私が新入社員だったころ

私が新入社員だったころ
■新編集講座 ウェブ版
第25号
毎日新聞大阪本社 副代表(元編集制作センター室長)
2015/4/1
三宅 直人
春 4 月。進学や就職で新しい生活を始める方、異動で部署が変わる方も多いと思います。そこで今回は、34 年前、
私が毎日新聞社に入社した時の経験をお伝えすることにしました。元々は、記事が書きたくて新聞記者を志した私。
当時は整理部(紙面編集の担当部)の存在も知らなかったのですが、研修の期間中、整理部と関係する出来事が
いくつかありました。結果的に整理部には通算 20 年以上在籍することになったのだから、不思議な縁を感じます。
■ 特殊無線技師乙
東
京
・
竹
橋
の
毎
日
新
聞
東
京
本
社
私は 1981 年 4 月に入社しました。いえ、
「4 月」と書きました
が、まだ正式入社前の 3 月中旬、東京本社に招集され、早稲田大
近くにあった寮で合宿生活することから記者人生がスタートしま
した。寮に着いたのは夜。心細い思いをしたのを覚えています。
当時は携帯電話など影も形もない時代。取材現場と支局・本社
の通信に業務用の無線が使われており、新入社員は会社で講座を
受け、無線免許を取得する決まりだったのです。
「メリット5(雑
81
年
3
月
31
日
の
号
外
。
「
狙
撃
さ
る
」
の
表
現
が
、
今
と
な
っ
て
は
古
め
か
し
い
音がない状態)
」とか何とか、にわか勉強の結果、無事に試験に合
格。
「特殊無線技師乙」の免許を取得しました。確か免許証も交付
されましたが、会社で一括保管すると聞き、そのまま 30 年以上た
ちました。あの免許はまだ有効なのか、ちょっと気になります。
■ 「レーガン狙撃」の号外配布
無線試験も終わった 3 月 31 日。翌日の入社式を控え寮で休んで
いると、アメリカのレーガン大統領(当時)が狙撃されたという
ニュースが飛び込んできま
した。
「号外を配布するから
新入社員も手伝え」との指
示が来て、わけもわからず
新宿駅に駆けつけました。
「毎日新聞の号外です」。
■ 「号」がないので「号外」
新聞の1面欄外には号数が表示され
ています(上図は創刊以来、ちょうど 5 万
号となった今年 2 月 12 日の東京本社版
朝刊)。突発ニュースを伝えるため発行
される号外には、この号数表示がありま
せん。「号」がないから「号外」なのです。
大声を出すのが恥ずかしく、
小声で配布しましたが、あ
っという間になくなりまし
た。後に整理部員として何
度も発行する号外との、こ
れが社員としての(厳密に
はまだ社員ではないが)最
初の出会いでした。
【資料写真】 昭和の時代の号外配布風景
■ 「言葉の魔術師」に感嘆
【
資
料
写
真
】
昭
和
の
時
代
の
紙
面
編
集
風
景
=
東
京
本
社
で
4 月からは本格的に研修が始まりました。取材の手法や記事の
書き方、写真の撮り方など記者のイロハに始まって、会社経営に
ついての座学、販売店実習など盛りだくさんの中身です。同期生
でわいわいがやがやしながら、楽しく受講しました。
中でも私が興味を覚えたのは、各地方版編集の見学です。私は
宇都宮支局への配属が決まったので、栃木版編集者が先生役にな
りました。支局から次々出てくる原稿を読みながら、「トップは
これ。この写真を大きく扱って」と、全くの白紙から紙面の形を
決めていく姿に感嘆。「君も見出しを考えて」と原稿を渡されま
したが、七転八倒しても思いつきません。記事のポイントを簡潔
に表現する編集者が、言葉の魔術師に見えました。
とても感銘したので、予定外でしたが、翌日も見学に押しかけ
ました(紙面編集は夜の仕事なので、日中の研修が終わってから
でも間に合うのです)。「君は熱心だな。いい編集者になれるよ」
■ 裏から読む活字
1981 年当時、まだコンピューターを使った組み
という先生の社交辞令を真に受けご機嫌になった私ですが、後年、
版は登場しておらず、鉛の活字=写真㊦=を使っ
実際に編集に携わることになったことに人生の機微を感じます。
て紙面を組み上げていました。
ハンコのように、文字の左右は反転しています。
■ いざ、北関東へ
楽しかった研修も終わり、支局へ赴任する日がやってきました。
私は大阪で生まれ育ち、京都で学生生活を送ったので、北関東で
の(と言うか、関西以外での)生活は初めてです。4 月 26 日(日)
、
期待と不安を胸に秘め、宇都宮へと向かったのですが……。
その日の模様は下欄をお読みください。2001 年 4 月 2 日(月)
縦書きながら、「右から左」ではなく、「左から右」に
読んでいきます。初めて現物の活字を見て、「よくこ
れで原稿が読めるな」と、心底驚いたものでした。
ちなみに下図は、左から 『 ている。
(2面に関
連記事)入院先の東京逓信病院の医師団の発表
では「軽い脳卒中で、三―四週間 』 と読みます。
夕刊に書いたコラムです。新年度スタートにあたり、20 年前の
赴任初日の体験を振り返り、新社会人にエールを送る内容です。
なにぶん 15 年前に書いた文章なので、文中の「スーツケース
いっぱいの希望」は薬師丸ひろ子さんの歌「セーラー服と機関銃」、
「北へ帰る人はだれも無口」は石川さゆりさんの歌「津軽海峡冬
景色」と注釈を入れないと、もはや通じないかもしれません。
若かりし日の、懐かしくもほろ苦い思い出です。
2001 年4月2日夕刊コラム 「憂楽帳」
おことわり 本日発令の異動に伴い、私の肩書は「大阪本社代表室長」から「大阪本社副代表」に変わりました。