明和5年9月28日の勝念寺会議から同11月22日の涌井逮捕

越後の事件簿
【第6回】
明和7
(1770)年8月25日の
涌井処刑まで
明和湊騒動 新潟湊⑵
明和5年9月28日の勝念寺会議から
同11月22日の涌井逮捕、そして処刑まで
打ち壊し
プロフィール
洲崎の寺、本明寺の早鐘を合図に総勢600人ほ
どが町なかに向けて動き出した。集まった群衆
の頭上には松明の火とともに、振り上げられた
とび くち
江戸時代編―
―
まさかり
鳶 口 、斧、鉞 などが揺れている。群集は数人の
ご さい ぼり
黒装束や覆面の者たちに指揮され古町御 采 堀 ま
でやって来ると200人ずつ一陣、二陣、三陣と陣
立てし直して、丑の刻(午前2時)には御采堀
から本町通りに入った。
本名:渡邊 豊
昭和36年 新潟市生まれ
新潟南高校・京都花園大学文学部史学科卒
平成18年 小説「峠」で新潟日報文学賞受賞
主な著書『武者たちの黄昏』
『最後の決断 戊辰戦争-越後四藩の苦悩』
(共に新潟日報事業社)
現在 北越銀行勤務
かみ
上 町からも集団が現れ、双方が挟み撃ちをする
まさ や
ように奉行所へ押し寄せた。二つの集団が柾 谷
この殺気だった集団と対峙したのは奉行所と
ひろ こう じ
町会所の役人だった。しばらくは広 小 路 橋を挟
こう じ
小 路 に達した時、釈放された涌井藤四郎が双方
の間に入り騒動を止めるよう説得したという。
んで小競り合いが続いたが、もともと及び腰の
涌井は9月28日、寺町堀(西堀)勝念寺に各
役人たちはじりじりと後退し、群集は勢いを得
町内の代表を集めて会議を開いた。涌井はこの
て一気に坂 内 小 路 まで押し寄せた。ここで陣を
場で、これからの町政は町全体で行うことを提
構えていたのは町奉行とその配下だった。彼ら
案し、奉行所からの出頭命令などは皆で揃って
は最後の手段として鉄砲を撃ちかけた。さすが
出頭し「すべて涌井に聞いてほしい」と述べる
の騒動側も一時崩れかけたが、黒装束の指揮の
ことなどを申し合わせた。涌井はこの会議で町
下、間もなく態勢を立て直した。この夜最後に
政における最終責任者を意味する「一統頭取」
壊走させられたのは町奉行の方だった。入牢中
という立場を引き受けた。涌井が「義人」と呼
の涌井は釈放され、西祐寺会議で処分を受けて
ばれる由縁である。
ばん ない こう じ
いた者たちもみな赦免になった。奉行所による
懐柔策の始まりだった。
勝念寺会議
町の政策と長岡藩の対応
9月下旬から涌井は窮民救済策として米の安
売りを始めた。仕組みは、町が米問屋から米を
騒動は次の日の夜も続いた。前日と同じく洲
買いあげ、それを町民に安価で提供するという
崎から攻める集団と、加えてこの日は一之町、
ものだった。他にも壊れた町の修復や治安の維
ホクギンMonthly 2016.6
越後の事件簿 ―江戸時代編―
持など、9月から11月にかけて涌井による自治
町政が続いた。江戸時代においてこの手の自治
など許されるはずもないが、長岡藩は初め懐柔
策をとり、あからさまな弾圧を避けた。10月下
旬には米1,000俵を町に支給している。藩の態度
が掌を返したように弾圧に動くのは11月21日の
ことである。この日、新潟奉行所には太田門左
衛門という奉行が赴任した。
騒動の終焉
二つの謎
この事件には謎が二つある、と思っている。
ひとつは打ち壊しの際、陣立てやら戦術やらを
指揮した黒装束の存在である。実は、奉行所が
最初に鉄砲を撃ちかけたとき弾は込められてい
なかった。鉄砲の音に驚いた民衆は一時壊走し
かけたが、これを空砲と見破って陣を立て直し
たのが黒装束たちだった。彼らはいったい何者
だったのだろうか。
もうひとつの謎は、このとき奉行所はまるで
太田は就任の翌日から行動を起こす。打ち壊
戦意を失ったように壊走し翌日から門を閉ざし
し当時の町奉行、検断、町役人そして涌井にも
てしまった。その後2ヵ月にわたり涌井ら町側
長岡への出頭命令を出した。12月に入ると岩船
に懐柔策をとり続けることになる。12月以降の
屋佐次兵衛など騒動側20名以上を検挙し、その
苛烈な弾圧を思えば違和感を覚える。
家族にも組預けなどの拘禁処分を下した。こう
藩は黒装束を幕府隠密と疑ったのではない
して指導者のほとんどを逮捕拘禁したうえでそ
か。そこでいったん手を緩め、その間に幕府の
れまでの自治政策をすべて否定し、翌年9月に
意向を探ったのではないか。幕府側に咎めだて
は改めて御用金750両の支払いを命じた。
する意志がないことを確かめたうえで弾圧に転
判決は騒動からおよそ2年後の明和7年8月
じたのではないか。
20日に出され、涌井と岩船屋が打首獄門となっ
私は、黒装束は隠密だった可能性が高いと
た。二人は23日に新潟に移送され、25日に市中
思っている。だがその意図がどこにあったのか
引廻しのうえ鍛 冶 小 路 牢屋敷で打首となり、そ
は未だ闇の中だ。
か
じ こう じ
の後浜往来の獄門場(さんごん刑場跡―学校町
裏の事情はどうあれ、新潟湊が涌井藤四郎と
題目寺)に晒された。涌井は享年50、岩船屋は
いう指導者のもと、奉行所や会所を押さえて町
70と伝えられる。
民自治を行ったことは事実である。このことは、
江戸幕府という制度の変化を極端に嫌う体制に
あって、まったく稀有な出来事だったと思う。
▲浜往来獄門場跡
現在、題目寺という日蓮宗の寺が建っている。
▲題目寺の門前から境内を見る。
因みに道を一本隔てた左隣は県立新潟中央高校。
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