備後の山城

1藤
後
の 電山
―
一……
椋
療
城
城
(2)
(福 山 市 駅 家 町 服 部 永 谷
跡
)
福 痣釈 前か ら中 墨 バ ス「 B民 認行 」に乗 って
約 40分 、「 永谷 」の バ ス停 で降 りる と、西
次 郎右篠 F]難 氏兼 の所領 であ った し、室町中
期 、宮惣領 家 5代 の 元盛 は 当城跡東方 2キ ロ
方 山麓にお 寺 の屋根 が 見 え る、真雷宗 栄 昌寺
の 平林 の地 を宮内中 興寺 に 寄進 して い る (県
であ る。現 在 、 この寺 を起点 と して「 八 十八
ケ 所 」の御大 師が杞 られてい るが 、 この御大
史所収「 中戸 文書 」)。
む ろん、桑原 氏 を富氏 と同格 の在地領主 と
10分 程歩 くと椋 山城 本 丸 に至 る。
し、中 世 の 服 部は この 両者 に よって分轄 支配
師道 を約
やや けわ しい 道 であるが 、jrL元
の人 々に よっ
されてい た と考 え る こ と もで きるが、服部地
て整備 され、福 山地方 の 山城 の 中 では登 りや
す い ものの一つであ る。
方 の 精神 的支柱「 八 幡神 社 」は戦国初頭宮氏
に よ つて現 在地 に移 建 された と伝 え、先の江
城 の遺構 は、 標高 170メ ー トル余 の椋 山
(要 害 )山 頂 を中心に 東北 、南東 、南 に伸 び
戸期 の 文献 に「 桑 原氏 は宮 氏 の家老格 」とあ
るの を信用 す れ ば、桑原氏は宮氏輩下 の上 豪
た 3つ の 支尾 根 上に見 られ、 曲頭本 丸 か ら南
と して服部 の一部 を支配 して いた と考 え るの
東 直 下の 郭跡 には 円型石組 井戸 (現 在 で も水
が妥 当 で あろ う。
が 出 る )、 更 に繭東 に 下 った 出丸跡 (小 要警)
には籍盤上 に「 柱 穴」、南 の尾 根 上 には 岩盤
この場 合 、椋 山城 は宮 氏勢力 圏 の一 翼 を担
ってい た もの と思われ 、南方 1キ ロの 新山城、
を く り抜 い た「 堀 切 」が残 り、 その保 存状態
南東 2キ ロの法 成寺城 を出城 とし (両 城共桑
の良 難 さとあい まっく 橿 痣地 方 の 中世 曲城鱗
として注 目す べ き遺跡 の 1つ で あ る。
懸 一族の 居城 と伝 え る )、 銀 部南部 の要 とし
て重 要 な役割 を果 して いた もの と推定 され る。
『 備後古城 記 』、『 西備 名 区 』等 の江 戸期
の文 献 に よる と、 この城 に拠 ったの は初代 備
猶、 岡大 図書館所蔵「 平川 範義 1日 蔵文書 」
後守艘土 肥実平 の末葉 と伝 える桑原氏 で、戦
10年 2月 24鐵 付 (1動 実信感状 に「 今
度於椋 山云 々 」の 文言が あ り、ほ とえ′ど直接
天文
国時代 、城 主 桑原越中守通業 :ま 始め備 後 の武
史料 を持 たない 福山地方 の 山城跡 の 中 に あ っ
将富氏 に従 い 、 後 この地方 に安 芸毛利氏 の 勢
て志川 滝 山減 (加 茂 町 )、 勝薄 山城 (御 幸町 )
力 が及 ん で くる と同氏 に従 った とい う。
大場 山城 (本 郷町
以上 の伝承 が どこまで 真実 を伝 えた もの で
)、
一 乗 山城 (熊 野 町 )等
と共 に重 要な痣城 の一 つ と言 え よ う。
あ るかは今 後 の研究課題 であ るが 、室町 戦 国
時代 、服部地 方 に宮氏 の勢力 が 及 ス=で い たこ
と1ま 事実 であ る。『 山内首藤 家文 書 』 83号
に よる と室町 初期 、「 服部郷 同永末 」は宮
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(田 口 錢之
)
椋 山城 跡要 図
東方 よ り見 た椋 山城 跡
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