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われて来て、たいていどこのうちでも2つや3つはあったもので、編む人も大勢いました。とこ
くさぎと涙笹のかご
-消えゆく暮らしの文化を守りたい-
美濃加茂市 伊深親子文庫
ろが金物やプラスチックのざるが出回るようになると、このかごは使われなくなり、編むことも
なくなってきました。
福田美津枝
伊深親子文庫では、本を読む一方、日々の暮らしのあり
伊深町には、昔から伝わっている貴重なものがたくさんあります。市や県の文化財になった
方なども語り合ってきました。その中で、絶えようとしてい
もの、地域みんなでお守りしているものもありますが、消え去ろうとしているものもあります。
た「くさぎ」や「涙笹のかご」など、地域に伝わってきた、
そんなものの中の「くさぎ」と「涙笹のかご」についてお話しします。
貴重な暮らしの文化を見直すことにしました。
「くさぎ」のことを調べると、煮ものだけでなく、ご飯に
「くさぎ」は、くまつづら科の小喬木。春先には新芽を出し、夏の間に茂らせ、花を咲かせ、
炊きこんで食べておられることを聞き、
「常山」や「くさぎご
秋には実をならせ、冬には葉が落ちる木です。伊深では、初夏の頃の若葉を摘み取り、ゆでて水
飯」を実際に食べながら、くさぎを知る会を催しました。佐
にさらし、干し上げて保存し、食用にしていました。これは、遥か昔に、正眼寺の開祖様であっ
野えんねさんから伝わっている「えんねパン」に入れたり、
た慧玄さんが、伊深で修業をされていた時に食用にされ、村人に教えられたものでした。
小学校の調理実習では、くさぎ入りオムレツなども紹介して、
乾燥したくさぎは、水につけて戻し、煮て食べます。伊深にある正眼寺では、今でも、戻した
子どもたちにも常山とともに食べて、興味を持ってもらいま
くさぎと大豆を一緒に煮て、「常山」としておときのごちそうにされています。毎年6月1日は
した。秋に実るくさぎの濃紺の実は、昔から染め物に使われ
正眼寺の雲水さん達がくさぎを採る日とされています。
ていることを知り、染め物の講座を開き、その作品を「常山」
地元でも、くさぎはおかずとして重宝されてきましたが、野菜が充分採れ、食べるものに困ら
なくなってからは、だんだん作る人も少なくなりました。
編み上がった涙笹のかご
や「くさぎご飯」とともに、地域の文化祭に展示もしました。
「涙笹のかご」についても、ぜひ、その編み方を教わりたいと講座を開き、講師は、幼い頃か
らかごを編んでこられた地元のHさんにお願いしました。一度で覚えることは難しく、その後、
何度も作ってその技を覚えていきました。かご編みのことを聞きつけて、家にあったかごを持っ
て来てくださる方もありました。
かご編みの材料になる笹は、1メートル以上の長
さのもので、その年に生えたものが1つのかごに百
本は必要です。講座用の笹を何百本も確保すること
は大変でした。くさぎ料理のくさぎも、すぐに採っ
てきて使えるものではなく、初夏の時期に摘んだも
のに、手をかけて保存したものを使います。こうし
摘み採った「くさぎ」の葉
常山(くさぎと大豆の煮物)
た手間のかかることのために、日常の暮らしからは
消え去ろうとしています。
「涙笹のかご」も、慧玄さんにちなんだお話しがあります。慧玄さんが花園天皇に請われて、
さらに、くさぎも涙笹も、昔は伊深のいたるとこ
京の都へ帰っていく時、長年なじんできた牛がその別れを悲しんで流した涙が、傍らにあった笹
ろに自生していましたが、河川改修や田の基盤整備、
にかかり、笹の葉先が白く枯れてしまいました。その笹は「涙笹」と呼ばれるようになりました。
草刈り機の使用などにより、原材料そのものも絶滅
一般におかめ笹といわれるものです。
しようとしています。
かご編みの講習
伊深では、この笹を刈り取ってきて、大きなかご(ざる)に編んで使っていました。少し前ま
しかし私たちは、このような現状の中にあっても、他にはない、伊深の貴重な暮らしの文化と
では、普通の家でも法事や祝い事などで人寄りがよくあったので、たくさんの茶碗や皿を使い、
して、くさぎ料理や涙笹のかごを、日常の暮らしに位置づけ、伝えていきたいと思っています。
野菜物もたくさん必要でした。そんな時、洗った器や野菜などを水切りするのに、このかごが使
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