法 務 省“ 社 会 を 明 る く す る 運 動 ”中 央 推 進 委 員 会 主 催 第64回“社会を明るくする運動”作文コンテスト 日本BBS連盟会長賞 犯罪・非行撲滅について 長野県・佐久長聖中学校 3年 や ま ざ き 山 﨑 E A A E と も E A A E き 友 稀 E A A E E 世間を震撼させる凶悪事件が起きたとき、犯罪者の処遇をめぐって、 極端な反応が示されることがある。二〇一四年七月に長崎県佐世保市で発 生した女子高生殺害事件は、「人を殺してみたかった」という常軌を逸し た欲求に駆り立てられた加害者の異常な心理が人々の興味を引き、またこ の加害者の人間性を徹底的に糾弾しようとする世論の激しさはインターネ ットなどの情報媒体にも助長された。 しかしながら、こうした過剰な反応を目の当たりにするとき、私はそこ に距離感を感じる。極悪な犯罪者は社会から隔離され、刑務所などの閉鎖 的環境の中で二度と社会に復帰しないように厳重に「管理」すべきだとい う感情的反応は、果たして「社会の明るさ」と共存可能なのだろうか。悪 は徹底的に社会から隔絶した環境のなかで孤立させるべきものなのだろう か。 芥川龍之介の「羅生門」はこうした私の違和感に一つの明確な形を与え てくれた。飢餓にあえぐ京の都を舞台としたこの作品に登場する下人は、 殺伐とした風景が広がる羅生門で死人から髪の毛を抜き商売の足しにしよ うとする奇怪な老婆と遭遇する。下人の最近の反応はいたって健全なもの であり、この老婆の非人間的所業を人の道に反するものとして非難し、正 義を体現するかのような存在としてふるまうのであった。しかし、当時、 未曾有の飢饉にみまわれ、街には無数の死骸がころがり放置されていると いう劣悪な社会状況も手伝ってのことか、下人の心には老婆の悪行を肯定 し、むしろ老婆の為した悪を凌駕する悪を為さんとする悪しき意志が頭を もたげてくる。老婆の集めた死人の遺品を強奪し、羅生門を走り去る下人 の 消 え 入 っ た 闇 は 、な お 一 層 深 く 下 人 の 姿 を 飲 み 込 ん で い っ た の で あ っ た 。 この芥川の卓越した筆致が私に考えさせたことは、すべての人の心に巣 くう悪なる要素の存在や社会環境による道徳観の変化など多岐にわたるが、 概して善と悪の二元論の成立不可能性ということができるかもしれない。 善と悪とはまるであざなえる縄のごとく互いに絡み合い、不可分な形で存 在しているのだということをまざまざと実感させられた読書体験であった。 人は必ずしものぞんで悪を行う訳ではなく、時代の状況に促された望ま ぬ悪も存在する。しかもその悪の正義の陰に隠れて巧妙な仕方で人心に現 われ来ることがあるのであって、こうした現実を前にしたとき人がとるべ き道は、まさに古来の格言の教えるように「罪を憎んで、人を憎まず」と いう所に見出されるべきではなかろうか。あらゆる人はたとえ罪を犯した としても、改悛の可能性に開かれているのであり、その可能性を永久に封 じてしまうということは相互の不信を助長してしまうことになってしまう のでなかろうか。もちろん、悪を為した人が反省し、自らの過ちを過ちと 自覚し、社会において再び自身の希望へと向かって再出発することを誓う までには時間が求められるであろうし、その時間の為に彼、彼女の身体を 拘束することは必要であろう。しかし、「明るい社会」とは人々の相互の 信頼の上に築かれるべきであり、一度罪を犯してしまった人にも再び再起 の道を開き、その可能性を信じることは、共に同じ社会に生きる人々の義 務なのではないだろうか。
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