【第10回】長尾景虎の登場 天文の抗争

【第10回】長尾景虎の登場 天文の抗争
消える為景と定憲
プロフィール
三分一原の戦いが終わってふた月後の天文5
はる かげ
(1536)年8月、為景は嫡男晴 景 に家督を譲っ
た。上条定憲の更なる攻勢が目に見えていたのだ
ろう。このまま事態が進めば越後も関東と同じく
本名:渡邊 豊
昭和36年 新潟市生まれ
新潟南高校・京都花園大学文学部史学科卒
平成18年 小説「峠」で新潟日報文学賞受賞
主な著書『武者たちの黄昏』
『最後の決断 戊辰戦争-越後四藩の苦悩』
(共に新潟日報事業社)
現在 北越銀行勤務
果てしない抗争のスパイラルに陥ってしまう。そ
の事を懸念した者たちがいて為景に進言したのか
もしれない。為景もまた、自分ではもはや事が収
拾できないことを知っていたのだと思う。
きょう ろく
てん ぶん
では、享 禄 ・天 文 の乱は上条定憲の勝利に終
わったのかといえばそうでもない。為景の隠棲を
機に、定憲の記録もまた見えなくなるからであ
る。思うに定憲は、隠棲した為景の息の根を止め
ようとしたのではないだろうか。為景は親の仇で
ある。心情的には理解できるが、それでは越後は
また混乱に陥ってしまう。上条家が定憲の後、継
嗣なく断絶したところをみると、定憲は急死した
のではないかと思われる。
家督を継いだ晴景は上杉定実の養子になってい
たこともあり、上条定憲にも受け入れられる人事
だったと思う。晴景は幽閉されていた定実を守護
職に復帰させ、自らは守護代に退いた。父の立場
とは一線を隔したのだ。
定実に実子はなく、為景の時代から、然るべき
養子を定めようとする動きがあった。その候補に
たねむね
なっていたのが米沢の伊達稙宗の次男時宗丸(後
の実元)だった。
能景 為景 晴景
婚姻
養子
筆者推定
はいくつか理由がある。ひとつは(以下 系図参
照)、上条家出身の定実には姉と妹がいて、その
どちらかが、あの実力者房定の養女として伊達尚
宗に嫁いだ。二人の間にできた子が稙宗で、時宗
丸は定実の甥の子にあたる。因みに、稙宗の嫡男
長尾
景虎
(謙信)
蘆名盛高女
伊
達 持宗 成宗 尚宗
晴宗
稙宗
時宗丸
(実元)
女
房方 朝方 房朝 房定 顕定
(関東管領へ)
中条藤資女
(?)
憲栄
房能 定実
上条
清方 房定 女
房実 定実
定憲
女
常 越後 上 杉 (
泰 ) 養子の候補がなぜ伊達家の次男なのかについて
上杉氏・長尾氏・伊達氏略系図 「上越市史 通史編2中世」より
ホクギンMonthly 2015.11
伊達家と越後上杉家
晴宗の子が輝宗、輝宗の子が独眼竜政宗である。
ふたつめに、この養子縁組を積極的に推し進め
なかじょうふじすけ
た人物がいる。揚北衆のひとり中条藤資である。
時宗丸の母は中条藤資の娘だった。自分の孫が越
後守護に就けば外戚として権力を得る。それは即
ち揚北衆の覇権も握れるということで、この養子
縁組は藤資にとって魅力的だったろう。
実の跡目に就けるという案である。晴景はもとも
伊達家の異変
と病弱で、父為景の事跡を継ぐなど思いもよらぬ
中条氏の突出を他の揚北衆が歓迎するはずはな
く、本庄、鮎川、色部らはこぞってこの養子縁組
に反対した。伊達稙宗は、かつての上杉房定に影
響を受けたのか、婚姻や養子縁組を積極的に推進
ことだった。それゆえ大人しく守護代に退いたの
だが、自分の意思とは関係なく再び守護職をめぐ
る争いに巻き込まれる。こうして揚北衆―上田長
尾のラインが生まれた。
がっ しょう れん こう
して勢力を拡大しようとする合従連衡を推し進め
ていた。ところが、伊達家の身内から、この時代
遅れで金ばかりかかる拡大政策に反対する勢力が
現れた。嫡男の晴宗である。伊達家もまた親と子
で争う内乱となった。天文の変と言われるこの事
件は、時宗丸養子問題を白紙に戻してしまった。
長尾景虎の登場
伊達家の内紛のおかげで時宗丸との養子縁組は
潰れ、定実もさすがにがっくりときた。守護職を
晴景に譲ると言い出したのだ。既に時宗丸という
御輿を失っている中条―古志長尾は、晴景を担ぐ
揚北衆―上田長尾に早急に対応しなければならな
古志長尾と上田長尾
くなった。そうでなければ晴景政権下で風下に立
この争いは、実は深刻な内紛の種を含んでい
た。中条藤資は揚北で孤立するなか、為景の側近
だった古志長尾家の景信に接近し、この養子問題
を優位に進めようとした。景信にしても守護の定
実自身が望んでいることで表立って反対する理由
たされるからである。晴景の弟、長尾景虎はこう
して歴史の表舞台に登場する。
最後に
はない。ここに中条―古志長尾のラインができる。
武者たちが繰りひろげた愚かな宴を見てきた。
一方、中条の突出を止めたい本庄や色部は、古
もし、足利尊氏にいま少しの政治能力があれば、
志長尾と距離を置く上田長尾家の政景に伊達家の
とか、直義にもうひと握りのカリスマ性があれ
脅威を訴え、養子問題を潰すよう働きかけた。政
ば、とか思う。人は何か足りないものがあって、
景は古志長尾家をけん制するため、この働きかけ
それを集団で補い合いながら歴史を刻んできたの
に乗った。この時、持ち出されたのが、晴景を定
だろう。後世の我々が歴史を振り返って思うこと
は多い。だが、当の自分たちはどうなのだろう、
と思う。現代に生きる我々が過去の狂宴に学ぶ意
←栖吉城跡
古志長尾氏の本拠 (伊藤正一氏 作図)
常の館は蔵王堂でこの城は後
詰の城。坂戸城とは対照的だ。
古志長尾氏は信濃川を重視し
ていたのだろう。
味はきっとその辺りにあるのだろう、と思う。
春日山城の上杉謙信像→
越後と関東の命運はこの武将へと
引き継がれてゆく。 2016年1月号からは、新シリーズ『越後の事件簿―江戸時代編―』を掲載いたします。身分の固定で閉塞した江戸時代の社会を
背景に、越後で起きた様々な事件の顛末を渡辺れい氏が綴ります。ご期待ください。
ホクギンMonthly 2015.11