「二十歳の原点」 見出しの思い ■新編集講座 ウェブ版 第28号 2015/5/15 毎日新聞大阪本社 副代表(元編集制作センター室長) 三宅 直人 新聞の場合、記事を書く記者と見出しを付ける編集者は、普通は別人です。だから、自分の書いた記事の見出しを 見て、「何か違うんだけどなあ」と感じることがあります。私にも、30 年近くひっかかっていた見出しがあったのですが、 他紙を見て、やっと「正解」に巡り会えた気がしました。46 年前の京都で自ら命を絶った女子学生を巡る記事です。 ■ もう一人の高野悦子さん ■ 大学紛争への参加と幻滅 「高野悦子さん」と言うと、世界各地の映画を日本に紹介し 「二十歳の原点」には、大 先年亡くなられた岩波ホール総支配人の高野さん(1929~2013) 学紛争への参加と幻滅、両親 が有名ですが、私(1956 年生まれ)の世代にとっては、立命館 との葛藤、愛と性の現実など 大の女子学生だった「もう一人の高野悦子さん」(1949~69) 死に至るまでの軌跡や悩み =写真=も、負けず劣らず大切な方です。 が率直に綴られ、わがことの こちらの高野さんは、大学紛争真っただ中の 69 年、闘争に 疲れ、愛に悩んだ末、自ら命を絶ちました。生前に付けていた 高野悦子さん ように読んだものでした。 日記の一部を遺族が出版した本「二十歳(にじゅっさい)の原 点」 (1971 年、新潮社刊)は、同時代の若者の共感を呼んで大 ベストセラーになり、続編も出版されました=右欄参照。 ■ 記者1年生で取材 右図は 1981 年 7 月 5 日の栃木版です。当時のことで署名 はありませんが、宇都宮支局の記者1年生だった私が高野悦子 さんのことを書いた、思い出の記事です。 高野さんは、実は栃木県西須野町(現那須塩原市)の出身で す。 「二十歳の原点」の愛読者だった私は、宇都宮に配属された のを奇貨として、高野さんのことを書こうと決意したのでした。 たまたまこの年は高野さんの十三回忌。西那須野町にご健在 だったご両親をはじめ、高校時代の恩師や後輩、菩提寺の住職 ら関係者を取材。140 行の原稿になり、県版を飾りました。 その自信作の見出しが、筆者の私には気に入りませんでした。 ■ 見出しに思いやりがない 見出しの問題点は、まず「自殺者」という表現が良くないこ とです。無機質で冷たい感じがします。事件原稿ではなく追悼記事という性格上、本文では「自ら命を絶った」 と書いて、あえて「自殺」という表現を避けたのですが、編集者にその思いは伝わらなかったようです。 「何がうける」という表現にも疑問符がつきます。 「うける」は「冗談がうけた」とか「若者に大ウケ」とか、 とても軽く響きます。 「何が」という言い方も、 (「何が悪いんだ」から連想されるように)意外感とか不満とか、 「うける」のが心外なような響きがあります。読者は見出しに共感することが出来ません。 ■ 見出しに書名も著者名もない 先の紙面には、「二十歳の原点」という書名も、筆者の「高 野悦子」という名も、見出しに出てきません。有名な固有名詞 は訴求力が強く、記事を読んでもらう決め手なのですが。 無名の本や同人誌などなら、 「女子学生の手記」とか「日記」 とか、説明調の見出しもありでしょう。しかし「二十歳の原点」 は、記事に「200 万部売れた」と書かれ、宇都宮市内の書店の 話として「月に百三十冊は出る」ともあります。それほど有名 な本なのに、なぜ見出しにしないのでしょうか。 ■ 独りであること、未熟であること 私は高野さんより8学年下。比較的近い世代です。 「独りであること、未熟であること、これが私の二十 歳の原点」という高野さんの本の一節は、ポール・ニ ザンの「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でい ちばん美しい年齢だなどとれにも言わせまい」(アデ ン・アラビア)とともに、心に深く刻まれています。 高野さんが入りびたっていたのが立命館大学(今は なき広小路学舎)近くのジャズ喫茶「しあんくれー る」。私も学生時代、何度か行きました。 「思案に暮れ ■ 「今」「ここ」とのつながりが弱い 「なぜ今、この記事が栃木版で掲載されたのか」という理由 る」のではなく「Champ Clair(シャンクレール=フラ ンス語で「明るい野原」の意)」というのは有名です。 (今日性、地域性)も、見出しからは分かりません。 地元とのつながりを示すため「西那須野町出身」や「宇女高 (宇都宮女子高校)出身」の見出しが欲しい。 「今」という点では、 「十三回忌」か「逝って 12 年」が見出しに欲しい。それでこ そ、「十数年経った今も若者に支持されている」という記事の 意義が高まります。さらに、「両親が思い出の京都を訪ねた」 という部分は、12 年前の「その日」と「今」を結ぶ絆です。 せめて小見出しに取れれば、ニュース性が高まります。 ■ 揺れる心、二十歳の痛み 当時の私は、右図のような見出しをイメージしていました (今にして思うと、当時から編集者志向があったわけです)。 こうすると、紙面の印象は全く変わります。ただ、散文的とい うのか、高野さんへの思いを十分に表現しきれてはいません。 不完全燃焼感を抱いたまま四半世紀以上の時は流れました。 2009 年 6 月19日のことです。朝日新聞夕刊の連載「人・脈・ 記」で高野さんを取り上げ、「揺れる心、二十歳の痛み」とい う見出しを付けているのに気づきました。キーワードの「二十 歳」を使いつつ、わずか10文字に、高野さんの生き方を見事に凝縮させています。これぞプロの仕事。自分の 記事にも、こんな見出しを付けてほしかったなあ。 「敵ながらあっぱれ」 (敵じゃないけど)と感じ入りました。 上図は 1998 年 5 月 14 日の夕刊コラム「憂楽帳」です。私の高野さんへの思い入れは、1970 年代半ばの学生時代以来、続いているのでした。
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