会議派政権の崩壊 - メキシコ革命と日米関係

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会議派政権の
会議派政権の崩壊
会議派
会議派は異質な
異質な者の寄せ集めであったが故
めであったが故、1915年
1915年の春、一連の
一連の戦闘で
戦闘でビヤ軍が敗
退する前
する前に分裂が
分裂が始まり、
まり、政治的麻痺状態
政治的麻痺状態に
麻痺状態に陥っていた。
っていた。先ずグティエレス大統領派
ずグティエレス大統領派が
大統領派が分
離して崩壊
して崩壊が
崩壊が始まり、
まり、次いでビ
いでビヤとサパタ両派
ヤとサパタ両派の
両派の間の緊張が
緊張が高まった。
まった。会議派は
会議派は都市住民、
都市住民、
特に労働者階級を
労働者階級を取り込む能力に
能力に欠けていることが
けていることが次第
ことが次第に
次第に明らかになった。
らかになった。地方での
地方での改革
での改革
プログラムは一部
プログラムは一部では
一部では実行
では実行されてはい
実行されてはいた
されてはいたが、会議派
会議派は全国的な
全国的な改革を
改革を追行するだけのイデ
追行するだけのイデ
オロギーに欠
ロギーに欠けていた。
けていた。更に追い討ちをかけるようにアメリカとの関係
ちをかけるようにアメリカとの関係が
関係が急速に
急速に悪化して
悪化して
いった。
いった。カランサ派
カランサ派は国内外で
国内外で巧みに反
みに反会議派政府
会議派政府プロパガンダを
政府プロパガンダを展開
プロパガンダを展開した
展開した。
した。会議派から
会議派から
オブレゴン支持者
オブレゴン支持者が
支持者が抜け、グティエレスは既
グティエレスは既に会議派の
会議派の代表者とは
代表者とは言
とは言えなくなっていた。
えなくなっていた。
彼はビヤとサパタを再集結
ヤとサパタを再集結し
再集結し、会議派運動を
会議派運動を盛り返そうとしたが、
そうとしたが、二人は
二人は逆にグティエレ
スに影響力
スに影響力を
影響力を強め、彼を自分たちの
自分たちの代弁者
たちの代弁者にしようとした
代弁者にしようとした。
にしようとした。二人とも
二人とも彼
とも彼の配下で
配下であるとは
思ってもいなかった。
ってもいなかった。グティエレスと
グティエレスと両者
スと両者の
両者の離反を
離反を早めたのは「
めたのは「メキシコ市
メキシコ市の恐怖」
恐怖」と呼
ばれるビ
ばれるビヤ=サパタ両派
サパタ両派による
両派による独断的
による独断的な
独断的な処刑であった
処刑であった。
であった。
恐怖の
恐怖の報復はトレオンで
報復はトレオンでビ
はトレオンでビヤに敗
ヤに敗れたジェネラル・ムンギアを初
れたジェネラル・ムンギアを初めとするウエルタの将校
めとするウエルタの将校
や民間人に
民間人に向けられた。
けられた。処刑されたのは
処刑されたのは推定
されたのは推定百五十
推定百五十人前後
百五十人前後、
人前後、処刑された
処刑された革命軍
された革命軍の
革命軍の中で最も
著名であったのはサパタ
著名であったのはサパタ派
であったのはサパタ派を代表して
代表して会議
して会議に
会議に参加したパウリノ・マルティネスであった
参加したパウリノ・マルティネスであった。
したパウリノ・マルティネスであった。サ
パタがビ
パタがビヤの処刑
ヤの処刑に
処刑に反対しなかった
反対しなかった背景
しなかった背景は
背景は判然としていない
判然としていない。
としていない。ビヤの動機
ヤの動機はマルティネス
動機はマルティネス
がオロスコと組
がオロスコと組んでマデロを攻撃
んでマデロを攻撃したためであろうと
攻撃したためであろうと考
したためであろうと考えられている。
られている。
これら一連
これら一連の
一連の処刑を
処刑を誰が指示したか
指示したか定
したか定かではないが
かではないが、一部は
一部はビヤあるいはサパタ自身
ヤあるいはサパタ自身に
自身に
より、
より、大部分は
大部分は彼らの部下
らの部下によって
部下によって行
によって行われた。
われた。消息筋はトマス・ウルビナがその
消息筋はトマス・ウルビナがその多
はトマス・ウルビナがその多くを実行
くを実行
したと見
したと見ていた。
ていた。しかしグティエレス大統領
しかしグティエレス大統領が
大統領がビヤ、サパタに殺戮
サパタに殺戮を
殺戮を激しく非
しく非難したとき
したとき
に、この両者
この両者は
両者はきっぱりと処刑
りと処刑の
処刑の正当性を
正当性を主張した。
した。「メキシコ
「メキシコ市
メキシコ市の恐怖」
恐怖」は処刑だけでは
処刑だけでは
なかった。
なかった。彼はトレオンで行
はトレオンで行ったように、
ったように、首都でも富
でも富者からの強
からの強制徴収をするために
制徴収をするために営利
をするために営利
誘拐を
誘拐を頻繁に
頻繁に行った。
った。これ等
これ等の残虐行
残虐行為により首
により首都の上流社会
上流社会と外交官の
交官の間でビヤのイメ
ージは著
ージは著しく低下した。
した。
グティエレス政権
グティエレス政権にとって
政権にとって「
にとって「メキシコ市
メキシコ市の恐怖」
恐怖」は氷山の
氷山の一角に過ぎなかった。
なかった。会議派政
府とアグアスカリエンテス会議
とアグアスカリエンテス会議の
会議の第三勢力
三勢力はビヤとサパタから決別
ヤとサパタから決別した
決別した。
した。グティエレスは
彼を支持してくれた
支持してくれた第
してくれた第三勢力
三勢力の結束を目指した。
した。オブレゴンを頭
オブレゴンを頭とするかなりの人
とするかなりの人数は既
にカランサの元
にカランサの元に復帰していた。
していた。しかし元
しかし元のカランサ派
のカランサ派であったルシオ・ブランコ、
であったルシオ・ブランコ、北部師
団のジェネラル・ロブレスやジェネラル・エゥヘニ
のジェネラル・ロブレスやジェネラル・エゥヘニオ・アギレ・
ゥヘニオ・アギレ・ベ
オ・アギレ・ベナビデスはまだ会議派
デスはまだ会議派
を支持していた
支持していた。
していた。グティエレスはカランサ派
グティエレスはカランサ派の他の指揮官へ
揮官へ、ビヤとカランサを向
ヤとカランサを向うに回
うに回
して戦
して戦うことを促
うことを促す信書の
信書の発信を
発信を始めた。
めた。誰もカランサとの関係
もカランサとの関係を
関係を断とうとした者
とうとした者はいな
かったが
かったが、彼らはグティエレスを激
らはグティエレスを激励した。
した。
1914
1914年12月末、
月末、ビヤはグ
ヤはグァダラハ
ダラハラでグティエレスの辞任
ラでグティエレスの辞任、
辞任、あるいは離反
あるいは離反の
離反の噂を
耳にすると、
にすると、メキシコ市
メキシコ市に入る列車の
列車の運行をスト
運行をストッ
をストップさせた。
プさせた。前触れ無しでグティエレス
36
143
の前に現れたビ
れたビヤは辞任
ヤは辞任をするなら
辞任をするなら撃
をするなら撃ち殺すと脅
すと脅したが大統領
したが大統領は
大統領は折れなかった。
れなかった。グティエ
レスは、
レスは、主都で暗殺や恐喝が行われている状
われている状況下では統治
では統治で
統治できないこと、
ないこと、ビヤとサパタは
自分が
自分が持つ全国統治の
全国統治の権限を妨害している
妨害していると
していると非難した。
した。事実両派は
両派は鉄道や
鉄道や電信網を
電信網を支配し
支配し、
独自の
独自の紙幣を
紙幣を発行していた。
していた。
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ビヤは大統領
ヤは大統領を
大統領を処刑する
処刑するぐ
するぐらいの権力
らいの権力は
権力は持ち合わせていた。
わせていた。しかし彼
しかし彼はグティエレスの
裏切りの
裏切りの確
りの確たる証拠
たる証拠を
証拠を見出せなかったし、
せなかったし、大統領の
大統領の処刑は
処刑は彼の合法性を
合法性を弱め、アメリカと
の関係を
関係を悪化させる
悪化させる恐
させる恐れがあったため躊躇
れがあったため躊躇した
躊躇した。
した。二人は
二人は奇妙な
奇妙な妥協をし
妥協をし、
をし、ビヤはグティエ
レスがメキシコ市
レスがメキシコ市から逃亡
から逃亡で
逃亡できないように軍
ないように軍を配置したことを彼
したことを彼に告げた後、ビヤ軍を名
目だけ大統領
だけ大統領の
大統領の支配下に
支配下に置いた。
いた。この衝突
この衝突があってグティエレスは
衝突があってグティエレスはビ
があってグティエレスはビヤから離
ヤから離れる決心
れる決心を
決心を
一層固め
層固め、オブレゴンやカランサのジェネラルに手紙
オブレゴンやカランサのジェネラルに手紙を
手紙を書き、ビヤとカランサを相手
ヤとカランサを相手に
相手に戦
うことを訴
うことを訴えた。
えた。グティエレスが交信
グティエレスが交信した
交信した相手
した相手の
相手の一人がカランサ
一人がカランサ派
がカランサ派アントニ
アントニオ・ビ
オ・ビヤレア
ルであった。
ルであった。ビヤレアルの部
ヤレアルの部隊がアンヘ
がアンヘレスに敗
レスに敗れたとき
れたとき、その交信文書
その交信文書が
交信文書がビヤの手
ヤの手に入
った。
った。ビヤはグティエレス
ヤはグティエレス内
グティエレス内閣で国防相であった
防相であった北
であった北部師団の
師団のホセ・イサ
ホセ・イサベ
・イサベル・ロブレスに
打電しグティエレスの
打電しグティエレスの処刑
しグティエレスの処刑を
処刑を命じた。ロブレスはそれを拒
ロブレスはそれを拒み、グティエレスに電
グティエレスに電報を見せ
た。グティエレスは自分
グティエレスは自分に
自分に忠実な者を連れて主
れて主都から逃
から逃れる決心
れる決心をした
決心をした。
をした。
グティエレスは彼
グティエレスは彼を支持する
支持する部
する部隊をメキシコ市
をメキシコ市に集め、メキシコ市
メキシコ市に残っているビ
っているビヤ軍
から自
から自らを守
らを守ろうとした。
ろうとした。彼は北部師団で
師団でビヤに批
ヤに批判的であった
判的であったエ
であったエゥヘニオ・アギレ・
ゥヘニオ・アギレ・ベ
オ・アギレ・ベ
ナビデスをサン・
デスをサン・ルイス・ポ
ルイス・ポトシの知事兼
トシの知事兼軍
知事兼軍事指揮官に
揮官に任命し、そこで彼
そこで彼の政府を
政府を樹立しよ
樹立しよ
うとした。
うとした。彼はナイーブにも第
はナイーブにも第三勢力
三勢力を結集して
結集してビ
してビヤ、サパタ、
サパタ、カランサを退
カランサを退けてメキシ
コの大統領
コの大統領であり
大統領であり続
であり続けようとした。
けようとした。12月14日、ベナビデスは
デスは軍を集め、国庫からあり
ったけの
ったけの資金
けの資金を
資金を持ち出してメキシコ
してメキシコ市
メキシコ市を脱出した
脱出した。
した。不意を
不意を衝かれたサパタ=
かれたサパタ=ビヤ軍は無勢
のため止
のため止めることが出来
めることが出来なかった
出来なかった。
なかった。翌日グティエレスは
翌日グティエレスはホセ
グティエレスはホセ・
ホセ・バスコンセ
スコンセロによって書
ロによって書かれ
たマニフ
たマニフェストを
ニフェストを発
ェストを発表した。
した。
38
グティエレスの第
グティエレスの第三勢力
三勢力を結成しようとする望
しようとする望みは幻想
みは幻想で
幻想でしかなかった。
しかなかった。カランサはメ
キシコ内外
キシコ内外に
内外に会議派内部の
会議派内部の分裂を
分裂を宣伝しようと
宣伝しようと、
しようと、嬉々としてグティエレスのマニフ
としてグティエレスのマニフェスト
ニフェスト
を発表した。
した。カランサ派
カランサ派のジェネラルは誰
のジェネラルは誰も最高指揮官
最高指揮官に
揮官に見切りをつ
りをつけるような事
けるような事はしな
かった。
かった。彼らにはグティエレスが余
らにはグティエレスが余りにも非力
りにも非力に
非力に見えた。
えた。ウルビナが率
ウルビナが率いるビ
いるビヤの分
ヤの分遣隊
がサン・
がサン・ルイス・
ルイス・ポトシに近
トシに近づいたとき
いたとき、ベナビデスの兵
デスの兵は殆どが抵抗せず
抵抗せず逃
せず逃げた。ベナビ
デスはアメリカに逃
デスはアメリカに逃れようとしてカランサ軍
れようとしてカランサ軍に捕らわれ、
らわれ、ジェネラル・エミ
ジェネラル・エミリアノ・ナファ
リアノ・ナファ
レテによって処刑
レテによって処刑され
処刑された
された。部下に
部下に逃げられたルシオ・ブランコはアメリカに
られたルシオ・ブランコはアメリカに亡
ルシオ・ブランコはアメリカに亡命した。ブラ
ンコは
ンコは1922
1922年
22年、オブレゴン政権
オブレゴン政権転覆
政権転覆を
転覆を企て殺された。
された。グティエレスはヌ
グティエレスはヌエボ・レオン州
・レオン州
の小さな町
さな町に逃げ込んで政府
んで政府を
政府を樹立しようとした
樹立しようとした。
しようとした。殆どの部下に
部下に逃げられ、
られ、僅か数名とな
って如何
って如何とも
如何とも出来
とも出来ず
出来ず、大統領辞任
大統領辞任を
辞任を宣言し、カランサと和解
カランサと和解した
和解した。
した。一時ビヤの寵愛
ヤの寵愛を
寵愛を受け
たホセ・イサ
ホセ・イサバ
・イサバル・ロブレスはビ
ル・ロブレスはビヤと和解
ヤと和解し
和解し、1915年
1915年、ビヤの敗戦
ヤの敗戦まで
敗戦まで共
まで共に戦った後
った後
144
カランサ軍
カランサ軍に投じた。彼はカランサ軍
はカランサ軍に抵抗を
抵抗を続けた南
けた南部の保守主義者討
保守主義者討伐
者討伐を命ぜられ、
られ、
オアハ
オアハカへ派遣された。
された。1917
1917年、ロブレスは再
ロブレスは再びオアハ
オアハカ軍に加わってカランサに反
わってカランサに反
抗して捕
して捕らわれ、
らわれ、処刑された
処刑された。
された。
39
グティエレスの逃亡
グティエレスの逃亡により
逃亡により会議派
により会議派政府
会議派政府が
政府が無くなったの
くなったのではなく、
ではなく、彼が逃亡したその
逃亡したその夜
したその夜、
アグアスカリエンテス会議
アグアスカリエンテス会議で
会議でビヤの代
ヤの代理人を務めたロケ
めたロケ・ゴンザ
・ゴンザレス・ガルサが、
レス・ガルサが、サパタ
とビヤの承認
ヤの承認を
承認を得て大統領の
大統領の地位についた。
いた。元マデロ派
マデロ派の知識人
知識人が閣僚に
閣僚に加わったが、
わったが、全
体としては
としては弱体
ては弱体であった
弱体であった。
であった。一方ベ
一方ベラクルースのカランサ政府
ルースのカランサ政府は
政府は、彼らこそが真
らこそが真の国家的政
策を追行で
追行できることを示
ることを示し、会議派の
会議派の中央政権の
政権の影はすっかり薄
はすっかり薄くなった。
くなった。カランサ政府
カランサ政府
は農業のみならず
農業のみならず社
のみならず社会改革案
会改革案も発表した。「メキシコ
「メキシコ市
メキシコ市の恐怖」
恐怖」とグティエレスへ
とグティエレスへの態度に
より、
より、国内外で
国内外でビヤのイメージは
ヤのイメージは地
ジは地に落ちた。
ちた。フアレス市攻
アレス市攻略以来
市攻略以来ビ
略以来ビヤは山賊
ヤは山賊で
山賊で無法者
無法者の
イメージ払拭
イメージ払拭に
払拭に努めてき
めてきた、しかしメキシコ市
しかしメキシコ市での一連
での一連の
一連の出来事で
出来事で、元の木阿弥となった
木阿弥となった。
となった。
40
カランサとオブレゴンは巧
カランサとオブレゴンは巧みなプロパガンダを展開
みなプロパガンダを展開した
展開した。
した。ビヤの本
ヤの本名はドロテオ・アラン
ゴで、
ゴで、栄光に
栄光に満ちたフ
ちたフランシスコ・ビ
ランシスコ・ビヤの影
ヤの影に潜む本当の
本当の姿は人殺しの
人殺しの山賊
しの山賊であり
山賊であり、
であり、彼を
動かしているのは反動
かしているのは反動主義
反動主義者
主義者フェリペ
ェリペ・アンヘ
・アンヘレスとホセ
レスとホセ・マリア・マイトレナであると
ホセ・マリア・マイトレナであると繰
・マリア・マイトレナであると繰
り返し宣伝した
宣伝した。
した。彼らはフ
らはフェリペ
ェリペ・アンヘ
・アンヘレスにも矛
レスにも矛先を向けた。
けた。アンヘ
アンヘレスは革命
レスは革命の
革命の前は
連邦軍の高官で、革命中そのように
革命中そのように振舞
そのように振舞って
振舞ってき
ってきたこと、
たこと、さらに革命
さらに革命を
革命を内部から
内部から潰
から潰すために
ウエルタが送
ウエルタが送り込んだ、
んだ、などと仄めかした。
めかした。
41
36.
Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P457
37. Ibid. P461
38. Ibid. P462
39. Ibid. P463
40. Ibid. P464
41. Ibid. P466