ビヤ、サパタ首都に入る 多くの革命の例に漏れず、メキシコ革命で最も血

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ビヤ、サパタ首都
サパタ首都に
首都に入る
多くの革命
くの革命の
革命の例に漏れず、
れず、メキシコ革命
メキシコ革命で
革命で最も血なまぐさい局面
なまぐさい局面は
局面は、旧体制と
旧体制と戦ってい
るときではなく、
るときではなく、革命側の
革命側の間で争いが起
いが起こったときであった。
こったときであった。メキシコを呑
メキシコを呑み込んだ新
んだ新し
い内戦では
内戦では、
では、革命軍はウエルタ
革命軍はウエルタ連邦軍指揮官
はウエルタ連邦軍指揮官に
連邦軍指揮官に対して行
して行ったより、
ったより、はるかに厳
るかに厳しく残忍
しく残忍な
残忍な
仕打ちを
仕打ちを同僚
ちを同僚に
同僚に対して行
して行った。
った。1913-
1913-14年
14年の戦いで革命軍
いで革命軍の
革命軍の志願兵は
志願兵は強制徴兵され
強制徴兵され
た戦意の
戦意の無い連邦軍と
連邦軍と戦ったが
ったが、今度は
今度は志願兵同士の
志願兵同士の衝突であった
衝突であった。
であった。長期に
長期に亘ったウエル
タ戦では、
では、個々の兵士が
兵士が時には連邦
には連邦軍
連邦軍から脱走
から脱走して
脱走して革命軍
して革命軍に
革命軍に投じた。
じた。また、
また、捕虜となった
捕虜となった
連邦軍将校の
連邦軍将校の中で、革命軍に
命軍に加わるか、
わるか、あるいは銃殺隊
あるいは銃殺隊の
銃殺隊の前に立つかの選択
つかの選択を
選択を迫られたと
き、ウエルタへの忠誠
ウエルタへの忠誠を
忠誠を証明しようとした
証明しようとした者
しようとした者は少なかったが、
なかったが、隊長あるいは
隊長あるいは部隊
あるいは部隊が
部隊が革命軍
に転じた事
じた事は殆ど皆無であった
皆無であった。
であった。革命軍同士の
革命軍同士の争いでは、
いでは、指揮官の
指揮官の個人的な
個人的な理由、
理由、あるい
は勝敗の
勝敗の予測により
予測により、
により、敵軍に
敵軍に鞍替え
鞍替えすることが頻繁
することが頻繁に
頻繁に起こった。
こった。
1914年
1914年の暮れ、革命分派同士の
革命分派同士の戦いが始
いが始まったとき、
まったとき、ビヤが間
ヤが間もなく易
もなく易々と勝利す
勝利す
るであろうと多
るであろうと多くの人
くの人々が確信していた
確信していた。
していた。ビヤは会議派
ヤは会議派が
会議派が現実に
現実に国を支配していることを
支配していることを
示すため、
ため、メキシコ市
メキシコ市への進軍
への進軍を
進軍を命じた。
じた。先遣隊はパブロ・ゴンザレス
先遣隊はパブロ・ゴンザレス北東師団守備隊
はパブロ・ゴンザレス北東師団守備隊から
北東師団守備隊から
なるカランサ軍
なるカランサ軍を難なく一蹴
なく一蹴した
一蹴した。
した。意気消沈した
意気消沈した残兵
した残兵はカランサ
残兵はカランサ軍
はカランサ軍が集中していた
集中していたベ
していたベラク
ルースへ、
ルースへ、或いはまだカランサ軍
いはまだカランサ軍が支配していた
支配していた北西部
していた北西部へ
北西部へ逃げた。
げた。このとき既
このとき既にアメリカ
軍はベラクルースから撤退
ラクルースから撤退し
撤退し、カランサ軍
カランサ軍へ武器や
武器や軍需物資の
軍需物資の引き渡しを完了
しを完了していた
完了していた。
していた。
首都への
首都への途上
への途上ビ
途上ビヤが占領
ヤが占領した
占領した村
した村や町では人
では人々が歓喜して
歓喜して迎
して迎えた。
えた。商店主たちは
商店主たちは、
たちは、カランサ
軍は一銭も
一銭も払わなかったことに憤
わなかったことに憤っていた。
っていた。ビヤ軍が到着してからはどの
到着してからはどの店
してからはどの店も開けていた。
けていた。
ビヤは掠奪
ヤは掠奪を
掠奪を硬く禁じて、
じて、物を購入した
購入した兵士
した兵士は
兵士は皆代金を
皆代金を支払った
支払った。
った。
1914年
1914年11月
11月28日、北部師団先発
北部師団先発隊はメキシコ市
はメキシコ市郊外のタク
郊外のタクバ
のタクバに到着した
到着した。
した。彼ら
は先に進まず、
まず、その間にエミ
にエミリアノ
リアノ・サパタの南
・サパタの南部解放軍
解放軍が首都を
首都を占領した
占領した。
した。ビヤはサパタ
の意向を確認する前
する前には動
には動こうとしなかった。
こうとしなかった。サパタの次
サパタの次に首都に
首都に入ったのは大統
ったのは大統領
大統領エゥ
ラリオ・グティ
ラリオ・グティエレスで
オ・グティエレスで、
エレスで、ひっそりと大統
りと大統領官
大統領官邸
領官邸に入った。
った。殆ど無名の大統領
大統領がメキシコ
市に到着したときにはパレー
到着したときにはパレード
したときにはパレードも慶賀の
慶賀の群集も歓迎レ
歓迎レセプシ
セプションもなかった。
ンもなかった。ビヤの歓迎
ヤの歓迎
は対照的であった。
であった。南軍の司令官
司令官が待ち受けていたメキシコ市
けていたメキシコ市郊外の
郊外のソチミルコで
ソチミルコでビ
ルコでビヤと
サパタの
サパタの歴史的会
歴史的会談
的会談が行われた。
われた。最初の会議場
会議場は公立学校で、花を手にした生徒
にした生徒たちが
生徒たちが二
たちが二
人の指導者を迎えた。
えた。八十キロはある
八十キロはあるビ
キロはあるビヤはカジュ
ヤはカジュアルなカーキーの
ジュアルなカーキーのズボ
アルなカーキーのズボンに
ズボンに厚手
ンに厚手の
厚手の茶色
のセーター、
ーター、サパタは対
サパタは対称的に六十キロ
六十キロそ
キロそこそこ、大きなソ
きなソンブレロと
ンブレロと短
ロと短い黒のコート
のコート、
タイトな
イトな黒いメキシコのズボ
いメキシコのズボンを
ズボンを穿
ンを穿いた正装
いた正装であった
正装であった。
であった。
両者は大統領
大統領に成る野望はないことを
野望はないことを明
はないことを明らかにし、
らかにし、政策を
政策を執行する内
する内閣を慎重に
慎重に選び、
彼らに行
らに行政を一任することで合
することで合意した。
した。土地改革
土地改革問題以外で
問題以外で国政を左右する
左右する外交問題
する外交問題、
外交問題、特
にアメリカとの関係
にアメリカとの関係、
関係、あるいは労働問題
あるいは労働問題などには
労働問題などには触
などには触れなかった。
れなかった。この会議
この会議で
会議で少しずつ明
しずつ明ら
かになったのは、
かになったのは、サパタは自
サパタは自分の地域を
地域を守るだけの軍事的
るだけの軍事的能力
軍事的能力しか
能力しか持
しか持たないことであった。
たないことであった。
彼の軍隊は
軍隊はモレロス州外
レロス州外で
州外で戦うことを望
うことを望まず、
まず、メキシコの将
メキシコの将来に決定的
決定的なインパクト
ンパクトを与
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えるだけの軍事的
えるだけの軍事的力
軍事的力がなかった。
なかった。一方、サパタはアヤラ計画
サパタはアヤラ計画に
計画に掲げた土地改
げた土地改革
土地改革という国
という国家
的政策を
政策を推し進めようとしていた。
めようとしていた。
ビヤは逆
ヤは逆に全国規模で
規模で戦える北部師団
える北部師団を
北部師団を持ちながら、
ちながら、掲げた社
げた社会的政策
会的政策は
政策は自分の地域の
地域の
為のものでしかなかった。
のものでしかなかった。彼の主張した土地改
した土地改革
土地改革は、中央政府の
央政府の介入を許さず、
さず、地方議会
地方議会
で取り仕切るものであるとした。
るものであるとした。これら両
これら両者の違いは言外
いは言外に
言外に仄めかされだけで、
めかされだけで、明確に
明確に述
べられたものではなかった。
られたものではなかった。ビヤは土地改
ヤは土地改革
土地改革について大筋
について大筋で
大筋で合意し、アヤラ計画
アヤラ計画を
計画を原則で
原則で
受け入れると
れるとしたが
したが、何時、どのように、
どのように、誰が行うかについては討
うかについては討議されなかった。
されなかった。ビヤ
は地方からの
地方からの観点
からの観点で
観点で土地改革
土地改革を考え、サパタは国
サパタは国家的観点で
観点で捉えていた。
えていた。対称的に軍事面
でビヤが全
ヤが全国制覇
国制覇を考える一
える一方で、サパタは南
サパタは南部解放軍
解放軍の機構に
機構にも能力にも
能力にも触
にも触れなかった。
れなかった。
会議の
会議の後で行われた非公
われた非公開
非公開の会談でも国
でも国家的な議題ではなく、
ではなく、もっぱ
もっぱら軍事的な
軍事的な責任範囲
責任範囲
などが討
などが討議された。
された。北部は
北部はビヤ、南部はサパタ、
はサパタ、そして彼
して彼らはベ
らはベラクルースへの共
ラクルースへの共同作戦
を展開することで一
することで一致した。
した。
話し合いを終えた二
えた二人は数万の
数万の軍隊を
軍隊を先導し、多くの都
くの都民が歓呼するメキシコ市
するメキシコ市の目抜
き通りをパレード
りをパレードした。
した。彼らが大統領官
大統領官邸
領官邸にグティエレス
グティエレス大統
エレス大統領
大統領を表敬訪問した
表敬訪問した折
した折、ビヤ
はふざけて
ふざけて大統
けて大統領
大統領の椅子に
椅子に座り、サパタはそ
サパタはその横に座って写真
って写真を
写真を撮った。
った。この写真
この写真は
写真はビヤ
がメキシコの実
がメキシコの実権を握った証
った証として国
として国内外で大きな反響を
反響を呼んだ。ビヤはこのとき彼
ヤはこのとき彼の人
生の頂点にいた
頂点にいた。
にいた。しかし僅
しかし僅か数ヵ月後、彼が大敗を喫すると予
すると予想する者
する者は誰もいなかった。
もいなかった。
29
30
27. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P433
28. Ibid. P434
29. Ibid. P436
30. Ibid. P437