地震と噴火の日本史

地震と噴火の日本史
小山研究室
30316017
柴田ふみ
第一章 「日本書紀」が語る古代の地震
1 日本最古の地震記録
2 天武朝の二つの大地震
第二章 歴史に見る火山の噴火
1 富士山の噴火史
2 宝永の大噴火
3 浅間山・天明の大噴火
1-1 日本最古の地震記録
允恭天皇五年の地震
五年秋七月丙子朔己丑、地震
允恭天皇五年七月十四日 地震現象
最古の被害地震
推古天皇七年四月二十七日に起きた大和の地震
地動舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神
舎屋がことごとく破壊された
1-2 天武朝の二つの大地震
筑紫の国の地すべり地震
天武天皇七年十二月
是の月に、筑紫国、大きに地動る。土裂くること広さ二又、長さ三千余
又。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、丘
の上に有り。地動る夕に当りて、岡崩れて処遷れり。然れども家既に全く
して、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れること知らず。但し
会明の後に、知りて大きに驚く
⇒地震に伴った地すべりの様子
「白鳳大地震」~最古の巨大地震記録~
天武天皇十三年十月十四日
国挙げて男女叫び唱ひて、不知東西ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡
の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝て数ふべからず。
是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出で
ず。土佐国の田苑五十余万頃、没れて海と為る。古老の曰はく、「是の如
く地動ること、未だ曽より有らず」といふ
①広範囲にわたる激甚な震害 ②地盤の沈降
<土佐の国司からの報告>
大潮高く騰がりて、海水飄蕩ふ。是に由りて、調運ぶ船、多に放れ失せぬ
③沿岸地域への大津波の襲来
⇒海溝で起きた巨大地震
伊豆大島の噴火?
是の夕に、鳴る声有りて鼓の如くありて、東方に聞ゆ。人有りて曰わく、
「伊豆嶋の西北、二面、自然に増益せること、三百余丈。更一の嶋と為れ
リ。則ち、鼓の音の如くあるは、神の是の嶋を造る響なり
2-1 富士山の噴火史
古富士火山…八万年ぐらい前から活動開始。
新富士火山…一万年ぐらい前から古富士山をおおうようにして
活動開始。
・2500年前に大規模な岩屑なだれ(御殿場岩屑なだれ)
・2000年以降の噴火による60あまりの側火山を形成
万葉時代
新富士火山の活動のうち書き残されてきたのは最近の1300年ほど。
「柿本集」
ふじのねの たえぬ思いを するからに 常磐に燃る 身とぞ成ぬる
「万葉集」 高橋虫麻呂 富士の山を詠む歌
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ
出で立てる富士の高嶺は 甘雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上
らず 燃ゆる火を 雪もり消ち 降る雪を 火もち消ちつつ …
平安時代
富士山の活動が最も激しかった時代
<貞観の大噴火 864年>
・約二ヶ月間噴火が継続し、有史以来最大の溶岩を流出。
⇒青木ヶ原溶岩
・溶岩が本栖湖や剗の湖に流入し、剗の湖は、現在の西湖と精進湖に分断
されてしまった。
平安文学からみる富士山
・本朝文粋巻十二 「富士山記」 都良香
870年代の山頂火口の模様
・竹取物語 九世紀末~十世紀初頭
“富士”の語源…多くの武士を引き連れて山へ登ったから「富士の山」と呼
ぶようになった。
・更級日記 1020年
火映現象または山頂火口が赤熱の溶岩に充たされていたことを描写
当時は富士山の山頂から噴煙の上がっている風景が当たり前となっていた。
中世
1083年の側噴火以降、1435年までの350年ほどは顕著な活動はなし
山頂から静かな噴煙活動
2-2 宝永の大噴火
宝永大地震<日本列島最大規模の地震>
・東海地方から紀伊半島、四国にかけて大災害
・紀伊半島から九州までの太平洋沿岸に大津波
・家屋の倒壊約6万戸、津波による流失2万戸、死者2万人
49日後…宝永の大噴火 地震発生と関連?
江戸にも灰が降った
新井白石 「折たく柴の記」
江戸でははじめ白い灰が降り、のちに黒い灰に変わった。
⇒宝永噴火による噴出物の層を観察すると、下部には白い軽石の層があり、
その上にスコリアの黒い層が厚く堆積している。
江戸には平均して2~5センチの灰が積もった。
焼け砂に埋まる村々
<須走村>村全体が黒雲に包まれたようになり、焼け石(火山弾)が激しく
降り、75戸のうち37戸が焼失。残りの家も倒壊。
・16日間つづいた噴火が終わるまで、50あまりの集落が噴出物の下に埋
没
飢餓の発生
集落は厚さ2~3mもの焼け砂におおわれ、飢餓に直面。
・被害の大きかった村々を一次公領とし、幕府の直轄として伊奈忠信を派遣。
・被災地救済のため全国の公領私領に義援金を課した。このうち救済に
使ったのは16両。
足柄平野に大洪水(二次災害)
・取り除いた焼け砂が流れ、足柄平野の防水堤の川底を上昇させた。そこへ
激しい豪雨が襲い天然ダムが決壊。大洪水へ。
・以後70年以上も洪水災害を受け続けた。
現在、宝永噴火と同規模の噴火が起きたら… 被害総額 2兆5000億円
2-3 浅間山・天明の大噴火
1783年 5月9日 噴火開始
・8月2日から大噴火、3日午後規模拡大。4日午後望月では暗夜のようにな
り、夜になると轟音とともに強い地震が続いた。
・4日軽井沢宿で大量の焼け石が降下。186戸のうち、潰れた家70戸、焼
失した家51戸。焼け石や焼け砂の厚さは2m。
・8月5日 10頃噴火が最高潮となる。
大爆発に伴う音響は、隣国諸国はもちろん、東北地方・中国地方にまで及ん
だ。
・火砕流が発生 岩屑なだれとなって北麓の鎌原村を直撃。死者466人。
観音堂の丘と15段の石段のみ残っている。
・そのあと大量の溶岩が北斜面に流出。(鬼押出溶岩)
・鎌原村を襲った岩屑なだれが泥流を発生させた。
泥流の水位は50~60m。吾妻川を下り、利根川の本流へと入っていった。
約1300戸の家屋が焼失。死者1400人。
掘りだされた天明の化石
大きな被害を受けた鎌原村はその後岩屑なだれ堆積物の上に
新しい集落が開かれている。
<1978年夏、鎌原村発掘調査>
・観音堂の石段が全部で50段だったことが判明。(地上に残っ
ているのは15段)
・石段の最下部から二体の人骨を発見。35段、時間にして十
数秒逃げ遅れた。
天明の大飢饉
浅間山の噴火は天明の飢饉に追い討ちをかけた。
1783年~飢饉が頂点に。
冷夏・冷害+火山灰、エアロゾルの影響