前世自ら 別け て四夷柴と為す。唐天質十三載自り、 わ から 天質 への宮廷音楽 の質 的愛化 が' ﹃ 新暦書﹄ に影 響 さ れた宋代 が、遼 や西夏など園外勢力 に封 す る宋王朝 の軟弱な外交 に封 し て危 供を抱 いて いたからとも考えられる。欧陽修 は ﹃ 新唐音﹄巻 三十 五 「 五行志」 にも この事 を取り上げ て いる。 を失う。以 て先王 の柴は雅楽と為 し'前世 の新著 は清饗と為し、 始め て詔 して法曲と朗部を合奏 せしめ、此れ自り奨奏全 て古法 天賓後 、詩人 は多-憂苦流寓 の思 いを為 し'興を江湖憎寺 に寄 胡郡と合わせ る者は宴柴と為す。 時代 の胡輿が以下に見え るよう に'とりわけ意識され て いるO F I E また'欧陽俺 の影響を色濃-受 けた蘇軟 にお いても、天賓と いう す るに及び'而し て禦曲亦 た多 く遠地を以 て名と為 し、伊州 ・ 甘州 ・涼州等有り。其 の曲 遍-繁聾 なるに至り て'皆な之を 入 し かい 、 フ 被 と調う - ( 中略 )-破はう蓋 し破裂を 云 なり 。 最近 の研究 でも 「 伊州」「 甘州」 「 涼州」 の禦曲 が天賓 にな って初 北末期における唐代昔禦像 -」とあ-'さらに十部伎 に ついての箇所に 「 我が太宗は高昌を平 (一一三棟) ・・ ( J 十二律は晴宮を併せて'首 に十六聾有るべし。今 の燕柴は止だ し 今 の燕柴 二十八調は、布-に十 一律 に在り。 と みえ る。もし版本 の問題で'宋代 のも のに依接した唐代資料は、 十五聾有 るのみ。蓋し今柴は古柴よ- 二律以下高く'故 に正黄 らげ、そ の柴を蓋-収 め、また講柴を造り、而し て頑畢曲を去る」 「 蕃」と 「 燕」と 「 宴」 の字 が混じ って使われて いたとしても'こ 鐘 の聾無 し。 う。 この書き方 では 「 燕襲」 の説明として以下九部伎 ( 唐代 の十部 柴伎は、奨工舞人 の蟹無さ者なり。清商位は、階 の活柴なり」と い 葉を置 いて'「 燕架'高租即位 Lt階制に伐り て九部柴を設 -。燕 これを 十 部伎 の絶稀 であ ると し た のは'やはり ﹃ 新唐音﹄ 「 砥柴 3 岨 E 志」 であ った。そ こでは、十部住 の説明 のまえに 「 燕柴」と いう言 襲」 は残念ながらそれに合 っていな いと いう のである。 ここでは確 いよう。 こ の音楽 は唐代 の古草 に つな がるはずだ が、 いま の 「 燕 一( 五三五棟) の 「 本朝 の燕楽部」と いう のも教坊 のことを指して ことが' この記載からは窺え る。小論 の第 一節 でみた ﹃ 補筆談﹄巻 末代 に使われている教坊 の音饗を 「 蒸発」とよびならわしている 二 1四億) れら唐代資料 のなかに'十部伎 の絶稀を 「 燕柴」とするも のはな い。 伎 )があると捉えられる のである。 では、なぜ このよう に 「 燕柴」が明確 に説明されねばならなか っ たか。それはやは-北采 の教坊 の音楽とし て 「 燕柴」が使われ てい として巻七十九 の解題 に次 のよう にある。 謂 「 燕奨」 の意味を完全 に確定した。唐代音楽に関して 「 近代曲解」 この流れを受 けて作られた北末 の郭茂情 ﹃ 奨府詩集﹄は、宋代人 ( 出) の眼 によ って整 理分類 された惰唐音柴 の集大成と い っても よく 、 るも のとし て説明した のである。 う言葉 でまとめあげ'そ の淵源さえ明確化し、膚の十部伎を統括す 意識し て使 ったとも考えられる。そして唐代 の遺聾を 「 燕染」と い 所 る由緒正しき言葉であるが、そ の鄭玄注に 「 燕柴は房中 の築、 かに 「 燕柴」と いう言葉 で、俗奨 二十八調に基づ いた教坊 の青紫を じ 哩 E 捉え て い る 。もちろん 「 燕襲」は' ﹃ 周穫﹄ 「 春官」 の 「 警師」 にあ い わ ゆ る たからではなか ろう か。 ﹃ 新居書﹄よ-後 の資料だ が、沈括 ﹃ 夢渓 除草なり」とあ ることを'宋人は知 っていた。知 って いてそれをも 二 筆談﹄巻六には次 のよう にみえ る。 ( 唐人 の襲撃精探 にして、倍お雅律 の遺法有-。今 の燕契'古聾 おおむ 大 卒 ね法度無 し。一 棟) 多く亡び、新聾 今 教坊 の燕柴 は、律を比ぶるに二均弱高し'-・ 唯だ北欧 の襲 おおよ 馨は'教坊柴と 比ぶるに二均 下る。 大 凡 そ北人衣冠文物、多- (一二 1 催) 唐俗を用う'此 の奨'疑うら-は亦た唐 の遺草なり。 北末期における唐代音楽像 場 ﹃ 筆 書﹄ など に結 害 し て い った 。 それ ら の書 には' 宋代 に 博 承 さ れ てき た 唐代書 架 がそ の淵 源 から系 統 的 に整 理 さ れ て お- 、 唐 代 音 楽 像 の究 明 に確 か に ひと つの硯鮎 を輿 え てく れ た 。し か し な がら ' そ れら は宋 代 人 の眼を 通 し て再構 成 さ れ た資 料 であ ると いう 認 識 が ' 唐 代 書 架 の賛 像 を 追究 す るた め には大 切 であ ろう 。 ﹃ 新 唐 音﹄ 「 穐柴 志 」 に記 され た唐代 音 饗 は ' そ の賛 像 と は 1定 の距離 を も った も の と いわざ るを得 な い。 り校勘 さ れた ﹃ 守山 閣叢 書﹄収録 のも の) に よると 「 破 空速達」 に つ- る。 ( 3)窺惟 禦者和気也、蓉和気者'撃 音也。撃音之生生於無形'故古人 以有形之物、俸其法伴後 人参考之。然後無形之撃 音得而 和束 可導 也。有形 者、枢 黍 也'律 也'尺也'葡 也'蘭也、斜 也'算 数 也、 権衡 也 '鐘也 '碧也 、然十着必相 合 而 不相戻 ー然後薦 得。今 骨相 戻而 不合、則烏 非是臭 。有 形之物非是而欲求 無形 之撃 音和安 可得 哉。 ( ﹃ 頼資治通鑑長編﹄巻 一百七十 二) 7九 史﹄巻 一百 二十 六 「 築 志」 の挙 用 の 「 朴準親古楽高 五律 '硯教坊 八九年) に詳し い。 小島穀 「 末代 の禦律 論」 ( ﹃ 東 洋文化研究 所紀 要﹄ 一〇九 冊 禦高 二律」と、 ﹃ 宋史﹄巻 一百三十 lの 「 鋸以所収開元中笛及方響 教坊と太常寺 の柴律 が 7致し て いなか った ことを解説し て いるo 所 収) に 「 末律 概 貌」 のと こ ろ で 「 宋教坊 襲 前 律」と し て ﹃ 宋 一九 八六年 ︹ 注︺ 新居書﹄ の資料 の出自に ついては'す でに末代 の呉線 ﹃ 新唐書料 ( -) ﹃ 謬﹄ に'信濃性 に放ける唐代小説に依擦し て いる こと が多 いと い 合於仲呂'校太常 襲下 五律'教坊 柴下三律」と羅漢 の詮をあげ て' 丘掠粛 ﹃ 燕築探微﹄ ( ﹃ 燕禦 三善﹄無能 江人 民出版 社 振倫 「 南唐音綜論」 ( ﹃ 国立北平大学学報﹄ 一の四ー 1九 三五年) う指摘があり、 ﹃ 膏唐書﹄と比較してそ の得失を述 べたも のにー博 また唐代 に ついては 「 柴律柴 調上的幾個 問 題」 のと ころに 「 唐代 1九 ・頑禦志︾的史料来 源」 ( ﹃ 中国音柴草﹄ 二〇〇三年 四期) に よ っ 尺律無雅俗之分」 とし て考琵され て いる。 がある。 ﹃ 新居書﹄ 「 砥葉上 心」 の資料 に ついては、孫暁 曙 「 ︿ 新 唐音 て詳し-考謹されておりーそれ によ って 「 租禦志」 のなか の唐代 二 柴を好 むも のに非ざ るなり。直だ世俗 の柴を好む のみ。 」とある の と いう 表現と' ﹃ 孟子﹄ ( 染着王章 句 下) に 「 募 入 は能 く先王 の 八三年 所収) では 「﹃ 論語﹄ における 「 鄭聾 の推奨を乱すを 悪む」 ( 6)村 上哲 見 「 雅俗考」 ( ﹃ 中園 におけ る人間性 の探究﹄創文社 いるとある。孫暁畔 ﹃ 両唐書禦志研究﹄ ( 上海膏薬学院出版社 禦 や、雲詔柴など の記録は中晩膚 の雅史 ・筆記 によ-記述さ れ て を 練 合 す れ ば、音楽 に限 って の話 であ るが、後 世 の 「 雅 禦」封 ﹃ 太発令 壁記﹄ によ って補充され、唐代 の徳宗 から宣 宗 ま で の音 柴律 に ついては徐景 安 ﹃ 契書﹄と段安節 ﹃ 柴 肝雑 録﹄'度 量 衡 は 〇〇五年)には'﹃ 新唐音﹄ 「 鰻契志」と ﹃ 奮唐書﹄「 書架志」 の編 かもしれぬが'「 俗禦」と いう ことばは見首 たらな いよう で、雅- 〇三年 )参 照。 ∵二 ( 7)釜 谷武 志 ﹃ 宋書﹄ 禦志 語注箱 (こ ( ﹃ 未 名﹄ 第 二十 T坂 二〇 「 俗輿」 のごとき封立 が、先秦時代 にも意識さ れて いたと いえ る 纂と史料 の来源 に ついて、先 の論文 よりさら に詳細な検討がなさ れて いる。 俗と いう ことば の封立関係と して示されては いな い。 」とされる。 年 二 〇八八)あたりから ﹃ 夢漠筆談﹄ の著作 に入 ったと さ れ るo ( 2)梅原郁評注 ﹃ 夢渓筆談﹄ ( 平凡社東洋文庫)によると沈括 は元柘三 引用された 「 透空砕速」は'現存する ﹃ 渇鼓銀﹄ ( 晴 の鏡配・: 所 によ 北末期 における唐代書架像 云'涼州者'本 西涼 所願也 。其 聾本宮 調'有大 遍、小 遍」と あり' 括 し て近代 曲と輔 Lt更 に雑歌謡軒 ・新発府 酔を も設け た」と0 彼 は'新 た に郊廟 と燕 肘を設けー惰 ・唐 の世 に襲生 し た輿府 を 一 この分類 は、唐代音柴を親野 に入れ てそれを整理す る のに都合 の 蘇株 が ﹃ 新居書﹄ 「 砲架志」 を謹 んで いたこと が示 されて いる0 ( 1) 曾 美 月 「 唐代 文 献 中 「 燕 襲」 「 講 襲」 「 宴 楽」語 義 異 同 耕 析」 いいよう に仕立 てたも のと考え られる。例え ばへ沸舞歌'自 行敬 がまと めら れたとす る 「 舞曲歌辞」 のと ころでは'そ の解題 に坐 ( ﹃ 普禦研究﹄ 二〇〇三年第 四期) ( 20) ほ か にも'劉舗 ﹃ 暗唐嘉 話﹄中巻 に 「貞 観中'景 雲 見 わ れ、河水 一九七六年)上篇 「 唐五代詞論」 た'「 近代曲解」 「 新楽府鮮」も'采 に残 る唐 の歌 鮮文学 を考え る 際 には、是非とも必要 なも のであ ったC 立部伎 が説明され'歌 解とし て 「 寛裳 餅」も あげ られ て いる.ま 元合第 7奏 是なり」とー景雲河水捕歌 を燕輿 とす る例も あ るo 摘-'張率 更 は以 て貴 賓河水清歌 を為 し、名 づけ て燕柴 と 日う' 今 ( 21)前 掲 岸 遵 成 雄 ﹃ 唐代音柴 の歴史 的研究﹄序 説 第 四章 「 末唐妓 第 一草 詞源流考 七 六頁。 ( 2)村上哲見 ﹃ 宋詞研究﹄ ( 創文社 助金による研究 「 陳場 ﹃ 饗書﹄ の研究」 ( 研究代表者 中 純子) 小論 は 二〇〇 四∼ 二〇〇六年 度 の日本学 術凝興合 の科学研究費 捕 に非 ず)以外 に燕禦な る名 稗 はな い。新唐音砥柴 志 の巻 上 に'十 追記 館 の活動」 にお いて 「 唐代 では'坐部任 の筆 頭 曲 な る講 禦 ( 燕柴 八七頁)と指摘 されて いる。 るが' これは燕禦 な る詞が こ のよう に使 われた宋代 の編纂者 の窺 部伐 を述 べるにあた って、そ の冒頭 に 「 燕柴」 の二字を 置 いて い 人 であ る」 ( 上巻 ( 2)許建平 「﹃ 夢漢筆談﹄封我国古代音禦史 的貢献」 ( ﹃ 沈括研究﹄斬江 の研究成果 の T部 であ る。ま た、 二C〇 四年十月十 日に 二松学 令 大挙 で開かれた 「 第 五十 六回 日本中国 学合」 で の 「 唐宋音柴 の l九 八 五 年 所 収) に よ る と、沈 括 の 「 雅」 「 滴」 「 燕」 の三柴 の記載 のなか で'後 の理解 に最も貢戯した のは'「 燕 人民出版社 禦」 の記載 であ るとし て いる。とりわけ燕繋 二十 八調 の名柄と檎 断層- ﹃ 新居書﹄ 「 頑 発志」 にみえ る唐代音柴像」をもと に作成 し たも のであ る。 一健 で、北宋代 の燕禦 二十 八調 の構成を記述 し て いる。そ れは北 成 に ついては、教坊 で使用された曲調と 一致し' ﹃ 補筆談﹄第 五三 一九七 五年)第 一章 「 郭 宋燕禦 二十 八調 の唯 一の正確 な記録と されて いる。 茂情 の禦府詩 集編纂」 四四 二頁 によれば'作 者及び時代 の明ら か ( 23)増 田晴秀 ﹃ 禦解 の歴史的研究﹄ ( 創文社 な作品 に ついて、そ の半分以上が隔 ・唐 ・五代 のも のが占 め ると あ る。 そ のことからも'それが単 な る歴史的資料 ではな-'宋 代 に繋 が る隔唐代 のも のを整 理し よう と す る意陶をも って いること が窺え る。さ ら にそ の基 とな った唐 の呉親 の ﹃ 禦府 古 題要 解﹄と 比 べてやはり増 田氏は次 のよう に述 べる。「 郭氏 は、拐舞歌 と自 行 歌 を 一括 し て舞曲 と名づ け'鏡歌を鼓吹曲 に改 めた。-そ の上' 北宋期 におけ る唐代書禦像 五
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