にい がた 発 越後と関東の室町・戦国 武者たちの狂宴 作家 プロフィール たん せん 段銭という臨時に課せられる税金がある。即位 や譲位、将軍宣下などの費用を各国の公田の面積 に応じて課した税金で、幕府は守護を通じて公田 の面積を調査し、この税をかけていた。 本名:渡邊 豊 昭和36年 新潟市生まれ 新潟南高校・京都花園大学文学部史学科卒 平成18年 小説「峠」で新潟日報文学賞受賞 主な著書『武者たちの黄昏』 『最後の決断 戊辰戦争-越後四藩の苦悩』 (共に新潟日報事業社) 現在 北越銀行勤務 ところが15世紀の中頃、幕府はこの段銭の徴収 方法を、一国単位で百貫を賦課するという方式に は百貫文の段銭が届けばそれでいいという考え方 変更した。一国の公田の管理を守護に任せ、幕府 である。これは、地方の支配権を百貫文と引き換 文正度大嘗会の守護出銭 守護名 面付額 守 護 職 国 畠山政長 1国100貫 紀伊・河内・越中 細川勝元 1国100貫 摂津・丹波・讃岐・土佐 斯波義廉 1国100貫 尾張・遠江・越前 山名宗全 1国100貫 但馬・播磨・伊賀・備後 細川成之 1国100貫 三河・阿波 一色義直 1国100貫 伊勢・丹後 畠山義統 1国100貫 能登 京極持清 1国100貫 飛彈・出雲・隠岐・近江(?) 山名教之 1国100貫 伯耆・備前 えに譲り渡したようなもので、守護は一国を一元 支配できる機会を得たようなものだった。 ふさ さだ 越後では文安8(1449)年、上杉房定が守護に 就いた。房定は就任から17年後の文正元年「大嘗 会要脚」として段銭百貫文を幕府に納めている。 越後の支配が幕府から守護に移った象徴的な出来 事で「越後の戦国時代は上杉房定から始まった」 と言われる所以である。 山名政清 1国100貫 石見・美作 初代の鎌倉公方、足利基氏は鎌倉府を京の幕府 山名七郎 1国100貫 因幡 細川常泰 1国50貫 和泉半国 とは一線を画したものにしようと考えていた。こ 細川常有 1国50貫 和泉半国 細川勝久 1国100貫 備中 細川成春 1国50貫 淡路 土岐成頼 1国100貫 美濃 武田信賢 1国100貫 安芸・若狭 赤松政則 1国50貫 加賀半国 富樫鶴童 1国50貫 加賀半国 上杉房定 1国100貫 越後 「上越市史 通史編2 中世」より作成 ここに100貫を納めているのは三管領・四職といわれた名族ばかりと 分かる。越後は堂々たる一等国だったのだろう。 ホクギンMonthly 2015.3 うじ みつ みつ かね もち うじ しげ うじ の思想は氏満、満兼、持氏、成氏と世代を経るご とに先鋭化し、各所で戦の種を撒き散らし、関東 では争乱が続くことになる。 この鎌倉公方の動きを、京の幕府の側に立って 冷ややかに眺めていた一族こそ上杉氏だった。 越後守護の上杉氏は関東管領の一族である。関 東で動乱が起こるたびに越後の軍勢は峠を越え関 東に侵入した。この時代、関東へ抜ける軍道は恐 らく何本もあったに違いない。 にい がた 発 越後と関東の室町・戦国 武者たちの狂宴 美などが加わる。揚北の諸家も家臣団の一角を占 めるようになった。応仁の乱で西国が混乱を極め 越後守護が越後に在国したのは房定からであ ている頃、越後は上杉房定という強力なリーダー る。それまで守護は京にいた。不在の守護に代 の下、一国としてまとまろうとしていたのであ わって国を治めていたのが守護代の長尾氏だっ る。 た。長尾氏は一時、守護上杉氏に反した。房定は 守護職を継ぐとすぐに京から越後に入り、守護代 くに かげ 長尾邦景を攻めて自刃に追い込んだ。房定はその 後も京には戻らず、越後府中で国政にあたった。 南北時代、上杉憲顕は父から越後の国衙領を相 守護による直接統治の始まりである。 続する際、どういうわけか弟憲藤と半分に分けて のり ふじ 相続した。憲顕は関東管領も兼ねていたので越後 領の半分は関東管領家に引き継がれた。従って越 後守護の領地は弟が相続した残り半分ということ ひとつの争乱が収まると、そこから新しい争乱 になる(第2回参照)。越後守護が国衙領の半分 の種が生まれ、やがて大きくなり、大乱になる。 しか支配権を持たないというこの特殊な領有形態 応仁の乱はその当然の帰結点だったのかもしれな が、後に様々な諍いの種を生むことになる。 い。関東ではわずか40年ほどの間に上杉禅秀の 関東のゴッドファーザー上杉房定が亡くなる 乱、永享の乱、結城合戦、享徳の乱と大きな戦が と、関東、越後は新たな時代に入る。謙信の父長 相次いだ。関東は乱のたびに大きく揺れ、各所で 尾為景はこのような騒然とした時代を背景に歴史 戦が多発し、それはほとんど絶えることがなかっ の表舞台へと登場してくるのである。 た。そして応仁元(1467) 年、京の将軍足利義政の跡目 守 護 上杉氏 1410 1420 1430 1440 1450 1460 1470 1480 1490 1500 1510 房 方 守護代 長尾氏 越後に在国する越後守護で 軍勢を送り、自らも度々出陣 した。応仁の乱の1年前には 房 定 頼 景 道意 道存 応永33 文安1 千坂氏 斎藤氏 正長1 るようになる。 家臣団は長尾・石川・斉 ち さか 享徳1 臣」で、そこへ飯沼・毛利 きた じょう かな まり (北条・安田)・神余・宇佐 実 高 文明10 文明12 朝信 能高 明応5 明応7 頼 信 応永22 文明10 明応9 昌信 文亀3 輔 景 文明9 文亀3 顕景 文明15 石川氏 平子氏 遠江守 駿河守 寛正2 永正1 政重 宝徳3 享徳3 朝 政 文明4 永正4 重広 毛利(安田)氏 たいら こ 藤・千坂・平子の五家が「古 文明12 定 高 長尾氏 せ、翌(応仁元)年9月に扇 囲からは上杉宗家と認識され 文明12 文明5 信高 二男顕定に関東管領家を継が 谷上杉持朝が亡くなると、周 能 景 定泰 応仁2 文明4 あき さだ もち とも 重景 頼 泰 宝徳3 房能 輔泰 ありながら、房定は上杉諸家 乱をかわきりに何度も関東へ 房 朝 邦 景 飯沼氏 の長老になってゆく。享徳の 頼方 始まる。 西 暦 朝方 争いに端を発した応仁の乱が その他 延徳2 雲照寺妙瑚 文明4 文明12 上杉家重臣の変遷 「上越市史 通史編2 中世」より ホクギンMonthly 2015.3
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