第 7 号(通巻1242号) [COMMUNION] WEB:http://www.nskk.org/tokyo/index.html 2012 年 12 月 23 日 E-mail:[email protected] 編集:広報委員会 委員長:渡辺康弘 PHONE:03-3433-0987 日本聖公会東京教区 FAX:03-3433-8678 Diocese Office 港区芝公園3-6-18 となったのです。人間が人間 息」が吹き込まれて生きる者 間 は 土 の 形 に 神 様 の「 命 の て 生 き る 者 に な り ま す。 人 き入れられます。人はこうし ち上がる力が与えられている れるために、どんな時にも立 神様は最初に太陽を造った のではなく、希望が明確にさ 伝えています。 によって立ち上がったことを 《クリスマスメッセージ》 ー神は希望のうちに生きることが であるために必要なことは神 光 あ れ できるように私たちを創造されたー には神の霊が漂っていたと伝 神がこの世界を創造され秩 序だてられた時、すでにそこ の存在が光と思わなければな と考えます。そうすると太陽 の夜は太陽が隠れて暗くなる て、その光で明るくなり、闇 息」によって人が立ち上がる こ と が で き る の で す。「 命 の としても、力強く立ち上がる ちは混沌と闇の世界にあった て い た 神 の 霊 に よ っ て、 私 た の霊でした。最初から存在し るように神はいつの時代でも まっています。それに対抗す 福の現実を見えなくさせてし 知恵がこの素晴らしい神の祝 し た。 し か し 人 間 の 浅 は か な との神のみ言葉をまず与えま こ と を 示 す た め に「 光 あ れ 」 主教 えられています。闇が面にあ りません。ところが太陽が造 ことができるようになったこ アンデレ 大畑 喜道 り、絶望であるかのように思 られるのは第四の日です。 「光 えていた。しかし神の霊は水 あれ」と神はみ言葉を の面を動いていた。それは神 与 え ま す が、 そ の 光 は の世界を祝福へと導いておら 秩序を与え、希望を与える神 た。闇が支配するのではなく されていて、希望に溢れてい 界は真っ先に神のみ心に支配 希望であり喜びです。この世 お与えくださいました。光は だろうと考え、真っ先に光を 支配に押しつぶされてしまう が、それだけだと闇の世界の ています。しかし神は私たち の本当の光とは何でしょう れたのです。私たちにとって めに、神は「光あれ」と言わ が明確にされていくた と を 示 す た め に、 そ れ が神のみ言葉にあるこ 動 い て い た。 希 望 の 源 中に神の霊が水の面を 闇、 深 淵 の 状 況 で あ る ではありません。混沌、 太陽を源にしているの と人間として立ち上がるので 骨に神の命の息が吹きまくる に も 示 さ れ て い ま す。 枯 れ た とは、預言者エゼキエルの幻 られた。それに応答していく のです。光り輝く救いが与え てイエスはこの世に降られた いるのです。そのしるしとし 私たちにとって光をいただく 人生は、年を重ねても、どん なことがあっても変わらずに 喜びです。教会は光をいただ き、 世 の 人 々 に 救 い の 喜 び を クリスマスおめでとう。 証して行く使命が与えられて 1 「 光 あ れ 」 と 言 わ れ 続 け、 こ が支配されていたことを示し の言葉、そしてそれを明確に か。 者となりましょう。 れるのです。そして私たちに 示す光が与えられていたと創 す。新約の世界でも、力を無 大 切 な 使 命 を 与 え て い ま す。 世記で示されます。 くしているお弟子達が神の息 私たちは昼には太陽が出 最後に神は土の塵で人を形 づくり、その鼻に命の息を吹 右は武藤謙一九州教区新主教(12/1 按手式にて) レット教会では、スワヒリ語による聖 クリスマスは家族が相集い、教会は 礼 拝 参 加 者 で あ ふ れ ま す。 聖 マ ー ガ 盛んです。 飲み物がたくさんふるまわれ、歓待が す。この時期は大変賑やかで、食事や くなってきて、またクリスマ 最近、イエスのご生誕を描 いたクリスマスカードが少な プインを設けて レン達がドロッ ンターのチャプ 含んだものです。 ジョンソン 友紀 私達の町のショッピングセンターで Lay Minister は、毎年タウンセ 聖餐式ではクワイヤーがクリスマス す。 子 ど も た ち も 新 し い 服 を 着 ま す。 す。それはまた私たちが愛する人びと 持っている一番よい服を着て集まりま どりの花や衣で飾り付けられ、会衆は キリスト者にとっては、クリスマス は救いを受けるよい知らせの季節で 連れてきて親戚や近所の人に紹介しま イギリスのクリスマス 餐式は朝8時に始まり、聖卓は色とり スの本来の意味をあまり考え い ま す。 厳 し い ドルと、たいへん貴重なメッセージを 日本語英国教会 ない人々が多くなってきまし 経済状況の中、商 ス に 向 か っ て、 そ れ ぞ れ の 教 会 で は、 店に働く人々の個々の声に耳を傾ける という知らせを皆様にお伝えください。 イエスキリストが私たちの救い主で あ り、 私 た ち の 生 活 の 道 し る べ で あ る で は、 生 誕 Crib Service の 物 語 を た ど り な が ら、 ネ としています。 東アフリカ ・タンザニアのクリスマス またに届くように。 河島 ローズ フィリピンのクリスマス (聖マーガレット教会スワヒリ語会衆より) 機会を提供しています。「世の光」がち と会うことができる時なのです。 た。そういった中、クリスマ ) ) で す。 祝 い 方 は フ ィ リ ピ ン 人 独 特 で、 フィリピンではクリスマスは非常に 愛され、最も楽しみにされている祝日 私たちの聖マーガレット教会は、ア フリカ最高峰のキリマンジャロ山のふ 家族や愛する人達、信仰がその中心に イティビティを祝福します。 ( 徒リーダー ティト・ハウレ 信 ネイティビティのセットは、 ジョンズ・カレシュ 教 ( 会委員 ズ や 様 々 な 素 材 が あ り、 興 もとにあるモシ市にあります。この国 教会によって異なったサイ 味深いものが多々あります。 あります。家族や親戚、友人との楽し 実 り を 示 す 果 実 や 菓 子、 オ 示 す 4 本 の 爪 楊 枝、 地 上 の 界 を 示 す オ レ ン ジ、 四 季 を も の は、 神 の 創 造 さ れ た 世 の働きに捧げられま Society す。 参 加 者 全 員 に 渡 さ れ る ります。この時は電灯を消してローソ 式は夜中続けてクリスマスの当日に至 餐式がありますが、ある教会では聖餐 習を続けます。クリスマスイブには聖 行なうキリストの誕生を祝う聖劇の練 月の初めの クリスマスシーズンは 降臨節から始まり、クリスマスイブに 伝 統 的 に は、 ク リ ス マ ス は 最 初 の 式も行なわれるのが常です。 夜明け前のミサ の ク リ ス マ ス は 家 族 の 集 ま る 時 で す。 Simbang Gabi( ) あ る 家 族 は 1 0 0 0 キ ロ も 離 れ た 所 か 月 日 に 始 ま り ま す。 こ れ は 特 別 な 恩 されます。この時、子どもたちの洗礼 キリスト教伝道を中心としたものが話 メッセージを伝える歌を歌い、説教も きます。 9月に始まり翌年1月の顕現日まで続 ズ ン を 過 ご す こ と で 知 ら れ て い ま す。 い集いの時なのです。フィリピン人は レンジを囲むリボンは神の クをつけ、キリストの生誕の夜を再現 ク リ ス テ ィ ン グ ル 礼 拝 タンザニアには多様な文化と多くの宗 は、 献 金 が The Children's 教があります。 愛、 そ し て「 こ の 世 の 光 で します。 住んでいた村に新しく生まれた幼子を らやってきます。またある家族は前に このミサが完了すると、お捧げした者 寵 を 戴 く た め の 9 日 間 連 続 の ミ サ で、 12 ま た、 世 界 で 最 も 長 い ク リ ス マ ス シ ー あるイエス」を示すキャン 16 12 2 ご降誕の大切な意味を人々に伝えよう - 世界のクリスマス便り - の願いを神様はきっとかなえてくださ 月 日の クリ Bisperas ng Pasko( ると信じられています。 スマス イ ・ブ は ) 、夜 時から真夜中 時の間の深夜ミサで執り行われま の 歳 以 上 は「 大 人 」 と み ミ サ を 迎 え る ま で の 時 間 を 利 用 し て、 なされる)を含めて 大学生など る充実ぶり。ところで劇中の「3人の マ ス イ ブ の 夕 の 礼 拝 を 終 え て、 深 夜 の 教会の周りに2~3人ずつペアになっ 博士」は一般信徒にお願いしようとい か っ た( 笑 )。 そ れ で も 柄 だ け は ク リ スチャンだった。イースターにはゆで てクリスマスの挨拶や贈り物を分かち うことに教師会で決定した結果、 名が毎週奉仕す 卵に絵を画いて大人に売り(ほぼ押売 合 う た め に 出 か け た 時 の こ と だ。 私 は のジョセフ、 歳 市役所前の大通りにあるバス停担当に 代半ばの事故で「上半 15 な っ て、 先 輩 た ち に つ い て 行 っ た。 停 授アイオナ、 身 し か 稼 動 し な い 」( 本 人 談 ) 大 学 教 を過ぎてから失明され 車するバスのドライバさんやアンネヤ 友人や近隣の人が「クリスマスおめで す る ひ と 時 で す。 そ れ は ま た、 親 戚、 焼きそば 等) です。 野菜の肉巻 、) pancit( これは家族全員でうけたお恵みに感謝 る の だ。 み ん な 興 じ た 聖 夜 に 楽 し む 時 し、 今 で も 鮮 明 な 記 憶 と し て 残 っ て い 対照的に温かかった感謝の言葉と眼差 の 凍 り つ い た 冷 た い 手 と、 あ ま り に も 物 袋 を 手 渡 し た。 そ の 時、 そ の 人 た ち 合わせとクリスマスカード入りの贈り た ) に お 菓 子 と み か ん、 飴 な ど の 詰 め いって若いお姉さんたちが1人づつい ン( 案 内 嬢、 当 時 は バ ス ご と に 車 掌 と てきた。もうひとつは、海辺の聖ジョ かも」と感じ始めている空気が伝わっ リ ス マ ス と は、 現 実 を 生 き る こ と な の た 人 々 で さ え 一 瞬、「 ひ ょ っ と し て ク もの」としてキラキラな礼拝を見に来 いた私にも、クリスマスを只「楽しい てヨネオのエスコートとして一緒に歩 椅子でしずしずと続くアイオナ、そし ゆったりと歩くジョセフ、その後を車 たヨネオの3人に決まり。中央通路を 日まで続きます。 ココア 、 ハ ズ 、 ) tsokolate( ) hamon( 豚 の 丸 焼 き 、) adobo( 豚 ム 、) lechon( チーズや や 鶏 肉 の 煮 込 み 、) morcon( とう」のお祝いをするために訪問し合 間なのに働く人々がいるという事実に初 祝祭は 月 を 深 め る 時 間 な の で す。 る孤児院を訪問したりした。 ちょっと天使が訪ねてきた時だった。 ハワイのクリスマス 活躍。彼等がクリスマスの物語を現代 代で妊娠し たマリアと、彼女とつきあい始めたも の の 父 親 で も な い 彼 氏 が、 途 方 に く れ つ つ も、 マ リ ア を 見 捨 て る こ と な く、 司祭 上田亜樹子 ふたりで町を彷徨った挙げ句、ショッ ク リ ス マ ス と 言 え ば ペ ー ジ ェ ン ト、 ピングモールの駐車場で出産の時を迎 2つの想い出をご紹介したい。まずは える、という劇を書き上げた。クリス 企 画 が 始 ま る。 そ の 中 で 自 分 に と っ て れ、 一 方 で は、 ク リ ス マ ス パ ー テ ィ ー 私は、小学校6年生の時から教会に 熱心に出席し始めた。正直まだ信仰と 人位)のに、 ものにしては、本当の喜びは見えなく マスは、私たちの内にある痛みを亡き 小さい(主日礼拝出席は が あ る。 中 学 2 年 生 の こ と だ。 ク リ ス ホノルルにある聖マーク教会。比較的 は言い難く、同年代や先輩 後 • 輩など、 鮮 烈 な 印 象 を 残 し た ひ と つ の 出 来 事 に 学生の集まりに興味があったのであろ 韓 国 で は 好 消 息 と 呼 ぶ キ ャ ロ ル リ ン グ う。 特 に 同 じ 学 年 に は 女 子 学 生 も 多 日 曜 学 校 教 師 は ユ ー ス( = 中 高 校 生。 なる、という性質のものかもしれない。 50 月前からページェントの準備が開始さ な ん と 言 っ て も、 や は り 学 生 時 代 の 教 会 活 動 の 白 眉 は ク リ ス マ ス だ! 数 ヶ て パ ー テ ィ ー を 楽 し み た い 幼 い 心 に、 風に「翻訳」した結果、 早 く 手 元 の 袋 を 配 り 終 え、 教 会 に 戻 っ め て 気 づ か さ れ る 瞬 間 だ っ た。 思 え ば、 ン教会でのこと。ここでもユースは大 うオープンハウスでもあります。この 族は伝統的なクリスマス イブ料理 ・ チー を い た だ き ま す。 queso de bola( が一般的です。ミサから帰った後、家 す。家族全員でこのミサに出席するの 10 クリスマスは、家族や愛する人達と、 、その売り上げでソウル郊外にあ 分かち合い、与え合い、楽しみ、友情 り ) 25 韓国のクリスマス風景 司祭 柳 時京 10 12 3 92 24 18 30 80 12 12 真 司祭と語ろう (特別編) 主教 竹田 今回は「司祭と語ろう」のク リ ス マ ス 号 特 別 企 画 と し て、 竹田真主教の中央区佃にある お 宅 を 訪 ね て お 話 を 伺 っ た。 聞き手は特別に神﨑雄二司祭 にお願いし、広報委員長の渡 辺康弘と2人でおこなった。 竹田主教らしい言葉遣いと示 唆 に 富 ん だ 表 現 に 溢 れ、 楽 し いひと時となった。 竹 田 今 日 は、 何 を し ゃ べ っ てもいいのかい。 渡辺 はい自由に語り合って い た だ い て、 載 せ て ま ず い と ころは編集いたします。(笑) 神 﨑 僕 は、 い つ も 主 教 さ ん の 説 教 に は、 お 決 ま り の 文 句 ではない何か心に残るものが あり好感をもっていました。 ましたか。 渡 辺 説 教 を す る 上 で、 何 か 心がけていたこととかはあり 渡辺 今は比較的真面目な人 が 神 学 院 に 行 き ま す が、 昔 は あったね。 (笑) の は 命 が け だ、 と い う こ と も て と こ と ん や れ、 牧 師 に な る 竹 田 そ ん な も の は な い よ。 昔からあまり準備をしない 少しはみ出した人が神学院に 渡 辺 な る ほ ど、 元 気 で と い うのは「心を楽しく輝かせる」 で、 電 車 の 中 で 何 を し ゃ べ ろ 行っていたという印象があり 竹 田 そ う か も し れ な い ね。 こ の 前、 宣 教 協 議 会 を し た の 神﨑 そこから力をいただい て、 教 会 で も 新 し い こ と を す 渡辺 でもその熱意に人は動 かされるんですよ。 う か と 考 え て い た。( 笑 ) だ ます。 (笑) 題だけど、そんな時こそ、もっ るのは老人が多いです。 す。 高 齢 化 と い う の も 理 由 な か な、 人 数 が 少 な い こ と も 問 神 﨑 で も、 僕 等 の 頃 は 苦 し かった。一つ覚えているのは、 んでしょうか。 神﨑 真面目ではない模範的 な信徒ですね。 ずっと言ってきた。 竹 田 そ う、 僕 は「 祭 り 」 と い う 要 素 を 大 切 に し た い と、 すよね。 ことで、そのためにする「騒ぎ」 か ら、 説 教 集 を 出 し て 欲 し い 竹 田 特 に 大 学 紛 争 の 頃 は、 学生は何かと闘うという気概 と気を楽にして取り組んだら と い う の は「 祭 り 」 の こ と で と 言 わ れ て い る が、 書 い た も を 持 っ て い た か ら ね。 今 は 神 いいと思うけど。 竹田 今は教会も真面目にな りすぎている気がするね。 のは何も残っていない。 学生も教会も大人しくなった。 竹 田 確 か に、 模 範 的 な 信 徒 が老人の中にはいるよ。 渡辺 その辺が教会が伸び悩 んでいる原因なんでしょうか。 神﨑 説教の原稿は作らない んですか。 その辺がちょっと不満だな。 渡 辺 人 数 は と も か く、 教 会 に元気があればいいと思いま 月に一度の説教を秋葉司祭が 校 長 の 所 に 行 っ て、 思 い の た 竹田 自分の書いたものを読 む の が 嫌 で ね。 で も 榛 名 で は 録 音 し て 文 章 に し て く れ る。 い な い よ。 み ん な マ コ ち ゃ ん 竹 田 そ う、 特 に 榛 名 で は 僕 のことを主教なんて呼ぶ人は と 呼 ん で く れ る。 あ る 修 女 さ け を ガ ー ッ と 言 っ た ら、 た っ むしろ若い人の方が元 で も、 そ れ を 読 む の が、 ま た た一言「お前がやればいいじゃ 渡辺 竹 田 い や、 今 は 榛 名 に い る けれど、老人は皆、元気だよ。 ないか」と言われた。 みんなに支えられて卒業でき こ と は、 多 少 強 引 に な っ て も 神﨑 そんなものはないよ。 渡辺 その時の校長の一言が、 今の神﨑司祭の自分のしたい て霊性とはなんでしょうか。 渡辺 大畑主教も霊性というこ とをよく言いますが、主教にとっ 目すぎても霊性は無くなるよ。 。 気がないと ・・・ 竹 田 真 面 目 に や り す ぎ て、 面 白 く な い ん だ ろ う な。 真 面 こと ど 、 いけ りで は余 ち の 頃 は、 ど う に も な ら な い 奴 が 神 学 院 に 行 っ て、 何 と か 言う きな 動き んはもう百才を過ぎていて身 た。 優 秀 で な い 者 が 選 ば れ て やるという考えに繋がってい 竹田 あれは元気でやれとい う 促 し だ よ ね。 礼 拝 と い う の は一 用 い ら れ た。 そ ん な 時 代 の 校 んるですね。 (笑) はみんなでやる騒ぎだからね。 番元 嫌なんだな。(笑) 神﨑 僕は原稿を書きますが、 それは同じ説教をしないよう 長で大変だったと思います。 神﨑 そうよく人に言われま す よ、 お 前 が 動 け ば 動 く ほ ど あとユーモアも必要だよ。 渡辺 校長として何の細かい アドバイスも無くですか。 竹 田 そ う、 食 事 中 に 殴 り 合 い の 喧 嘩 が は じ ま っ て、 こ こ 人に迷惑がかかると。 (笑) に す る た め で す。 あ と、 僕 た で す る と 迷 惑 だ か ら、 外 に 出 4 て、 あ の 人 と 話 す の は 楽 し み 気 が い い。 し か も 霊 性 が あ っ 渡 辺 教 会 が、 そ う い う 人 た ちにどうやって命を与えるこ いるような人もいますね。 ありますよ。 神﨑 日本のキリスト教に とって命綱のようなところが 気付きも無くなってしまう。 竹田 そういう学びがあった ね。 内 向 き に な る と そ う い う が校長の愛情だった。 塚 田 先 生 に は、 は っ き り と 言 わ れ ま し た よ「 君 は 勉 強 す だ よ。 ま た 元 は 看 護 婦 で 認 知 る 気 が な い の な ら、 も う 郷 里 その自立のために喫茶店を開 渡辺 もう一つぜひお聞きし た い の は、 主 教 さ ん の 思 う 牧 年はみんな働いているんだか い て い る。 今 度、 2 号 店 も で 師にとって大切なこととは何 神﨑先生はそこで何を一 に 帰 り た ま え。 君 の 年 頃 の 青 渡辺 あ と 韓 国 も よ か っ た ね。 今 は発展したけど、元気がある。 ら 」 と。 で も 後 に、 そ の 彼 か とが出来るでしょうか。 番学ばれましたか。 神 﨑 今、 韓 国 の G F S が 一 生 懸 命 し て い る の は、 脱 北 し ら立教に来ないかと言われた。 症 の 方 も い る け ど、 普 段 の 行 竹 田 や は り、 死 ん で も 生 き ているという人を教会の中心 神﨑 やはり霊性ということ ですよ。生活は貧しいけれど、 た人たち、多くは女性ですが、 ある。 きたんですよ。 でしょうか。 竹 田 子 ど も の 遊 び で も、 障 害のある子が隔てなく一緒に に 置 く こ と だ な。 み ん な ケ ア その中にキラッと光る霊性が 動の中に看護の精神を持って いて、とても霊性を感じる。 の対象にしてしまっている。 神﨑 だから主教さんの言う 「 い と 小 さ き 者 」 と い う の は、 渡辺 その人の姿を見て生か されるということですか。 神﨑 認知症であっても霊性 があるというのは素晴らしい ですね。 竹田 信仰に生きた人は認知 症 に な っ て も、 霊 性 だ け は 残 るんだな。 な く、 生 き た 流 れ の 中 で 捉 え た ま す か。 僕 は、 死 ん で か ら で は 活 と い う の は、 ど う 繋 が っ て き 神 﨑 校 長 の 時、 フ ィ リ ピ ン か ど こ か に 行 か れ て、 帰 っ て なっている気がする。 竹田 やはり内向きになって い る の か な。 信 仰 も 内 向 き に あ と、 僕 は 国 際 的 な 関 わ り が大切だと思いますが。 る存在なんだよ。 く、 私 た ち に 命 を 与 え て く れ 遊んでるんだよ。 神﨑 僕はそんなドグマを構 築するなんていうレベルじゃ なものになってしまう。 を す る 学 問、 デ ィ フ ェ ン シ ブ 色 ん な 答 え が あ る の に。 弁 解 に な る。 人 間 の 問 題 は 複 雑 で う ん だ な。 す る と 答 え も 同 じ を構築する場所になってしま 分 の 立 場 を 守 る 神 学、 ド グ マ な っ て し ま う 危 険 が あ る。 自 竹田 昔から言っているんだ け ど、 神 学 校 が 防 衛 神 学 校 に と、 あ ま り 苦 し ま ず、 気 楽 に く だ さ い と い う こ と か な。 あ 竹 田 そ れ は 困 っ た な。 ま あ 体に気をつけて元気でやって をお願いします。 渡辺 そろそろお時間ですが、 最後に大畑主教にメッセージ とだけどね。 だけでなく信徒にも必要なこ こ と か な。 た だ、 そ れ は 牧 師 うことを身をもって生活する て神さまの子どもであるとい 渡辺 今の神学生に望むこと とかはありますか。 竹 田 難 し い こ と を 聞 く ね。 ( 笑 ) ま あ 復 活 は、 人 が キ リ ス き た ら 僕 た ち に「 俺 の 神 学 教 神 﨑 言 葉 が 通 じ な く て、 な かなか親しくなれず一人でい な か っ た。 神 学 院 の 3 年 間 は やってください(笑) 、と。 遠くにいて助ける存在ではな トによって新しく生かされた 育にはアジアという視点が抜 た 時、 子 ど も た ち が ビ ー ル の 自分の中に言いようもない闘 そういう流れの中で、復 ということだからね。 け て い た 」 と 言 い 放 っ て、 学 王 冠 を 潰 し て 遊 ん で い て、 そ い と 混 乱 が あ っ て、 校 長 は そ 渡辺 わかりました。主教様、 神 﨑 先 生、 今 日 は ど う も 有 り 神﨑 渡 辺 あ る 意 味、 老 人 の 方 は 第 二 と い う か、 新 し い 人 生 を 生全員をフィリピンに連れて れを淋しそうにしている僕に れをじっと見て見ぬふりをし 難うございました。 竹 田 そ う だ ね ぇ、 基 本 的 に は 人 間 を 愛 す る 気 持 ち。 そ し 生 き て い る し、 純 粋 に 信 仰 と 行った。 く れ る ん だ よ。 救 わ れ た 気 持 な が ら 見 守 っ て く れ た。 そ れ 向き合う時が与えられている 竹田 あの時はお金が無くて 大 変 だ っ た け ど ね。 で も ア ジ ちになった。 いるんだな。 竹田 そういう人は榛名には 沢 山 い る よ。 死 ん で も 生 き て いと思っているんですが。 気がします。 アとの交流は必要だと思った。 神 﨑 逆 に、 若 く て も 死 ん で 5 司 [ 祭のこの一冊 ] 『小さくされた人々の ための福音』 本田哲郎訳、 新世社2001年刊 司祭 前田良彦 本田哲郎神父の訳されたこ の「小さくされた人々のため の福音」を改めて紹介するま ではないのでは?と思いつつ 試 み と、 付 録 そ し て あ と が きからお読みになるといいで しょう。 聖書の中でキーワードとな る言葉を新しい訳語で用いて い ま す。 洗 礼、 悔 い 改 め る、 罪、愛、という大事な言葉が 本来の意味と日本語に翻訳し たらどの言葉が良いのかが記 されています。全部をここの スペースではお伝えすること は出来ませんが、一つだけご 紹介したいと思います。 やファサイ派の人々が律法 神殿の境内で人々を教え るイエスのもとに律法学者 十字架に付けられ ようとする時イエス 行うことが出来ま 司祭のもとに行き」 「牧師またはほかの される方はご自分の 仕 の 務 め で す。 希 望 会における司祭の奉 り ま す。 こ れ は、 教 かでない人々に道を開いてお せて、前述の方法では心穏や 299頁に「個人懺悔」を載 聖公会の祈祷書は298~ 般懺悔」を行いますが、日本 夕の礼拝、聖餐式の中で「一 けましょう。私達は通常、朝 まに申し上げて、ゆるしを受 わかった罪は、はっきり神さ 質(愛)を示されました。こ 達を大切にして下さる神の本 活 を 通 し て、 こ れ 程 ま で に 私 エスは口先で教えられたので ら、 際 限 な く と い う 意 味 ) イ ま し た。( 7 は 完 全 数 で す か してやりなさい」と教えられ な た の と こ ろ に 来 る な ら、 赦 「悔い改めます」と言ってあ 対 し て 罪 を 犯 し て も、 7 回、 さ ら に「 一 日 に 7 回 あ な た に 回 赦 せ 」 と 言 っ て い る 中 で、 の ユ ダ ヤ 教 の ラ ビ た ち が「 3 い 」 と 教 え ら れ ま し た。 当 時 し て、 悔 め ば 赦 し て や り な さ 罪 を 犯 し た ら 戒 め な さ い。 そ イ エ ス は 弟 子 達 に「 兄 弟 が す。「仏の顔も二度三度」と。 のゆえに限度を設けたがりま す。 私 達 は 人 間 と し て の 弱 さ 「 わ た し も あ な た を 罪 に 定 めない」 違 反( 姦 淫 ) の 現 場 で 捕 ら は「 父 よ、 彼 ら を お のイエスを信頼してゆるしを を 試 そ う と し て で し た。 イエスはかがみ込み、指 で地面に何かを書き始め られました。彼らがしつ こく問い続けるのでイエ スは身を起こして「あな たたちの中で罪を犯した こ と の な い 者 が、 ま ず、 この女に石を投げなさ い」と言われた。ある説 では彼らがイエスが何を 書いておられるかを覗き 込むと何と、彼らの不倫 相手の名前であったので驚 ) え た 女 性 を 連 れ て 来 ま す。 赦 し く だ さ い。 自 分 受 け、 心 の 目 を 開 い て 頂 き ま ( ヨ ハ ネ 8・1 ~ 石打の刑を行うためイエス が何をしているのか す。 ・ しょう。そうすれば、誰に対 知 ら な い の で す。」( ル カ さいました。このことによっ 父のみ心(愛)を示してくだ した。十字架の死を通して御 生きる私達のために祈られま をお迎えする備えを致しま 私達のために来てくださっ た主イエス=キリストの誕生 らせていただけます。 して損害を与えているかを悟 いて一人一人立ち去ったと て、際限のない赦し=真の愛 しょう。 の時に、居住まいをただして 真偽の程はさておいて、ク リスマスを迎えようとするこ きちんと自分自身を見つめて の世界への道が開かれたので なくご自身の十字架の死と復 )と兵士だけでなく現代に 11 〈聖書を開いて〉⑤ み る と わ か る 罪 も あ り ま す。 言われている。 司祭 佐々木 庸 まだ触れたことにない方々に ご紹介したいと思います。フ ランシスコ会の管区長であっ た本田神父が全国に散らばっ ているブラザーを訪問すると い う こ と で、 山 谷 コリントの第1の手 紙の 章の愛の賛歌と 呼ばれる一部分をお読 みください。 「人を大切にするとは、 忍 耐 づ よ く 相 手 を す る こ と。 人を大切にするとは、思いや りをもって接すること。人を 大 切 に す る と は、 ね た ま ず、 う ぬ ぼ れ ず、 思 い 上 が ら ず、 めざわりなことをせず、自分 の 利 を 求 め ず、 い ら だ た ず、 人の意地悪を根に持たず、人 を不正に抑圧して喜ばず、と もに真実を喜ぶこと。」(4~ 5節) 目からウロコです。どうぞ 手にして見てください。 6 や釜ヶ崎の人々と 出 会 う な か で「 通 じない聖書」の言 葉にショックを受 けたのです。何とかこの人々 に聖書の思いを届けたいと思 い翻訳をされたのが、この書 で す。 「この苦労をなめつく してきたせんぱい、仲間の労 働者に『福音』のすごさがピ ンとくる聖書があれば…」 (5 頁)という思いがこの聖書の 出発点です。もし購入して読 んでみたいと思われたら、聖 書本文からではなく、はしが き、新しい訳語、言い回しの 23 「赦し」こそ神の本質 34 13 に連なってくださる方が一 で頂いて、いつの日か教会 す。コンサートに足を運ん 会場としても利用していま きも良いので、コンサート 2004年に新築した 聖堂は、天井が高く音の響 牧して頂きました。 はじめ多くの司祭様に司 主教になられたお二方を 父、 五 十 嵐 正 司 師 父 な ど そ の 間、 教 会 は 竹 田 真 師 食の材料にな 感謝祭の捧げ は、まさに収穫 ます。その野菜 野菜を作ってくださってい るのが上手な信徒が四季の 部が畑なので、お野菜を作 います。まわりの土地の一 また、鑓水集会所では礼 拝と聖書研究会が行われて も願っています。 に足を向けてくださること した。幼稚園から教会の方 き、礼拝と愛餐会をもちま 収穫感謝祭礼拝に親子を招 日の主日は幼児祝福式と で し ょ う。 わ が 教 会 で は くの教会がかかえる問題 働きたい…というのが多 持ちはもっと外に向けて ればというのが常です。気 が安泰に運営出来さえす 会内 的教 比較 で 、 まり の集 (ガラシャ玉子 蒲池美喜子) 願っています。 もって行っていきたいと 継続できる努力を祈りを の 一 歩 だ と 思 っ て い ま す。 し た。 外 に 向 け て の 働 き を9月から月2回始めま 作 り、 送 ろ う と い う こ と フェのために焼き菓子を として同地で展開するカ ジェクト新地ベース支援」 物 に な り、 昼 ウエルビー師は 1956 年生まれ。石油業界で 11 年間活躍したが、 フランスで生後 7 か月の娘を交通事故で亡くした後、「召命」を受 け会社を辞め聖職になった。 「和解仲裁の専門家」として知られて いる彼は西アフリカの油田事業に関わった経験からアフリカ諸国 の葛藤仲裁と和解のために努力してきたという。彼の企業運営経 歴から危機管理能力と外交術に対する期待が高まっている。英国 を始めとする世界聖公会コミュニティーが悩んでいる分裂の問題 の打開策として「管理者型」の主教が選ばれたと言ってもよいだ ろう。今日の世界は多様な価値観と思想、考え等によって豊かに なった半面、分裂と争いが絶えない。だからこそ次世代のリーダー には和解と仲裁という役割が期待されていると言っても過言では ない。しかし「和解仲裁の専門家」と言えばやはり「イエス・キ リスト」を抜きにしては話にならない。私たちの間に宿られた主 イエス・キリストこそが「真なる」和解仲裁の専門家である。今 年の降誕日は改めて和解仲裁について考えてみたい。 宣教主事・司祭 卓 志雄(タク・ジウン) 「 い っ し ょ に 歩 こ う! プ ロ 人でもいらっしゃるといい り、私たちが買 わせていただ 座式は主教トマス・クランマー日である来年 3 月 21 日に行われる。 1 0 0 周 年 を 迎 え ま し た。 幼稚園のご父母とは、今 年は「ふれあいバザー」と なぁと願っています。 月 称し共に働きました。 いた収益は、一 部、東日本大震 災の義援金に もなっていま す。多くの豊か な実りをもた らす神さまと ファーマーに 感謝!です。 「芝公園の窓から」 ② 八 王 子 復 活 教 会 は、 多摩グループ5教会 日に100周 今井蒸治司祭が八王 子ミッショナーをさ れている鑓水集会所 が あ る、 教 区 事 務 所 から一番遠くに位置 する教会です。 教 会 の 創 立 は 1 9 0 8 年、 元 立 教 小 学 校 校 長・ 伊 藤 高 清氏の厳父伊藤堅逸 司祭の司牧(1921 ~67年)を経て 先日英国聖公会ダラム教区のジャスティン・ウエルビー(Justin 18 教 会 は、 い ろいろな人々 7 に 学 校 法 人 化 さ れ、 月 10 年を迎えた幼稚園と 11 2008年に創立 11 の 一 つ で、 本 年 4 月 ようこそ 八王子復活教会へ 私たちの教会[3] Welby)主教が第 105 代のカンタベリー大主教に任命された。着 笹森 田鶴 信 仰 共 同 体 で あ る こ と で す。 聖公会の特徴は、会議性を 尊重しつつ主教制を保持する 環を担っています。 通 し、 東 京 教 区 の 働 き の 一 礼拝等関する準備や実施を 役 者 逝 去 記 念 聖 餐 式、 新 年 礼 拝、 聖 週 の 礼 拝 ) 教 区 教 拝( 降 臨 節 前 や 被 献 日 前 の 各主日) 、教会暦の特別な礼 よって、教区主教の職務全体 いるすべての聖職の働きに どに教区主教より派遣されて 礼拝堂、関係学校や諸施設な の一部を任せられて各教会や 示すように、教区主教の職務 会の集合体でキリストの体を 提条件となります。教区が教 事や伝道師の働きの補完が前 ての職務執行は、司祭団、執 で、 関わる諸委員会との連携の中 こ と は 既 知 の 事 で す。 教 育 に が重点課題として挙げている 信徒の教育の充実を教区主教 められます。そのために聖職 して生かされていくことが求 体的な教区の宣教の担い手と 成長し続け、一人ひとりが主 して東京教区がこの機に更に 拝を中心とした信仰共同体と 究。 そ の 他 教 区 主 教 よ り 委 との連携による祈祷書の研 究、祈祷書改正教区モニター 全 般 の 資 料 収 集・ 翻 訳・ 研 国 聖 公 会 の 法 規 研 究。 礼 拝 聖 堂 の 礼 拝 奉 仕 者 研 修。 米 などの継続的学び)、主教座 続 神 学 講 座 B( 聖 書、 礼 拝 神学的視点からの学び)、連 講 座 A( 同 じ 課 題 の 様 々 な る礼拝が当然ながらその活 とりわけ教区主教の施行す る 東 京 教 区 に 不 可 欠 な 礼 拝、 キリスト教信仰共同体であ る こ と が 主 な 活 動 内 容 で す。 区主教の職務遂行を補佐す 位 置 づ け ら れ て い ま す。 教 教区主教の諮問機関として 「東京教区施行規則」により 教区主教の存在です。 を バ ラ ン ス よ く つ な ぐ 要 が、 て会議性と主教制のこの両面 教の職務を補佐します。そし に主教座聖堂があり、教区主 主教制の具体的な執行のため る教区会があります。一方で 教役者も一堂に会して行われ す べ て の 教 会 が 代 表 を 送 り、 学的立場でもあります。 ことは、聖公会の基本的な神 によって教区主教が存在する 職たちに分かち合われた職務 ていく所存です。 めをひとつひとつ誠実に行っ えて主教座聖堂のなすべき務 ◇ ◇ ◇ よりお願いいたします。 皆様の祈りによる参加を心 託 さ れ た 諸 活 動 を 行 い ま す。 が果たされていくのです。聖 動 の 中 心 で す。 礼 拝 は、 そ また聖公会の主教制自体も 会議性を保持しています。聖 年後の東京教区を見据 会議性の具体的な組織として れぞれの信仰共同体の関心 公会の主教制は、教区主教と するようになりました。つきましては信徒のみなさんにご 信徒「わかりました。私は傘を 20 本寄付いたします」 寄付をお願いしたいのですが」 2.あだ名 信徒 B「いや、あだ名だよ」 信徒 A「どうして、そんなあだ名がついたんだい」 信徒 B「実は、みんなにうちの妻といる普段の姿を見られちゃっ 信徒 A「それが、どうしてイザヤと関係あるんだい」 てね」 信徒 B「どうも、 その姿が『苦難のしもべ』に見えたらしいんだ」 牧師「すみません。今日の“山上の説教”についての説教は要 信徒「これが本当の“惨状の説教”ですね」 点もまとまらず、ひどい内容でした」 日発行予定 や 宣 教 課 題、 教 会 形 成 の 中 いう個人的な存在のみに委ね 牧師「この教会も、だいぶ痛んできまして、礼拝堂に雨漏りが 10 3.山上の説教? ※次号は2月 心 が 表 現 さ れ、 神 と 人 と に ら れ る も の で は あ り ま せ ん。 今後、聖職の減少など、教 区の状況が大きく変化するこ 1.雨漏り 礼 拝 実 施 の 他、 連 続 神 学 奉 仕 す る 重 要 な 場 で す。 主 信仰共同体の霊的指導者とし とが予測されています。どの 教 座 聖 堂 で は、 聖 職 按 手 て、また教区の一致の象徴と なのかい」 式、 教 区 合 同 堅 信 式( 復 活 信徒 A「君は、みんなからイザヤと呼ばれているけど、洗礼名 ような状況であろうとも、礼 光の礼拝(11 月 25 日) して存在する教区主教のすべ 聖アンデレ主教座聖堂は、 主教座聖堂主任司祭 前、 昇 天 後、 降 臨 節 第 3 の ちょっと聖書、ときどきユーモア(四) 8 10 主教座聖堂の働き
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