404 新田次郎「強力伝」 新田次郎の本名は“藤原寛人”、ペンネームの新

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新田次郎「強力伝」
新田次郎の本名は“藤原寛人”
、ペンネームの新田は彼が生まれた長野県上諏訪の角間新田。こ
の新田と自分が次男だったことから“新田次郎”とした。 叔父に中央気象台長になる気象学者
の藤原咲平がいる。彼は無線電信講習所で無線技術を学び、卒業後は気象観測所に就職した。満
州の新京にあった測候所職員のとき終戦、侵攻してきたソ連軍や恨みをを買った現地人に追われ
一家はバラバラ。新田夫人“藤原てい”さんが家族を引き連れ、徒歩で満州から朝鮮半島の38
度線を越え、日本にたどりついた。
この過酷な逃避行を綴ったのが、藤原てい著「流れる星は生きている」のベストセラーだ。
これはTVや映画でも大ヒットになった。夫人の快挙を知り「ひよっとすると自分も何か書ける
のでは…」
、それが強力伝を執筆する動機になったと本人も認める。「強力伝」は昭和30年に直
木賞を受賞した。この作品はそれまでにないアルピニストを主題とする、
「山岳小説のジャンル」を切り開いた記念塔となった。
“強力”とは山小屋などに食物や必要物品を肩で運び上げる
人のこと。同じ仕事をする人でも白馬や立山では“ボッカ”
と呼ぶ。白馬岳(2932,2m)の山頂に風景指示盤を設置する計画
があり、この基盤の巨石が1個188kgある。これを運び上げ
るのは富士山の強力、
“宮本正作”に決まる。白馬の地元から
ボッカ“鹿野”が不本意ながら協力する。彼らは白馬尻から
大雪渓、小雪渓、国境稜線、白馬山頂と何度も、ピストン往復
で担ぎ上げる。その雪渓の途中で小宮正作は落石にあたり負傷
する。 「小宮さん帰ろう」 と鹿野が声をかけても小宮は答
えない。小宮は一人になっても”登ってやるぞ”、そんな気迫が
ありありと感じられた。
小宮の死も覚悟した異常な決意を感じ、たんなる名誉や功名心
【新田次郎】
でない強力魂を見た鹿野、最初出会ったときの敵愾心が薄れ、共感が湧き上がってくる。
その小宮。彼の本音は名誉欲と故郷の金時再現伝説への迷妄から、荷揚げを請け負ったのだが、
現実は今まで経験したことのない苦労、そして死に直面するような苦しい思い。それが交互に彼
を襲ってくる。そして最後の石を白馬山頂に下ろした後、嬉しさも達成の勝利感もない。
ただ「やっと終わった」という虚脱と、少しの解放感があるだけだった。
この「強力伝」は新田次郎が富士山山頂観測所に、交代勤務していた昭和7年から12年当時
に知り合った、小宮山正さんが実際のモデルである。
皇紀2600年(昭和15年)の記念行事として、富士山、立山、大菩薩峠などに、読売新聞社が企
画したもの。この過酷な作業のためか小宮山正さんは42才の若さで亡くなっている。
箱根金時山の金時娘、妙子さんはこの人の娘さんである。
【白馬岳山頂の風景指示盤】