アメリカ資本 - メキシコ革命と日米関係

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アメリカ資本
アメリカ資本
サンタ・
サンタ・アナから始
アナから始まり、
まり、コモンフォルト、
コモンフォルト、フアレス、
フアレス、そして前任者
そして前任者のレルドに
前任者のレルドに至
のレルドに至る過
去の大統領は
大統領は、数多くの
数多くの鉄道
くの鉄道建設許可
鉄道建設許可を
建設許可を出したにもか
したにもかかわらず、
らず、資本不足
資本不足と
不足と輸入機材や
輸入機材や技
術が高額であったため
高額であったため殆
であったため殆ど建設は
建設は進まず、
まず、敷設された
敷設された線路
された線路の
線路の長さは1867
さは1867年
1867年の50キロ
から1876
から1876年
1876年の666キロに伸
キロに伸びただけであった。
びただけであった。ディアス政府
ディアス政府は
政府は鉄道に
鉄道に将来の
将来の発展を
発展を
期待した
期待した。
した。ディアスが特権
ディアスが特権を
特権を与えたアメリカの実業家
えたアメリカの実業家は
実業家は、J. P.モ-ガン、
ガン、ロックフェラー、
ロックフェラー、
グッゲンハイム、
グッゲンハイム、ダッジ、
ダッジ、ハンティントン、
ハンティントン、ヘンリー・ピアース、
ヘンリー・ピアース、E.J.ハリマン、
ハリマン、ジェイ・
グールド、
グールド、ラッセル・セージであった。
ラッセル・セージであった。主要幹線は
主要幹線はテウァンテペック地峡横断鉄道
テウァンテペック地峡横断鉄道、
地峡横断鉄道、米墨
国境五
国境五都市とメキシコ
都市とメキシコ内部
とメキシコ内部を
内部を結ぶ線、首都と
首都とベラクルースやガルフ沿岸
ラクルースやガルフ沿岸を
沿岸を結ぶニ本の線、
コリマ、
コリマ、グァダラハラと太平洋岸
グァダラハラと太平洋岸を
太平洋岸を結ぶ線であった。
であった。1902年
1902年、メキシコ鉄道株
メキシコ鉄道株の
鉄道株の 80
パーセントはアメリカ資本
パーセントはアメリカ資本に
資本に握られていた。
られていた。その額約
その額約三
額約三億五千万ドルは
千万ドルは米国
ドルは米国の
米国の対メキシコ
投資額全体の
投資額全体の約 70%を占めていた。
めていた。以前カリフォルニアでハンティントンの
以前カリフォルニアでハンティントンの会社
カリフォルニアでハンティントンの会社に
会社に雇われ
ていた財務長官
ていた財務長官リマントゥ
財務長官リマントゥー
リマントゥールは、
ルは、アメリカの独占状態
アメリカの独占状態から
独占状態から脱却
から脱却する
脱却するため
するため、
ため、1902から
1902から
08年
08年にかけて、
にかけて、鉄道株の
鉄道株の買収計画を
買収計画を進めた結果
めた結果、
結果、主要路線の
主要路線の買収に
買収に成功して
成功して、
して、メキシコ
国有鉄道として
国有鉄道として主導権
として主導権を
主導権を握った。
った。
アメリカ資本
アメリカ資本がメキシカン・セントラル
資本がメキシカン・セントラル鉄道
がメキシカン・セントラル鉄道を
鉄道を完成させた
完成させた1884
させた1884年
1884年、ディアス政府
ディアス政府は
政府は、
地下資源は
地下資源は全て国家が
国家が所有するという
所有するという法律
するという法律を
法律を無効にした
無効にした。
にした。それ以前
それ以前は
以前は輸送手段が
輸送手段が無かった
事と、法的な
法的な所有権が
所有権が曖昧であったため
曖昧であったため、
であったため、米国を
米国をはじめ外国
はじめ外国の
外国の投資家は
投資家は敬遠していた
敬遠していた。
していた。1
884年
884年、アメリカ企業
アメリカ企業が
企業が所有する
所有する鉱山採掘権
する鉱山採掘権は
鉱山採掘権は僅か 40 であったものが
であったものが、
ものが、1904年
1904年には
一万三千余となり
一万三千余となり、
となり、これによって譲渡
これによって譲渡された
譲渡された土地
された土地は
土地は 22 万ヘクタール以上
クタール以上にも
以上にも達
にも達した。
した。全部
で 31 の鉱山会社が
鉱山会社が運営していたが
運営していたが、
していたが、その内
その内の 17 社が米国企業で
米国企業で、投資額の
投資額の 81%を占め、
英国企業は
英国企業は 10 社、資本は
資本は 14.5%、メキシコ企業
メキシコ企業はほんの
企業はほんの僅
はほんの僅かであった。
かであった。アメリカ最大
アメリカ最大の
最大の
企業はグッゲンハイム
企業はグッゲンハイム ASARCO の一億ペソ、
ペソ、アナコンダは六
アナコンダは六千万ペソ
千万ペソ、
ペソ、グリーン・カナ
ネア・コンソリデーテッド・カパー・カンパニー、
ネア・コンソリデーテッド・カパー・カンパニー、フェルプス・ダッジの所有
フェルプス・ダッジの所有するモクテ
所有するモクテ
ズマ・カパー・カンパニーなどである。
ズマ・カパー・カンパニーなどである。
銀の生産高
生産高がディアス政府
がディアス政府の
政府の経済を
経済を左右した
左右した。
した。1870年
1870年代の年間生産高
間生産高は 2650 万ペ
ソ、1905年
千万ペソ強
ペソ強であった。
であった。銅の生産は
生産は1890年
1890年の五千六
五千六百トン
1905年がピークで 8 千万ペソ
から1910
から1910年
1910年には四万八千トン強
トン強であった。
であった。1905年
1905年、銀の価格が
価格が下落するのに伴
するのに伴い、
銅其の
銅其の他の非鉄金属や
金属や石炭も
石炭も停滞した
停滞した。
した。鉱業生産
鉱業生産の
生産の不振に伴い、失業者が
業者が増大し、それに
加えて閉
えて閉山したコロラドの銀
したコロラドの銀鉱から多
から多くの失
くの失業者が
業者がチワワに
チワワに戻り、ディアス政権
ディアス政権の
政権の最後の
数年間
数年間、メキシコ北
メキシコ北部の鉱山地帯
鉱山地帯の社会情勢
社会情勢は
情勢は悪化の
悪化の一途を辿った。
った。
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1876年
1876年、ボストンの投資家
ストンの投資家が
投資家がベラクルース州
ラクルース州トゥスパンで最
トゥスパンで最初の石油試
石油試掘を行った
のを始
のを始め、カリフォルニアやイ
カリフォルニアやイギ
やイギリスの企業
リスの企業も
企業も参入して失敗
して失敗を
失敗を重ねた。1900年
1900年アメリ
カの石油関係
カの石油関係者
石油関係者が本格的にメキシコに興味
にメキシコに興味を
興味を持ち、メキシカン・セントラル鉄道
メキシカン・セントラル鉄道の
鉄道の社長ロ
社長ロ
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バートソンを中心
ートソンを中心にメキシカン
中心にメキシカン石油
にメキシカン石油会社
石油会社を
会社を創設した。
した。1901年
1901年5月14日
14日、タンピコか
ら西六十キロほどの内
キロほどの内陸エバノでアメリカの
エバノでアメリカの油井
でアメリカの油井が
油井が噴出し、これまで成功
これまで成功していない
成功していない会社
していない会社
にも大
にも大量の資金が注入された。
された。1910年
1910年までには二百九十
までには二百九十にの
二百九十にのぼ
にのぼる外国企業がメキシコ
外国企業がメキシコ
で活動を
活動を行っていた。
っていた。その中
その中でもスタンダード石油
でもスタンダード石油は
石油は重要な地位を占めていた。
めていた。
石油生産の
石油生産の拡大による政府
による政府の
政府の収入が
収入が増えたにも拘
えたにも拘らず、
らず、石油産業
石油産業の成功は
成功は社会的にも
社会的にも政
にも政
治的にも、
にも、メキシコに何
メキシコに何の利益も
利益ももたら
もたらさなかった。
さなかった。この自
この自国の中の外国からの
外国からの収入
からの収入のた
収入のた
め、農業や製造業
製造業の改革が
改革がなおざり
おざりにされ、
にされ、これ等
これ等の重要な分野は
分野は政府を
政府を支える力
える力にはな
れなかった。
れなかった。メキシコは原油
メキシコは原油を
原油を輸出し
輸出し、国内で
国内で消費する
消費する石油製品
する石油製品の
石油製品の殆どを輸入
どを輸入した
輸入した。
した。経済
発展は
発展は石油を
石油を生産している
生産している地
している地域に限られ、
られ、周辺の
周辺の住民は
住民は追い出され貧困
され貧困に
貧困に苦しんだ。
しんだ。石油
生産地
生産地域は資本集
資本集約型の隔絶された
隔絶された経済
された経済で
経済で、その周辺
その周辺一
周辺一帯はインフレに悩
はインフレに悩まされた。
まされた。石油
会社は
会社は外国人
外国人技術者や
技術者や現場監督を
現場監督を高給で雇い、国内労働
国内労働者
労働者はインフレの続
はインフレの続く中、低賃金で
賃金で
働かされた。
かされた。メキシコの資本家
メキシコの資本家た
資本家たちは、やる気
やる気はあったものの、
はあったものの、対抗できるだけの資本
るだけの資本や
資本や
技術が
技術が無く、政府に
政府に圧力を
圧力を掛けるしか術
るしか術はなかった。
はなかった。財源を
財源を満たしてくれては
たしてくれてはいたが
いたが、遠
慮会釈無く要求を出すアメリカの石油
すアメリカの石油会社
石油会社に
会社に対して、
して、ディアスは嫌悪感
ディアスは嫌悪感を
嫌悪感を抱いていた。
いていた。メ
キシコの石油生産
キシコの石油生産量
石油生産量は大きかったが、
かったが、社会的、
社会的、経済的
経済的、政治的不安要因となった。
となった。そして、
そして、
強力なアメリカ
強力なアメリカ市
なアメリカ市民は間断なくメキシコ政府
なくメキシコ政府に
政府に対し圧力を
圧力を加えた。
えた。どんどん拡
どんどん拡大を続ける
鉱業や
鉱業や石油の
石油の少数グループはディアスの経済
グループはディアスの経済政
経済政策を益々複雑にしていった
複雑にしていった。
にしていった。
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ディアスが行
ディアスが行った公
った公有地を
有地を私有地化
有地化する処置
する処置は
処置は資本主義
資本主義経済を
経済を達成する
達成する過
する過程では避
では避けら
れない事
れない事であった。
であった。1870
1870年
70年代の後半から
後半から90
から90年
90年代にかけて、
にかけて、小作人は
小作人は殆どの土地
どの土地を
土地を失
い、アシエ
アシエンダで
ンダで雇われ、
われ、輸出用
輸出用作物の
作物の栽培と
栽培と、それに関連
それに関連した
関連した仕
した仕事に追いやられていっ
た。約一億三千万エ
千万エーカー、
ーカー、実に国土の
国土の27%もの土地は
土地は、このようにしてアメリカ人
このようにしてアメリカ人が
所有するようになった
所有するようになった。
するようになった。1910年
1910年までには一
までには一万五千人のアメリカ人
のアメリカ人がチアパス、
アパス、オアハ
カ、ベラクルース、
ラクルース、タマウリパス、
タマウリパス、サン・
サン・ルイス・
ルイス・ポトシ、
トシ、ハリスコ、
ハリスコ、シナロア、
シナロア、ドゥラ
ンゴ、ソノラ、チワワ、
チワワ、コアウイラ、
コアウイラ、バハ・カリフォルニアの
カリフォルニアの各州に
各州に入植していた。
していた。アメ
リカ人
リカ人は土地の
土地の権利証書
利証書を振りかざ
りかざして違
して違法居住者
居住者を追い出し、有刺鉄線で
鉄線で囲い、以前そ
以前そ
こに住
こに住んでいた住民
んでいた住民を
住民を雇って必
って必要な労力を確保した
確保した。
した。アメリカの大
アメリカの大規模な
規模な農業法人
業法人は、借
地農家と解約して綿花
して綿花、
綿花、ヘニケ
ヘニケン、イストレ
イストレ、
トレ、グワユール
ワユール、
ール、コーヒ
コーヒー、カカオ
カカオ、チクル、
クル、
ゴムの樹
ムの樹など輸出
など輸出作物
輸出作物を
作物を栽培した
栽培した。
した。メキシコの農民
メキシコの農民が
農民が放逐された
放逐された事
された事により全国
により全国のあ
全国のあち
のあちこち
で暴動が
暴動が発生し、死傷者
死傷者が出た。アメリカ人
アメリカ人が所有地を
所有地を広げた結果、
結果、土地の
土地の値段は五倍に
も達し、メキシコの弱
メキシコの弱い通貨では
通貨では土地
では土地を
土地を購入し、農業を手がける事
がける事は不可能
不可能となっていっ
た。
最大の
最大の土地所有者は
土地所有者は、サンフランシスコ・クロニクル紙
サンフランシスコ・クロニクル紙の発行者、日本人排斥の
人排斥の急先鋒
急先鋒
であったウイリアム・ランドーフ・ハーストで
であったウイリアム・ランドーフ・ハーストで、
リアム・ランドーフ・ハーストで、所有した
所有した土地
した土地は
土地は実に六百六十万から七
から七百
五十万エーカー、
ーカー、所有地は
所有地はチワワ、
チワワ、オアハカ、
アハカ、タバスコ、
スコ、チアパス、
アパス、カンペチ
カンペチェの各州
ェの各州に
各州に
分散していた
分散していた。
していた。50 万エーカー以上
ーカー以上の
以上の所有者は
所有者は 25 社、十万から五
から五十万エーカーは百
ーカーは百社以上
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あった。
あった。ディアス時代
ディアス時代、
時代、外国市場
外国市場はメキシコの農
はメキシコの農業に重大な影響を
影響を及ぼすようになった。
すようになった。
1907年以
1907年以降
年以降、粗糖の
粗糖の生産地
生産地帯であったモレロス
であったモレロス州からベ
からベラクルースと、
ラクルースと、絶えず旱魃
えず旱魃に
旱魃に
悩まされている北寄
まされている北寄りの
北寄りの中央
りの中央部
中央部は絶望的
絶望的な状態に
状態に置かれていた。
かれていた。また、
また、外国資本による
外国資本による輸
による輸
出主体の
出主体の農業が行われていた北
われていた北部では、
では、土地の
土地の有力者たちは破産寸前
破産寸前であった。
であった。1910
年、農業人口の
人口の 90%は土地を
土地を失い、見放された
見放された百姓
された百姓や
百姓や貧しい労働
しい労働者
労働者に飢饉が
飢饉が忍び寄ってい
た。
35
32. John Mason Hart, “Revolutionary Mexico, The Coming and Process of the Mexican Revolution,
10th Edition”
Edition”, University of California Press Berkeley, 1989, P131
33. Ibid. P141
34. Ibid. P145
35.
35. Ibid. P157
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