八条上杉氏の陰謀 越後動乱の気配

にい
がた
発
越後と関東の室町・戦国
武者たちの狂宴
作家
プロフィール
私は禅宗の大学で学んだので、中世の禅僧の記
録に触れる機会は多かった。
室町時代、禅宗官寺を管理する五山の最高責任
しょう こ く
じ
ろく おん いん しゅ
者は相 国 寺 鹿 苑 院 主 が勤めた。それを補佐する
本名:渡邊 豊
昭和36年 新潟市生まれ
新潟南高校・京都花園大学文学部史学科卒
平成18年 小説「峠」で新潟日報文学賞受賞
主な著書『武者たちの黄昏』
『最後の決断 戊辰戦争-越後四藩の苦悩』
(共に新潟日報事業社)
現在 北越銀行勤務
役で、禅宗寺院の人事の調整などを行っていた
い ん りょう し き
のが蔭 涼 職 である。足利将軍家は定期的に鹿苑
長享2(1488)年11月19日、集九は「尾張守」
院で法会を行っていたので、蔭涼職は将軍に直接
という人物に書状を書いている。尾張守とは八
意見具申する機会もあり、またそういう立場にも
はち
じょう う え す ぎ し げ さ だ
条 上杉成定のことをいう。
あった。やがて蔭涼職には禅林の公私に渡る情報
八条上杉氏は、元は京を拠点とした上杉氏だっ
が多く集まるようになった。代々の蔭涼職が書い
た。集九と尾張守はこの越後の地で、京の話に花
た執務記録が「蔭 涼 軒 日 録 」である。現存して
を咲かせたのかもしれない。
いるのは二人のもので、そのうち亀泉 集 証
この後、集九は黒部から飛騨に抜けて美濃へ戻
(1424~93年)が書いた日記は、応仁の乱前後の
る。時の陰涼職と関わりを持ち、太田道灌に招か
京の世相が禅僧の目を通して描かれている点で興
れるほどの知識人が一時越後に留まったことを思
い ん りょう け ん に ち ろ く
き
せ ん しゅう しょう
味深い。その亀泉集証とも深く関わりのある人物
ば ん り しゅう く
朝方
房朝
顕定 ←山内上杉
房定
定方(定昌)
房定期の上杉氏略系図
「上越市史 通史編2 中世」より作成
越後守護
頼方
山浦上杉
ホクギンMonthly 2015.4
房能
む じんぞう
受けた。後に集九が書いた詩文集「梅花無尽蔵」
の中に、この頃の越後が記されている。
憲実 ←山内上杉
ばい か
定顕
道灌が亡くなると越後に入って上杉房定の庇護を
清方
うけた。やがて太田道灌に招かれて江戸へ行き、
上条上杉
れ、その後美濃へ移り、還俗して妻帯し二子をも
房定
された僧だったが、戦で寺が消失すると近江に逃
重方
いう中のひとりだった。元は相国寺で将来を期待
定実
には、京から逃れる者も多く現れた。集九もそう
定明
なった。戦で寺が焼け居場所を失った僧たちの中
房実
応仁の乱以降、京は治安の良い場所ではなく
六郎
七郎
に、万里 集 九という僧がいた。
にい
がた
発
越後と関東の室町・戦国 武者たちの狂宴
うと、この頃の越後府中は他国に比べて
治安がよく文化も栄えていて、文化人に
とって羽根を休められる場所だったのか
もしれない。
八条上杉氏は京の八条にあって京の政
界と密接に繋がっていた。その主な領地
は白河荘(阿賀野市)・鵜川荘(柏崎
市)・高波保(長岡市)といった越後国
内が多かった。応仁の乱以降、領地から
の年貢米や情報が届き難い状況になった
のだろう、15世紀後半には、拠点を京か
ら越後へ移したと考えられる。八条成定
は越後国内で「八条殿」と尊称を付けて
呼ばれ、恐らくは守護上杉家と守護代長
尾家の間に存在していたと思われる。
関東のゴッドファーザー房定の三男が
うえすぎふさよし
越後守護上杉房能である。父は関東府に
睨みをきかせた実力者。兄は関東管領。
超が付くほどの実力者一家に生まれ、エ
リートとして育った。父 房定の死に伴
い明応3(1494)年、20歳前後で越後守
護職に就いた。時代は実力がモノをいう
越後国内の荘園・公領分布図
原図・「新潟県史 通史編2中世」
戦国の世である。一刻も早く越後を掌中
に収めなければならない。そういう思いが強かっ
受け、越後の兵を率いて越中に出陣した。しかし
たであろうことは容易に想像できる。そんな若者
能景は栴檀野という湿地で戦死してしまう。能景
の焦りを実現させる力を提供し得た存在が八条成
の子 為景は、その後まるで復讐でもするかのよう
定だったのだろう。
に守護房能を討ち、八条成定を追い込んでゆく。
せんだん の
あるいは、八条成定と上杉房能が八条家のコネク
ションを通じて畠山尚順と通じ、何につけ目の上
え っ ちゅう
はたけ や ま ひ さ の ぶ
の瘤だった守護代長尾能景を謀殺したのではない
隣国越 中 国の守護 畠 山 尚 順 は、越後守護とは
か、と疑いたくなる話である。
対照的に、自らは京にあって在国せず、3人の守
長尾能景の死後、越後は権力の掌握を急ぐ守護
護代を適度に対立させながら領国を経営してい
勢力と長尾為景を中心とする在地の勢力とが対立
た。その越中に加賀の一向一揆が押し寄せた。日
する構図が生まれる。越後の下克上の始まりとい
頃まとまりを欠く越中はたちまち危機に陥る。こ
われる永正4年の政変は、こういう状況の中で始
の時、越後の守護代長尾能景は守護房能から命を
まったのである。
よしかげ
ホクギンMonthly 2015.4