倭の五王と巨大古墳 基調講演 - 堺市

基調講演
倭の五王と巨大古墳
京都大学名誉教授 上田正昭先生
1 倭の五王
ただいまご紹介いただきました上田正昭です。本
日は、早朝から多数の皆さんにご来会いただきまし
た。ただいま、堺の市長さんと藤井寺市の副市長さ
んからご挨拶で触れられましたように、百舌鳥・古
市古墳群の世界遺産登録をめざして、現在、活発に
運動を展開している最中です。
本日は、午後から石森先生をコーディネーターに、
文化庁から本中主任文化財調査官、さらに足立先生、
宗田先生、一瀬先生を交えて、世界遺産とまちづく
りのシンポジウムが行われることになっております。
ご来会の皆様のご理解とご支援をいただいて、世界
遺産登録が実現するよう、今後ともご協力をお願いしたいと存ずる次第です。私は基調講演をす
ることになっておりますが、日ごろから倭の五王と巨大古墳をめぐって考えております問題を中
心に申し上げまして、ご来会の皆様のご参考に供したいと思います。
5世紀の日本列島の問題を考えようとするならば、南朝宋の歴史を書い
た『宋書』を抜かすわけにはいきません。参考資料に、倭の五王の名前が
出ております。『宋書』という書物は、中国5世紀の南朝の宋の歴史を、
その後の南朝の王朝である梁の沈約という歴史家が書いた南朝宋の歴史書
です。その中の、「東夷伝」と「南蛮伝」を一緒にいたしました「夷蛮伝」
の倭国の条の中に、西暦で申しますと 421 年から 478 年にわたって、倭
国の5人の王様が中国王朝に朝貢しておることを書いています。その回数
は 10 回を数えます。その王様の名前は、讃という王様、讃が死んで弟の
珍が立つと書いてありますから、讃と珍は兄弟です。そして、『宋書』は
珍と済の関係は触れておりませんが、3番目に済という王が朝貢する。そ
の済の世子(嫡子)が興、興の弟が武で、この5人の王様の中国南朝への
朝貢を記しているわけです。
この5人の王様が、日本の5世紀のどういう天皇に当たるかということ
は、古くから議論されてまいりました。特に、江戸時代はいろいろな優れ
た学者が考え方を表明しておりますが、とりわけ松下見林、この方は中国
の文献を江戸時代の学者の中でも最も詳しく調べた学者ですが、『異称日
本伝』という書物の中で詳しく論じています。
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表 1 倭の五王の系譜
讃という王については、應神天皇のことであるという説もありますし、そうではなくて仁徳
天皇あるいは履中天皇のことであるという説もございます。珍は一体誰か。珍は仁徳天皇、い
や反正天皇、そうではなくて履中天皇であるというように説が分かれております。さまざまな
意見が現在も論争されておりますが、この珍というのは、その名はミズハワケという王と私は
考えています。このミズは、瑞 ( みず ) という漢字にもとづいています。その意味を翻訳して
珍という名前に変えたのだというように考えますと、珍は反正天皇ということになります。武
というのは、名前をワカタケルと申しておりました雄略天皇のタケルという字、漢字で書きま
すと武という字になります。音訳の文字であると解釈いたしますと、武は雄略天皇です。
日本側で天皇の系図を書いた「帝紀」という書物がございます。この書物がいつできたかと
いうと、遅くとも6世紀の前半にはできているわけです。そこで、「帝紀」の系図の表1を見
ていただきますとおわかりになると思いますが、履中天皇と反正天皇は兄弟です。『宋書』の
記述と合います。そして、済と興は親子。系図を見ていただきますと、允恭天皇と安康天皇は
親子、安康天皇と雄略天皇は兄弟ですから、『宋書』の興と武が兄弟という記述と一致します。
私はいろいろ検討いたしまして、讃は履中、珍は反正、済という王様は允恭、興は安康、武は
雄略と考えるのがよいと思っております。
2 巨大古墳と河内王朝
ところで、5世紀の倭国王の問題を考えます場合に、クローズアップされてくるのが、古市・
百舌鳥古墳群の巨大古墳です。全長 280 mを超える前方後円墳が全国で九つ存在します。いわ
ゆる伝仁徳天皇陵・大山古墳を筆頭といたしまして、河内に三つ、和泉に三つあります。九つ
の 280 mを超える巨大な前方後円墳の中で、六つが大阪府の南部にあることがわかります。
和泉という国が一体いつできたかと申しますと、天平勝宝9年、西暦 757 年の5月8日で
す。 河 内 の 国 の 南 側 に あ る 大 鳥 郡、
日根郡、和泉郡の三つの郡が別れて
新たに和泉の国ができる。ですから、
和泉の国は元河内の国です。5世紀
の段階に和泉の国があったわけでは
ございません。私がここで河内と申
しますのは、和泉を含んで考えてい
ます。そうしますと、280 mを超え
る巨大な前方後円墳の中で六つが河
内にある。その中の、6世紀にでき
た大塚古墳というのが松原市にござ
いますが、これを除外いたしますと、
5世紀を中心とする巨大古墳が五つ、
この河内の地域に存在する。いずれ
も古市・百舌鳥古墳群の最も大きな
表 2 古墳と規模 −9−
前方後円墳です。
今、お墓というのは、人目に触れない山の中、あるいは谷のそばにつくる場合が多いんです。
今はやりの霊園は、まちの真ん中などに造られません。しかし、古墳は政治的勢力の権威のシ
ンボルです。政治勢力を持っている基盤の地に築かなければ、遠い山の中や谷の向こうに築い
たのでは古墳の意味がない。
このように巨大な古墳が集中して存在するということは、この河内の地域に王権があったと
いうことを私どもに教えてくれると私は考えまして、1967 年1月に、角川新書で『大和朝廷』
という本を書きまして、「河内王朝」という説を提起したのです。私が、42 年前にその説を学
会に出しましたときは、反対する先生方もかなりありましたけれども、現在では河内王朝の存
在を支持してくださる先生方が増えております。考古学者の中にも、河内王朝説を支持してく
ださる方がある。例えば、近つ飛鳥博物館の館長をしている白石太一郎先生などは、上田の説
が正しいということをはっきり著書の中で書いていただいております。
しかし、私が河内王朝説を唱えたのはそれだけが理由ではありません。日本の神話の中で、
「国生み神話」があります。伊弉諾尊、
伊弉冉尊が大八洲国をつくられるという有名な神話です。
その神話の舞台は大阪湾です、大和ではなくて大阪湾です。おのころ島は淡路島の絵島である
という説もありますし、淡路島の南の沼島であるという説もございますが、いずれにしても大
阪湾上の島が国生み神話の舞台になっていることにかわりはありません。これは、河内の地域
に王権があったときにできた神話であるがゆえに、大阪湾が舞台になる。
奈良時代、平安時代に、天皇が即位されると、その翌年には即位のお祭である大嘗祭が行わ
れた。その大嘗祭の翌年、即位の2年後に、八十島祭という祭りが行われていることがわかる。
都は奈良、あるいは平安、長岡にあった時代ですが、八十島祭は大阪湾の淀川の下流に、天皇
の勅使が天皇の衣服を持って、大八洲の御霊をその衣服に取り付けるお祭りです。なぜ大阪湾
にまで天皇の衣を持って勅使がわざわざ来てお祭りをするか。これも河内に王権があったこと
と無関係ではないと私は思っております。
そして、この河内の地域には大王の宮もあった。例えば、應神天皇の宮は大隅宮です、大
和 で は あ り ま せ ん。 仁 徳 天 皇 の 宮 は 高津宮です、大和ではありません。反正天皇の 宮 は
丹比柴籬宮、雄略天皇は志幾宮です。顯宗天皇の宮は近飛鳥宮です。この河内の地域には、天
皇の宮があった伝承もはっきり存在します。それだけではない。大伴氏、物部氏という有力な
豪族が、5世紀の段階から政界で活躍するようになりますが、大伴氏や物部氏の本拠は河内に
あったことも確かな事実です。そのようなさまざまなデータを基に、私は河内王朝説を唱えま
した。
そして、諡 の表 3 をご覧いただきたいと思います。皆さんが知っておられる神 武、綏 靖、
安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化というような天皇の名前は、唐風の天皇に対する
諡です。これがいつごろ付いたかというと、8世紀の後半、淡海三船たちの学者が『古事記』
、
『日本書紀』の伝承に基づいて天皇の名前を付けているわけですね。和銅5年、西暦 712 年正
月 28 日にできたと序文に書いている『古事記』や、養老4年、西暦 720 年5月 21 日にでき
た『日本書紀』の写本をご覧になりますと、神武天皇とか開化天皇という名前は一切ありません。
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今、皆さんが岩波文庫とか古典
文学大系などをお読みになりま
すと、開化天皇、神武天皇と付
いていますが、それは読者のた
めに付けているのであって、元
の本には唐風の諡は付いていな
いんです。例えば、神武天皇は
カムヤマトイワレヒコという名
前です。
以下、和風の諡を片仮名で書
い て い る 表 3 を 見 ま す と、 す
ぐ次のようなことがわかってく
る。9番までの天皇の和風の諡
の中で、1番、4番、5番、8
番、9番を見ますと、名前の中
にヤマトヒコという名前がつい
ているわけです。1 番のカムヤ
表 3 大王名と諡名 マトイワレヒコ、4番のオホヤマトヒコ、9番のワカヤマトネコヒコと。こういう名前は、7
世紀後半の持統天皇の名前がオホヤマトネコ、文武天皇の名前がヤマトネコです。7世紀後半
の天皇の名前と対応していることがわかる、後の天皇の名前が古い時代に反映していることが
うかがわれます。
やや専門的な話になって恐縮ですが、12 番、13 番、14 番のところを見てもらいますと、
12 番のオホタラシヒコ、13 番のワカタラシヒコ、14 番のタラシナカツヒコと、タラシヒコと
いう名前がついている。天武天皇や天智天皇のお父さんの舒明天皇の名前がオキナガタラシヒ
コ、皇極天皇の名前がタラシヒメであり、7世紀の前後のころの天皇の名前とこの 12 番、13 番、
14 番の名前は関係があるということがわかります。
ところが、10 番と 11 番は全く違うんです。10 番は崇神天皇でミマキイリヒコイニエノミ
コト、11 番は垂仁天皇でイクメイリヒコイサチノミコトと、イリがついています。そして不思
議なことに、崇神天皇や垂仁天皇のお子さんの 19 名、男の王子はイリヒコ、女の王女はイリ
ヒメが付いてる。私は、この崇神、垂仁の王朝をイリ王権というように命名いたしました。大
和の東南部の地域に入ってきた勢力の王権ですが、イリが付いている。
ところが、今、問題にしております5世紀の讃、珍、済、興、武の時代の名前は、表で見て
いただきますと、15 番の應神天皇はホムタワケで、ホムタという名前にワケという尊称が付
いている。その次、履中天皇はオホエノイザホワケで、イザホという名前にワケが付いている。
反正天皇の名前はタヂヒノミズハワケ。5世紀の王はワケを称していることがわかる。したがっ
て、5世紀の王権をワケ王朝というように 1967 年の『大和朝廷』では書いたわけです。5世
紀の王者がワケを称してるということを、ここでは注意しておきたいと思うんです。
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大和朝廷の成り立ちを論ずるときに、言い換えますと日本国家の発展を考えるときに、5世
紀という時代は非常に重要な時代です。その5世紀の王権の政治勢力の基盤は、ご当地河内に
あったということです。
3 倭朝廷の成立
私は京都大学を 1993 年に退官し、大阪女子大学の学長に選ばれました。全く偶然ですけれ
ども、
学長になって来たら、何と伝仁徳陵の隣なんです。私は河内王朝を言っておりましたんで、
ここへ来たのかと、改めて私の人生と河内の深い関係を感じ、2期6年、先生方のご協力を得
て学長を務めさせていただきました。
この大和朝廷の歴史を考える上で、河内の5世紀というのはものすごく大事です。巨大な古
墳と申します。仁徳陵は、三重目の濠を加えますと、甲子園球場が 12 個入るんですね。もの
すごく広い。
私は、40 年ばかり前に、神戸大学から集中講義を頼まれまして、神戸大学の文学部に講義に
参りました。六甲山の中腹に文学部があるんです。窓からふっと見ると、今はもうビルがたく
さん建って無理だと思いますが、はるか遠方にかすかに仁徳陵が見えるんです。すごいなと思
いました。外国から船に乗って来る使節が、瀬戸内海へ入って大阪湾、難波の津(港)に近付
いてふっと見たら、おそらく仁徳陵が見えたに違いない。今、私どもは、仁徳陵を内陸部から、
陸からだけで見ておりますが、海から見える。おそらく、外国の使節に対しても、当時の王権
がいかに巨大かということを示すために、あのように巨大な古墳を築いたに違いない。海岸沿
いの古墳は海から見るという視点を忘れてはならんというように、神戸大学に講義に行ったと
きに痛感いたしました。
「ヤマト朝廷」という場合に、「大和」という字を書きますね。しかし、大宝元年、西暦 701
年にできて翌年の大宝2年、702 年から実施されます「大宝令」には、ヤマトは「大倭」が書
いてあるんです。『古事記』、『日本書紀』も、全部、「大倭」あるいは「倭」と書いている。
「大
和」というのは、757 年5月8日に実施された「養老令」に出てくるんです。それ以後、
「大和」
という字が使われるようになるのであって、それ以前は皆、「大倭」です。
例えば、天平2年、西暦 730 年の正倉院文書でございますが、『大倭国正税帳』という国宝
の帳簿がございます。「大倭」と字が書いてあって、大倭の印がはっきり押してあります。正税
帳というのは、国司が国費の1年間の収支決算を書いたものを中央政府に提出した帳簿です。
正倉院展は、もう 60 回以上超えておりますが、毎年いろいろな新しいものを出しますけれども、
『大倭国正税帳』が展観されたときもございます。それには平和の和は書いてありません。
歴史に詳しい人は、「大養徳」という字を書いた用例がありますよと言われる。それはあるん
です。天平9年の 12 月 17 日に、時の政府は「大倭」を「大養徳」に変えさせたんですね。徳
を養うという漢字を「やまと」という大和言葉に充てた例がある。ですから、天平9年 12 月
17 日から天平 19 年3月 16 日までは、ヤマトには「大養徳」を書いているんですが、天平 19
年3月 16 日以降は、再び「大倭」に変わっているわけです。したがって、ヤマト朝廷と言う
ときに、教科書でも皆、
「大和」と書いていますが、これは間違いです。「大倭」と書かなければ、
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5世紀、6世紀の朝廷をさすことにはならない。
そして、朝廷という言葉は「内廷」と「外朝」の略語です。内廷というのは、王者のいる内
裏、宮中。外朝というのは、府中、政府です。宮中があって、政府の機構、府中がある。これ
が朝廷です。5世紀の倭の王権、私の言う河内王朝の時代には、明確に宮中と府中ができ上がっ
ていることがわかります。朝廷の成立したのは、この河内の地域に王権のあった時代であると
いうことがわかります。
ところで、当時の王様は「大王」と書いていた。「天皇」という称号が使われるようになるの
は7世紀の後半。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出てまいりました天武朝の木簡に、はっき
り天皇という文字が書いてあります。今日では天皇という用語は天武朝から使われるというこ
とが、学界の定説で、5世紀の頃は「大王」と言っていたわけです。
4 倭の五王と東アジア
大王という称号は、東アジアの王様もいろいろ使っているわけです。韓国の慶州にある瑞鳳
朝鮮半島南部の伽耶という国があります。忠南大学が持ってお
られる所蔵品の中に、伽耶の首の長い長方形の壺が見つかりまし
た。そこに
「大王」の銘があるんです。私もそれらは実際に見ました。
伽耶の王様も、大王を称していたことがわかる。
ところが、日本の5世紀の王様も、大王を称しているんですが、
「治天下大王」を称しているということが重要です。埼玉県行田市
の稲荷山古墳から見つかった鉄剣に、115 の文字が刻まれていま
す。辛亥年、この年は西暦 471 年。そこに大王と書いてあります。
「治天下」の「獲加多支鹵大王」、雄略天皇のことです。
それから、熊本県菊水町(現和水町)の5世紀の後半の前方後
円墳の江田船山古墳から出た太刀の銘文に「治天下獲加多支鹵大
王」とあり、5世紀の日本の王者は、治天下を称していたという
ことがわかる。「治天下」というのは、中国の皇帝が使う用語です
(『孟子』
・
『漢書』・『三国志』・『魏書』など)。中国以外の王様が治
天下を使っている例は5世紀の倭国の王から始まるんです。高句
麗、百済、新羅、伽耶、渤海で、治天下などを称している例はあ
りません。これは非常に重要なことです。
5世紀の王が大王を称し、同時に中国皇帝のみが使う天下を治
めるという用語を使っているだけではなくて、非常に重要なこと
が『宋書』に書いてございます。讃、珍、済、興までの4人の王様は、
位をもらうんですが、「安東将軍」なんですね。ところが、420 年
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2
杅銘
瑞鳳塚銀合
銘文に、高句麗の好太王を永樂太王と呼んでいることがわかります。
資料
と書いてあります。延壽元年で西暦 451 年。それから、好太王の
資料 好太王碑文
塚という古墳から出た、蓋の付いている銀の合わせ壺ですが、銘文があって、そこに「太王」
1
には高句麗は「征東大将軍」、大将軍というのは、中国の王朝から言うと2番目の位で、大のつ
いた方が上です。倭の五王のうちの4王がもらっているのは、3番目の将軍です。大がついて
ない、安東将軍です。そして、高句麗は、さらに「開府儀同三司」という位をもらうんです。
倭国の王は、武のときに順帝昇明2年、478 年ですが、倭王が昇進をしたことを書いているん
です。高句麗は、「開府儀同三司」という位をもらったんです。倭国は武のときにやっと安東大
将軍になったんです。言い換えますと、雄略天皇のときに東アジアにおける国際的地位は、百
済と同格になったということがわかるんです。それだけではなくて、『宋書』に書いてあります
ように、
「ひそかに自ら開府儀同三司を仮し」と。もらったわけではなく、自称するんです。一
番上の高句麗のもらっている開府儀同三司を自称して、「その余もみな仮授」と書いてある。雄
略天皇が自分の家来に、中国王朝の承認を得ないで位を与えているということが書いてありま
す。東アジアにおける国際的地位が、5世紀の後半に一段と高まったことがわかる。
それだけではない。稲荷山古墳の文字銘文に、「杖刀人」という官職名が出てきます。江田船
山古墳を見ていただきますと、「典曹人」という官僚の職名が出てきます。杖刀というのは、正
倉院に残っております、天平勝宝3年の『東大寺献物帳』を見ると、儀式のときの刀というこ
とがわかります。杖刀人というのは、大王の側近にいて大王を守る、儀式の刀を持って守る親
衛隊のことです。内廷の官です。典曹人というのは、『三国志』の『蜀書』の中に、典曹都尉と
いう役職があって、調べてみると典曹というのは文字を記録する役人のことです。つまり外朝
きり存在したことがわかる。言葉を変えて申します
と、宮中だけではなくて、政府の役人の構成が既に
5世紀の王朝にはでき上がっていたことがはっきり
わかるわけです。
このように考えてまいりますと、古市・百舌鳥古
墳群、その中心の古墳は5世紀の巨大な前方後円墳。
巨大な前方後円墳が持っている歴史的意義は、日本
国家の成立を考える上でも東アジアの国際関係をみ
きわめる上でも非常に貴重であるということが、ご
参会の皆様にご理解いただけるのではないか。仁徳
陵や應神陵と伝えられている古墳は、日本で最も大
きい前方後円墳です。
ご承知のように、中国の秦の始皇帝陵は既に世界
遺産になっている。ピラミッドの中でも、最も大き
なエジプトのクフ王のピラミッドも世界遺産になっ
ている。世界三大墳墓と言えば、秦の始皇帝陵、ク
フ王のピラミッド、そして堺にございます仁徳天皇
陵と伝えられている巨大な古墳です。
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4
資料 稲荷山古墳鉄剣銘
5世紀の後半には、内廷の役人と外朝の役人がはっ
資料 江田船山古墳大刀銘
の官です。
3
この古市・百舌鳥古墳群が世界遺産に登録されるということは、東アジアの中の日本国家の
歴史を考える上でも非常に重要でありますし、世界の文化遺産としても十分に価値がある。ご
当地の堺市、藤井寺市、羽曳野市の皆さんの誇るべき文化遺産です。どうか世界遺産の登録を
めざして、今後益々ご協力いただくようお願いいたしまして、私の基調講演を終わります。ご
清聴ありがとうございました。
資料
﹁宋書﹂夷蛮伝倭国之条
5
− 15 −