常勝将軍パンチョ・ビヤ 1913年9月26日、ドゥランゴとチワワの

96
常勝将軍パンチョ・
将軍パンチョ・ビ
パンチョ・ビヤ
1913年
1913年9月26日
26日、ドゥランゴとチワワの主
ドゥランゴとチワワの主だったリーダーがヒメネスの
だったリーダーがヒメネスの町
がヒメネスの町で会合
し、ビヤが全軍
ヤが全軍の
全軍の指揮を
指揮を取り、最も重要な
重要な都市トレオンを
都市トレオンを攻略
トレオンを攻略することで
攻略することで合意
することで合意した
合意した。
した。トレ
オンは鉄道
オンは鉄道のハブであり
鉄道のハブであり、
のハブであり、物資や
物資や資金調達
資金調達が
調達ができ、
でき、同時に
同時に点在する
点在する連邦軍
する連邦軍への
連邦軍への補給路
への補給路を
補給路を遮
断することが出来
することが出来た
出来た。七月、カランサが攻略
カランサが攻略に
攻略に失敗しているだけ
失敗しているだけに
しているだけに、成功すれば
成功すればビ
すればビヤの威
ヤの威
信は大いに高
いに高められることになる。
められることになる。しかし危険
しかし危険も
危険も大きかった。
きかった。ビヤは未
ヤは未だ六千から
六千から七千
から七千の
七千の
大軍を
大軍を指揮したことがなかった
指揮したことがなかった。
したことがなかった。ビヤは強力
ヤは強力な
強力な守備隊で
守備隊で固められた大都市
められた大都市を
大都市を攻略するため
攻略するため
に必要な
必要な装備を
装備を持たなかった。
たなかった。彼の軍はサン・
はサン・アンドレスで分捕
アンドレスで分捕った
分捕った二門
った二門の
二門の砲しかなく、
しかなく、
使いこなせる砲兵
いこなせる砲兵もいなかった
砲兵もいなかった。
もいなかった。しかもトレオンのあるラグーナ地区
しかもトレオンのあるラグーナ地区で
地区で集められた兵士
められた兵士は
兵士は
全く訓練されていなかった
訓練されていなかった。
されていなかった。
チワワ連邦軍
チワワ連邦軍の
連邦軍の指揮官サル
指揮官サルバ
サルバドール・メルカドはビ
ドール・メルカドはビヤの北部師団正規部隊
ヤの北部師団正規部隊を
北部師団正規部隊を殲滅するた
殲滅するた
めに挟撃作戦
めに挟撃作戦に
挟撃作戦に出て、ジェネラル・フランシスコ・
ジェネラル・フランシスコ・カ
フランシスコ・カストロが率
ストロが率いる一大
いる一大隊
一大隊をトレオンに
送った。
った。メルカドは七
メルカドは七月のときのように、
のときのように、敗れたビ
れたビヤ軍が逃れて北上
れて北上してくると
北上してくると考
してくると考えてい
た。トレオンの連邦軍指揮官
トレオンの連邦軍指揮官ジェネラル・エウティキオ・ムンギアは
連邦軍指揮官ジェネラル・エウティキオ・ムンギアは革命軍
ジェネラル・エウティキオ・ムンギアは革命軍の
革命軍の戦闘能力を
戦闘能力を
過小評価し
過小評価し、彼のジェネラルの一人
のジェネラルの一人、
一人、フェリペ・アルバ
フェリペ・アルバレスに五百
レスに五百の
五百の兵をつけて、
をつけて、はるか
に多勢の
多勢の革命軍分遣隊を
革命軍分遣隊を攻撃すべく
攻撃すべくトレオン
すべくトレオン郊外
トレオン郊外の
郊外の町に発進させた
発進させた。
させた。アルバ
アルバレス軍
レス軍は分断
され、
され、彼は部下の
部下の多くと共
くと共に戦死した
戦死した。
した。ムンギアはこの知
ムンギアはこの知らせを隠
らせを隠そうとしたが、
そうとしたが、ニュー
スはトレオンに達
スはトレオンに達し、連邦軍の
連邦軍の士気は
士気は消沈した
消沈した。
した。ムンギアは彼
ムンギアは彼の持つ火力に
火力に期待をかけ
期待をかけ、
をかけ、
トレオンに近
トレオンに近づく敵
づく敵に上から大砲
から大砲を
大砲を浴びせようと、
びせようと、トレオンを取
トレオンを取り巻く幾つかの丘
つかの丘の上に
砲を据えた。
えた。しかし、
しかし、野戦を
野戦を得意とする
得意とするビ
とするビヤは砲台
ヤは砲台を
砲台を丘から丘
から丘へ次々と襲撃し
襲撃し、連邦軍の
連邦軍の
大砲を
大砲を分捕った
分捕った。
った。この時点
この時点でムンギアはト
時点でムンギアはトレオン
でムンギアはトレオン防衛
レオン防衛を
防衛を諦め、退却をはじめた
退却をはじめた。
をはじめた。連邦軍は
連邦軍は
パニック状態
パニック状態になり
状態になり逃
になり逃げた。
げた。逃げながら、
げながら、ムンギアはジェネラル・ルイス・G
ムンギアはジェネラル・ルイス・G・アナヤに
丘を奪回するよう
奪回するよう命
するよう命じた。
じた。初めのうちアナヤの反
めのうちアナヤの反撃は効果をあら
効果をあらわ
をあらわした。
した。彼は状況をムン
ギアに報告
ギアに報告し
報告し、援軍を求めようとしてサン・カルロス・ホ
めようとしてサン・カルロス・ホテルに戻
テルに戻った。
った。しかしムンギア
は既に逃げていた
ていた。北から進軍
から進軍してきた
進軍してきた連邦軍
してきた連邦軍ジェネラル・カストロは
連邦軍ジェネラル・カストロは最初
ジェネラル・カストロは最初に
最初に放った大砲
った大砲
が味方の
味方の歩兵を直撃し、叛乱を
叛乱を起す寸前の
寸前の事態になった。
になった。そして、
そして、少数の
少数の革命軍で
革命軍で守られ
ているカマ
ているカマルゴを攻
ルゴを攻め落とせなかった。
とせなかった。
10月1日の夜、革命軍はト
革命軍はトレオンに
はトレオンに入
レオンに入った。
った。住民は
住民は盗みや掠奪を覚悟していた
覚悟していた。
していた。トレ
オン駐
オン駐在アメリカ領事
アメリカ領事、
領事、ジョージ・カロサーズ
ジョージ・カロサーズによると、
によると、一部の
一部の地区では
地区では多
では多くの店
くの店で掠奪が
行われ、完全に破壊された
破壊された。
された。しかしビ
しかしビヤの命
ヤの命令によって掠
によって掠奪は数時間で鎮圧され
鎮圧され、
され、夜十時
には完
には完全に秩序は
秩序は回復していた。
していた。ビヤは連邦軍
ヤは連邦軍の
連邦軍の将校を処刑し
処刑し、兵士は
兵士はビヤ軍に加わるこ
とで助
とで助命し、ある者
ある者は逃がした。
がした。ウエルタ
ウエルタの連邦軍は
連邦軍はマデロ
マデロ、ピノ・スワレス
ピノ・スワレス、
・スワレス、ゴンザ
ゴンザレ
スを処刑
スを処刑したように
処刑したように、
したように、捕虜は全て処刑した
処刑した。
した。
ビヤはトレオンでの勝
ヤはトレオンでの勝利で大量の武器を
武器を獲得し、強力な
強力な砲兵部隊を
砲兵部隊を持った。
った。十一の砲の
中にはビ
にはビヤ軍の主砲となるエル・ニーニョと
主砲となるエル・ニーニョと呼
となるエル・ニーニョと呼ぶ巨砲も含まれていた。
れていた。ビヤはトレオンの
31
32
33
97
資産家や
産家や銀行から
銀行から三
から三百万ペソの強制貸与を
制貸与を引き出した。
した。トレオンの勝
トレオンの勝利によりビ
によりビヤの国内
ヤの国内
外への威信
への威信は
威信は急上昇し、メキシコ革命
メキシコ革命の
革命の一大転機
一大転機になった
転機になった。
になった。ゲリラ戦
リラ戦から正規軍
から正規軍の
正規軍の戦闘へ
戦闘へ
と転換し
転換し、革命軍は
革命軍は広い地域にわたり大
たり大きな力
きな力を及ぼすようになった。
すようになった。
34
一方、カランサは
カランサは出
サは出身地コアウイラ州
コアウイラ州のコントロールをすっかり失
のコントロールをすっかり失い、後を託したジェ
ネラル・パブロ・ゴンザ
ネラル・パブロ・ゴンザレスの軍
レスの軍は沈黙していた。
していた。夏、革命軍最高司令
革命軍最高司令官
司令官に任命されたカラ
されたカラ
ンサも、
ンサも、マデロと
マデロと同
ロと同じように革命軍
じように革命軍を
革命軍を全て統一することは
することは無理だ
無理だろうと連邦軍側
連邦軍側は見てい
た。ましてや、
してや、盗賊上
盗賊上がりの無学
がりの無学で
無学で、政治的経験のない
政治的経験のないビ
のないビヤは、
ヤは、一度敗れると、
ると、軍を掌握
できず
できず、せいぜ
せいぜい地方ゲリラの大将
リラの大将になる
大将になるであ
になるであろ
であろうと予想していた
予想していた。
していた。次のビヤの軍
ヤの軍事行動
はウエルタ
はウエルタ政権の
政権の楽観論を
楽観論を裏づけることになった。
づけることになった。多くの観測
くの観測筋
観測筋もビヤの軍
ヤの軍事能力を
能力を疑問
視していた
していた。
いた。彼はチワワ市
はチワワ市を攻め、多くの将
くの将校が反対するのを
反対するのを退
するのを退け、トレオンでやったよ
うな正
うな正面攻撃を
攻撃を仕掛けた
仕掛けた。
けた。チワワ防衛軍
チワワ防衛軍指揮官
防衛軍指揮官メルカドは
指揮官メルカドは敵
メルカドは敵前逃亡をしたムンギアと違
をしたムンギアと違っ
ていたし、
ていたし、守備隊も
守備隊も連戦練磨
連戦練磨のオロスコ軍兵士
のオロスコ軍兵士が
軍兵士が主力で
主力で、南から連
から連れてきた徴
れてきた徴兵ではなか
った。連邦軍は
連邦軍は頑強な要塞を築き、重砲についても
重砲についても歴然
についても歴然とした
歴然とした差
とした差があり、
があり、ビヤよりは遥
ヤよりは遥か
に豊富な
豊富な弾薬を
弾薬を持っていた。
っていた。それでもビ
それでもビヤは三
ヤは三日間チワワ市
チワワ市へ攻撃を
攻撃を重ねたが、
たが、機関銃と
機関銃と
砲弾により終
により終に崩れて退却
れて退却した
退却した。
した。守備隊は
守備隊はビヤの腰
ヤの腰を砕いたことをはっきりと確認
いたことをはっきりと確認した
確認した。
した。
35
チワワ市
チワワ市での挫折
での挫折は
挫折はビヤと革命運動
革命運動に
運動に大きな打
きな打撃を与えた。
えた。ビヤの権
ヤの権威は傷つき、
つき、チワ
ワ、ラグーナ、
ラグーナ、ドゥランゴの革命
ドゥランゴの革命グルー
革命グループ
グループの結束は
結束は壊れる寸前
れる寸前であった
寸前であった。
であった。ビヤ軍はチワワ
を迂回して南
して南進することは出来
ることは出来ず
出来ず、北方のフアレス市
のフアレス市の攻撃には
攻撃には危険
には危険が
危険が伴った。
った。連邦軍指
連邦軍指
揮官や
揮官や観測筋は
観測筋は、ビヤは行
ヤは行き場を失ったと思
ったと思った。
った。国境の
国境の町を攻撃すると
攻撃すると、
すると、アメリカ側
アメリカ側で
犠牲者が
犠牲者が出る可能性が十分にあることは、
にあることは、マデロの
マデロの時
ロの時の経験で
経験で分かっていた。
かっていた。ビヤは今
ヤは今回
のエルパソ
のエルパソ攻撃は
攻撃は更に難しいことを知
しいことを知っていた。
っていた。前回はチワワ市
はチワワ市の守備隊のことは
守備隊のことは全
のことは全く気
にしなくて済
にしなくて済んだが、
だが、今度は
今度は強力な
強力な連邦軍が
連邦軍が北へ援軍を送り、挟撃されることは
挟撃されることは明
されることは明らかで
あった。
あった。それにも拘
それにも拘らず、ビヤは国境
ヤは国境の
国境の町を攻撃する
攻撃する以
する以外に道を開くことは出来
くことは出来ないと
出来ないと考
ないと考
えた。
えた。
幸運と
幸運と天才的な
天才的なひらめきがビ
らめきがビヤに勝
ヤに勝利と世界的な
世界的な名声を
名声をもたらした。
もたらした。彼はフアレスとチ
ワワの間
ワワの間を運行している
運行している石炭
している石炭や
石炭や資材を輸送する列車
する列車を
列車をハイジャ
ハイジャックし、
ックし、車掌に
車掌に、ビヤ軍が
前方に
前方に居るのでど
るのでどうしようか、
うしようか、とフアレスにある司令室
とフアレスにある司令室へ
司令室へ電報を
電報を打たせた。
たせた。司令室は
司令室は予想
通り列車に
列車に引き返すことを命
すことを命じ、所在地と
在地と列車の
列車の安否を
安否を各駅から
各駅から具
から具に報告するよう
報告するよう命
するよう命じた。
じた。
ビヤは二
ヤは二千の兵を列車に
列車に乗せ、各駅の
各駅の電信技士はビヤ兵から頭
から頭に銃を突きつけられ、
きつけられ、ビヤ
の通信士が
信士が電文をチェックし
電文をチェックし、
をチェックし、フアレスの司
フアレスの司令室へ
令室へ、そちらへ向
そちらへ向かっている、
かっている、と発信させ
発信させ
た。こうしてビ
こうしてビヤと二千の兵は易々とフアレス市
フアレス市の中へ入った。
った。列車は
列車は午前二時
午前二時、
二時、駅に滑
り込み、兵士がドット
兵士がドット飛
がドット飛び出した。
した。革命軍兵士
革命軍兵士が
兵士が市の中心部
中心部で配置に
配置に付くまで、一発の
一発の弾
も発射されなかった。
されなかった。守備隊の
守備隊の将校や兵士は
兵士は既に眠っていた。
っていた。しかも多
しかも多くの者
くの者は無数にあ
無数にあ
るバー、
るバー、売春宿、
売春宿、博打場にいて
博打場にいて、
にいて、抵抗する
抵抗する術
する術もなかった。
もなかった。朝四時
朝四時、戦闘は
戦闘は終わった。
った。競馬
36
98
場近くの家
くの家に立て篭もって最
もって最後まで戦った志願
った志願兵
志願兵も五時には弾
には弾が切れ、抵抗は
抵抗は終わった。
った。
アメリカの新聞
アメリカの新聞は
新聞はビヤを偉
ヤを偉大なジェネラル、
なジェネラル、メキシコの偉
メキシコの偉大な革命家
革命家と書きたてた。
きたてた。彼等
は規律正しいビ
しいビヤ軍を絶賛したが
絶賛したが、
したが、ビヤが公
ヤが公然と行った捕
った捕虜の処刑には
処刑には嫌悪
には嫌悪と
嫌悪と憤りを表
りを表明
した。
した。1912年
1912年、ウエルタ
ウエルタに介入してビ
してビヤの命
ヤの命を救ったジェネラル・フランシスコ・カ
ストロは処刑
ストロは処刑を
処刑を免れ、ビヤの厳
ヤの厳命を受けた部下
けた部下が
部下が彼を無傷でアメリカ
無傷でアメリカへ
でアメリカへ逃した。
した。
37
数週間以内にトレオンを
間以内にトレオンを奪回
にトレオンを奪回しようと
奪回しようと、
しようと、ジェネラル・レフヒオ・ベ
ジェネラル・レフヒオ・ベラスコの強力
ラスコの強力な
強力な連邦
軍が向かっていた。
かっていた。チワワ市
チワワ市駐屯部隊は
部隊は先の勝利で意気高揚
意気高揚し、今度は
今度は攻撃に
攻撃に転じてフア
レスを取
レスを取り返すべく大軍
すべく大軍を
大軍を仕立てて
仕立てて北
てて北へ向けて出発
けて出発した
出発した。
した。フアレスで迎
フアレスで迎え撃つか、
つか、あるい
は別の場所で
場所で戦うべきか、
うべきか、ビヤは迷
ヤは迷った。
った。フアレスの堅
フアレスの堅固な連邦軍の
連邦軍の要塞はビヤの手
ヤの手に入
り、恰好な
恰好な防衛体
防衛体制を整えることが出来
えることが出来た
出来た。しかし、
しかし、対岸のエルパソ
のエルパソで被害者
被害者が出るとア
メリカ軍
メリカ軍の介入を受ける危
ける危険性は十分にあった。
にあった。連邦軍が
連邦軍が故意に、米軍を挑発するために
川向うを狙
うを狙って撃
って撃つことも考
つことも考えられた。
えられた。決定的
決定的な要因となったのは、
となったのは、ビヤ軍は長期にわた
る包囲攻撃
包囲攻撃に
攻撃に耐えるだけの弾薬
えるだけの弾薬を
弾薬を持っていなかったことであった。
っていなかったことであった。米国介入を回避し、即
座に勝利を収めるために、
めるために、三十マ
三十マイル程離
イル程離れた
程離れた小
れた小さな鉄道
さな鉄道の
鉄道の駅があるティエラ・ブランカを
決戦場に定めた。
めた。
11月
11月23日
23日、半分以上も空になった弾
になった弾帯を肩にかけた五
かけた五千五百の反乱軍
反乱軍は夜明け
夜明け前フ
アレスを出発
アレスを出発した
出発した。
した。農民やインデ
やインディアンの一部
ィアンの一部は
一部は銃を持たなかったが、
たなかったが、マチェッテや狩猟
チェッテや狩猟
ナイフを誇
ナイフを誇らしげに持
らしげに持っていた。
っていた。後尾に女たち、
たち、ソルダデ
ルダデーラが
ーラが従っていた。
っていた。ある女
ある女は弾
帯をかけ、
をかけ、カービン銃
カービン銃を持って男
って男たちに混
たちに混じっていた。
じっていた。彼等は皆連邦軍の
連邦軍の優れた重砲
れた重砲の
重砲の威
力と、恐ろしいインパクトを
しいインパクトを知っていた。
ていた。今回は双方数の
方数の上では同
では同等であったし、
であったし、連邦軍
はオロスコ配
はオロスコ配下の、同じチワワ、
じチワワ、ドゥランゴ、
ドゥランゴ、コアウイラの出
コアウイラの出身者であった
身者であった。
であった。何が彼らを
ウエルタ
ウエルタ側に追いやったのか。
いやったのか。彼等は何を得ようとしたのか。
ようとしたのか。しかし今
しかし今となっては、
となっては、負け
て失うものの方
うものの方が大きかった。
きかった。彼等の戦闘意慾
戦闘意慾は、革命軍と
革命軍と同じであった。
じであった。ビヤにとって
難儀であったのは、
であったのは、革命軍は
革命軍は未だ完全に一体化していな
体化していなく
していなく、行軍はまるでジ
るでジプシーの集団
シーの集団
のようであった。
のようであった。少なくとも
なくとも軍隊
とも軍隊のように
軍隊のように見
のように見えたのはビ
えたのはビヤ直属の精鋭の
精鋭のみであった。
であった。ビヤ
軍には多
には多くの少
くの少年がいた。
がいた。中には十
には十から十
から十一歳ぐらいのものもいた。
らいのものもいた。
38
39
ティエラ・ブランカでは通
ティエラ・ブランカでは通常の戦闘では
戦闘では考
では考えられない総
えられない総指揮官や
指揮官や兵士が
兵士が連邦軍を
連邦軍を待ち受
けていた。
けていた。革命軍は
革命軍は砂丘を見下ろす小高い
小高い丘の上に陣取っていた。
っていた。連邦軍が
連邦軍が攻撃を
攻撃を加える
ためには、
ためには、大砲が
大砲が動けなくなる可
けなくなる可能性のある、
のある、この砂
この砂丘を超えなくてはならなかった。
なくてはならなかった。戦
闘は23日
23日の夜、連邦軍が
連邦軍が列車で
列車で兵を送り込み、革命軍の
革命軍の前線を攻撃して
攻撃して始
して始まった。
った。双方
が突撃を繰り返し、相手を
相手を出し抜こうとして二日
こうとして二日が
二日が過ぎた。大砲による
大砲による火
による火力、機関銃の
機関銃の数、
弾薬の
弾薬の量で優る連邦軍は
連邦軍は、絶え間なく革命軍
なく革命軍の
革命軍の前線を叩き、次第に死傷者を
傷者を増やしながら
もビヤ軍は踏みとどまった
どまった。
った。しかし三
しかし三日目になるとビ
になるとビヤ軍の戦況は絶望的
絶望的になった。
になった。弾薬
が底を付き始め、連邦軍の
連邦軍の砲撃は
砲撃は一向に止む気配はなかった。
はなかった。このとき、
このとき、ビヤは大
ヤは大胆で死
99
に物狂いの行動
いの行動に
行動に出た。敵の射撃が弱まったとみ
ったとみるや、
るや、ビヤは総
ヤは総攻撃を
攻撃を命じた。
じた。そして、
そして、
決定的
決定的な瞬間を逃さず騎兵が側面攻撃
側面攻撃を
攻撃を掛けた。
けた。ビヤが機関車
ヤが機関車にダイナ
機関車にダイナマ
にダイナマイトを積
イトを積んで連
邦軍の
邦軍の列車に
列車に突入させると
突入させると、
させると、大音響に
音響に敵の兵士はパニック
兵士はパニック状態
はパニック状態に
状態に陥った。
った。政府軍の敗走が
始まった。
った。ビヤの腹
ヤの腹心で、殺し屋と呼ばれたロドルフォ
ばれたロドルフォ・フィエロは、
・フィエロは、連邦軍を
連邦軍を乗せた列
せた列
車が徐々にスピ
にスピード上
ード上げるのを
げるのを馬で追いかけ、
いかけ、機関車に
機関車に飛び乗ると機関
ると機関士
機関士を撃ち殺し、列
車を急停車させた。
させた。停止した
停止した列車
した列車に
列車にビヤ軍が襲い掛かった。
かった。彼らはチワワに向
らはチワワに向かって逃
かって逃げ、
大砲は
大砲は全てビヤの手
ヤの手に落ちた。
ちた。
ビヤは良
ヤは良く考え抜いて戦
いて戦場を選び、陣を敷いた。
いた。敵の激しい砲火
しい砲火を
砲火を前に、よく兵士
よく兵士の
兵士の士
気を保った。
った。彼の騎兵攻撃は
兵攻撃は緻密に
緻密に計算され
計算され、
され、敵を撹乱した。
した。しかし多
しかし多くの欠
くの欠点があった。
があった。
彼は予備軍の
備軍の概念がなく
概念がなく、
がなく、全部隊を
全部隊を戦闘に
戦闘に投入し、援軍が必要なときには
必要なときには戦闘
なときには戦闘中
戦闘中の部隊を
部隊を
引き抜いてそれにあてた
いてそれにあてた。
それにあてた。そのため味方
そのため味方に
味方に弱い部分が
部分が出来、
出来、敵に強い部分が
部分が出来た
出来た。ビヤ
は未だ効果的な
効果的な砲の使い方を知らなかった。
らなかった。ビヤは戦闘
ヤは戦闘を
戦闘を総括的
総括的にコントロールせず
にコントロールせずに、
ゲリラ戦
リラ戦のように各
のように各隊長の判断に委ねていた。
ていた。これ等
これ等の欠点は後の戦闘では
戦闘では改善
では改善されたが
改善されたが、
されたが、
予備軍についてはその
備軍についてはそのまま
についてはそのまま続
まま続けられ、
けられ、1915
1915年、壊滅的敗北を
敗北を喫する原因
する原因と
原因となった。
なった。
チワワ市
チワワ市駐屯軍司令長
司令長官メルカドは、
メルカドは、意気消沈した
意気消沈した部下
した部下と
部下と、多くの砲
くの砲を失って、
って、チワワに
残るか、
るか、アメリカに向
アメリカに向かって逃
かって逃れるかの選択
れるかの選択を
選択を迫られた。
られた。チワワの上
チワワの上流社会
流社会は連邦軍の
連邦軍の支
援に最大限
最大限の努力をし、
をし、チワワに入
チワワに入って何
って何をするか
をするかわ
るかわからないビ
からないビヤを恐
ヤを恐れ、兵士に
兵士に支払う
支払う
金をメルカドに与
をメルカドに与え、止まるよう懇
るよう懇願した。
した。
強力な
強力な連邦軍がトレオンに
連邦軍がトレオンに向
がトレオンに向かっていた。
かっていた。トレオンを奪回
トレオンを奪回したら
奪回したら、
したら、メルカドは再
メルカドは再びメキ
シコ市
シコ市との補給路
との補給路を
補給路を回復する見込
する見込み
見込みはあった。
はあった。それにも拘
それにも拘らず、メルカドは撤
メルカドは撤退を決意し
た。オロスコ配
オロスコ配下の兵士はティエラ・ブランカの
兵士はティエラ・ブランカの敗北
はティエラ・ブランカの敗北で
敗北で混乱し、盗賊となり
盗賊となり、
となり、チワワの支
チワワの支
配層や上流階級を
流階級を襲い始めたため、
めたため、軍の掌握が
掌握が出来なくなったのが
出来なくなったのが、
なくなったのが、メルカドが撤
メルカドが撤退を決
意した主
した主な理由であった。
であった。ビヤの到着
ヤの到着ま
到着までの治安
での治安維
治安維持に二百の
二百の部隊を
部隊を残し、ルイス・テラ
サスやエンリケ
サスやエンリケ・クレエルなど
・クレエルなど、チワワを
チワワを支配してきた者
してきた者たちを伴
たちを伴ったメルカドの
ったメルカドの部隊
メルカドの部隊は
部隊は、
年の末チワワを捨
チワワを捨て、まだ連邦軍が
連邦軍が守っている国境
っている国境の
国境の町オヒナガ
オヒナガへ向かった。
かった。
40
41
31. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P215
32. Ibid. P216
33. Ibid. P217
34. Ibid. P222
35. Ibid. P223
36. Ibid. P224
37. Ibid. P224
38. Ibid. P225
39. Ibid. P226
40. Ibid. P227
100
41. Ibid. P228