巡 回 教 会 め 教区内の教会は「小教区」を単位に活動している。 その中には、 一つ、 または複数の「巡回教会」を抱え た小教区がある。本シリーズが、 巡回教会の歴史や 歩み、 置かれている環境をよりよく知り、 活性化のた めに積極的にかかわっていく一助となることを願う。 水の浦小教区 楠原教会 ぐり 繁敷教会 か ら 繁 敷 教 会 と 改 名、現 れた。現在3世帯が教会 水( イエスのカリ タス 修 マルチナ で理事長、 校長を歴任、 学 川内純心女子学園 (閉校) 世帯の信徒の汗の 円で ス金鍔次兵衛 神父が迫害時 代、宣 教 活 動 のために潜伏 信徒ら 人が 月 日巡 礼に訪れた。 れた。髙見大司教は、 今回 年9月から長崎純心聖母 年間の責務を強い信仰 会第2代会長として2期 兵衛神父を助けた多くの をもって果たした。 とへの感謝を述べた後、 次 巡礼の機 会が得られたこ 信徒が殉教したことにも 1 9 1 1 年、長 崎 県 黒 島 で 生 ま れ、大 村 市 で 育 願、 年 終 生 誓 願 宣 立。 た。 年の奉献生活を全 方は最後まで自然体だっ 笑みをたたえたその生き ざ し を 向 け、静 か な ほ ほ 月 日ロザリオの聖 く包んでいた。 人や動物、 母修道院にて帰天。 歳。 植物などにも優しいまな おおらかさと物静かな 雰 囲 気 を 持 ち、い つ も 穏 げた。信 徒 と司 祭のつな やかな態度で周囲を温か さん(黒崎教会所属、 同神 がりは教 えに応 えている 触れ、 「神父の信仰に倣い、 父の列福調査に関する物 連なって自分の命 をささ 的証人)の話を聴き、 高橋 もの」と語り、 参加者は皆、 渉 さ ん( 出 津 教 会 所 属 ) 殉教 者たちへの感 謝と信 の案 内で目的地まで約1 仰の喜びのうちに祈った。 つ。 年入会。 年初誓 兵衛岩では、 大司教と片岡 初誓願宣立後は同会の鹿 に 先 立 ち、山 浦 義 春 神 父 日、修 道 会 本 部 聖 堂 で 葬 儀 ミ サ、告 別 式 は 同 うした。 習の成果を披露した。 年、 鹿児島純心女子学園・ 行われた。 徒的活動に従事した。長 児島地区の教育分野で使 第 回子ども聖歌の集 い が 月 5 日、浦 上 教 会 久司(出津教会)亀沢経 時間 半の道を歩いた。次 (長崎純心聖母会) 校教育に力を注いだ。 長谷ノブ修道女 館を6万3千969円で した地「次兵 衛岩」 (長崎 の共同司式でミサが行わ 道女会牧野修道院)両師 新 築、祝 別 式 は 山 口 愛 次 会出身・木場田友次) 在 地 の 道 蓮 寺 に 移 設 し、 を維 持している。( 繁 敷 教 初代の山ノ田教会建立 は富江町郷土史によると 郎司教が執り 行った。現 市外海地区) を、髙 見 三 明 大司教をはじ 一行 は、1984 年 か ら当 地を訪れる人をサ を話し合い、 まとめた結果を 参加者は少なかったもの が 参 加 し、例 年 よ り 若 干 今年は の小教区から 300人余の子どもたち さげた。 有意義な1日となった。 な 声 が 響 き 渡 り、楽 し く 歌声と子どもたちの元気 の 日、聖 堂 内 に は 賛 美 の たちに負けじと歌を披露 今年はこの集いを主催 している若手司祭団も飛 の、衣 装 を そ ろ え て く る 優秀賞に選ばれたの は、中 町、浦 上、植 松 の 3 も と、み こ と ば の 祭 儀 が (本河内教会)の司式の 教 会 あ り、振 り 付 け を 交 教会。 び 入 り で 登 場 し、子 ど も え て 歌 う 教 会 あ り、そ れ とは」から最終回の「共同体 ぞれの教会が日ごろの練 めて活 動に力 を注いで 行われ皆で共に祈りをさ で行われた。聖歌の発表 ンテ州のノヴァラ教区で いるが、 被爆者の平均年 受講者の一人は「最初は あまり理解できなかった 航 海( 横 浜 出・ 帰 港 ) 」 。 長崎消防署(興善町)で マリア 世界平和祈願日」 齢 が は、 年 元 日「 神 の 母 聖 直接証言できる被爆者 してゆっくり読もう と思いました」と学習 の成果を語った。今後 は学んだことをそれ ぞれの場で生かすこ とが望まれる。第7回 は今春開催予定。 歳 を 超 え た 今、 し会場を盛り上げた。こ 被 爆。 署 内 の 床 に た た に残された時間は長く なりました。聖書も声を出 き つ け ら れ た が 2、3 人 中で語ったほか各地で証 に司教座聖堂でのミサの が、少 し ず つ 分 か る よ う に ら応用編まで、 司祭とスタッ され、 これまでに広島・長 2008年から3回 実 施 た。被爆当時とその後の の下敷きとなり軽傷だっ 体験についての語りは、 カ 崎の被 爆 者 計123人が 証言してきた。第4回はこ 被爆の記憶を携え 証言の航海 深堀 柱 さん (長崎教区広報委員) ないと 感 じる。ポ 「 ーラ ンドのアウシュビッツも 言、現 地 で は 記 者 会 見 や プログラムに 組 まれて います。コルベ神父が亡 神父の弔問に何回も訪 人が平和への関心を持 帰って、 一人でも多くの 者(7)被爆2世(1)が の 日間、 選考された被爆 の1月 年に合わせ来日したアメ 生徒や2005年被爆 には反響が見られた。 る な ど「 被 爆 者 の 訪 問 」 ト リック 系 学 校 の 児 童・ 新聞1面で取り上げられ 西 日 本 新 聞、テ レ ビ 長崎など報道関係の仕 航 海では ぜひ世界の 事 を 長 年 務 め、定 年 後 「 若者に伝えたい と 」 願う。 は長崎教区広報委員と 城山教会所属。 歳。 」 くなった地下牢を訪ね、 つよう、 できる限りの協 れたヨハネ パ ・ウロ2世 教区連合婦人会は毎 年、年 末 を 前 に 会 員 か ら 参加、 深堀さんもその一人。 リカの合唱団の子どもた して奉仕。 の思いも重ねてみたい 寄せられた献金を大司教 力をしていきたい」 若い世代 も含め人々が核 日 に手渡しているが、 数字か 旧 制 中 4 年 歳 の 時、 ちにも行った。また、 「被 学徒動員先の三菱兵器工 爆 者 の 生 の 声 を 」 と 招 日から4月 ら 見 る と、人 口 減 少 や 経 国 際 交流NGOピー ス ボ ー ト に よ る「 ヒバ 済的な理由が原因で、 年々 73 結 晶 で あ る と、木 場 田 庄 )ご 188福者 の 一 人、ト マ 右衛門は書き残している。 里脇枢機卿により祝別さ 1951年(昭和 ) 、7 3世帯で 維持︱ 1926年(大正 在の3代目の教会は、 ダム (山ノ田教会) ろと言われている。屋 根 建設に伴い多くの信徒が 平方㍍)の司祭 は 瓦 葺 き で 高 床 式、窓 は 坪(約 ステンドグラス、 祭壇の上 部はコウモリ天井だった。 転 出、司 祭 館 を 教 会 に 改 め県内外から 集まった司 祭・ 修 道 女・ ポートしてきた山崎政行 フらによる解 説の後、 グルー 公 会 議で打 ち 出されたカト プに分かれて与えられた課題 リック教会の在り方を受けた 発表する形式で進められた。 女性の参加が圧倒︱ 「小共同体づくり」入門講座 昨年 月 日から中町教 会を会場に開講した第6回 )が修 人が髙見大司教を訪ね 99 世界 各地で被爆の実相を の宣教」まで全 回。基礎か 「小共同体づくり入門講座」 もので、1回目の「福音宣教 崎南地区評議会共催)が ( 教 区 小 共 同 体 推 進 室・ 長 日 に 最 終 回 を 迎 え、 人(男性9・女性 月 講座内容は、 第2バチカン 了した。 めの援助献金として いえる。 贈った(写真) 。 「 『記憶を持つ被爆者 が 世 界へ語るチャンス は、 あと1、 2年』とピー さ ん が 話 す 通 り、確 か スボート代表の川崎 哲 にそう思います。証言 の航 海 を通して多 く 11 兵器廃絶と世界平和を求 の こ と を 体 験 し、持 ち 45 もうすぐ 100歳に ! に あ っ た が、教 会 に 対 収され、 その後、 ダム建 修。教会名も山ノ田教会 する信徒たちの思いは 教会は太平洋戦争直 前、ダ ム 建 設 に 伴 い 買 治 設に動員された朝鮮人 )に鉄川与助氏 を棟梁に迎えて建築 の宿舎とされていたが 門が建設責任者となり 万1千341 の召し出し(確認できな 余人)があったこ と。先祖が残してくれた 月 日、会 長 ら 役 員 9 信仰という無形の財産と いが 29 かれたイタリア・ピエモ 835万8237円を 教会の歴史は106 年。でも記念すべきこと ができなかったことを悔 や む。 明 治、大 正、昭 和、 平 成 と、紡 が れ て き た こ の信仰の財産を守ること が義務だと思う。小さな 共 同 体 は 子 ど も 8、大 人 人。 力 を 合 わ せ、キ リ ストの十字架を背負い前 に進みます。(水の浦教会 所属・川上 力) 12 22 熱く、1909年(明 に着手した。 1 9 4 8 年( 昭 和 資 金・ 資 材 の 調 達、 出火で全焼。2代目の 毎 日 の 労 役 奉 仕 と、小 教 会 は、木 場 田 庄 右 衛 学生をも含めた老若 ) 男女の努力が実を結 平 方 ㍍) び、 1 9 1 2 年( 明 治 工費は の本堂が完成した。総 坪( 約 パス司教による祝別献堂 現 在 地 に 新 築 し、里 脇 大 司教の祝別を受けた。 教会建設にあたり大変 な 苦 労 が あ っ た が、何 よ りわたしたちの苦労が報 2代目教会責任者 木場田庄右衛門 教区婦人会、 神学生の援助献金 835万円贈る 12 19 26 2代目教会 21 11 着 工。 翌 年 の 7 月、建 福 江 島 の 北 部、東 シ ナ 海を一望する城 岳の南側 の喜びを迎えた。 袋 教 会 へ 嫁 が せ、自 ら も 間の幕を下ろす。 坪 裾 野 に 鎮 座 し て、レ ン ガ そ の 後、信 徒 の 世 帯 も 人 数 も 激 減 す る 中、先 祖 は献堂100周年記念の いく せい 安らぎを与えてくれる。 慶事を迎えようとしてい ) に 完 成、翌 年 に コ ン 造りの楠原教会が静かな か ら の 信 仰 を 堅 持 し、二 年。 訪 れ る 人 に、自 築 たたずまいを見せている。 つの脇祭壇は復興した江 「信仰の自由」を得て 数 十 年 後、そ れ で も 社 会 そう 霜を回想させながら心の らが積み重ねてきた幾 星 の目はまだまだ厳しく る。(楠原教会・赤窄耕一) 黙想の家が 始まり 2013年(平成 )に 日々の暮らしも乏しい中 打折教会 家」としたのが打折教 会 信徒数も減少していた が、小 さ い 教 会 で も ほ し 1 9 0 5 年( 明 治 ) 苦 労 を 押 し て 聖 堂 を 建 て 民家を借り受け「黙想の た が、痛 み も ひ ど く 年 の始まり。当時は地元 民 大司教司式により終生誓 願式が行われた。 〈終生誓願宣立者〉 初代教会 11 10 場から伝令で派遣された 落ち込みを見せている。 60 に 加 え、迫 害 で 本 土 か ら ︱︱諫早市︱︱ 騎士聖フランシスコ修道 29 12 11 65 76 20 54 43 09 18 クシャ地球一周 証 言の 18 10 23 ① 15 23 福者 金鍔次兵衛神父 潜伏地でミサ 大司教、信徒ら36人巡礼(黒崎) 20 28 50 36 12 繁敷教会 10 15 教 区 連 合 婦 人 会( 納 ルミナ・マリア 富 美 紀 会 長 ) は、長 崎 星 洋子 (福島県・会津若松) 大 司 教 区 の 神 学 生 の た 23 25 68 女 会 に お い て、髙 見 三 明 80 15 27 42 移 住 し た 人 た ち も い た。 いと1973年(昭和 ) われたのが、司祭、修道女 23 48 19 45 聖母の騎士聖フランシスコ 修道女会終生誓願式 月 日、諫 早 市 小 長 井町のけがれなき聖母 の 11 86 38 980 号 1 月1日(毎月1日発行) 98 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 よ き お と ず れ (3)2011 年(平成23 年) 月5日(日) 、188 殉教者列福式から2年を 記念し、 髙見三明大司教、 小瀬良 明師(カトリック センター)が同行し、 総勢 人が巡礼を実施した。 パウロ内堀らが最 初の 殉教者となる雲仙地獄を 巡り、 雲仙教会の主日のミ をささげた。 バ ス は、殉 教 の 歴 史 が 随所に残る海沿いの南側 の道を走って帰路に着い パウロ内堀の子ら る濃密な1日となった。 ついてあらためて意識す た。巡礼者たちが信仰に を含む 人が殉教 川、禁 教 令 が 出 た 族が殉教した有馬 ノ高橋主水ら3家 海。またアドリア が、髙 見 大 司 教 の 通 訳 に た。ブラザーによる講話 れ、祈 り の 雰 囲 気 と な っ ろうそくに灯がともさ 歌唱指導があり、その後、 した島原城近くの 直 後、朝 鮮 半 島 出 身者も殉教した口 バ イ オ リ ン、チ ェ ロ、フ よ り 行 わ れ た。 そ の 後、 月 日(日)福 が ら、宣 教 の た め に は キ の交流について説明しな 教のいろいろな宗派とか さらに、 現在、 溝部司教 かわっていたこと、 また、 が携わっている他宗教と 訳 な ど を、分 か り や す く 解 始まったばかりの日本の リスト教が他宗教を理解 説した。 立100周 教会が抱えていた問題 することも必要であると た こ と、そ の 仏 教 を 否 定 年記念事業 が、実 は 今 の わ た し た ち せ ず に 行 わ れ た こ と、仏 の一環とし が抱えている問題と同じ 聖 書 の メ ッ セ ー ジ は、 それを読む人の真のア 郷の信徒宅が家屋全焼 イデンティティーと密 =監修 塩野崎佳子= トマス・マートン=著 マリア・ルイサ・ロペス ★聖書を読む て、福 江 教 語った。 江小教区創 会において ようなものであったこと 教(高松教 溝部 脩司 わ れ た。 テ ー マ は「 初 月 接 な 関 係 が あ り、神 を 確 万円)▼ 日奄 ( 認 す る こ と を 含 め て、神 よ る 被 災( カ ナ ダ・ レ 生とハリケーン上陸に 興遅延に伴うコレラ発 〈海外〉▼ハイチ地震復 問われることをやめる と を や め、聖 書 に よ っ て し、我 々 が 聖 書 に 問 う こ プロセスなのである。も 二 十 六 聖 人「 我、世 に 勝 れた。 はもはや失われるだろ 聖母の騎士社 うとマートンは警告す 発行 る。 の。 映 画 に 先 立 ち、館 内 約6億円)制作されたも でも通じるものがある」 ち と の 交 流 が あ る し、今 中に現代化したわたした 企画をした。昔の歴史の 525円 を館長のデ・ルカ・レン 定価 記念館が昨年 月 日 リニューアルオープンし ゾ神父(イエズス会)が とあいさつがあり映画の に気付くでしょう」と話 一菜募金の報告 美大島水害(鹿児島教区 との相互の関係に入る 期キリシタン時代の宣 ハイチの復興支援など 本部経由、100万円) 区)による 教 」。 下 五 島 地 区 評 議 会 災害地に215万円 このほど教区評議会か ら報告された昨年9月以 ら300余人が集まって の 協 賛 も あ り、各 教 会 か 講演会が行 ブラザー・ギランは講 話 の 中 で、 心 「 の深いと 降に起こった災害で一菜 デ ン プ ト リ ス チ ン 経 由、 と し た ら、そ の 時、お そ てり」が昼夜2回上映さ らく聖書を読む重要性 ビエルから始まった日本 講演に耳を傾けた。 巡回使節ブラ ルート、ギター、オルガン 万 円、現 在 の 日、 上映に入った。 巡礼団は喜びを共にした。 い・長崎」が中町教会で の洗礼志願式に同席した た記念として 案 内。「 地 元 の 人 が、自 分 月 日本二十六聖人記念館リ たちの宝物を知ってほし い。 世 界 で 唯 一 の 中 浦 ていきます。寝坊する者、 ことや眠ってしまうこと い ま す が、弟 子 た ち も そ 眠気はわたしたちの一 つの弱さではないかと思 です。 再三の呼び掛けにしっか うか。イエスさまからの だったりはしないでしょ ま だ っ た り、眠 っ た ま ま 信仰の目もまた閉じたま ことを考えてこのような ことなど知らない。その た な 」どの感想があった。 的資料としてびっくりし 」 など全 曲のテゼの賛美 ニューアルオープン記念 主 「 の息よ吹き来たれ 行われた。教区諸宗教対 映画祭実行委員会が主 催 し て、無 声 映 画・ 日 本 は誰にでもあることで ういった弱さを持ってい り と 反 応 し、応 え よ う と た。 寝ぐせもままならぬまま しょうが、とはいえ、いつ た よ う で す。 イ エ ス が 第 回カトリック映画 しているでしょうか。目 を し っ か り と 見 開 い て、 賞受賞作品「風のかたち」 初めに野下千年師から マタイ 章 聖 堂 に 入 っ て く る 者、お で も、い つ ま で も 眠 っ て ゲッセマネで祈ってお 寒くなってくるこの 時 期、朝 起 き る の が つ ら い という方もたくさんい らっしゃるだろうと思 い していく小児がんの子ど 笑いを誘うこともあった。 まった約 人の人たちと 温かい空気で包み、時 折、 子 を 映 像 で 紹 介 し て、集 リック映画賞授賞式の様 会 ) 会 員 も 同 席 し、カ ト トリックメディア協議 シグニス・ジャパン(カ 上映会後の懇親会に は、東 京 か ら 駆 け つ け た 語った。 てもらえることの喜びを の現実を多くの人に知っ る こ と が で き た こ と、そ 現実をより正確にとらえ 「誘惑に陥らぬよう、目 を覚まして祈っていな さ 祈り中に眠ってしまう ら れ る と き、弟 子 た ち は 自分に注がれるイエスさ (伊 勢 真一監督)が、 月 時半 11 15 分、あ これがイエスさまからの 13 ま す。 も う あ と と 5 分 眠 っ て い た い と、 ち に と っ て 大 事 な 時 間。 ら ぬ よ う、目 を 覚 ま し て わたしたちへの呼び掛け 21 い」 いるわけにもいきませ 眠っていました。「わたし まからの愛を知ろうとし の 2 回、カ ト リ ッ ク セ ン 祈っていなさい」と語ら 時と と共に目を覚ましていな ているでしょうか。 祈 り を さ さ げ、ご ミ サ の れました。 です。(カットは中山徳彦 中で神に感謝をささげる わ た し た ち の 心 の 目、 神学生) 日(日) さい」とイエスが呼び掛 誰 し も が 思 う こ と で す。 (長崎カトリック神学院) 者、神 学 生 た ち に と っ て 野濱達也神父 神学院の1日は朝5 時 も 朝 の 早 い 時 間 の 起 床 は 半 の 早 い 起 床 に 始 ま り、 つらいものがあるようで も た ち の 姿 は、来 場 者 を ターで上映された。成長 それでも皆眠たい目を こ す り な が ら も 目 覚 め て、 仕事や学校へと出かけ て いくものではないでし ょ みことばにふれて& ことはとても大切なこと うか。 70 す。 も ち ろ ん、寝 坊 す る 小児がんの子どもたちの 年に及ぶ撮影を通して がった。 続編を要望する声も上 また映画上映後は伊勢 交流を深めた。参加者か 「風のかたち」の 監 督 の ト ー ク も 行 わ れ、 ら は、 30 10 朝 の 祈 り、ご ミ サ と 続 い 10 ん。朝の時間はわたした け た に も か か わ ら ず、弟 ジュリアンの手紙がある 参 加 者 か ら「 内 容 の 濃い映画でした」 歴 「史 26 祈 り は、わ た し た ち が 目を覚ましているための 11 力となります。いつでも 11 子たちは眠ってしまいま 節 獄 へ 向 か っ て 歩 い た 道。 57 す。そんな弟子たちにイ 41 ご 自 分 を 見 つ め る こ と、 いだった。 し た が、そ の こ と が 深 く 投 じ て( この映画は1931 年、長 崎 の 信 徒 が 私 財 を 募金からの支援状況は次 ころまで降りて来なさ ザ ー・ ギ ラ の 器 楽 伴 奏 に 合 わ せ、カ 20 で の 宣 教 が、日 本 の 仏 教 巡礼ガイドと共に ン師を迎え トリック合唱団と中町教 を理解することから始め 溝部司教は、1549 年に聖フランシスコ・ザ 月 日、 フランスのテ て、第 4 回 の ゼ共同体から 「2010年 リストは闇を照らす光」 10 感じられるすばらしい集 平 和 の 巡 礼、 会 聖 歌 隊 が 協 力 し、 キ 「 テゼ賛美の集 15 の通り。( ) 内は送金額。 100万円) ▼新上五島町桐古里 い。扉がみ国に開くこと 之 津 大 泊 な ど を、 21 訪 ね、聖 歌 と 祈 り ブラザー・ギラン師 11 歌で参加者全員が主への サに参加、 そのミサの中で 溝部司教 賛美のひとときを過ごし 30 福江教会で講演 話・エキュメ二ズム委員 13 30 会主催。 34 16 11 小浜から雲仙を通り 島 原に抜ける国道 号線 テゼ賛美の集い は、殉 教 者 た ち が 雲 仙 地 11 12 22 エ ス は 再 び「 誘 惑 に 陥 26 1 月1日(毎月1日発行) (4) 2011 年(平成23 年) よ き お と ず れ 980 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第
© Copyright 2024 ExpyDoc