金融取引と情報の不完全性

金融市場論
Financial Markets
2013年度前期・商学科発展科目
③金融取引と情報の不完全性
大学院商学研究科 齋藤一朗
金融取引とは何か
 金融取引とは、異時点間に亘る資金の交換取引であり、そ
こでは情報の不完全性(情報の非対称性や不確実性)に起
因して、「逆選択」や「モラルハザード」、あるいは「貸
し手と借り手の間のリスク選好の不一致」や「流動性選好
の不一致」といったさまざまな困難が発生する。
 こうした困難は、放っておけば、自ずと解消ないし緩和さ
れるというものではなく、その克服にはコストを要する。
 ここでは、金融取引を「異時点間の交換」と「リスク移
転」という視点から整理し、金融取引の特徴について考え
る。
金融取引の意義
資源の遊休
機会の逸失
I have a lot of money.
But now, I don’t use.
I have no money.
But now, I need.
私的所有制を前提とする社会では、原則、「所有」していなけ
れば「使用」することはできない。もし「貸借取引」が存在しない
とすれば、一方では資源の遊休が、他方では機会の逸失が生
じ、社会的に非効率的な状態が生じる。
資源の有効活用!!
投資機会の実現!!
I borrowed money.
Thereby, I can realize my business plan.
「貸借取引」の意義は、私的所有制の原則を崩さずに、「所
有」と「使用」を分離することにある。これにより、所有していな
い場合でも、使用後の返却を前提に、使用できるようになる。
実際、われわれが目にする「貸借取引」の対象には
様々なモノがある。
レンタル・ショップやリース会社に行けば、CDから大型
旅客機まで、大概のモノは借りることができる。
しかし、経済活動における「貸借取引」の大部分は「お
金(貨幣)」の貸借、すなわち「金融取引」である。
それは、なぜか?
貸借取引の対象として「貨幣」が用いられるのは、貨幣がもつ
性質に由来する。
貸借取引の対象を貨幣にすると、借りたいモノと貸し
たいモノの一致を図る必要がなくなる。
一般的受容性
同
質
性
耐
久
性
モノの貸借では、借りたモノそのものを返す必要があ
るが、貨幣を取引の対象とすると、借り手は同種同量の
貨幣を返すだけでよい。このため、モノの貸借に比べて、
使用や返済の自由度が高まる。
取引対象がモノである場合、時の経過の中で変質した
り、使用中に壊れたりすることがある。しかし、商品貨幣
であれば、そもそも素材的な価値は損なわれにくく、紙
幣の場合でも、破損・汚損したときには、新しい紙幣と交
換することで、容易に価値を回復することができる。
これまで、私的所有制における「金融取引」の意義が「所
有」と「使用」の分離にあることをみてきた。次に、「金融取
引」が経済活動において果たしている役割について、これを
「異時点間の交換」と「リスク移転」という視点から整理してお
こう。
異時点間の交換
金融取引
リ ス ク 移 転
異時点間の交換
資 金
貸し手
借り手
返済約定
ある一定期間の経過後
資 金
貸し手
借り手
返済請求
「金融取引」とは、借り手(資金不足主体)が将来時点における返済約定と引き
換えに、貸し手(資金余剰主体)の手許で現在遊休している資金を借用すること
である。
リスクの移転
貸し手
(リスク回避度小)
資 金
状態条件付の
返済約定
借り手
(リスク回避度大)
ある一定期間の経過後
貸し手
(リスク負担)
資 金
状態条件付の
返済請求
借り手
(リスク転嫁)
借り手の投資成果には不確実性が伴う。このようなとき、資金返済を将来時点
で発生した状態に依存させることができれば、借り手が負うリスクを貸し手に転
嫁できる(状態条件付の資金返済)。
簡単な数値例
 将来時点における投資活動の成果
o 0.5の確率で100の収益、0.5の確率で50の収益を得る。
 貸し手が常に一定の返済(30)を要求する場合
o 貸し手が手にする収益は、成功時に70、失敗時20である。
 状態条件付の資金返済を採用した場合
o 成功時に55の返済を、失敗時に15の返済を要求とする。
o このとき、借り手が手にする収益は、成功時に45、失敗時35となる。
リスク移転による期待収益の平準化
o 一方、貸し手は、リスクを負担した見返りとして、期待値でみて30よりも
大きな返済(0.5×55+0.5×15=35)を要求することができる。
リスク負担による期待収益の上昇
リスク回避度大の主体が被るリスクをリスク回避度小の主体が引き受け、その
見返りとしてリスク・プレミアムの分だけ期待返済額が上昇するならば、その「交
換」には利益がある。
金融取引と情報の不完全性
 これまでは、「金融取引とは何か?」について、「異時点間の交
換」、「異状態間の交換」という観点から整理し、金融取引の特
徴について取り上げてきた。
 しかし、金融取引が如何に有用であろうとも、取引の成立に円
滑さを欠くならば、金融取引が存在することのメリットを社会的
に享受することはできない。
 以下では、金融取引の成立を妨げる要因として、「情報の不完
全性」とそれに起因して生じる問題について概説する。
金融取引と情報の不完全性
 これまで、金融取引の経済的な意義を概観してきたが、そこで
は暗黙の裡に情報の対称性が前提とされてきた。情報の対称
性とは、経済活動を行うために必要な情報を、経済に存在する
全ての主体が同様に得ることができることを意味している。
 しかし、実際の金融取引においては、経済主体間で保有する
情報が対称的であることは考えにくく、むしろ情報の非対称性
が常に存在していると考えられる。
 さらには、金融取引は現在から将来に亘る取引であり、将来ど
のような事態が生じるのかを、経済主体は完全に予見すること
はできない(不確実性)。
金融取引の成立を妨げる要因
 金融取引に際して、貸し手の主たる関心事は、大凡、以下の二
点に集約される。
a)貸し出した元本および利息が約定どおりに支払われるか否か
b)約定どおり返済されるまでの間、現在手にしている購買力を手放しても差し
支えないか
 しかし、一般に、これらの事柄は貸し手にとって「よくわからな
い」のが実情である。とりわけa) については、次の二通りの意
味で「よくわからない」ことが多い。
貸し手と借り手の情報ギャップ
 ひとつは、約定どおり元本と利息が支払われる可能性がどのく
らいあるかを判断するための情報が不足しているという意味で
「よくわからない」ということである。
 借り手の将来所得や返済努力についての情報は、そうした可
能性を判断するうえで欠かせないものであるが、貸し手は当の
借り手以上に正確にそれを知ることができない。
 こうした貸し手と借り手の間に存在する情報ギャップのことを、
「情報の非対称性」という。
貸し手は、当の借り手以上に借り手のことを知り得ない。
将来所得の予測に伴う困難
 もうひとつは、例えそうした情報を完全に入手できたとしても、
借り手の将来所得がどうなるかは「神のみぞ知る」ということで
ある。
 貸し手と借り手の間にある情報の非対称性が解消されたとして
も、それによって明らかになるのは、貸し出した元本と利息が
約定どおり支払われる可能性がどのくらいあるかであって、借
り手の将来所得に関する不確実性は依然として残されている。
現在において、将来の所得を完全に予見することはできない。
将来支出の予測に伴う困難
 これに対してb)は、同じ不確実性でも、貸し手の将来支出に関
する不確実性である。
 すなわち、貸し手自身、いつどれだけの支出が必要になるかわ
からないので、貸し出した元本が利息とともに支払われるまで
の間、現在手にしている購買力を手放しも大丈夫かという懸念
が生じる。
現在において、将来の支出を完全に予見することはできない。
金融取引に伴う情報の不完全性
借り手の将来所得に関する情報の非対称性
情報の非対称性
「逆選択」の可能性
借り手の返済努力に関する情報の非対称性
「モラル・ハザード」の可能性
借り手の将来所得に関する不確実性
不確実性
貸し手と借り手の間のリスク選好の不一致
貸し手の将来支出に関する不確実性
貸し手と借り手の間の流動性選好の不一致
逆選択(Adverse Selection)
困難の第一は、借り手の返済能力に関する情報の非対称性に起因
する。
この種の情報の非対称性があると、貸し手は借り手の返済能力に見
合った取引条件を設定することが困難になり、場合によっては、不適切
な条件設定から、返済能力が劣った借り手ばかりが取引に応じる「逆
選択」が生じる可能性がある。
貸し手がそうした事態を回避しようとするならば、自らが借り手の返済
能力に関する情報を収集・分析しなければならない。
しかし、情報の収集・分析にはコストがかかり、もし、このコストが情報
の非対称性を解消することによって得られる利益を上回るならば、貸し
手は金融取引に応じないであろう。
モラル・ハザード(Moral Hazard)
困難の第二は、借り手の返済努力に関する情報の非対称性に起因
する。一般に、債務の履行に向けて借り手がどの程度努力しているか
について、貸し手は当の借り手以上に正しくそれを知ることは不可能で
ある。このようなとき、「モラル・ハザード」が生じる可能性がある。
「モラル・ハザード」とは、借り手が貸し手の利益を犠牲にして、自らの
利益を高めるような行動をとることをいう。もし「モラル・ハザード」の発
生を抑止しようとするならば、貸し手は借り手の行動を監視し、債権の
保全・回収に努めなければならない。
しかし、そうした活動にはコストがかかり、このコストが情報の非対称
性を解消することで得られる利益を上回るならば、貸し手は金融取引
に応じないであろう。
リスク選好の不一致
一般に、貸し手はリスクを回避する傾向があり、必然的に返済能力に
不確実性を帯びる借り手との間で、リスク選好に関する不一致が生じ
る可能性が高い。
このため、借り手は自らのリスクを許容してくれる貸し手を探索するの
にコストを費やさなければならない。
もし、このコストが金融取引を成立させることで得られる利益を上回る
ならば、借り手は投資プロジェクトを断念するか、よりリスクの低い投資
プロジェクトに変更せざるを得なくなる。
このように、貸し手と借り手の間にリスク選好の不一致があると、金融
取引は容易に成立しない。
流動性選好の不一致
一般に、将来支出に関する不確実性に直面している貸し手は、長期
間に亘って現在の購買力を手放すことを嫌う傾向があり、いつ支出の
必要が生じても対応できるように流動性を保持しようとする。
一方、借り手は「迂回生産の利益」から長期間に亘る投資プロジェクト
を好む傾向がある。
このため、借り手は長期間に亘る投資プロジェクトを許容してくれる貸
し手を探索するのにコストを費やさなければならない。
もし、このコストが金融取引を成立させることで得られる利益を上回る
ならば、借り手は投資プロジェクトを断念するか、より期間の短い投資
プロジェクトに変更せざるを得なくなる。
このように、貸し手と借り手の間に流動性選好の不一致があると、金
融取引は容易に成立しない。
金融システムの存在意義
 このように、金融取引に際しては4つの困難があり、これらはい
ずれも、その解消ないし緩和にコストを要する。もし、このコスト
が取引を成立させることから得られる利益を上回るならば、金
融取引は成立しない。
 しかし、このことを逆からいうと、もし何らかの方法でこのコスト
を節約することができれば、金融取引が成立する可能性は高
まることになる。
 金融システムが存在することの意義は、まさにこの点に求めら
れる。金融システムとは、金融取引に伴う困難を、貸し手と借り
手が直接的に取引する場合よりも少ないコストで解消ないし緩
和する制度的な機構として存在する。